第十一節 ― 眠る聖獣
三つの生命脈をつないでいた光が消えてからも、リオはすぐにはルクナ=サリオから手を離さなかった。
マヤの呼吸が戻り、第二脈が暴れていないことを確かめる。次に白い獣の胸へ左手を当て直し、浅い呼吸と飛びがちな脈をもう一度読む。先ほどまで見えていなかったものまで見えるようになったわけではないが、少なくとも今、この場で何をしてはいけないかは分かった。
黒花をすべて摘むこと。
角を切ること。
胸の古傷を完全に塞ぐこと。
どれも治療らしく見えて、今のルクナには危険だった。
黒花も枝角も、長い時間をかけて受け取ったものを身体の外側へ留めている。見栄えが悪いからと取り除けば、行き場を失った生命圧が内側へ押し戻される可能性がある。胸の傷も同じだった。閉じていないから悪いのではなく、閉じきれないだけのものが、まだ内側に溜まっている。
リオはルクナの胸から手を離し、診療鞄を開いた。
「治せますか」
マヤが訊いた。
「根本は無理だ」
返事を聞いて、近くにいた巡礼者たちの顔が曇る。リオはそれには構わず、薬草の包みをいくつか取り出して匂いを確かめた。
「こいつに入り続けてる負荷の原因を止めない限り、また溜まる。今ここで角を切っても、花を全部落としても、治したことにはならない」
「じゃあ、どうするんです?」
「鎮める」
リオは乾燥させた葉を掌で揉み、別の薬草と合わせて乳鉢へ入れた。
「今夜倒れない程度まで負荷を落とす。呼吸と脈を整えて、少しでも休ませる。その先は、原因が分かってからだ」
言いながら水を加え、石杵で薬草を潰していく。巨大な聖獣を前にして始まった作業は、拍子抜けするほど普通だった。
薬草を刻む。
膏にする。
布を水に浸す。
香を焚く。
マヤはしばらくそれを見てから、思わずルクナを見上げた。
枝角には花が咲き、白金の巨体には赤い根脈が走っている。赤い内海の巨大骨を渡り、罪を背負った巡礼者たちが何日もかけて会いに来る聖獣である。その足元でリオは袖をまくり、膝をついて薬草をすり潰していた。
「……なんだか、すごい光景ですね」
「何が?」
「もう少し神聖なことをするのかと思ってました」
「薬を塗るのは神聖じゃない?」
「そう言われると困りますけど」
「包帯」
「はい」
マヤは診療鞄から巻布を出し、渡しかけて止まった。
「先生」
「なに」
「これ、足ります?」
二人は同時にルクナの胸を見た。
大人が両腕を広げても届かないほどの傷である。
リオは手の中の包帯を見る。
「……足りないね」
「さっきからずっと気づいてませんでした?」
「患者が大きすぎるんだよ」
少し離れたところで、骨渡りの老人が喉を鳴らした。笑ったらしい。
「祠に供物用の白布がある。新しいのなら使えるぞ」
「清潔?」
「毎朝替えてる」
「じゃあ借ります」
「贖罪の聖獣に供えた布を、贖罪の聖獣へ巻くのか」
「一番正しい使い方じゃない?」
老人はしばらくリオを見てから、「違いない」と立ち上がった。
人々の緊張が、ほんの少しだけほどけた。
その間にリオは角の根元へ回った。
黒花が密集している場所ほど、赤い根脈の膨らみが強い。そこへ直接刃を入れるのではなく、花と花の隙間を分け、硬化していない部分を探す。左手で脈の流れを読みながら、右手には細い骨針を持った。
「刺すんですか?」
「浅くね。溜まってるものを一気に抜くと、逆に脈が落ちる。少しずつ圧を逃がす」
ルクナの耳が後ろへ倒れた。
リオはその反応を見て、骨針を止める。
「痛いだろうけど、我慢してくれ」
白い獣が低く唸った。
「先生、たぶん『お前に言われたくない』って顔してます」
「患者の顔を勝手に翻訳しないで」
「先生もわたしにはします」
「君は分かりやすいから」
マヤが反論する前に、リオは骨針を入れた。
黒花の根元から、赤い液が一滴だけ膨らんだ。
血より粘りがあり、樹液より温かい。夕闇の中でも薄く光り、針を伝って受け皿へ落ちると、赤い水面を映したような光が小さく揺れた。
ルクナの前脚に力が入る。
巨大な爪が骨面を掻いたが、立ち上がろうとはしなかった。
リオは一滴、二滴と数えながら、左手で脈を読む。赤根脈の膨らみが少し弱まったところで針を抜き、冷やした布を当てた。
「ここまで」
「もっと抜かないんですか?」
「楽になったからって欲張ると倒す。今の目的は治すことじゃない」
別の角根へ移り、同じ処置を繰り返す。黒花は摘まず、枯れた枝も折らない。目に見える異常を消すのではなく、その異常を抱えた身体が少しでも無理なく動けるところまで整える。
それはマヤがこれまで何度も見てきた、リオの治療だった。
相手が人でも。
獣でも。
神話の中を歩く聖獣でも。
