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第一節 ― 花咲く倉庫

 死は、終わりではない。


 南方大陸サルバティアでは、そう語る者がいる。


 老いた神官は、それを慰めとして口にする。

 花葬師は、それを祈りとして唱える。

 貧しい母親は、病に伏した子の枕元で、泣きながら縋るように呟く。


 けれど、港に生きる者たちは知っていた。


 終わらないものは、必ずしも救いではない。


 ラウ=マリカの朝は、いつも匂いから始まる。


 東の空がまだ薄桃色に濡れているうちから、港には人の声が満ちていた。石畳には夜の潮が残り、荷車の車輪が濡れた跡を引いていく。桟橋では、干し魚の籠を抱えた女たちが怒鳴り合い、商人たちは香辛料袋の封を切って、今日最初の客に匂いを嗅がせていた。


 胡椒。

 乾いた月桂葉。

 砕いた赤根香。

 獣脂を煮詰めた油。

 魚の血。

 濡れた木箱。

 潮に晒された縄。

 そして、出航前の船乗りたちが胸元に結ぶ、色褪せた祈祷布の匂い。


 すべてが混ざり合い、ラウ=マリカという港町の朝をつくっていた。


 この街では、物だけが売られるわけではない。


 南方の密林で採れた薬草。

 珊瑚の欠片。

 聖獣の角と称する白い骨。

 沈没船から引き上げられた青銅の皿。

 海賊が隠した入り江の噂。

 まだ海図に記されていない島の方角。

 そして、誰かが神に捧げたはずの名残。


 ラウ=マリカは、潮商人の港だった。


 潮が運ぶものは、正しいものばかりではない。

 だから人々は、朝の市場で笑い、値切り、騙し、祈り、そして時々、見てはならないものを見る。


 その悲鳴が上がったのは、朝市の最初の銅鐘が鳴る直前だった。


 港の北端、古い潮倉庫の方角だった。


 最初に振り返ったのは、荷揚げ人夫たちだった。次に、魚籠を抱えた女たちが足を止める。香辛料商人が、封を切ったばかりの袋を落とした。赤い粉が石畳にこぼれ、潮に濡れて黒くにじむ。


 悲鳴は一度で終わらなかった。


 二度目は短く、喉を潰したような音だった。

 三度目は、言葉になっていた。


「人が――人が咲いてる!」


 その言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。


 だが、ラウ=マリカの人間は、異変に近づくのが早い。恐怖よりも先に好奇心が動く。好奇心よりも先に、儲け話の匂いを嗅ぐ者もいる。


 港の人々は、古い潮倉庫へと流れ込んだ。


 倉庫は、かつて潮神へ捧げる貢物を保管していた建物だという。今では使われなくなった網、壊れた樽、湿った帆布、虫に食われた祈祷木箱が積まれているだけの場所だった。屋根の一部は落ち、朝の光が細い筋になって差し込んでいる。


 その光の下に、男が横たわっていた。


 カルム=レイダ。


 港の荷揚げ人夫なら、誰でもその名を知っていた。大柄で、寡黙で、背中に古傷があり、病弱な娘のために誰よりも長く働く男だった。


 彼は、前夜に死んだはずだった。


 嵐で遅れた船荷を夜半まで運び、最後の木箱を下ろしたあと、胸を押さえて倒れた。検疫所の見習いが呼ばれ、港の神官が祈り、同僚たちが彼の目を閉じた。


 死んだ。


 誰もがそう見届けた。


 なのに、カルム=レイダは、古い潮倉庫の床に横たわっていた。


 遺体は腐っていなかった。


 むしろ、眠っているように見えた。頬にはかすかな血色が残り、額には夜明けの湿気が玉のようについている。口元は苦しみに歪んでおらず、硬く閉じられている。


 ただ、胸元だけが異様だった。


 胸は裂けていない。

 皮膚が割れているわけでもない。

 肋骨が露出しているわけでもない。


 けれど、白いシャツの下で、何かが内側から膨らんでいた。


 誰かが震える手で布をめくった。


 その瞬間、倉庫の中に甘い香りが満ちた。


 花だった。


 カルムの胸、肋骨の間に沿うように、細い赤い蔓が伸びていた。血管にも、根にも見える。蔓は皮膚の下から浮かび上がり、心臓のあたりで絡まり、そこから白い花を咲かせている。


