第三節 ― 死者の娘
倉庫の封鎖は、すぐには進まなかった。
縄は張られた。
検疫官は怒鳴った。
神官たちは祈祷を止めた。
商人たちは外へ出された。
けれど、人の目までは閉じられない。
古い潮倉庫の周囲には、さらに多くの人々が集まり始めていた。朝市に来た者たちが足を止め、荷揚げ途中の人夫が肩の荷を下ろし、船乗りたちは桟橋から首を伸ばす。
死んだ男の胸から花が咲いた。
その花の香で、老婆の咳が止まった。
少年の傷が癒えた。
噂は潮よりも速く走る。
ラウ=マリカの港では、そういうものだ。積荷の中身よりも先に噂が市場へ届き、真実よりも先に値段がつく。
リオは倉庫の奥で、カルム=レイダの遺体を見下ろしていた。
白い花は、さらに開いている。
朝の光を受けた花弁は、薄く透け、内側に淡い金色の筋を走らせていた。まるで小さな血管のようでもあり、葉脈のようでもある。赤い蔓はカルムの胸元から首筋へ向かって、わずかに浮き出ていた。
生きている。
いや、カルムは死んでいる。
けれど、花は生きている。
リオはその矛盾から目を逸らさなかった。
「香を吸わせすぎないでください」
彼は検疫官に言った。
「花の近くにいる者は、必ず布で口元を覆ってください。咳が止まった者、痛みが引いた者も、今すぐ検疫所へ回す。症状が軽くなったからといって、治ったとは限りません」
「だが、実際に効いている」
検疫官の声には、戸惑いが混じっていた。
「だから危険なんです」
リオは答えた。
「人は、効くものを疑わなくなる」
そのとき、倉庫の外で騒ぎが起きた。
「通して! 通してください!」
女の声だった。
検疫官が振り返る。
人垣が揺れる。
縄の向こうで、誰かが押し問答をしていた。
「ここは封鎖中だ!」
「夫がいるんです!」
その声に、倉庫の中の空気が変わった。
カルムの同僚たちが顔を上げる。
「……ミラだ」
誰かが呟いた。
人垣をかき分けて現れたのは、痩せた女だった。
年は三十を少し過ぎたほどだろうか。濃い布を肩に巻き、髪を後ろで乱雑に結んでいる。顔色は悪く、目の下には濃い影があった。だが、その腕には、小さな少女を抱いている。
少女は十にも満たない。
薄い寝巻きの上から布を巻かれ、額には汗が浮いていた。頬は熱で赤く染まり、唇は乾いている。母親の肩にもたれかかりながら、呼吸のたびに小さく胸を上下させていた。
カルムの娘。
ニナ=レイダ。
リオは、その子を見た瞬間、表情を変えた。
病人の顔だった。
長く熱に削られた子どもの顔。眠っても休まらず、起きていても遊べず、体の内側から少しずつ力を奪われていく者の顔。
母親のミラは、倉庫の入口で足を止めた。
縄の向こう。
検疫官の背後。
朝の光が差す倉庫の奥。
そこに横たわる夫の姿を見た。
彼女の唇が震えた。
「カルム……?」
声は、それ以上続かなかった。
ミラは夫の遺体へ駆け寄ろうとした。検疫官が止める。だが、彼女は必死に腕を振りほどこうとした。
「離して! あの人は、昨日、検疫所に……どうしてここにいるの、どうして……!」
「近づかないでください」
リオが言った。
ミラは彼を睨んだ。
「あなたは誰です」
「リオ=サルヴァ。検疫所に呼ばれた聖獣医師です」
「医者なら、あの人を診てください! まだ、まだ温かいって、誰かが言っていた。花が咲いているって……花が咲くなら、生きているんじゃないんですか」
その言葉に、倉庫の外の人々がざわめいた。
リオは、すぐには答えなかった。
彼は、母親の腕の中にいる少女へ目を向けた。
ニナは、ぼんやりと父の方を見ていた。
熱に潤んだ目は、何を見ているのか分からない。けれど、彼女は父の名を呼ぼうとした。
「……お、と……さん」
かすれた声だった。
ミラの顔が歪む。