診ると決めた後に、やることは変わらない。
角の処置が終わるころ、骨渡りの老人が白布を抱えて戻ってきた。マヤと二人でそれを広げ、湖水で冷やした布と乾いた布に分ける。
胸の古傷へ移ったリオは、まず縁に固まった赤い生命液だけをぬぐった。傷の奥まで洗おうとはせず、表面の汚れを取り除く。炎症を抑える薬草膏は傷口そのものではなく、熱を持った周囲へ薄く塗った。
「閉じないんですね」
「ああ。ここを塞いだら、逃げてるものまで中へ戻る」
リオは傷の形を指で追った。
「今は傷というより、排出口に近い。広がりすぎるのは止める。でも閉じきらせない」
「傷を治さない治療もあるんですね」
「あるよ。塞ぐことがいつも正しいわけじゃない」
マヤは返事をせず、次の布を広げた。
その言葉を自分のこととして聞いたわけではない。それでも、胸のどこかに残った。
リオは白布を傷の上下へ回し、中央だけを空けるように固定した。巨大な身体へ布を回す作業は思った以上に大変で、途中から骨渡りの老人だけでなくバルまで手を貸した。
「そこ、引きすぎ」
「これくらいか」
「もう少し緩く。呼吸の邪魔になる」
「……分かった」
バルは肩の角痕を庇いながら布を持っている。少し前までルクナへ罪を消してくれと叫んでいた男が、今はその聖獣へ巻く包帯を押さえている。
誰もそのことを口にしなかった。
最後にリオは香炉鈴へ鎮静香を入れた。
火を移すと、細い煙が上がる。薬草の青い匂いに、樹脂の甘さと少しの苦みが混じった。
ルクナが鼻先を近づける。
一度嗅ぎ、露骨に顔をしかめるような動きをした。
「嫌そうです」
「効く薬はだいたい嫌われる」
「先生、その理屈で苦い薬を出してません?」
「苦いから効くとは言ってない」
「今度から味見してください」
「医者に毒見までさせる気?」
鎮静香の煙が白金の毛の間へ流れていく。
しばらくすると、ルクナの呼吸が少しずつ深くなった。胸郭の左右差は残っているものの、先ほどまでの細かな乱れが減っている。角の根元も、赤く強く膨らんでは沈む異常な脈動から、緩やかな波へ変わりつつあった。
リオは再び左手を胸へ当てた。
一拍。
二拍。
三拍。
四拍目が、少し遅れる。
それでも先ほどのように完全には抜けない。
「まだ不整はある。でも、ましになった」
リオが手を離そうとしたときだった。
ルクナの大きな鼻先が、その左腕へ寄ってきた。
「……?」
白い獣は包帯を巻き直していない左腕の匂いを嗅いだ。
白毛。
樹皮のような皮膚。
根に似た光筋。
そこをゆっくり辿るように、一度、二度と息を吸う。
リオの表情が消えた。
マヤは何も言わなかった。
ルクナが何を嗅ぎ取っているのか、マヤには分からない。
ただ、その鼻先が触れそうなほど近づいている左腕を見れば、思い出すものはあった。
救えなかったもの。
救ったつもりで、別の形へ変えてしまったもの。
エラ。
リオが忘れようとしていないからこそ、今も傷のように残しているもの。
ルクナの金色の瞳の奥に、淡い赤い輪が浮かんだ。
リオはしばらく黙っていたが、やがて左腕を差し出したまま口元だけを歪めた。
「……俺のは喰わないのか」
白い獣は鼻先を止めた。
ほんの少し、二人の視線が重なる。
それからルクナ=サリオは、静かに顔を背けた。
「……」
リオは追わなかった。
どういう意味だ、と問いもしない。
ただ、自分の左腕を見下ろし、やがていつもの包帯を巻き始めた。
マヤも理由を訊かなかった。
今はまだ、訊くところではない気がした。
処置がすべて終わるころには、赤い内海の上へ深い夜が降りていた。巡礼者たちは祠の周囲から少しずつ離れ、誰からともなく火を小さく焚いた。祈る者はいたが、先ほどまでのように罪を差し出そうと近づく者はいなかった。
リオはルクナの前脚のそばへ座り、一定の間隔で脈を確かめ続けた。
「先生も休んだ方がいいですよ」
「こいつが寝たらね」
「そういうこと言ってると、二人とも寝ませんよ」
「患者と医者を一緒にしないで」
「寝ないところは同じです」
反論しようとしたリオの前で、ルクナが大きく息を吐いた。
白い頭がゆっくり下がる。
まず前脚が折れ、次に獅子のような胸が骨面へ沈む。最後まで庇っていた後脚も横へ投げ出され、巨体全体がようやく地面へ預けられた。
マヤは思わず声を潜めた。
「……寝る?」
「たぶん」
枝角が地面へ触れないよう、ルクナは頭を少し傾けた。
瞼が閉じる。
呼吸が一つ深くなり、次の息までの間隔が長くなる。
リオは胸へ手を当てたまま数えた。
脈は遅い。
だが、先ほどより揃っている。
もう一度深い呼吸があり、白金の長い毛がゆっくり上下した。
