第三節 ― 死者の娘
倉庫の封鎖が始まっても、人の流れまでは止められなかった。
縄の向こうには朝市から流れてきた見物人が残り、さらにその後ろへ、新しい顔が次々と加わっていく。検疫官が何度追い払っても、誰かが「死体から薬になる花が咲いた」と囁けば、別の誰かが足を止める。
リオはカルムのそばで診療道具を片づけながら、そのざわめきを聞いていた。
死者の名より、花の効能の方が早く広がっている。
「リオ先生」
検疫官の声に顔を上げる。
人垣が割れていた。
一人の女が、少女を抱えるようにして歩いてくる。
「遺族だ。妻のミラ=レイダと、娘のニナ」
リオは立ち上がった。
ミラは三十代半ばほどに見えた。急いで家を出たのだろう。髪は十分に結い直されておらず、薄い上着の前を閉じる余裕さえなかったらしい。青ざめた顔で倉庫の奥を見ている。
隣にいるニナは、もっと悪かった。
十歳を少し過ぎたくらいだろうか。頬が熱で赤く、額には汗が浮いている。細い肩が呼吸のたびに上下し、息を吸うたび、胸の奥で乾いた音がした。
マヤが無意識に一歩動いた。
リオの診療鞄へ手を伸ばしかける。
「まだいい」
小声で止めると、マヤは頷いた。
いつものように余計なことは聞かなかった。
ミラは縄をくぐったところで足を止めた。
「カルムは……」
その先が続かない。
リオは何も言わず、身体を横へずらした。
それで、見えた。
倉庫の奥に横たわる夫。
冷えた顔。
動かない手。
そして、胸いっぱいに咲いた白い花。
ミラの唇が震えた。
「何なの、それ……」
ニナは母の腕から離れた。
「お父さん?」
小さな声だった。
誰かが答えるより早く、少女は一歩踏み出した。
「待って」
ミラが腕を掴む。
「ニナ、近づいちゃ――」
言い終える前に、ニナが咳き込んだ。
一度ではない。
細い身体を折るような咳が続く。
リオはすぐに近づき、少女の背へ手を添えた。
「ゆっくり。無理に吸わなくていい」
「先生、この子、朝から熱が……」
「いつから咳が強くなりました?」
「三月くらい前からずっと。でも、昨夜から特にひどくて」
カルムが死んだ夜から。
そう口にしかけたのか、ミラは一度言葉を切った。
ニナはまだ咳をしていた。
だが、その呼吸が少しずつ変わっていく。
リオが気づいたのと、少女自身が気づいたのはほとんど同時だった。
咳の間隔が開いた。
肩の上下が小さくなる。
喉の奥で鳴っていた乾いた音も、わずかに薄れる。
ニナが顔を上げた。
「……息、できる」
ミラが娘を見る。
「ニナ?」
「さっきより、楽」
少女は胸へ手を当てた。
額にはまだ汗がある。頬も赤い。
病が消えたわけではない。
けれど、明らかに違う。
リオはニナの手首を取った。
脈。
皮膚の熱。
呼吸数。
瞳。
もう一度、花との距離を見る。
「マヤ、お願い」
言われる前に、マヤが細長い布を持ってきた。
「少し外へ?」
「ああ」
ミラに断り、ニナを倉庫の入口近くまで下がらせる。
数分待つ。
少女の呼吸が、また少しずつ浅くなった。
咳も戻る。
次に、無理のない範囲で花へ近づかせた。
甘い香りが濃くなるにつれて、肩から力が抜けていく。
リオは黙ってその変化を見ていた。
偶然ではない。
「……先生」
ミラの声が掠れた。
「この花が、この子に効いてるんですか」
リオはすぐには答えなかった。
言葉を選ぶ必要があるからではない。
目の前の事実を、都合よく削りたくなかった。
「効いてます」
ミラが息を呑む。
「じゃあ――」
「だからこそ、まだ使わせられない」
希望を持ち上げる前に、リオは続けた。
「熱も少し下がってる。呼吸も楽になってる。それは事実です。ただ、どうして効くのか分からない」
カルムの胸を見る。
白い花は静かに開いていた。
「何を代償に効いているのか分からない」
ミラの目が夫と娘の間を行き来した。
「でも、この子は……」
「はい」
「この子、ずっと苦しくて」
声が震える。
