第四節 ― 腐花の噂
噂は、港で生まれると、魚より先に捌かれる。
ラウ=マリカの人々は、それをよく知っている。
大陸南方の海から戻った船が、まだ桟橋に縄を掛けているうちに、積荷の中身は市場で語られている。沈没船の破片が引き上げられたと聞けば、昼には古物商が値をつけ、夕方には神殿が所有権を主張し、夜には酒場でそれを盗む相談が始まる。
潮は物を運ぶ。
商人は値を運ぶ。
人の口は、真実よりも軽いものを運ぶ。
カルム=レイダの胸に咲いた白い花の話は、朝のうちに港全体へ広がった。
最初の噂は、まだ事実に近かった。
死んだ荷揚げ人夫の胸から花が咲いた。
花の香を吸った老婆の咳が止まった。
少年の傷の痛みが引いた。
病弱な娘の熱が少し下がった。
けれど、潮倉庫から三つの路地を越え、市場の天幕を抜け、香辛料街の奥へ届くころには、噂はもう姿を変えていた。
「死体から咲いた花は、病を癒すらしい」
薬草商の軒先で、女が囁いた。
「花を煎じれば、高熱にも効くそうだ」
香油売りが、客の耳元で声を潜めた。
「花粉を吸えば、痛みが消えるって話だ。港の子どもの手が、一息で治ったとか」
魚油の樽を転がしていた男が言った。
「花を枕元に置くと、死者の声が聞こえるらしいぞ」
これはもう、誰が言い出したのか分からなかった。
ラウ=マリカの空気は、朝とは違う熱を帯びていった。
市場の天幕の下では、商人たちが小声で値を読み始めていた。
「一輪でいくらになる」
「病を癒すなら、金貨でも買う者はいる」
「神殿に押さえられる前に、花弁一枚だけでも手に入れろ」
「いや、検疫所が保管するはずだ。なら検疫官に話を通す方が早い」
「カルムの家族は貧しい。娘の薬代を出すと言えば、譲るかもしれん」
その最後の言葉に、近くにいた老商人が眉をひそめた。
「やめておけ。父親の遺体から咲いた花だぞ」
若い商人は鼻で笑った。
「だから高いんだ」
白い花は、まだ誰の手にも渡っていない。
けれど、すでに値段だけが港を歩き始めていた。
検疫所の周囲にも、人が集まりだした。
最初は、病人の家族だった。
次に、薬師。
それから、身元のはっきりしない男たち。
最後には、顔を布で隠した者たちが、壁際や路地の影に立つようになった。
密売人だった。
彼らは声を張り上げたりはしない。検疫官に詰め寄ることもしない。ただ、検疫所へ出入りする者の顔を覚え、誰が何を持ち出すかを見ていた。
白い花。
赤い蔓。
死者の胸に咲いた腐花。
その一部でも市場へ流れれば、夜のうちに三倍の値がつく。
神殿が聖遺物と認めれば十倍。
もし、本当に病を癒すと証明されれば、値はもう金では測れない。
ラウ=マリカでは、信仰も薬も悲しみも、いずれ誰かが量りに乗せる。
港神殿も、動き始めていた。
神官たちの間では、意見が割れていた。
「腐花は死者のものだ。花葬師を呼び、正しい葬送を行うべきだ」
年老いた神官はそう言った。
だが若い神官のひとりは、目を輝かせて反論した。
「だが、実際に病を和らげた。ネクタ=ロアの祝福が、ラウ=マリカに顕れたのではないか」
「祝福なら、なおさら慎重に扱うべきだ」
「慎重に扱っているうちに、救える者が死んだらどうする。神の花が咲いたのに、我々が祈らずにいるのか」
「死者を祭壇に上げるな。まず遺族に返せ」
「遺族だけのものではない。神が咲かせたなら、神殿が守るべきだ」
祈りの言葉は、いつの間にか所有の言葉へ変わっていった。
やがて神殿の外壁には、白い花を描いた祈祷布が何枚か結ばれた。
誰が結んだのかは分からない。
布には、こう書かれていた。
――腐花の主よ、痛みを花へ。
――骸に咲く者よ、病を香へ。
――死を終わりとせず、残された者へ命を分けたまえ。
それを見た参拝者たちは、最初は戸惑った。
