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第二節 ― 聖獣医師リオ=サルヴァ

 港の鐘が二度目を鳴らすころ、古い潮倉庫の前には、人垣ができていた。


 朝市は、もう始まっているはずだった。


 けれど、魚を売る女たちは籠を足元に置いたまま、香辛料商人は封を切った袋を抱えたまま、荷揚げ人夫たちは縄を肩にかけたまま、誰も持ち場へ戻ろうとしなかった。


 彼らの目は、倉庫の奥に向けられている。


 死んだ男の胸に咲いた白い花。


 その花が、咳を止めた。

 その花が、傷の痛みを和らげた。

 その花が、死を恐れていた人々の心に、恐怖とは別のものを灯してしまった。


 希望。


 そう呼ぶには、あまりに甘く、あまりに腐りやすいものだった。


「下がれ、下がれ! 検疫所の指示が出るまで近づくな!」


 港の検疫官たちが、倉庫の入口に縄を張った。


 彼らは布で口元を覆い、薬草を詰めた小袋を首から下げていた。疫病を疑っているのだろう。だが、その目は遺体ではなく花に向いている。


 港神殿の神官も数人来ていた。


 彼らは手早く祭具を広げ、白い花に向かって祈祷文を唱え始めている。死者のためというより、神意を確かめるための祈りだった。


 さらに、その後ろには商人たちがいた。


 彼らは声を潜めていたが、視線だけは隠せなかった。秤を持つ者。小瓶を持つ者。薬材商の印章をつけた者。誰もが花の値を、すでに頭の中で数えている。


「触るなと言っている!」


 検疫官のひとりが怒鳴った。


「触らんさ。ただ、見るだけだ」


「見るだけで済む顔ではないだろう」


「咳が止まったんだぞ。疫病なら、なぜ癒える」


「神の祝福だからだ」


 神官が、そこで声を上げた。


「ネクタ=ロアの御手が、この死者に触れたのだ。死は終わりではなく、命への返還である。この花は、その証であろう」


「証なら、神殿で保護すべきだな」


 商人が笑った。


「保護とは、保管するという意味か? それとも売らぬよう隠すという意味か?」


「不敬な」


「不敬でも、薬になるなら人は欲しがる」


 検疫官、神官、商人。


 誰もが、それぞれの言葉で花を囲んでいた。


 その中心に、カルム=レイダの遺体があった。


 死者は、何も言わない。


 その沈黙を埋めるように、人々は花の意味を奪い合っていた。


 そのとき、人垣の後方から、低い声がした。


「道を開けてください」


 騒ぎの中でも、不思議とよく通る声だった。


 強くはない。怒鳴ってもいない。だが、港の喧騒に削られない、静かな芯があった。


 人々が振り返る。


 そこに立っていたのは、若い男だった。


 黒に近い褐色の髪を後ろでゆるく束ね、旅塵にくすんだ白い外衣をまとっている。衣の裾には、草汁と泥と乾いた血の痕が残っていた。肩からは革鞄を下げ、腰には小瓶や骨針を収めた細い筒がいくつも吊られている。


 顔立ちは穏やかというより、疲れて見えた。

 だが、金茶の瞳だけが、港の誰よりも落ち着いていた。


 左腕には、手首から肘にかけて白い包帯が巻かれている。


 包帯の下に何があるのか、知る者は少ない。


「リオ=サルヴァ」


 検疫官のひとりが、安堵とも困惑ともつかない声で言った。


「来てくれたか」


「呼ばれましたから」


 リオは短く答え、人垣の向こうを見た。


 倉庫の奥。

 死者。

 白い花。

 赤い蔓。

 そして、その花だけを見ている人々。


 リオの表情が、ほんの少しだけ硬くなった。


「状況は?」


「前夜に死亡確認された荷揚げ人夫だ。名はカルム=レイダ。検疫所の見習いが脈を取り、神官が死者祈祷を済ませている。ところが今朝、遺体安置所からではなく、この倉庫で発見された。胸から花が咲いている。香りを吸った者に、一時的な鎮痛と咳止めの反応が出た」


