第五節 ― 白面の検疫医
夜になっても、ラウ=マリカは眠らなかった。
港の灯は、いつもより多かった。
潮倉庫の周囲には検疫所の見張りが立ち、祈祷布を握った人々が遠巻きに残っている。昼間ほどの騒ぎはない。だが、静かになったわけではなかった。
祈りの声は、夜になると低くなる。
昼には叫びだったものが、夜には囁きになる。
囁きは、壁を抜ける。
窓の隙間から入り込む。
眠れない病人の枕元に座り、まだ見ぬ花の匂いを想像させる。
――腐花の主よ、痛みを花へ。
――骸に咲く者よ、病を香へ。
――死を終わりとせず、残された者へ命を分けたまえ。
リオ=サルヴァは、検疫所の奥にある遺体安置室で、その声を聞いていた。
カルム=レイダの遺体は、夕刻になって潮倉庫から検疫所へ運ばれた。
移送には時間がかかった。
花を傷つけるなとニナが泣いた。
遺族の見ていないところで花を摘むなとカルムの同僚たちが立ちはだかった。
神官は祈祷を挟もうとし、商人たちは移送経路を見張っていた。
最終的に、リオが遺体のそばを離れないことを条件に、移送は許された。
遺体安置室は石造りで、窓は小さい。壁には乾燥薬草の束が吊られ、床には潮避けの白砂が薄く撒かれている。病と死を扱う場所にしては、清潔だった。だが、今はその清潔さの上に、甘い花蜜の香りが沈んでいた。
カルムの遺体は、中央の石台に横たえられている。
胸の白い花は、夜になって半ば閉じていた。
だが、枯れてはいない。
赤い蔓は昼よりもわずかに伸び、心臓の周りから肩口へ向かって、細い根のような線を浮かび上がらせている。
リオは蝋燭を近づけた。
火が揺れる。
花弁の影が、カルムの胸の上で呼吸のように動いた。
「……死体の進行と一致していない」
リオは記録紙に短く書き込んだ。
死後硬直は依然として弱い。
体温は昼より下がっているが、通常の遺体より遅い。
腐敗臭はない。
代わりに、花蜜の香りが強まっている。
胸部の開花部位からは、外傷なし。
赤根は血管を模倣し、心臓周辺に密集。
神格反応は、葬送系。
ただし、祈祷構文に混濁あり。
リオは筆を止めた。
混濁。
それが何なのか、まだ分からない。
ネクタ=ロアの花葬であれば、死者は土へ返る。
花は死者を飾るものではなく、死者を次の命へ送る道だ。
だが、カルムの花は違う。
花は、周囲の病を和らげた。
香を吸った者の痛みを奪った。
ニナの熱を、一時的に下げた。
葬送が、治療の真似をしている。
あるいは、治療が、葬送の姿をしている。
リオは小さく息を吐いた。
どちらにしても、自然ではない。
彼はカルムの胸に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
ニナの声が、耳の奥に残っている。
――お父さんの花を、取らないで。
あの言葉は、診療具より重かった。
リオは手を引き、代わりに石台の脇に置いた水盆へ歩いた。
水は、月明かりを受けて薄く青い。
昼間、何度も診察を繰り返したせいで、指先には薬草と花蜜と死の匂いが染みついていた。
彼は包帯を巻いた左腕をかばいながら、右手を水に浸した。
冷たい。
その冷たさに、少しだけ思考が戻る。
水面に、リオの顔が映った。
疲れた顔だった。
目の下には影があり、唇は強く結ばれている。朝から何人診ただろう。香を吸った者。花に触れようとした者。花の力を求めて押し寄せた病人。娘を失うことを恐れる母。父の花を守ろうとする少女。
誰も、完全には間違っていなかった。
だから厄介だった。
リオは水をすくい、顔を洗おうとした。
そのとき、水面が、ふっと暗くなった。
蝋燭の火が消えたのではない。
月が雲に隠れたのでもない。
水面の中に、リオではないものが映っていた。
白い獣面。
細く長い口吻を持つ、鹿とも狐とも狼ともつかない仮面。
仮面の目の奥には、笑っているような、何も見ていないような影がある。
その下に、白衣。
夜の検疫医が身につけるような長い外套。
頭には、場違いなほど端正なシルクハット。
手には、黒い杖。
リオは反射的に振り返った。
誰もいない。
遺体安置室には、カルムの遺体と、蝋燭と、薬草の束だけがある。
扉は閉まっている。
窓も開いていない。
リオはゆっくりと、水盆へ視線を戻した。
水面の中で、白面の男だけがこちらを見ていた。
リオは右手を水から抜かなかった。
「……誰です」
水面の男は、答えなかった。
仮面の奥にあるはずの目が、わずかに細くなったように見えた。
そして、彼は静かに言った。
「死体に花が咲いた。
君はそれを病と呼ぶ。
この島は、それを続きを得た命と呼ぶかもしれない」
声は、水の底から響いているようだった。
近い。
だが、ここにはいない。
聞き覚えはないはずなのに、どこかで知っているような声。祈祷でも神託でもなく、問いそのものが姿を取ったような響きだった。
リオは眉を寄せた。
「病と断じた覚えはありません」
「そうかな」
水面の男は、首を傾けた。
「君は倉庫を封じた。人々を遠ざけた。花を薬にするなと言った。祝福の判定も止めた。医師としては、まことに正しい」
