第一節 ― 花咲く倉庫
ラウ=マリカの朝は、海より先に市場が目を覚ます。
夜明けの薄青い空を背に、沖から戻った巨大帆船がゆっくりと港へ滑り込んでいた。何枚もの帆が湿った風を孕み、林のように並んだ帆柱の間では船乗りたちの怒鳴り声が飛び交っている。桟橋へ投げられた太い係留縄が濡れた板を叩くたび、海鳥が迷惑そうに鳴いて飛び立った。
潮風は生ぬるかった。夜の雨を吸った石畳から湿気が立ち、そこへ魚の血、海獣油、香辛料、汗、濡れた木材の匂いが幾重にも重なる。
「そっちの樽は立てろ! 寝かせたら油が漏れるぞ!」
「昨日から漏れてる!」
「だったら先に言え!」
「今言った!」
荷揚げ人夫たちが声を張り上げ、その横を真珠商が大事そうに小箱を抱えてすり抜けていく。露店には乳白色の真珠が朝露のように並び、珊瑚細工の腕輪が赤や桃色の影を落としていた。
香辛料売りが布袋の口を開けば、赤い粉の刺激が風に乗る。近くを通った若い船乗りが派手なくしゃみをして、店主から「買わないなら吸うな」と追い払われた。
別の天幕には、色とりどりの祈祷布が吊るされている。潮除け、旅の無事、豊漁、帰港、海獣避け。効能を書いた札よりも布の数の方が多く、何に効くのか分からないものまで堂々と売られていた。
そして、ラウ=マリカで売られるのは、形のあるものばかりではない。
「三日前、南西で島を見た船がある」
市場の端で、海図売りの老人が声を潜めた。
広げた羊皮紙には、海岸線と潮流、それから幾つもの島が描き込まれている。その外側、何もない海の上を、老人は節くれだった指で叩いた。
「この辺りだ」
客の男が眉を寄せた。
「何も描いてないぞ」
「まだ誰も描いてないから高いんだ」
「場所も分からない島に金を払えって?」
「場所が分かった頃には、みんな知ってる。そしたら安い」
「見たって船は?」
「その話は別料金」
「島より先に俺の財布が沈むな」
「じゃあ昨日沈んだ船の場所なら安くするぞ」
「そういう情報はいらん」
老人は肩をすくめ、もう次の客を探していた。
少し離れたところでは、沈没船から引き上げられたという青銅片の真贋を巡って二人の商人が揉めている。その隣では、黒帆海域で見た巨大な海獣の話に値がつき、そのさらに隣では、昨夜入港した船がどこの島から何を積んできたのかという噂が売られていた。
品物は一度売れば手元からなくなる。
だが噂は違う。
一つの話を十人に売れる。十一人目には少し尾ひれをつければいい。それが十二人目に渡る頃には、元の船乗りでさえ知らない島に宝箱が埋まっていることになっている。
そんな港だった。
誰かの知らないことに値がつき、誰かが隠したことにはもっと高い値がつく。
朝市の最初の銅鐘が鳴ろうとしていた。
そのときだった。
悲鳴が上がった。
魚売りの声でも、荷役の怒号でもない。港の喧騒に慣れた者ほど、すぐにそれが異質な音だと分かった。
北側の古い潮倉庫からだった。
一度目の悲鳴に、近くの者が振り返る。
二度目には、荷を運んでいた人夫が足を止めた。
三度目は、はっきりと言葉になった。
「人が咲いてる!」
市場の空気が、一瞬だけ止まった。
「……何だって?」
誰かが聞き返した。
返事の代わりに、倉庫から一人の若い人夫が転がるように飛び出してきた。顔から血の気が失せている。濡れた石畳に足を取られ、膝をつきながら、それでも背後を指差した。
「カルムが……カルムから、花が……!」
それで十分だった。
恐る恐る近づく者と、何も考えず走り出す者がほとんど同時に動いた。店番を放り出すわけにいかない商人まで、首だけは倉庫の方へ伸ばしている。
「行くな、馬鹿!」
「お前も来てるだろ!」
「俺は止めに来たんだ!」
「誰をだよ!」
