第四節 ― 腐花の噂
ラウ=マリカでは、噂にも値段がつく。
港へ入った船がまだ帆を畳んでいるうちに、積荷の中身は市場へ届く。沖で珍しい海獣を見たと言えば酒代くらいにはなり、沈没船の位置を知っていると言えば、その話だけで何日か食える。
だから当然、人の口も速かった。
カルム=レイダの胸に咲いた花について、朝のうちはまだ、事実に近い形で語られていた。
「北の潮倉庫で、死んだ人夫から花が咲いたんだって」
「白い花だろ。見た奴がいる」
「ネクタ=ロアの花らしいぞ」
リオとマヤが倉庫を離れて市場を横切る頃には、あちらこちらから同じ話が聞こえていた。
魚の腹を裂いている女も。
帆布を畳んでいる船具商も。
朝から酒を飲んでいる船乗りも。
話の中にいるカルムを知っている者も、知らない者も、同じように声を潜め、同じように少し楽しそうな顔をする。
「早いですね」
マヤが言った。
「この港では普通だよ」
「じゃあ、先生が昨日宿代を値切って断られたのも、もう広まってます?」
「広まって困るほどの事件じゃない」
「三回値切ってましたよね」
「二回」
「最後に『連泊なら?』って聞いたのは?」
「交渉」
「三回です」
リオは答えず歩いた。
背後でマヤが小さく笑う。
朝から死者と花ばかり見ていたせいか、その笑い声が少しだけ耳に心地よかった。
けれど、露店が並ぶ一角へ入ったところで、マヤの足が止まった。
焼いた果実を串に刺して売っている店だった。
表面に蜜が塗られ、炭火の上で泡を立てている。
「先生」
「だめ」
「まだ何も言ってません」
「買うなら自分のお金で」
「それを言おうと思ってました」
マヤは腰の小袋を探り、銅貨を三枚取り出した。
店主が首を振る。
「五枚」
「昨日、別の店では三枚でした」
「昨日の店で買いな」
「先生」
「俺を見ても四枚にはならないよ」
「まだ何も――」
「顔に書いてある」
先ほどの仕返しだった。
マヤが不満そうに目を細める。
結局、焼き果実は買わなかった。
その店の隣で交わされていた話が耳に入ったからだ。
「死体から咲いた花、病気を治すらしいぞ」
朝とは、少し変わっていた。
「治す?」
干し肉を吊るしていた商人が聞き返す。
「ああ。咳のひどい婆さんが一息で治ったって」
「一息で?」
「子どもの怪我も消えた」
リオが足を止める。
実際には、老婆の咳は軽くなっただけだ。
少年の傷も消えてはいない。痛みと腫れが少し引いた。
だが訂正しに行こうとは思わなかった。
ここで一人に言っても、その隣ではもう別の形になっている。
「熱にも効くらしいよ」
少し離れた薬草店で女が言った。
「花を枕元に置くだけで下がるとか」
「煎じたんじゃなくて?」
「香りだけでいいって話だ」
それを聞いた老人が真剣な顔で割り込む。
「腰の痛みにも効くかね」
「知らないよ」
「咳と傷に効くなら腰もいけるだろう」
「どういう理屈ですか」
思わずマヤが聞いた。
老人は振り返った。
「若いの。年を取ると、効くかもしれないものは全部、腰にも効いてほしくなるんだ」
「なるほど」
「納得しないで」
リオが袖を引いた。
老人は「医者か?」と気づいたらしいが、リオは軽く会釈するだけでその場を離れた。
笑っていられたのは、まだその頃までだった。
昼を過ぎると、話はもっと具体的な形を取り始めた。
病を治す花。
痛みを消す花。
傷を塞ぐ花。
どこからか「腐花」という呼び名まで市場へ戻ってきていた。
ネクタ=ロアの花葬を知る者が言い出したのかもしれない。
「腐花が手に入るなら、いくら出す?」
「本物なら銀貨でも出す」
「死体から採るんだぞ」
「病気で死ぬよりいい」
薬材商の軒下で、そんな声がした。