「遺体を動かした者は?」


「不明だ。夜番は誰も見ていないと言っている」


「花に触れた者は?」


 検疫官は口ごもった。


 リオは、その沈黙だけで十分だと判断した。


「全員、あとで診ます」


「それより、花を――」


 商人のひとりが身を乗り出した。


「この花が何なのか、まず調べてくれ。薬効があるなら、港中の病人が救われるかもしれん」


「神殿としても、祝福かどうかの判定が必要だ」


 神官が続ける。


「花弁の形、香の性質、開花位置――どれも古い腐花信仰の記述に近い。もし本当にネクタ=ロアの顕現であるなら、早急に祭壇へ移すべきだ」


「祭壇に移す前に、薬材としての価値を――」


「黙れ」


 カルムの同僚が低く唸った。


 場の空気が荒れかけた。


 リオは、そこで一歩前へ出た。


 彼は誰も睨まなかった。

 誰も責めなかった。

 ただ、静かに言った。


「花を見る前に、この人を見てください」


 その声は、倉庫の中のざわめきを切った。


 神官が祈祷文を止めた。

 商人が口を閉じた。

 検疫官たちも、縄を握る手を緩めた。


 リオは膝をつき、カルム=レイダの顔のそばに屈んだ。


 死者の額に、指先をそっと置く。


 その仕草は、花を見る者のものではなかった。


 遺体を診る者の手つきだった。


「……冷えきっていない」


 リオは呟いた。


 検疫官が眉をひそめる。


「死後時間から考えると、あり得ないか」


「あり得ない、というほどではありません。南方の湿度、倉庫内の温度、遺体の置かれた状態によって差は出ます。ただ――」


 リオはカルムの手を取り、指をゆっくり曲げた。


「死後硬直が弱すぎる」


 カルムの指は、硬く固まっていなかった。まるで眠っている者の手のように、わずかな抵抗を残しながら曲がる。


 リオは次に、首筋へ触れた。

 脈はない。


 だが、皮膚の奥に、かすかな温みがあった。


「生きているのか?」


 誰かが囁いた。


「いいえ」


 リオは即座に答えた。


「心臓は止まっています。呼吸もない。カルム=レイダは死亡しています」


 その断言に、カルムの同僚たちの顔が沈んだ。


 けれど、リオは続けた。


「ただし、身体の一部が、死後も別の律動で動いています」


 彼は鞄を開けた。


 中から取り出したのは、銀でも鉄でもない、骨色の細い診針だった。先端には小さな樹脂の珠がついている。次に、褐色の液体が入った小瓶を取り出し、針先へ一滴落とす。


 薬草の匂いが、花蜜の甘さにわずかに混じった。


 リオはカルムの胸元へ視線を落とした。


 白い花は、朝よりも少し開いていた。

 赤い蔓は、皮膚を突き破っているのではない。皮膚の下に浮かび上がり、ところどころで表面へ細い筋を出している。


 リオは蔓の周辺に触れた。


 そこに傷口はなかった。


「外から植えられたものではありません」


「では、どうやって咲いた」


 神官が身を乗り出す。


「内側から発芽しています」


 倉庫の中が、ざわりと揺れた。


「人の中から、花が?」


「心臓周辺から根を張っています。血管に似ていますが、血管ではない。根です。赤いのは血を吸っているからではなく、血の流れを模倣している」


 リオは診針を花の茎の近くにかざした。


 樹脂の珠が、淡く赤く濁る。


「神格反応があります」


 検疫官の顔が強張った。


「疫病ではないのか」


「通常の疫病ではありません。少なくとも、人から人へ単純にうつる類ではない。病原というより、祝福の誤作動に近い」


「祝福?」


 商人が思わず声を上げた。


「なら、やはり薬に――」


「祝福という言葉を、都合よく使わないでください」


 リオの声が、初めて少しだけ冷たくなった。


 商人は口をつぐんだ。


 リオは花に顔を近づけた。

 香りを吸いすぎないよう、布で口元を覆いながら、慎重に息を入れる。


 甘い。


 腐敗臭はない。

 膿の臭いもない。

 死肉が湿気に負けて崩れる臭いもない。


 あるのは、花蜜に似た濃い香り。熟れすぎた果実、熱を持った樹液、雨上がりの密林の奥で開く名もない花。


 命の匂いだった。


 死者の胸から、命の匂いがしている。


 リオの眉間に、深い皺が寄った。


「腐敗を止めているのか……いや、腐敗そのものを花へ変換している」


「どういう意味だ」


 検疫官が問う。


「死体が腐る過程を、開花の構文に置き換えている。死肉を分解するのではなく、花を咲かせるための基盤にしているんです。ネクタ=ロア系の花葬構文に似ている。ただし、これは自然な花葬ではありません」