しかし、すぐにひとりが膝をついた。
次に、もうひとり。
昼を待たずに、港神殿の前には小さな列ができていた。咳をする老人。腕に包帯を巻いた漁師。熱の子を抱いた母親。足を引きずる船乗り。彼らは白い花など見たこともないのに、すでにその花へ祈り始めていた。
祈りは、形より先に飢えから生まれる。
ラウ=マリカの海風は、昼に近づくにつれて湿り気を増した。
市場の喧騒から離れ、港の南側へ行くと、石畳は途切れ、土と泥の道になる。古い帆布を継ぎ合わせた屋根、潮で錆びた鉄板の壁、流木を柱にした小屋が並ぶ貧民街だった。
ここでは、噂は市場とは別の色を帯びる。
商人たちが値段を語るころ、貧民街の人々は痛みについて語っていた。
「花の香を吸ったら、咳が止まったらしい」
井戸端で、痩せた女が言った。
「カルムの娘の熱も下がったって」
別の女が、洗い桶の水を見つめたまま答える。
「じゃあ、本物なんだね」
「本物って、何が」
「救いだよ」
その言葉は、ひどく静かだった。
貧民街には、医者へ行けない者が多い。薬草を買えない者も、神殿へ捧げる布すら持たない者もいる。彼らにとって病は、治すものではなく、耐えるものだった。
耐えて、働いて、悪くなって、もっと働いて、最後に誰かの負担になる。
だから、死体から咲いた花が誰かを救ったという話は、市場で語られるよりずっと深く染み込んだ。
「花になれば、もう痛くないんだろうか」
片足を引きずる老人が呟いた。
誰も笑わなかった。
「死んでも誰かを救えるなら、悪くないかもしれないね」
別の老婆が、乾いた手を見下ろして言った。
「役に立たない命なんて、ないってことだろう」
若い母親が、咳き込む赤ん坊を抱きながら、そう言った。
その声には、希望があった。
けれど、その希望はあまりに危うかった。
苦しみに慣れすぎた者は、苦しまない死を救いと見間違える。
役に立たないと言われ続けた者は、死後に誰かの役に立つという言葉に縋ってしまう。
生きているあいだに価値を認められなかった者は、花になって初めて値段がつくことを、救済だと思ってしまう。
ラウ=マリカの南路地では、その日の昼前から奇妙な祈りが聞こえ始めた。
――花にしてください。
――痛みを香にしてください。
――この命が無駄でないなら、誰かの薬にしてください。
それは、ネクタ=ロアへの正しい祈りではなかった。
花葬師が聞けば顔をしかめるだろう。古い神官なら、祈りを止めていただろう。死者を次の命へ返すための言葉が、生きている者の諦めに変わっていた。
だが、祈る者たちは真剣だった。
誰かを呪っているわけではない。
誰かを殺そうとしているわけでもない。
ただ、自分の痛みが終わる意味を欲しがっていた。
そのころ、リオ=サルヴァは検疫所の奥で、香を吸った者たちの診察を続けていた。
老婆の咳は確かに止まっていた。
少年の手の痛みも確かに引いていた。
ニナの熱も、わずかに下がっている。
だが、リオの顔は晴れなかった。
彼は三人の手首に触れ、舌の色を見て、瞳孔の反応を調べた。次に、香を吸った時間、距離、症状の変化を検疫官に記録させる。
「治ったのか?」
少年が不安そうに聞いた。
リオはすぐには答えなかった。
嘘をつけば、少年は安心する。
安心は、ときに薬になる。
けれど今、その薬は危険だった。
「痛みは引いている。でも、治ったかどうかはまだ分からない」
「じゃあ、また痛くなる?」
「その可能性はある」
少年は肩を落とした。
リオは、その手に薄い薬布を巻いた。
「痛みが戻っても、それは悪いことばかりじゃない。痛みは、身体がまだ訴えられるということでもある」
「痛くない方がいいよ」
「そうだね」
リオは静かに頷いた。
「でも、痛みを消すことと、身体が助かることは同じじゃない」
少年には、まだ分からなかっただろう。
