第二節 ― 聖獣医師リオ=サルヴァ
朝市の鐘が二度目を鳴らす頃には、古い潮倉庫の前に検疫所の縄が張られていた。
「下がれ! 花に近づいた者は勝手に帰るな! 名前を控える!」
検疫官の怒声に、不満の声がいくつも返る。
「見るだけだろう」
「咳が止まったんだぞ」
「なら、なおさらだ!」
「神の花を病扱いする気か!」
最後の声に反応したのは、港神殿から来た神官だった。
「病と決まったわけではない。ネクタ=ロアの御手によるものなら、これは死者へ与えられた祝福だ」
「祝福なら採っても構わんだろう」
すかさず商人が口を挟む。
「一輪で病人が何人救えると思っている」
「だから触るなと言っている!」
検疫官、神官、商人。
三者の声が倉庫の入口でぶつかり合う。そのどれもがもっともらしく聞こえるせいで、かえって誰も先へ進めなくなっていた。
縄の外には、朝市から流れてきた人々が何重にも集まっている。
その間を縫うように、一人の青年が歩いてきた。
「通してください」
声は大きくなかった。
それでも、前にいた人夫が振り返り、次いで一人、二人と身体をずらした。
深い栗色の髪を低い位置で束ねた、二十代半ばほどの青年だった。生成りの長衣は旅塵で少しくすみ、裾には乾いた泥と薬草の染みが残っている。肩から提げた革の診療鞄は、使い込まれて角が丸くなっていた。
その斜め後ろを、小柄な少女がついてくる。
マヤ=ルクは、人垣を抜けたところで足を止めた。
鼻をひくつかせる。
「甘いです」
「吸い込まないで」
「まだ吸ってません」
「今、嗅いだだろ」
「匂ってきただけです」
リオ=サルヴァは横目だけを向けた。
マヤは口元を布で覆いながら、何でもない顔をしている。
三か月も一緒にいれば分かる。
こういうときの彼女は、たいてい少しだけ誤魔化している。
「あとで診るから」
「何もしてませんよ」
「何もしてない人は、そういう返事をしない」
言い合いが続く前に、縄の内側から検疫官が駆け寄ってきた。
「リオ=サルヴァか」
「はい」
「助かった。正直、こっちじゃ手に負えない」
男は額の汗を袖で拭った。朝だというのに、湿った港の空気はもう肌へまとわりついている。
「死者は前夜に死亡確認済み。ところが今朝、胸から花が咲いた。香を吸った老婆の咳が軽くなって、怪我をした子どもの痛みも引いた。検疫所は疫病を疑ってる。神殿は腐花神の祝福だと言う。商人どもは薬になると言って聞かない」
背後で「なるかもしれない、だ」と訂正する声がした。
検疫官は無視した。
「疫病か神罰か分からない」
それから、リオの左腕へ一瞬だけ視線を落とす。
「だからあなたを呼んだ」
リオは頷いた。
疫病なら、検疫医が診ればいい。
神意を問うだけなら、神官がいる。
だが、その境目にあるものを扱うために、聖獣医師という仕事があった。
リオは縄をくぐった。
マヤも続こうとする。
「君はここで――」
言いかけて、やめた。
マヤはすでに診療鞄を受け取り、留め具を外していた。
「何です?」
「いや」
「ここで待て、と言おうとしました?」
「言ってない」
「先生も嘘が下手ですね」
それ以上は返さず、リオは倉庫へ入った。
中は外よりも空気が重かった。
湿った木材と古い縄、潮に濡れた帆布。そのすべてを覆うように、白花の甘い香りが満ちている。
カルム=レイダは、先ほどと同じ場所に横たわっていた。
胸元では赤い根が皮膚を這い、白い花が朝の光を受けている。
神官がリオの横へ来た。
「花弁の形も、香も、古い花葬の記録と一致する。ネクタ=ロアの御徴と考えるべきだ」
「死後、何時間ですか」
リオは花から目を離さず尋ねた。
神官がわずかに眉を動かした。
「夜半を少し過ぎた頃に亡くなったと聞いている」
「死亡確認をしたのは?」
「検疫所の見習いだ」
先ほどの検疫官が答えた。
「呼吸なし、脈なし。神官もそのあと確認してる。間違いない」
リオはカルムの横へ膝をついた。
花ではなく、まず顔を見る。
瞼を持ち上げ、瞳を確かめる。首筋へ二本の指を当てる。胸に耳を寄せ、しばらく動かない。
心音はない。
呼吸音もない。
次に顎、肩、指先を順に動かした。
「死後硬直が弱い」
「生きてるのか?」
後ろから声が飛んだ。
「いいえ」
リオは顔を上げなかった。
「カルム=レイダは死亡しています」
荷揚げ人夫の一人が、唇を強く噛んだ。