 神官の顔色が変わった。


「似ている、とはどういうことだ。神の花ではないのか」


「神の反応はあります。けれど、神の祈りが正しい流れで働いていない」


 リオは、カルムの胸元から視線を上げた。


「この人は、葬られていません。咲かされている」


 その言葉は、倉庫の湿った床に重く落ちた。


 誰もすぐには答えなかった。


 それまで花を欲しがっていた者たちの顔にも、初めて別の色が浮かぶ。恐怖でもなく、欲でもなく、何かを見誤っていたと気づく直前の戸惑いだった。


 そのとき、リオの後ろで、小さな息を呑む音がした。


 彼は振り返った。


 倉庫の入口に、少女が立っていた。


 歳は十三か、十四ほどに見える。南方の陽を受けた肌は薄く褐色で、髪は夜明け前の木陰のように深い色をしている。旅用の薄布を肩にまとい、胸元には古い祈り紐を巻いていた。


 マヤ=ルクナ。


 彼女は、人垣の後ろにいたはずだった。

 けれど今は、倉庫の入口まで近づいている。


「マヤ」


 リオが名を呼ぶと、少女ははっとしたように顔を上げた。


 その顔は、青ざめていた。


「近づきすぎないで」


「……うん」


 答えながらも、マヤの視線はカルムの胸から離れなかった。


 白い花。


 赤い蔓。


 甘い香り。


 それらを見つめる彼女の指先が、小さく震えている。


 次の瞬間、マヤは自分の胸元を押さえた。


 薄布の下。

 鎖骨の少し下。

 そこにあるはずの、花弁に似た徴。


 リオはすぐに気づいた。


「痛むのか」


 マヤは首を振ろうとして、できなかった。


「痛いんじゃない」


「では?」


「……起きてる」


 その言葉に、リオの表情が変わる。


 マヤの胸元の徴は、普段は淡い痣のように眠っている。白い花弁を薄く皮膚に写したような、死なない供物の名残。


 だが今、その徴が布の下でわずかに熱を持っていた。


 マヤはゆっくりと、カルムの遺体へ視線を戻した。


 花の香が、倉庫の中で濃くなる。


 カルムの胸の白い花が、一度だけ、呼吸のように震えた。


 マヤの唇が、かすかに動いた。


「この人……」


 リオは何も言わず、彼女の言葉を待った。


 少女の瞳は、花を見ていなかった。

 死者も見ていなかった。

 もっと奥にある、目に見えない何かを見ているようだった。


 やがて、マヤは小さく言った。


「この人、まだ終わってない」


 倉庫の中にいた者たちは、その意味を理解できなかった。


 だがリオだけは、顔を伏せた。


 死んでいる。

 けれど終わっていない。


 サルバティアでは、そういう命がある。


 だからこそ、ここでは医師が必要になる。

 神官でも、商人でも、検疫官でもなく。


 命がどこで終わり、どこから別のものへ変わるのか。

 その境界に膝をつき、手を汚し、それでも人を見る者が。


 リオは静かに立ち上がった。


「検疫官。倉庫を封鎖してください。花に触れた者、香を吸った者、全員を記録。神官は祈祷を止めてください。今は祝福の判定をする段階ではありません」


「だが――」


「商人は外へ」


 リオの声に、商人たちが反発しかけた。


 だが彼の左腕の包帯が、わずかに軋んだ。


 白い布の下で、何かが爪を立てたような音がした。


 マヤだけが、その音に気づいた。


 リオは続けた。


「これは疫病ではない。けれど、放置すれば港全体が巻き込まれます」


「何が始まっているんだ」


 検疫官が問う。


 リオは、カルムの胸に咲いた花を見た。


 美しい花だった。


 あまりにも美しく、あまりにも残酷だった。


「葬送です」


 彼は低く答えた。


「ただし、生者のいる港で、死者の葬送が誤って芽吹いている」

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