「この子、昨日からまた熱が上がって……カルムは、薬代を稼ぐって、夜の荷を受けて……」
言葉が途切れる。
彼女は、夫がなぜ死んだのかを理解していた。
理解していたからこそ、声にできなかった。
リオは静かに歩み寄り、ニナの前に膝をついた。
「少し診せてください」
ミラは一瞬、拒むように腕に力を込めた。
けれど、ニナが苦しそうに息をしたため、迷いながらも頷いた。
リオは少女の額に手を当てた。
熱い。
ただの発熱ではない。体の芯にこもるような熱。呼吸は浅く、脈は細く速い。喉に炎症があり、胸の奥に湿った音がある。
長い病だ。
リオはすぐにそう判断した。
急な疫病ではない。貧しさと湿気と栄養不足と、十分な薬を買えなかった時間が積み重なってできた病。
神格の祝福よりも、ずっとありふれていて、ずっと残酷なもの。
「いつからですか」
「三月前からです。最初は咳だけで……でも、だんだん熱が下がらなくなって。薬師には、山蜜草と白根粉を続ければ持ち直すかもしれないって。でも高くて……」
ミラの声は、そこで震えた。
カルムは、その薬代を稼ぐために夜の荷揚げを引き受けたのだろう。
その結果、彼は死んだ。
そして今、彼の胸に咲いた花が、病を癒すかもしれないと噂されている。
あまりにも悪い巡り合わせだった。
ニナが小さく身じろぎした。
彼女の鼻先に、倉庫の奥から流れてきた甘い香が触れる。
リオはすぐに布で遮ろうとした。
だが、一呼吸だけ遅かった。
ニナは、花の香を吸った。
その瞬間、少女の胸の音が変わった。
苦しげに詰まっていた呼吸が、少しだけ深くなる。額に浮いていた汗が引き、荒かった脈がわずかに落ち着いた。
ニナは目を瞬かせた。
「……あれ」
ミラが息を呑む。
「ニナ?」
「くるしく、ない……」
倉庫の外で、誰かが声を上げた。
「見たか」
「やっぱり効くんだ」
「子どもの熱が下がったぞ」
「神が娘を救ったんだ」
「父親は死んでも、娘を助けたんだ」
ざわめきが、一気に膨れ上がった。
神官のひとりが、涙ぐんだように手を組んだ。
「ネクタ=ロアの慈悲だ……死者の命が、子へ返ったのだ」
商人たちの目が変わった。
老婆の咳が止まった。
少年の傷が癒えた。
そして今、死者の娘の熱が下がった。
証拠は三つになった。
三つあれば、人は奇跡と呼び始める。
リオは、ニナの手を取ったまま、険しい顔をしていた。
確かに熱は下がっている。
呼吸も楽になっている。
痛みも和らいでいる。
だが、それは治癒ではない。
リオには分かった。
花の香が、ニナの病を治したのではない。彼女の苦痛を、一時的に奪い取っただけだ。
そして、その代わりに。
リオはゆっくりと、カルムの胸元を見た。
白い花の一枚が、わずかに透けるように薄くなっていた。赤い蔓の色も、ほんの少しだけ淡くなっている。
死者の身体に残された何かが、削られている。
命か。
記憶か。
祈りか。
あるいは、死者が最後まで抱えていた願いか。
分からない。
けれど、花はただ癒しているのではない。
与えている。
カルム=レイダに残ったものを、周囲へ分け与えている。
リオの口元が強く結ばれた。
「離れてください」
彼は言った。
歓声の中で、その声は届きにくかった。
「ニナを花から離してください」
ミラは娘を抱きしめたまま、戸惑った顔でリオを見た。
「でも、この子が……楽になったんです」
「一時的にです」
「それでも!」
ミラの声が鋭くなった。
「この子は、三月も苦しんでいたんです。夜も眠れなくて、息をするだけで泣いて……薬は高くて、カルムはずっと働いて……その花で、この子が少しでも楽になるなら」
言葉の先を、彼女は飲み込んだ。
それが、夫の遺体から咲いた花であっても。