商人の間からは、反対に小さな安堵が漏れた。
死者なら花を採ってもよい。
そんな考えが透けて見えた。
リオは何も言わず、手を差し出した。
隣で鞄を開いていたマヤが、その意味を先に拾う。
「布ですね」
「赤い方」
「こっちですよね」
取り出したのは、薄い生成りの布だった。
端に赤褐色の糸で、根にも血管にも見える細かな文様が縫い込まれている。
マヤはカルムの身体へ触れないよう注意しながら、胸から腹へ祈診布を広げた。
布が白花へ近づく。
その瞬間、縫い込まれた赤い糸の一部が、じわりと色を深くした。
「……出てます」
「ああ」
胸元だけだった。
腹部はほとんど変わらない。
首へ近づくにつれ、淡い赤が筋となって伸びている。
リオはその流れを目で追った。
「針」
すでにマヤの手にあった。
「どうぞ」
骨色の細い針。
《血読針》。
リオが受け取ったあとで、マヤは小さく得意そうな顔をした。
「まだ何も言ってませんでしたよ」
「今、言った」
「遅いです」
「診察中」
「はい」
すぐに声を落とした。
リオはカルムの腕へ針を入れた。
死者の血は、当然ながら勢いよく流れ出したりはしない。針先についたのは、暗く沈んだ赤い一滴だけだった。
それを小さなガラス片へ落とす。
色を見る。
匂いを確かめる。
指先でわずかに温度を見る。
次に、胸元を走る赤い根のそばからもう一滴採った。
二つを並べる。
リオの目が細くなった。
「違う……」
検疫官が身を乗り出した。
「何がだ」
「まだ分かりません」
即答だった。
「分からない?」
「違うことまでは分かります。何が違うかは、これから診ます」
検疫官は一度口を開いたが、何も言わず閉じた。
リオは血読針を布の上へ置くと、左腕の包帯へ右手を掛けた。
一巻き。
二巻き。
白い布がほどけていく。
周囲の空気が静かになった。
包帯の下から現れたのは、人の腕でありながら、人だけのものではなかった。
手首から前腕にかけて、白い獣毛がまだらに生えている。その間の皮膚は乾いた樹皮のように細く裂け、亀裂の奥には根を思わせる淡い光が走っていた。
指の形そのものは人と変わらない。
ただ、爪だけが薄く伸び、獣のものに近い弧を描いている。
商人の一人が息を呑んだ。
神官も言葉を止めた。
人垣の向こうでは、見えない者たちが何が起きたのかとざわついている。
リオは誰にも説明しなかった。
包帯を完全には外さず、肘の手前でまとめる。
左手をカルムの胸へ伸ばした。
白花には触れない。
赤い根にも触れない。
まず、花のない皮膚へ掌を置く。
冷たい。
死者の温度だった。
リオは目を閉じる。
自分の脈が左腕を通る。
一拍。
もう一拍。
根のような淡光が、樹皮状の皮膚の下で静かに明滅した。
カルムから返る心拍はない。
当然だ。
だが、その静寂のさらに下で、何かが動いていた。
血ではない。
心臓から送り出されるものでもない。
死んだ肉の中に残った何かが、細い流れになって胸元へ集まっている。
花へ。
白い花が、リオの掌に呼応するようにわずかに開いた。
左腕の光筋がぴくりと震えた。
「先生」
マヤの声だった。
リオが目を開ける。
彼女はカルムの反対側にしゃがんでいた。
白花から手のひら一つ分ほど離れたところへ、そっと指先をかざしている。
「触らないで」
「触ってません」
「もっと離して」
マヤは素直に数センチ引いた。
「これくらい?」
「もう少し」
「先生、細かい」
「患者が言うことを聞かないからね」
「今は助手です」
「なら、なおさら聞いて」
マヤは口を尖らせたものの、それ以上は近づかなかった。
やがて、その表情から幼い不満が消えた。
じっと花を見つめる。
何かを聞こうとするように。
倉庫の物音が遠のいた。
荷縄の軋み。
外の怒鳴り声。
波が石壁を叩く音。
その中で、マヤの呼吸だけが少し浅くなる。
彼女は自分の鎖骨へ手を当てた。
リオの視線がすぐに動いた。
「マヤ」
「大丈夫です」
「聞いてない」
「……まだ咲いてません」
答えが早い。
つまり、反応はしている。
薄布の下、左肩から鎖骨にかけてある花痕が、淡く熱を持っていた。
マヤ自身にも見慣れた徴。
血を流し、傷つき、あるいは神格の気配へ触れたとき、時に彼女の身体へ花として現れるもの。
カルムの胸にある白い花と、よく似ている。
けれど。