 花弁は薄く、朝露を含んだように透けていた。

 中心だけが淡い金色で、縁にはほんのわずかに赤が差している。


 誰かが後ずさった。


 誰かが祈りの印を切った。


 誰かが、呆けた声で言った。


「……ネクタ=ロアの花だ」


 その名を聞いた瞬間、倉庫の空気が変わった。


 腐花神。

 骸に咲く者。

 死を土へ返す神。


 ラウ=マリカの人々は、その名を知っている。心から信じている者は少なくとも、港には古い神の噂が流れ着く。南の密林では、死者の体に花が咲くという。花が枯れたとき、その者は次の命へ還るという。


 けれど、それは遠い集落の話だった。

 古い花葬師の歌の中の話だった。

 朝市の鐘が鳴る港町で、前夜に死んだ男の胸から咲くものではなかった。


 倉庫の入口で、老いた女が咳き込んだ。


 彼女は毎朝、魚油を買いに来る老婆だった。冬でもないのに、いつも胸を鳴らして咳をしている。誰もが、長くないだろうと思っていた。


 その老婆が、花の香を吸った。


 一度、深く咳をした。

 次に、喉を押さえた。

 そして、咳が止まった。


 老婆は自分の胸に手を当て、目を見開いた。


「……痛く、ない」


 誰も動かなかった。


 倉庫の隅にいた少年が、恐る恐る前へ出た。荷運びの手伝いをしている子どもだった。昨日、縄で擦ったのか、右手の甲が赤く腫れ、皮が剥けていた。


 少年は花に近づき、香りを吸った。


 眉を寄せていた顔が、少しずつ緩む。

 彼は自分の手を見た。


 血は止まっていた。

 腫れも、わずかに引いている。


「すげえ……」


 その一言が、倉庫の沈黙を破った。


 ざわめきが広がった。


「薬になるのか」

「いや、待て、死体だぞ」

「神の花だ」

「触るな、祟られる」

「咳が止まったじゃないか」

「カルムは死んだんだろう?」

「死んで、咲いたんだ」

「じゃあ、これは祝福だ」


 恐怖は、すぐに歓喜と混ざった。


 歓喜は、すぐに欲と混ざった。


 倉庫の中にいる者たちの目が、カルムの顔から、胸に咲いた花へ移っていく。誰かの父だった男。誰かの夫だった男。夜通し港で働き、最後に倒れた男。


 だが今、彼は人ではなく、花を咲かせるものとして見られ始めていた。


 ひとりの商人が、半歩だけ前へ出た。


 彼の指には、南方真珠の指輪がいくつも嵌まっていた。腰には小さな秤が下がっている。彼は声を潜めたつもりだったのだろうが、倉庫の湿った空気の中ではよく響いた。


「一輪だけでも、採れれば……」


 その言葉に、カルムの同僚が振り返った。


「採る?」


 声が低かった。


「お前、今、カルムから何を採るって言った」


 商人は口をつぐんだ。だが、周囲の何人かは、すでに同じことを考えていた。


 この花は咳を止める。

 痛みを和らげる。

 傷を塞ぐ。


 ならば、値がつく。

 命よりも高い値がつく。


 倉庫の奥で、吊るされた古い祈祷布が揺れた。


 風はなかった。


 花の香りだけが濃くなっていく。甘く、重く、喉の奥に絡みつくような匂いだった。腐臭ではない。死の匂いではない。むしろ、春の密林で熟れすぎた果実が割れたときのような、命が過剰に満ちた匂い。


 だからこそ、不気味だった。


 死が、こんなにも甘いはずがなかった。


 カルムの胸の花が、朝の光を受けてかすかに開いた。


 そのとき、彼の唇が動いたように見えた。


 誰かが悲鳴を上げる。


 人々は一斉に後ずさった。だがカルムは起き上がらない。目も開けない。ただ、胸の花だけが、ゆっくりと呼吸するように揺れていた。


 港の鐘が鳴った。


 朝市の始まりを告げる、いつもの銅鐘だった。けれど、その音はどこか遠く、薄く聞こえた。まるで倉庫の中だけが、港の朝から切り離されてしまったかのようだった。


 老婆が、震える声で祈りを唱えた。


 少年が、自分の治った手を握りしめた。


 商人が、花から目を離さなかった。


 カルムの同僚たちは、彼の顔を見ていた。

 まだ人として。

 まだ仲間として。

 けれど、その目にも迷いが生まれていた。


 これは、死なのか。


 それとも、続いてしまった命なのか。


 誰かが、倉庫の入口で呟いた。


「これは病か? それとも、神の祝福か?」

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