その声には、からかいがあった。
だが、悪意はない。
悪意がないことが、余計に気味悪かった。
「正しい、という言い方は好きではありません」
リオは言った。
「正しい処置はあります。けれど、正しい救済など、簡単に決められるものではない」
「では、あの娘は?」
水面が揺れた。
揺れた水面に、ニナの顔が一瞬映った。熱に濡れた目。父の花を取らないでと泣いた顔。
「あの子の熱は下がった。父の花によって」
白面の男は続ける。
「母は安堵した。病人たちは祈った。貧しい者たちは、自分の死にも価値が生まれると信じた。さて、それらはすべて間違いかな」
「間違いだとは言っていません」
「では、止めるのか」
「止めます」
リオの答えは早かった。
水面の男は楽しげに黙った。
リオは続けた。
「あの花が何を代価にしているか分からない。病を治しているのか、痛みを覆っているだけなのかも分からない。死者の身体に残ったものを削っている可能性がある。分からないものを、救済として配るわけにはいきません」
「分からないから止める」
「はい」
「分かっていたなら?」
リオは黙った。
白面の男は、静かに杖を水面へ置いた。
水の中で、杖の先が波紋を広げる。
「もし、死者の花が確かに病を癒すと分かったなら。もし、その花が誰かの痛みを消し、熱を下げ、もう歩けぬ者を立たせると分かったなら。君は、それでも花を摘ませないのかな」
「遺族の同意も、死者の意思もなく、身体を薬にすることはできません」
「死者の意思」
男はその言葉を、まるで舌の上で転がすように繰り返した。
「死者は語らない。語らぬものの意思は、誰が読む?」
「だから、勝手に決めてはいけない」
「君は慎重だ」
「医師ですから」
「いいや」
水面の男は、仮面の下で笑ったように見えた。
「君は、怖いのだろう」
リオの左腕が、包帯の下で微かに疼いた。
彼は表情を変えなかった。
「何がです」
「救ったつもりのものが、別の形で生き延びることが」
遺体安置室の空気が、少し冷えた。
カルムの胸の花が、夜の中でわずかに開く。
甘い香りが濃くなる。
リオは、水面の男を見下ろした。
「あなたは誰です」
水面の男は、また答えなかった。
代わりに、仮面の白さだけが、月明かりの中でくっきりと浮かぶ。
白衣。
獣の仮面。
シルクハット。
杖。
検疫医の姿をしている。
だが、検疫医ではない。
神官のようでもある。
だが、祈っていない。
医師のようでもある。
だが、患者を診ていない。
ただ、映している。
リオの中にある問いを。
「治すとは、元に戻すことか。
それとも、生き延びさせることか」
その問いは、静かだった。
だからこそ、深く刺さった。
リオは、すぐに答えようとした。
治すとは、苦痛を取り除くこと。
身体の機能を回復させること。
本人が生きられる状態へ戻すこと。
そう答えればよかった。
けれど、言葉は喉で止まった。
マヤの姿が浮かんだ。
神へ捧げられ、死なずに戻ってきた少女。
花と獣の徴を宿し、人々から奇跡と呼ばれた存在。
彼女は元に戻っていない。
けれど、生きている。
ならば、マヤは治っていないのか。
それとも、救われたのか。
カルムの胸の花が揺れる。
ニナの熱が下がったときの、ミラの顔が浮かぶ。
あの一瞬だけ、母親は確かに救われていた。
それでも、止めなければならなかった。
リオは水面を見つめたまま、低く言った。
「治すとは、選べるようにすることです」
白面の男は、沈黙した。
「元に戻るか。変わったまま生きるか。痛みを抱えるか。終わりを受け入れるか。本人が選べるところまで連れていくことです。こちらが勝手に、生き延びさせることではない」
「美しい答えだ」
男は言った。
褒めているのか、笑っているのか分からなかった。
「だが、死者は選べない。子どもも、貧者も、神に捧げられた供物も、ときに選べない。選べぬ者を前にしたとき、君は何を治す?」
リオは答えられなかった。
白面の男は、それ以上追及しなかった。
ただ、杖の先で水面をもう一度揺らした。
波紋が広がる。
男の姿が歪む。
「リオ=サルヴァ」
名前を呼ばれた瞬間、リオの背筋に冷たいものが走った。
「君は花を止めたい。
けれど、この港はもう、花を望んでしまった」
水面の中で、白い獣面が遠ざかる。
「ならば急ぐといい。噂は、症状より早く根を張る」
リオは水から手を引き抜いた。
その瞬間、水面が大きく揺れた。
波紋が幾重にも重なり、白衣も、仮面も、シルクハットも、杖も、すべて崩れた。
残ったのは、リオ自身の顔だけだった。
疲れた顔。
迷っている顔。
それでも、今は立つしかない者の顔。
背後で、カルムの胸の花が、かすかに音を立てた。
花弁が一枚、ゆっくりと開いたのだ。
リオは振り返った。
遺体安置室には、やはり誰もいない。
だが、水盆の縁に、濡れてもいないのに、小さな白い花弁が一枚だけ貼りついていた。
リオはそれを見つめ、静かに息を吸った。
甘い香りがした。
それはもう、カルムの胸からだけ漂っているとは思えなかった。




