終節 ― 分流、開始
赤い内海を離れる舟は、日が落ちきってから岸を出た。
昼間なら赤く透けて見える水も、夜になるとほとんど黒い。ただ、雲の切れ間から月が覗くたび、水面の奥に沈んだ巨大な骨が淡く浮かび上がった。肋骨の弧をくぐるたびに舟の縁へ水が触れ、狭い船底を低い音が伝っていく。
骨渡りの老人は櫂を操りながら何も喋らなかった。行きとは違い、同乗している巡礼者たちもほとんど眠っている。罪を消してくれるはずの聖獣を求めて来た者たちは、それぞれ何を持ち帰ることになったのか、暗がりの中では顔までよく見えなかった。
マヤは舟の舳先近くで膝を抱え、眠れずにいた。
「横になった方がいい」
背後からリオが言った。
「寝られません」
「目を閉じるだけでも違うよ」
「閉じると、余計に見えます」
それを聞くと、リオはもう眠れとは言わなかった。
マヤも振り返らず、夜の湖面を見つめた。
目を閉じなくても、記憶は勝手に戻ってくる。
冷たい祭壇の石。湿った白い供物衣。胸の中で脈打っていた、実とも心臓とも種とも呼べない赤いもの。祈りの声が高まるほど地下の巨大根から生命が押し寄せ、幼い自分の身体へ集まってくる。
息が止まる。
白花が咲く。
根が足首から身体へ巻きつく。
そこへ白い獣が飛び込み、自分ではなく、自分と根の間へ牙を立てる。
一度。
二度。
噛み切れなかった根から赤い液が飛び、ルクナ=サリオの口からも血が落ちる。
そこまで思い出すたび、マヤは胸元を押さえた。
第二脈は今もある。
以前より弱まったわけでも、強まったわけでもない。ただ、存在を知ってしまったせいで、もう無視できなくなっていた。自分の心臓が打つ、その少しあとで、もう一つの鼓動が深く身体の内側を叩く。
どくん。
マヤは息を吐いた。
舟が角礁の間へ入る。老人が櫂を短く返し、黒い水面の下に隠れた角を避けた。その動きで舟が少し傾き、マヤの肩がリオの膝へ当たる。
「すみません」
「落ちなければいい」
「先生、ずっと起きてるんですか」
「君が舟から落ちそうだからね」
「落ちません」
「今日は何回滑った?」
「骨が悪かったんです」
「まだ言うんだ」
リオの声に少し笑いが混じった。
マヤもほんのわずかに口元を緩めたが、それ以上は続かなかった。頭の奥では、祭壇の光景がまた最初から始まっている。
祈る神官。
円を描くように並んだ人々。
胸の赤いもの。
地下の根。
生命が流れ込んでくる感覚。
そこに、何か引っかかるものがあった。
「……違う」
マヤが呟いた。
リオがすぐに顔を上げた。
「何が?」
「さっき見た記憶……何か、忘れてます」
それ自体が妙な言葉だった。忘れていた記憶の中で、さらに何かを忘れている。
マヤは眉を寄せ、両手を胸元へ重ねた。
神官たちは祈っていた。
確かに祈りの声は聞こえていた。
意味はほとんど分からない。古い言葉だったのかもしれないし、記憶が欠けているだけかもしれない。
けれど、その中に一つだけ。
祈りとは違う調子の声があった。
静かで、短い。
誰かへ願う声ではない。
何かを確認し、次の手順へ進む者の声。
記憶の奥で、神官の口が動く。
今度は、言葉が聞こえた。
『分流、開始』
マヤが目を開いた。
息が止まったのを見て、リオが身を起こす。
「どうした」
「思い出しました」
「何を?」
「祭壇で……」
声が掠れた。
マヤは一度唇を舐め、記憶が消えてしまわないうちに言葉にする。
「神官が言ってました」
湖面を渡る夜風が、頬に張りついた髪を揺らした。
「『分流、開始』って」
リオの表情が変わった。
驚いたというより、耳に入った言葉をもう一度頭の中で組み直している顔だった。
「……分流?」
「はい」
「祈祷の言葉か?」
「分かりません」
マヤは首を振る。
「そのあとも、何か言ってました。全部は……まだ、ちゃんとは思い出せないですけど」
胸の奥から、もう一つの断片が浮かぶ。
神官の手。
祭壇。
赤いもの。
地下から上がってくる光を指で示すような仕草。
『根を、この器へ』
マヤは眉間に力を入れた。
「……『根を、この器へ』」
リオが目を細める。
「器?」
「たぶん。そう聞こえました」
「器って、君のこと?」
「分かりません。でも……」
マヤは言葉を探した。
神へ捧げる儀式だった。
ずっとそう聞かされてきた。
供物を神へ渡し、村の罪を背負わせる。だから自分は祭壇へ運ばれ、そこで死ぬはずだった。
それなのに。
思い出した言葉には、祈りの響きがなかった。
神へ命を差し出す者が口にするには、妙に冷たく、正確だった。
流れを分ける。
根を器へ移す。
まるで、目の前で起きている生命の流れを操作するための言葉のように聞こえる。
「でも」
マヤはゆっくり顔を上げた。
「神様に捧げてる言葉じゃなかった気がします」
リオはすぐに否定も肯定もしなかった。
舟の横を大きな肋骨が通り過ぎ、その影が二人の顔を一瞬暗くする。
「……そう聞こえたんだね」
「はい」
「なら、覚えておこう」
「それだけですか?」
「今あるのは、君が見た記憶と、思い出した言葉だけだ。意味は現地で確かめる」
「現地」
その言葉を繰り返したところで、岸の灯りが見えてきた。
赤い内海入口の小集落だった。