リオは足を止めずに聞いていた。
その横を、足を引きずった男が通っていく。
片脚に古い包帯が巻かれていた。汚れた布の下まで膏薬の匂いがする。
「銀貨一枚で痛みがなくなるなら安いもんだ」
誰に言うでもなく男が呟いた。
「毎晩、寝られないくらいならな」
その声には欲ではなく、疲れがあった。
さらに歩けば、幼い子どもを背負った母親が、薬草売りへ値段を聞いている。
「昨日より上がってるじゃない」
「船が遅れたんだ。仕方ない」
「この子、今夜の分がないの」
「俺に言われても」
母親はしばらく薬草を見ていた。
やがて買わずに離れる。
その直後、近くで腐花の噂が始まると、足を止めた。
ほんの一瞬だった。
けれど、リオには見えた。
聞いてしまう顔だった。
嘘かもしれない。
危険かもしれない。
死者から生えた花かもしれない。
それでも、今夜を越えられるかもしれない。
そういう顔。
「先生」
マヤが小さく呼んだ。
「うん」
「行きましょう」
珍しく、彼女の方から先へ進んだ。
午後になると、検疫所が「腐花への接触禁止」を出した。
それが逆に、花が本当に効くという証拠として受け取られた。
「役所が囲ったんだろ?」
「じゃあ、価値があるってことだ」
「神殿と検疫所で取り合ってるらしい」
「薬商組合が買い上げるって話も聞いたぞ」
どれも、リオが知らない話だった。
マヤが数え始める。
「先生」
「何?」
「さっきので、カルムさんの花を欲しがってるところ、四つになりました」
「数えなくていい」
「検疫所、神殿、薬商組合……あと大陸の偉い人」
「最後のはどこから出てきた」
「魚屋のおばさん」
「たぶん魚と一緒に尾ひれがついたんだろうな」
マヤは少し考えた。
「上手いこと言いました?」
「言ってない」
「今、ちょっと満足そうでした」
「歩いて」
市場の中心を離れるにつれて、道幅が狭くなる。
石畳の欠けたところには昼の雨水が残り、裸足の子どもがそれを跳び越えて走っていった。高価な香辛料の匂いは薄れ、代わりに煮出した薬草、濡れた布、古い油、汗の匂いが濃くなる。
南へ行くほど、ラウ=マリカは値札を隠すようになる。
表の市場で売れないものは、消えるわけではない。
裏へ回るだけだ。
夕方。
二人が古い水路沿いを通ったとき、マヤが立ち止まった。
「先生。あれ」
崩れかけた軒下。
祈祷布や薬瓶を並べた露店の脇に、粗末な木札が立っていた。
文字は炭で書かれている。
《腐花予約》
リオはしばらく黙ってそれを見た。
「……予約?」
マヤが読む。
店番の男が二人に気づき、手招きした。
「欲しいなら名前を置いてけ。入った順だ」
「何が入るんです?」
マヤが訊く。
「腐花だよ。知らないのか? 今朝のやつ」
「まだ誰も採ってませんよ」
リオが言うと、男は肩をすくめた。
「今朝のが無理でも、次がある」
「次?」
「一人だけだと思うか?」
その言い方に、マヤの顔から表情が消えた。
男は気づかない。
「死んだ奴から花が咲くなら、いずれまた咲くだろ。今から買い手を集めとくんだよ。入ったら取り合いになる」
「売る人は?」
「そのうち出るさ」
リオは木札の下を見る。
小さな紙片が何枚も紐へ結ばれていた。
買いたい者の名だと思った。
だが、違う。
一枚に、年齢らしき数字。
別の一枚には、家族の名。
さらに、その横には希望額まで書かれている。
「これは?」
リオの声が低くなる。
店番の男が答える前に、奥から声がした。
「俺のだよ」
薄暗い壁際に、一人の男が座っていた。
五十を越えているだろう。痩せた胸に手を当て、呼吸のたびに顔をしかめている。足元には、安い鎮痛薬の空瓶が二本転がっていた。