リオは左手をカルムへ置いたまま、マヤを見た。
「似てるけど、違う」
マヤが眉を寄せる。
「何がです?」
「流れが違う」
「それだけですか?」
「今は、それだけ」
納得していない顔だった。
それでもマヤは問いを重ねず、もう一度カルムへ意識を戻した。
しばらくして、彼女の指がわずかに震えた。
「……この人、まだ終わってない」
倉庫の中がざわついた。
「生きてるのか!」
カルムの同僚が一歩出る。
マヤは驚いて首を振った。
「違います。そうじゃなくて――」
「カルムは死亡しています」
リオが言葉を引き取った。
「そこは変わりません」
男の足が止まる。
希望を与えてから奪うには、あまりに短い間だった。
リオはカルムの胸へ視線を戻した。
死者の中で、まだ何かが流れている。
肉から根へ。
根から花へ。
腐敗するはずだった身体の何かを、開花へ渡し続けている。
マヤが感じたのも、おそらく同じ現象だった。
終わっていないのは、カルムの命ではない。
彼の死後に始まった、別の過程だ。
リオは祈診布を少しずらした。
赤い文様が、胸元へ向かって濃く集まる。
血読針についた二つの血。
死者の血。
根のそばに残った血。
左腕に返ってくる、心拍ではない流れ。
そして、白花の香。
どれも、単純な疫病だけでは説明できなかった。
かといって、神官の言うとおり祝福だと決めるには、あまりに流れが歪んでいる。
「リオ」
検疫官が低い声で呼ぶ。
「どう見る」
リオはすぐには答えなかった。
カルムの顔を見る。
閉じた瞼。
冷えた頬。
その胸で、本人の意思とは無関係に咲き続ける花。
次に、香を吸って楽になった老婆と少年を見る。
最後に、鎖骨を押さえたまま静かに立つマヤへ目を向けた。
分からないことは、まだ多い。
それを分かったことにしてしまえば、診察ではなくなる。
「これは疫病とは言い切れない」
商人がすぐに反応した。
「なら、採取を――」
「まだです」
短い声で止める。
リオは白花を見た。
「葬送です」
今度は、神官たちが息を呑んだ。
「少なくとも、この身体で起きているのはそう見えます。カルム=レイダは死んでいる。でも、死後に始まった何かが、まだ身体の中を流れている」
赤い根の先で、白い花がゆっくりと揺れた。
「死者に起きるはずのものが、街の中で芽吹いてる」
「ネクタ=ロアの祝福だと?」
神官が問う。
リオは首を横に振った。
「そこまでは言えません」
「では、呪いか」
「それもまだ」
神官が不満そうに眉をひそめる。
リオは構わず、検疫官へ向き直った。
「倉庫を封鎖してください。花も遺体も動かさない。ここへ入った人間は全員、名前を控えて経過を見る。特に花へ触れた人と、香を長く吸った人は別に」
「分かった」
「神官の祈祷も、今は止めてください」
「何?」
すぐに反発が返った。
「神意を否定する気か」
「違います」
リオは左腕へ包帯を巻き戻しながら答えた。
「何に反応して咲いているのか分からない。分からないものへ刺激を増やしたくないだけです」
神官はしばらく黙っていたが、やがて渋々祭具を下ろした。
商人が最後まで食い下がる。
「花はどうする。もし萎れたら、貴重な薬効を失うかもしれないぞ」
包帯を結び終えたリオは、カルムの顔を一度見た。
「その話は、彼の家族が来てからにしてください」
「だが――」
「今は診察中です」
それだけ言って、リオは立ち上がった。
マヤは黙って祈診布を畳み始める。
リオが手を出すより早く、血読針を拭い、小さな筒へ戻した。
いつもの手順だった。
けれど最後に診療鞄を閉じる直前、彼女はもう一度だけカルムの花を見た。
「先生」
「何?」
「わたしのと、本当に違います?」
リオの手が止まる。
すぐには答えなかった。
「……今、分かる範囲では」
マヤはその言い方を聞いて、小さく息を吐いた。
「先生らしい答えですね」
「便利なんだよ。分からない時に分からないって言えるから」
「それ、便利なんですか?」
「医者にはね」
マヤは少しだけ笑った。
ほんの一瞬だった。
次には二人とも、死者の胸へ視線を戻している。
白い花は、美しいまま咲いていた。
病なのか。
祝福なのか。
それとも、そのどちらでもないのか。
まだ答えはない。
ただ一つ確かなのは、カルム=レイダの死が、まだこの倉庫の中だけでは終わっていないということだった。