だが、そばで聞いていた検疫官の顔が強張った。
「つまり、花は治していないのか」
「少なくとも、今見えている効果は鎮痛と鎮静に近い。熱や咳も、一時的に抑えているだけかもしれません」
「だが、ニナの顔色は良くなった」
「はい」
リオは、検疫所の隅で眠るニナを見た。
母親のミラが、娘のそばに座っている。ミラは夫の遺体の方へ行きたがったが、今はニナから離れられない。喪失と安堵が同時に来た者の顔だった。
「花は、効いています」
リオは認めた。
「だからこそ、危険です」
検疫官は黙った。
リオは机の上に置いた小瓶を見た。瓶の中には、倉庫から採取した空気を吸わせた布片が入っている。布は薄く白く染まり、かすかに甘い香を放っていた。
その隣には、カルムの胸元から自然に落ちた花粉を集めた紙包みがある。花本体には触れていない。ニナとの約束もある。だが、花粉だけでも神格反応は十分にあった。
淡い赤。
葬送系の反応。
腐花神ネクタ=ロアに近い。
けれど、古い花葬の祈りとは波が違う。
何かが混じっている。
リオは左腕の包帯を押さえた。
包帯の下で、聖獣の徴がわずかに疼いている。
「……広がる」
彼は低く呟いた。
「何がだ」
「噂です」
リオは顔を上げた。
「噂が、症状より先に広がります。人は花に近づく。花を欲しがる。花を祈る。花になりたいと思う者も出る」
検疫官は苦い顔をした。
「まさか」
「ラウ=マリカを甘く見ない方がいい」
リオは言った。
「この街では、祈りも商品も、同じ道を通ります」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、検疫所の外が騒がしくなった。
見習い検疫官が駆け込んでくる。
「リオ先生、外に人が集まっています!」
「病人ですか」
「病人もいます。薬師も。商人も。それから……神殿の祈祷布を持った者たちが、花を拝ませろと」
リオは目を閉じた。
早すぎる。
いや、ラウ=マリカなら遅いくらいかもしれない。
さらに見習いは、言いづらそうに続けた。
「南路地では、もう別の噂が出ています」
「どんな」
「花になれば痛みが消える、と」
検疫所の空気が、冷えた。
ミラが顔を上げる。
ニナは眠っている。
リオは何も言わず、机の上の紙包みを閉じた。
外では、人々の声が高くなっている。
「一目だけでいい」
「うちの母に香を吸わせてくれ」
「神の花を隠すな」
「死者の恵みを独占するのか」
「腐花の主よ、痛みを花へ」
その声は、怒りではなかった。
まだ、暴動でもない。
もっと厄介なものだった。
救いを求める声だった。
リオは立ち上がった。
「倉庫と検疫所の封鎖を強めてください。花に近づけない。花粉も持ち出さない。香を吸った者は全員記録する」
「群衆が納得しない」
「納得させるのは後です。今は、近づけないことが先です」
検疫官は頷き、部下たちに指示を飛ばした。
リオは扉へ向かおうとして、ふと足を止めた。
マヤが、窓辺に立っていた。
彼女は外の人々を見ている。
検疫所の前に集まる病人たち。
祈祷布を握る老人。
赤ん坊を抱いた母親。
足を引きずる男。
目の奥に、痛みと期待を同時に宿した者たち。
マヤは胸元の布を握りしめていた。
「マヤ」
リオが呼ぶと、彼女は振り返らずに言った。
「怖いね」
「花が?」
「ううん」
マヤは首を振った。
「あの人たちが、本当に救われたいって思ってることが」
リオは答えられなかった。
外では、また誰かが祈っていた。
――花になれば、もう痛くない。
その言葉が、潮風に乗って検疫所の中まで届いた。
甘い腐花の香りは、まだ倉庫に閉じ込められているはずだった。
それなのにリオは、ラウ=マリカ全体が、ゆっくりとその匂いに包まれていくのを感じていた。