それきり、ルクナは起き上がらなかった。
眠っていた。
何日も罪を食み、骨の海を歩き続け、黒花を角に増やし続けた巨大な聖獣が、ようやくただの生き物のように眠っている。
寝息は意外なほど静かだった。
祈りも奇跡も起きない。
赤い内海の波が頭蓋骨の空洞へ入り、遠くで水鳥が一度だけ鳴いた。閉じていた白花のいくつかが、夜露を受けながらゆっくり花弁を緩めていく。
マヤは眠る巨体をしばらく眺めてから、リオの隣へ座った。
「先生」
「なに」
「聖獣も、寝ると普通ですね」
「普通ではないと思うよ。大きすぎる」
「そういう意味じゃありません」
「分かってる」
リオの声にも、ようやく疲れが混じった。
マヤは診療鞄から残っていた布を取り出し、それを丸めて彼へ差し出す。
「枕」
「いらない」
「じゃあ、わたしが使います」
「自分用だったの?」
「今決めました」
リオは呆れたようにマヤを見たが、何も言わなかった。
夜が明けても、ルクナは眠り続けた。
朝になれば巡礼者たちも少しずつ動き始めたが、誰も起こそうとはしなかった。骨渡りの老人が「こんなに長く横になってるのは久しぶりだ」と呟き、それから自分で口を閉ざした。
リオは何度か診察し、呼吸が崩れていないことを確かめた。完全に治ったわけではない。黒花は残り、胸の傷も開いたまま、脈にもまだ乱れがある。それでも今は、起こして何かをさせるより眠らせておく方がいい。
昼を越え、赤い内海へ再び傾いた陽が差し始めたころ、ルクナ=サリオはようやく目を開けた。
大きく首を伸ばし、身体を起こす。
後脚の引きずりは残っていたが、島へ来たときより歩幅はわずかに揃っていた。胸の赤根脈も、異常に明滅することなく静かな光を保っている。
リオは立ったままそれを見送った。
「無茶するなよ」
誰もが神託を待つような空気の中で、最後まで言うことはそれだった。
ルクナは答えない。
ただ一度だけリオを見て、それからマヤへ金色の瞳を移した。
マヤの第二脈が、小さく一度鳴る。
白い獣はそれ以上近づかず、頭蓋骨島を下りた。
赤い水面の下へ沈む巨大根を踏み、一歩ずつ内海の奥へ戻っていく。夕陽を受けた白金の姿は、やがて肋骨の影へ隠れ、最後には枝角だけが赤い水平線に残った。
それも見えなくなった頃、島へ別の舟が近づいてきた。
骨渡りの老人が目を細める。
「ヴェインのところだな」
マヤも舟を見る。
何人かの施療院の者が乗っていた。白と生成りの衣を纏っているが、武器を持つ者はいない。捕獲具も、巨大な聖獣を眠らせるような道具も見当たらなかった。
先頭に立っていたのは、アマル=ヴェインだった。
岸へ上がると、彼は周囲を一度見渡した。巡礼者にも、バルにも、マヤにも声をかけず、ルクナが消えていった赤い内海へ目を向ける。
それから静かに膝をついた。
形だけの礼には見えなかった。
両手を胸元へ重ね、深く頭を垂れる。自分の理論を証明する珍しい獣を見る研究者の姿ではなく、本当に信仰するものへ敬意を払う司祭そのものだった。
マヤは、そのことが少し意外だった。
アマルはやがて立ち上がり、リオへ歩み寄った。
視線が、地面に残された冷却布と、使い切った薬草の包み、赤い生命液の入った受け皿を順番に通る。
リオが先に言った。
「診た」
「そうですか」
アマルの返事は穏やかだった。
「患者だった」
一瞬だけ間があった。
アマルは眠っていた場所へ目を向け、それからわずかに笑った。
「あなたらしい」
それ以上、二人は言葉を重ねなかった。
治療の是非を争う場でも、救済について議論する場でもない。今ここで起きたことの主役は、リオでもアマルでもなく、傷つき、眠り、もう一度歩き出した白い獣だった。
夕風が島を渡った。
ルクナの巨体が横たわっていた場所で、花が一枚だけ動く。
誰かが摘んだものではない。
枝角から自然に落ちたらしい、小さな花だった。
白い花弁。
縁だけが、薄く黒く枯れている。
アマルが足を止めた。
しゃがみ込み、白手袋を外してから、その花を拾い上げる。
掌の上で、花弁はまだ柔らかかった。
リオはその手元を見たが、何も言わない。マヤも隣から覗き込み、どうしてアマルがそれほど慎重に花を扱うのか考えたが、答えは出なかった。
アマルは白い花を見つめた。
その穏やかな顔に浮かんだものが安堵なのか、それとも別の感情なのか、マヤには読み取れない。
やがて彼は、本当に小さな声で言った。
「これで、もう一人を犠牲にしなくて済む」
マヤは眉を寄せた。
リオも視線を上げる。
だが、アマルは説明しなかった。
白と黒の花を掌へ包み、静かに立ち上がる。
その向こうでは、日が沈み始めた赤い内海が、何も知らないように揺れていた。