「買う方じゃない」
男は咳を一つしてから笑った。
「売る方だ」
マヤの指がぴくりと動いた。
リオは男の前へしゃがむ。
「腐花が咲く保証はありません」
「知ってる」
「今朝の一件が何なのかも、まだ分かってない」
「それも聞いた」
「なら――」
「だから予約なんだろ」
男は息を整えた。
苦しそうだった。
それでも声には、妙な落ち着きがある。
「俺は長くない」
「誰がそう言ったんです」
「医者が三人」
「四人目に俺がいる」
男が初めて、少しだけ笑った。
「じゃあ先生は、俺を治せるのか」
リオは答えなかった。
まだ診てもいない。
安請け合いもできない。
男はその沈黙を責めなかった。
「女房がいる。息子も二人。上のはまだ十四だ。俺が死んだら、借金だけ残る」
紙片を指で示す。
「でも、死んだあと花が薬になるなら、家族の役に立てるだろ」
マヤの呼吸が止まったように見えた。
「それなら、悪くない」
男は続けた。
「生きてる間は薬代ばっかり食って、働けもしない。死んだあとくらい、何か残せるなら――」
「やめて」
マヤだった。
強い声ではない。
けれど、男が言葉を止めた。
マヤ自身も、口にしてから驚いたようだった。
視線を落とす。
「……ごめんなさい」
「何を謝る」
「分かりません。でも」
紙片を見る。
そこに書かれた家族の名を、じっと。
「自分の身体なのに、もう死んだあとの値段を決めてるのが……嫌だっただけです」
男は少し困った顔をした。
「嬢ちゃんには分からんよ」
マヤは何も返さなかった。
否定もしなかった。
店番の男は空気を変えようとしたのか、軽く手を叩いた。
「別に無理やり売らせてるわけじゃない。本人が決めてる。家族に金を残したい奴もいる。薬が欲しい奴もいる。双方得するなら――」
「まだ薬だと決まってません」
リオが立ち上がった。
「人から採れるとも決まってない」
「でもカルムからは咲いた」
「カルム=レイダから、です」
男が黙る。
「死体の種類みたいに言わないでください」
リオはそれ以上続けなかった。
木札を壊すこともしない。
検疫所へ引き渡すと言って脅すこともしなかった。
ここだけ潰しても、別の路地で同じ紙が吊るされる。
それくらいは、もう分かっていた。
二人はその場を離れた。
しばらく歩いても、マヤは口を開かなかった。
いつもなら、細い路地に珍しい菓子屋でもあれば立ち止まる。変な形の果実が並んでいれば触ろうとする。知らない看板を見つければ、読めないくせに声に出して読む。
今日は何も見ていない。
リオは隣を歩きながら、少し待った。
やがてマヤが言った。
「怖いね」
「花が?」
「ううん」
マヤは首を振った。
「あの人たちが、本当に救われたいと思ってることが」
リオは返事をしなかった。
できなかった、という方が近い。
救われたい。
痛くない夜が欲しい。
薬を買いたい。
子どもを治したい。
死ぬなら、せめて家族へ何か残したい。
どれも間違った願いには見えない。
だから厄介だった。
「先生」
「何?」
「さっきの人、悪い人じゃないですよね」
「たぶんね」
「予約を取ってた人も?」
リオは少し考えた。
「分からない」
「そこは『悪い人です』って言うところじゃないんですか」
「僕は医者だから」
「便利ですね、その言い方」
「便利だよ」
朝と同じ答えだった。
ようやくマヤが少し笑った。
その顔を見てから、リオは前を向いた。
南路地へ入る手前で、今度は向こうから声を掛けられた。
「先生!」
二十代くらいの若い男が駆けてくる。
港の荷運びをしているらしい。腕にまだ新しい傷痕があった。
「聖獣医師だろ。朝の倉庫にいた」
「そうです」