その事実を、彼女はまだ口にできなかった。
周囲の人々は、勝手に意味を与え始めていた。
「父親の愛だ」
「死んでも娘を救っている」
「花を摘んで煎じれば、もっと効くんじゃないか」
「いや、神殿で祈れば薬効が増す」
「検疫所が独占する前に、せめて一輪――」
「誰も触らないでください」
リオの声が、今度ははっきりと怒りを帯びた。
人々が静まる。
彼は立ち上がった。
「これは薬草ではありません。売り物でも、聖遺物でもない。カルム=レイダの身体です」
「だが、娘を救った」
神官が言った。
「死者が子を救うことを、なぜ止める」
「彼が望んだかどうか、誰が聞いたんですか」
リオの問いに、神官は黙った。
「死者だから、何をしてもいいのですか。花が咲いたから、その人はもう人ではないのですか」
倉庫の中が静まり返った。
その沈黙の中で、ニナが小さく咳をした。
先ほどより楽そうだった。
だが、完全に治ったわけではない。
リオはそれを見て、胸の奥が重く沈むのを感じた。
この母親を責められるのか。
病の娘を抱え、夫を失い、その夫の身体から咲いた花が娘を救うかもしれないと知った母親を。
責められるはずがなかった。
だが、止めなければならない。
人は希望を見つけると、それが何を削って燃えているのかを見なくなる。
そのとき、マヤが倉庫の入口で小さく震えた。
彼女はニナを見ていた。
それから、カルムの胸の花を見た。
そして、自分の胸元を押さえる。
花の徴が、またかすかに疼いた。
マヤには分かる気がした。
ニナは父の花を欲しがっているのではない。
父に、まだそばにいてほしいのだ。
ミラも、薬が欲しいだけではない。
夫の死に、意味があってほしいのだ。
死んだことが、ただの無駄ではなかったと。
苦しんで働いたことが、娘のためになったのだと。
そう信じなければ、立っていられないのだ。
リオが何か言おうとした、その前に。
ニナが母親の腕から、かすかに身を乗り出した。
「お父さん……」
その声に、誰もが動きを止めた。
ニナは泣いていた。
熱が下がったせいか、目の焦点が少し戻っている。だからこそ、父の姿が見えてしまったのだろう。
動かない父。
胸から花を咲かせた父。
周囲の大人たちが、薬だ、祝福だ、価値だと騒いでいる父。
ニナは震える手を伸ばした。
だが、花には届かない。
リオは、その手を止めなかった。
ニナは、泣きながら言った。
「お父さんの花を、取らないで」
誰も、すぐには声を出せなかった。
倉庫の外のざわめきも、遠ざかったように静まった。
商人の目から、計算の色が消えた。
神官は祈りの言葉を忘れたように口を閉じた。
検疫官は縄を握ったまま、顔を伏せた。
カルムの同僚たちは、唇を噛んでいた。
白い花は、まだ甘く香っている。
それは確かに、誰かを救うかもしれない。
誰かの痛みを和らげるかもしれない。
誰かの熱を下げるかもしれない。
けれど、その花は、まず誰かの父だった。
リオは静かに目を閉じた。
事件は、もう怪異ではなかった。
薬効のある奇病でも、神の祝福でも、珍しい聖遺物でもない。
そこには、死んだ父と、残された娘がいた。
そして、救いという言葉が、どれほど簡単に人を傷つけるかを、リオは知っていた。
彼は膝をつき、ニナの目線に合わせた。
「取らせない」
ニナが、涙に濡れた目で彼を見る。
リオは続けた。
「少なくとも、君の知らないところで、誰かに勝手に持っていかせたりはしない」
それは、治すという約束ではなかった。
父を戻すという約束でもなかった。
娘の病を癒すという約束でもなかった。
けれどニナは、小さく頷いた。
その頷きが、リオにはひどく重かった。
倉庫の奥で、カルムの胸に咲いた白い花が、朝の光を受けて静かに揺れていた。