そんな声も、倉庫へ近づくにつれて消えていった。
古い潮倉庫は、現役の荷蔵から少し離れた場所にある。潮と雨に晒された壁板は黒ずみ、屋根の一部には補修した跡があった。中には古い帆布や使われなくなった荷縄、割れた木箱が押し込まれ、朝でも薄暗い。
入り口に集まった人々が、中へ踏み込もうとしない。
その理由は、すぐに分かった。
甘い匂いがした。
蜜とは違う。
香油とも違う。
熟れきった果実を割ったときのような濃密な甘さの奥に、濡れた土を掘り返したような匂いが混じっている。それは不快ではなかった。むしろ思わずもう一度吸い込みたくなるほど、柔らかく鼻腔へまとわりついた。
だからこそ、誰もすぐには息を深く吸おうとしなかった。
倉庫の奥、崩れた屋根から差し込む朝の光の下に、男が横たわっている。
カルム=レイダ。
ラウ=マリカで荷揚げをしていれば、顔くらいは知っている者が多い男だった。大柄で、日に焼けた腕を持ち、黙々と重い荷を運ぶ。昨夜、港で倒れ、そのまま死亡した。
そのことを知る人夫の一人が、青ざめた顔で呟いた。
「俺、見たんだぞ……」
隣の男が目を向ける。
「何を」
「昨夜だ。こいつの目を閉じた。息もしてなかった。検疫所の奴も確認した。カルムは、死んだんだ」
誰も否定しなかった。
床に横たわるカルムもまた、否定しない。
胸は上下していない。半ば開いた唇から呼吸は漏れず、日に焼けた手は力なく床に置かれている。
死んでいる。
異様なのは、その胸だった。
粗末な仕事着の襟元から、赤いものが這い出している。
最初は血だと思えた。
だが流れてはいない。
細い根だった。
濃い赤色の根が皮膚の下を這い、胸骨の周囲で幾筋にも分かれている。その一部は布を押し上げて外へ現れ、肋骨を抱くように絡み合っていた。
その赤い根の上に、白い花が咲いている。
ひとつではない。
小さな花がいくつも連なり、その中央で掌ほどの大きな一輪が開いていた。花弁は白く、薄く、朝の光を受けて半ば透けている。中心には淡い金色が差し、花弁の縁にだけ、血を溶かしたようなごく細い赤が滲んでいた。
美しかった。
野原に咲いていれば、誰かが摘んで髪に挿したかもしれない。
けれど、その根元にあるのは土ではない。
死んだ男の胸だった。
「……ネクタ=ロアの花だ」
人垣の奥から、掠れた声がした。
何人かが同時に振り返る。
「腐花神の?」
「南の花葬で咲くっていう……」
「馬鹿言え。ここは墓場じゃないぞ」
「じゃあ、あれは何だよ」
「呪いだ」
「神の花を呪いなんて言うな」
「死体から生えてるんだぞ!」
「だから神の花なんだろう!」
誰も近づこうとはしないくせに、声だけが飛び交った。
奇跡。
呪い。
腐花神の祝福。
疫病の前触れ。
カルム自身について語る声は、少しずつ減っていった。
そのとき、人垣の横で、ひどい咳が続いた。
「ごほっ……げほっ……」
年老いた女だった。
魚油の小瓶を抱え、背を丸めている。港ではよく見かける老婆で、季節を問わず胸の奥で何かが鳴るような咳をしていた。
「婆さん、外へ出た方がいい」
誰かが肩に手を掛ける。
「分かってるよ……げほっ、こんなもの、見に来るんじゃ……」
言いながら、老婆はもう一度咳き込んだ。
その拍子に、大きく息を吸った。
甘い花の香りが、肺へ入る。
老婆の身体が止まった。
周囲の者が身構える。
「おい?」
老婆は胸に手を当てたまま、何度か浅く呼吸した。それから怪訝そうに眉を寄せ、もう一度、今度は意識して息を吸う。
「……あれ」
「どうした?」
「楽だ」
「何が」
「胸が……」
老婆自身が一番信じられない顔をしていた。
完全に咳が消えたわけではない。それでも先ほどまで喉を引き裂くように続いていた発作は収まり、呼吸のたびに鳴っていた苦しげな音も、ずっと小さくなっていた。