「夜になると特にひどくなるんです。眠ったと思ったら咳で起きて、息ができないって泣いて。薬を飲ませても、しばらくするとまた苦しくなる」
リオは黙って聞いた。
「カルムが……薬代を稼ぐって、仕事を増やして」
そこでミラは夫の顔を見た。
「やめてって言ったんです。胸が痛いって言ってたから。でも、あの人、聞かなくて」
ニナが父を見る。
呼吸は楽になっている。
それが、かえって残酷だった。
「この花があれば……」
ミラは言った。
その続きを、自分で言えなくなった。
夫を利用したいわけではない。
そうではないことは、表情を見れば分かる。
ただ、娘が今、久しぶりに楽そうな呼吸をしている。
それだけだった。
それだけで、人は揺れる。
「奥さん」
縄の外から声がした。
先ほど追い出された商人の一人だった。
検疫官が止めようとしたが、男は両手を見える位置へ上げ、近づく意思がないことを示した。
「話だけだ。触らん」
「帰れと言っただろう」
「遺族の意思を聞くくらいはいいだろう」
男はミラへ向き直った。
「その花が娘さんに効いているなら、一輪だけ譲ってもらえないか」
ミラの顔が強張る。
「何を……」
「もちろん、ただでとは言わない。十分な金を払う。薬代にもなるし、当面働かなくても暮らせるだけの額は出す」
「夫の身体ですよ」
「分かっている」
男は少し声を低くした。
「だが、花はもう咲いている。摘まずに腐らせるより、人を助けるために使う方がいいんじゃないか」
周囲の何人かが頷いた。
「そうだよ」
「娘にも効いてる」
「他の病人も救えるかもしれない」
神官の一人まで口を挟む。
「死してなお人を救えるなら、それも一つの祝福ではある」
リオの眉がわずかに動いた。
まだ何も分かっていない。
それでも、人はもう意味を決め始めている。
商人が続けた。
「病を治せるなら、多少何かが変わったとしても、生きていられる方がいい。そう願う病人はいくらでもいる」
左腕が疼いた。
包帯の下。
白い獣毛と、樹皮のように変わった皮膚の奥で、根状の光脈が細く脈を打つ。
リオの指先が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
誰も気づかなかった。
マヤ以外は。
彼女の視線が、リオの顔から左腕へ落ちる。
リオは腕を押さえなかった。
何もなかったように商人を見る。
「その話をするには早すぎます」
「だが実際に効いている」
「効いていることと、安全であることは別です」
「安全でなくても欲しい人間はいる」
「いるでしょうね」
否定はしなかった。
リオ自身、それをよく知っている。
苦しみが長ければ長いほど、人は危険より先に、今夜眠れることを選ぶことがある。
「だから、何なのか調べます」
商人はまだ何か言おうとした。
その前に、小さな声が割り込んだ。
「だめ」
ニナだった。
母の隣で、父の胸を見ている。
声は弱い。
けれど、もう一度言った。
「だめ」
商人が戸惑う。
「お嬢ちゃん、君の薬代にも――」
「これはお父さんの花です」
倉庫が静かになった。
ニナは父へ近づこうとして、途中で足を止めた。
熱の残る顔が歪む。
「お父さん、ずっと働いてたんです」
ミラが娘の肩へ手を置く。
「ニナ」
「わたしの薬のお金がいるからって。胸が痛いのに、ずっと」
声が掠れる。
「昨日も行ったんです。今日は休んでって言ったのに」
白い花が揺れた。
風ではない。
ただ、呼吸するように。
「死んだのに」
ニナの目から涙が落ちた。
「死んだのに、まだわたしの薬にするんですか」
誰も返せなかった。
少女は泣きながら首を振った。
「お父さんまで薬にしないで」
それだけだった。
難しい言葉ではない。
死者の尊厳でも、葬送の権利でも、神格と人間の倫理でもない。
父親だった。
カルム=レイダは、夫であり、父であり、毎日港で荷物を運び、病気の娘の薬代を稼いでいた男だった。
その当たり前のことを、娘の一言が倉庫へ戻した。