舟着き場には油灯が数本並び、湿った夜気の中で黄色い火が揺れている。宿の屋根も、その奥にある小さな祠も、暗闇の中では白い骨だけがぼんやり浮かんでいた。
老人が舟を杭へ寄せる。
「着いたぞ。寝てるのは起こせ」
巡礼者たちがゆっくり身体を起こし始めた。
リオが先に岸へ上がり、マヤへ手を伸ばす。
「一人で降りられます」
「そう言って落ちたら、今度は湖のせいにする?」
「舟のせいにします」
「選択肢が増えたね」
マヤは差し出された手を使わずに岸へ足をかけた。
次の瞬間、濡れた板で靴底が滑る。
黙って伸びてきたリオの腕を、今度は素直に掴んだ。
「……何も言わないでください」
「何も言ってない」
「顔が言ってます」
「便利だね、俺の顔」
岸へ下りると、少し先に人影が立っていた。
バル=セナだった。
肩には布が巻かれている。ルクナに噛まれた場所から生えた小さな角は、その布の下でも隠しきれず、輪郭だけが外側へ張り出していた。
昼間より顔色は戻っている。
けれど、何かを言うためにずっと待っていたらしく、マヤと目が合うと背筋がわずかに強張った。
マヤは足を止めた。
もう身体が吐き気を訴えることはない。
顔も分かる。
名前も分かる。
だからといって、近づきたいわけではなかった。
バルも距離を詰めなかった。
「……祭壇へ行くのか」
唐突な問いだった。
マヤはリオを見る。
リオは答えない。
マヤがバルへ向き直る。
「行くつもりです」
祭壇で何が行われたのか。
なぜルクナ=サリオは儀式を壊そうとしたのか。
神官が口にした「分流」とは何なのか。
確かめるなら、あの場所しかない。
バルはしばらく黙ったあと、言った。
「祭壇へ戻るなら、俺が案内する」
マヤの眉がわずかに動いた。
「知ってるんですか」
バルは左肩の角痕へ触れかけて、やめた。
「忘れたことなんてない」
短い言葉だった。
けれど以前とは違って聞こえた。
苦しんでいる自分を分かってほしいという言葉ではない。
許してほしいという願いでもない。
あの日、自分が歩いた道を覚えている。
その事実を、そのまま差し出している。
「道も?」
「ああ」
「村から祭壇まで?」
「覚えてる」
マヤは返事を急がなかった。
バルが案内するからといって、何かが帳消しになるわけではない。
彼を信じなければならない理由もない。
けれど、行き先は同じだった。
それなら今は、それだけでいい。
「お願いします」
バルの顔に安堵が浮かびかけた。
マヤは続ける。
「道だけ」
その表情が止まり、やがて小さく頷いた。
「分かった」
リオが二人を見比べたが、何も口を挟まなかった。
バルはそれ以上マヤへ近づかず、代わりに集落の奥を指した。
「ラクナ=オルへ行く」
その名を聞いた瞬間、マヤの胸の奥がかすかに冷えた。
「……ラクナ=オル」
「おまえの村は、その外れにある。祭壇へ入る古い道も、そこからだ」
自分の故郷。
その名を頭の中で辿ろうとすると、景色より先に匂いが浮かんだ。
雨のあとの土。
煮炊きの煙。
濡れた葉。
けれど、母の顔も、家の形も出てこない。
失った記憶の空白だけがそこにあった。
リオが訊いた。
「すぐ出られる?」
「朝なら道案内を頼める。夜に湿地へ入るのはやめた方がいい」
バルはそこで一度言葉を止めた。
何かを言うべきか迷っている。
マヤには、その躊躇の方が気になった。
「まだ何かあるんですか」
バルが視線を上げる。
「ラクナ=オルから来た巡礼者に聞いた」
「何を?」
すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、マヤの胸の第二脈がわずかに速くなる。
バルは低い声で言った。
「新しい供物が準備されてる」
周囲の音が遠のいた。
舟着き場では、老人が縄を結んでいる。
宿の方から夕食の片づけをする食器の音が聞こえてくる。
誰かが笑っている。
いつもの夜が続いている。
それなのに、マヤにはバルの言葉だけが残った。
「……新しい?」
「ああ」
「誰が」
「そこまでは知らない」
「いつ」
「近いうちだとしか」
マヤの顔から表情が消えた。
リオも何も言わなかった。
供物。
白い衣。
祭壇。
胸へ押し込まれる生命。
根。
呼吸が止まる少女。
そして、白い獣の牙。
自分に起きたことが、過去のまま終わっていない。
どくん、と第二脈が鳴った。
今までより深かった。
胸の奥からではなく、もっと遠い場所――暗い土の下を走る巨大根の向こう側から、こちらへ返事が来たような重い一拍だった。
マヤは胸元へ手を当てる。
リオが横顔を見る。
「マヤ」
「行きます」
声は静かだった。
「ラクナ=オルへ」
迷いはなかった。
知りたいからだけではない。
自分の記憶を取り戻すためだけでもない。
まだ顔も名前も知らない誰かが、白い供物衣を着せられようとしている。
そのことだけで十分だった。
マヤは集落の向こう、夜の密林が続く方角を見た。
あの先に故郷がある。
自分を祭壇へ送った場所があり、壊されかけた儀式があり、まだ答えの出ていない第二脈の始まりがある。
そして今、同じ場所で、また誰かが供物になろうとしている。
胸の奥でもう一度、深い鼓動が鳴った。
今度はマヤも、目を逸らさなかった。