人々の視線が、老婆から花へ戻る。
空気が変わった。
今までの恐怖とは、別のものが混じった。
「まさか……」
誰かが呟いた。
その言葉を確かめるように、今度は一人の少年が前へ出た。
「待て!」
大人に肩を掴まれたが、少年は興奮した様子で自分の腕を示した。荷運びの手伝いでもしていたのだろう。右腕には布が巻かれ、その下が赤く腫れている。
「昨日、樽を落としてからずっと痛いんだ」
「だからって近づくな」
「婆ちゃん、楽になったじゃん」
「婆ちゃん言うな!」
老婆がすぐに言い返したので、少年の足が一瞬止まった。
だが、花の香りは倉庫の入り口にまで届いている。
少年は恐る恐る鼻から息を吸った。
しばらく何も起こらない。
「ほら見ろ。帰るぞ」
肩を掴んでいた男が引こうとしたところで、少年が腕を振った。
一度。
二度。
今度は大きく回してみる。
「……痛くない」
「何?」
「いや、まだちょっと痛い。でも、さっきより全然――」
少年は自分の腕を見つめた。
腫れそのものは残っている。
傷が消えたわけでもない。
それでも、顔をしかめず腕を動かせる程度には痛みが引いていた。
倉庫の中が、しんと静まった。
その沈黙は長く続かなかった。
「薬になるのか?」
誰かが言った。
「花の香だろ」
「香だけであれなら、煎じたらもっと効くんじゃないか」
「馬鹿、死体から生えた花だぞ」
「死体だから何だ。薬草だって土から生える」
「ネクタ=ロアの祝福だ!」
「だったら神殿へ知らせろ!」
「先に検疫所だ!」
声が重なる。
カルムの胸を見つめる目が、急速に変わっていった。
恐ろしいものを見る目だった。
次には、神聖なものを見る目になった。
そして、その次には。
値のつくものを見る目になった。
市場で真珠の質を見分ける目。
珊瑚の重さを測る目。
海図の空白に幾ら払えるかを考える目。
つい先ほどまで死者に向けられていた視線が、今は一輪一輪の大きさを数えている。
腰から小さな秤を提げた商人が、ゆっくりと人垣の前へ出た。
「もし本当に鎮痛の効き目があるなら……」
誰も答えない。
商人はカルムの胸を見たまま、さらに半歩進んだ。
「一輪だけなら――」
「何だって?」
低い声が響いた。
カルムと同じ荷揚げ場で働いていた男が、商人の前へ立った。潮と汗で汚れた腕が震えている。
「今、何て言った」
「いや、私はただ、効能を確かめるなら――」
「誰から取る気だ」
「だから、花を」
「カルムからだろ」
商人が黙った。
人夫は一歩も退かなかった。
「こいつ、昨日まで俺の隣で荷物運んでたんだぞ」
「分かっている。だが病人を救える可能性が――」
「分かってねえから、そんな顔で花を数えてんだろうが」
商人の視線がようやく、花からカルムの顔へ移った。
それでも、もう遅かった。
周囲でも小声が交わされている。
一輪なら。
少しだけなら。
死者なのだから。
人を救えるのなら。
朝市の鐘はまだ鳴っていない。
それなのに、ラウ=マリカではもう、カルム=レイダに値段がつき始めていた。
港湾労働者だった男が死体になり、死体が奇跡になり、奇跡が薬へ変わる。
そして薬は、商品になる。
誰もまだ花に触れてはいなかった。
ただ、その一歩手前まで来ていた。
倉庫の奥で、甘い香りがわずかに濃くなる。
吊るされた古い帆布は動いていない。入り口の祈祷布も垂れたままだった。外では帆が風を孕んでいても、この倉庫の奥までは風が届いていない。
それなのに。
カルム=レイダの胸に咲いた白い花だけが、ゆっくりと揺れた。
開いて。
戻って。
また、開く。
まるで、死者の代わりに呼吸しているように。