商人が目を伏せた。
神官も口を閉じる。
カルムの同僚の一人が鼻をすすり、乱暴に顔を拭った。
リオはニナの前へ膝をついた。
少女はまだ泣いている。
「花には触らないで」
ニナが怯えたように顔を上げる。
「取るんですか?」
「取らない」
リオは答えた。
「でも、まだ何が起きているか分からない。君にも近づきすぎてほしくない」
「でも、ここだと息が楽です」
「うん」
「じゃあ、どうしたらいいの」
答えは簡単ではなかった。
父の花から離せば、少女はまた苦しくなる。
近づければ、正体の分からない力へ晒すことになる。
リオはニナの呼吸を見た。
「今は、少しだけ距離を取ろう。苦しくなったら僕が診る」
「治せますか?」
その問いに、すぐ「治す」とは言えなかった。
「できることを探す」
ニナは不満そうだった。
「大人って、そういう言い方しますよね」
思いがけない返しに、リオが一瞬黙る。
後ろでマヤが小さく頷いている。
「分かります」
「君はどっちの味方なの」
「患者さんです」
リオは何も言い返せなかった。
ニナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
すぐまた父を見る。
空気は軽くなりきらなかった。
それでよかった。
ミラが娘の肩を抱きながら、リオへ顔を向けた。
「先生」
「はい」
「調べるなら……カルムが通っていたところも見た方がいいんでしょうか」
リオの意識が切り替わる。
「通っていた?」
「南路地の慈療院です」
「いつからですか」
「しばらく前から。胸が痛いって言い始めてから、時々」
リオはカルムの顔を見る。
前夜、胸痛を訴えて倒れ、そのまま死亡した。
「どんな治療を?」
「詳しくは聞いてません。あの人、自分のことはあまり話さないから。ただ……」
ミラが眉を寄せた。
「数日前から、急に元気になったんです」
「急に?」
「ええ」
「胸の痛みは?」
「なくなったって」
リオの目が止まる。
「完全に?」
「少なくとも、本人はそう言ってました。前は仕事から帰ると胸を押さえて、しばらく動けないこともあったのに」
ミラは思い出すように続けた。
「慈療院から帰った日は、見違えるほど元気で。夜もよく眠れて……次の日には、いつもより早く港へ行ったくらいです」
「最後に行ったのは?」
「死ぬ数日前です」
甘い花の香りが鼻を掠めた。
リオはカルムの胸へ視線を落とす。
死後に初めて異常が起きたわけではない。
その前がある。
慢性的な胸痛。
南路地の慈療院。
そして、死の直前に突然消えた痛み。
カルムの胸に咲く花は、死者へ与えられた最初の異変ではないのかもしれない。
「慈療院の名前は?」
ミラが答える。
「南路の慈療院です。港の人は、ただ南路って呼んでます」
リオは立ち上がった。
マヤはすでに診療鞄を肩へ掛けていた。
「行くんですよね?」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
「そんなに分かりやすい?」
「先生、嘘だけじゃなくて、考え事もけっこう分かりやすいです」
「それは困るな」
「三か月遅かったですね」
マヤはそう言ってから、ニナの方へ振り返った。
少女は母に支えられ、父を見つめている。
マヤの表情から笑みが消えた。
「先生」
「ああ」
リオも同じものを見ていた。
死者の胸に咲く、美しい白い花。
その異常を追う前に。
「検疫官」
リオは入口へ向き直った。
「カルム=レイダには、誰も触れさせないでください。家族がここにいる間もです」
検疫官が頷く。
リオはもう一度、ミラとニナを見た。
「慈療院を確認してきます」
ミラは娘を抱いたまま、深く頭を下げた。
倉庫を出る直前、リオの左腕がもう一度だけ微かに疼いた。
包帯の上から、その場所をマヤが見ていた。
何も聞かなかった。
リオも何も言わなかった。
二人はそのまま、甘い花の匂いを背にして、南路地へ向かった。