「あの花を調べてるんだよな?」
「何か知ってますか」
男は自分の腕を見せた。
掌から肘にかけて、一筋の傷が走っている。
だが、妙だった。
赤みは残っているのに、傷口そのものはほとんど閉じていた。
「これ、三日前に荷鉤でやった」
リオの目が細くなる。
「縫いました?」
「いや」
「薬は?」
「南路地の慈療院で塗ってもらった。次の日にはこんなだった」
「痛みは?」
「その晩からほとんどない」
「誰に診てもらいました」
「司祭さん。名前は……セラドだったかな」
リオとマヤが目を合わせる。
カルムが通っていたのと同じ場所だ。
「他にも同じ治療を受けた人は?」
「いるよ。あそこ、金のない奴も診てくれるから」
男は辺りを見回してから、声を落とした。
「俺の知り合いなんか、ずっと腰が痛くて寝られなかったのに、最近は朝まで眠れるって」
「痛みが消えた?」
「ああ。急に」
「匂いは?」
マヤが訊いた。
男は少し驚いてから頷く。
「そういや、するな」
「どんな?」
「甘いの。花みたいな」
リオは男の傷へ顔を近づけた。
潮と汗。
薬草油。
その奥に、ごく薄く残っている。
朝から嗅ぎ続けた匂い。
白花の甘い香。
リオは身体を起こした。
「先生」
マヤがもう分かっている顔をしていた。
「行くんですよね」
「ああ」
「南路地の慈療院」
「今度は言う前に当てたね」
「三か月いますから」
マヤは少し胸を張った。
「じゃあ先生が次に何を言うかも分かります」
「何?」
「『寄り道しないで』」
「寄り道しないで」
「ほら」
「威張るところじゃない」
マヤは笑いながら歩き出した。
二歩進んで、通りの向こうを見つける。
「あ」
「何?」
「焼き果実」
「寄り道しないで」
「まだ何も言ってません」
「三か月いるからね」
今度はリオが先に歩いた。
背後から「ずるいです」と声が追ってくる。
夕暮れのラウ=マリカには、朝とは違う匂いが満ちていた。
煮炊きの煙。
潮。
湿った石。
安い薬草。
そして、どこから漂っているのか分からない、微かな甘い香り。
朝には一人の死者の胸にしかなかったはずの花が、噂になって港中へ根を伸ばしている。
死体から花が咲いた。
病を治す花らしい。
死者から万能薬が採れる。
明日になれば、また別の話になっているかもしれない。
二人はその噂を追うように、南路地へ向かった。
あと何本か角を曲がれば慈療院へ着くというところで、背後から足音が追ってきた。
「リオ先生!」
振り返ると、検疫所の若い役人が息を切らしていた。朝から倉庫と検疫所を行き来していた男で、額には汗が浮いている。
「カルム=レイダの移送が終わりました。検疫官が、今夜のうちにもう一度状態を見てほしいと」
「何か変わったんですか」
「花が朝より大きくなっています。それと、死後の冷え方がおかしい気がすると」
リオの足が止まった。
カルムの生前に何が行われたかを知るには、慈療院を調べる必要がある。
だが、その結果として死者の身体で何が進んでいるのかも、時間を置けば見えなくなる変化があるかもしれない。
リオは南路地の奥を見る。
もう灯りが点き始めていた。
「先生?」
マヤが顔を覗き込む。
「慈療院は明日の朝にする」
「今日はカルムさん?」
「ああ。生きている人を診る前に、死んだあと何が起きているのか、もう一度見たい」
マヤはすぐに頷いた。
「じゃあ戻りましょう」
「蒸し菓子は?」
「……明日まで逃げません」
「ずいぶん迷ったね」
「大事な判断なので」
二人は来た道を引き返した。
背後で南路地の灯りが一つ、また一つと増えていく。
その奥から、微かな甘い香りだけが、湿った夕風に乗って追ってきた。




