第十節 ― 供物儀式の記憶
三つの生命脈が重なった瞬間、マヤは足元を失った。
倒れたのではない。ルクナ=サリオの胸へ触れている右手も、その手首へ重ねられたリオの左手も、まだそこにある。それなのに、自分の身体が頭蓋骨島から遠ざかり、赤い内海の波音まで一息で引いていくような感覚があった。
「マヤ?」
リオの声が聞こえた。
返事をしようとしたが、唇が動いたかどうかも分からない。
白金の獣毛に触れていたはずの手のひらへ、別の感触が重なった。
冷たい石。
背中の下にある。
ざらついた石の表面が肩甲骨へ食い込み、湿気を吸った白い布が肌へ張りついている。甘い香が鼻を満たしているのに、その奥には土と血、それから濡れた根の臭いがあった。
ここは頭蓋骨島ではない。
マヤはそう思った。
けれど、「どこか」を思い出したわけでもなかった。
見えているものが自分の目から見た景色なのか、それすら曖昧だった。視線が低い。次の瞬間には高い場所から祭壇を見下ろしている。また瞬けば、石の上へ横たわった少女の視界へ戻る。
記憶というより、同じ出来事が複数の身体へ残した傷を、一度に触っているようだった。
石造りの祭壇がある。
その上に、小さな少女が寝かされていた。
白い供物衣を着ている。
布は今のマヤが纏うものより新しく、汚れも少ない。胸元から足先まで覆われ、手首には細い飾り紐が巻かれていた。髪は額からきれいに除けられ、誰かが丁寧に梳いた跡が残っている。
顔を見た。
幼い自分だった。
マヤの胸が縮む。
知っているはずの顔なのに、鏡を見るような感じがしなかった。
もう失ってしまった時間の中にだけ存在する、知らない子どもを見ているようだった。
祭壇の周囲には人がいる。
白と赤の祈祷布。
手に持たれた器。
頭を垂れた神官たち。
声が響いている。
言葉は聞き取れなかった。
いや、音としては聞こえているのに、意味だけが抜け落ちていた。低い祈祷が重なり、一定の間隔で同じ音を繰り返している。そのたび、祭壇の下から何かが応える。
どくん、と。
地下で脈が打つ。
次の瞬間、視界が石の下へ沈んだ。
土。
暗闇。
地下水。
そのさらに奥を、巨大な根が走っている。
一本ではなかった。互いに絡み合い、石壁を割り、古い骨を抱き込みながら、地下いっぱいに広がっている。太いものは人の家ほどもあり、その表面を淡い赤い光がゆっくり流れていた。
根が脈打つ。
祭壇が応える。
祈りが重なる。
そのたび、赤い光が一つの場所へ集まっていった。
幼いマヤの身体へ。
「……やめて」
声を出したつもりだった。
誰も振り向かない。
これは今ではない。
変えられない。
分かっているのに、マヤは祭壇へ手を伸ばそうとした。
少女の胸元で、白い布がわずかに盛り上がっている。
その下に、何かがあった。
赤いもの。
肉のようでいて、肉ではない。
濡れた実にも見える。
小さな心臓がもう一つ埋め込まれているようにも、殻の薄い種が脈打っているようにも見えた。
形を定めようとすると、像が崩れる。
実。
心臓。
種。
器官。
どれにも似ていて、どれとも言えない。
ただ、それが幼いマヤの胸の奥で、外から流れ込む赤い光を受け取っていることだけは分かった。
祈祷の声が高まった。
地下の根が一斉に脈打つ。
赤いものも応える。
少女の身体が石の上で跳ねた。
「……っ」
幼いマヤの喉が引きつった。
息を吸おうとしている。
吸えない。
胸が持ち上がらない。
一度、口が開く。
もう一度。
空気は入らない。
神官たちは祈りを止めなかった。
むしろ声が強くなる。
地下から押し上がる生命の気配も増していく。温かいという言葉では足りなかった。生きろと命じる力そのものを、狭い身体へ押し込んでいるような圧だった。
少女の指先が震える。
爪が石を掻く。
唇から色が消えていった。
マヤは覚えていなかった。
こんなふうに呼吸を失ったことを。
それなのに、自分の胸まで苦しい。
今の身体が、過去の身体の続きを勝手に引き受ける。
息ができない。
肺が焼ける。
喉の奥で何かが鳴る。
幼いマヤの胸元から、白いものが押し出された。
布が赤く滲む。
その裂け目から、花が咲いた。
小さな白花だった。
血に濡れながら花弁が開く。呼吸を失った少女の身体とは釣り合わないほど瑞々しく、まるで死へ近づいたことを喜ぶように、次々と新しい蕾が膨らんでいく。
その瞬間、祭壇の下で何かが動いた。
巨大な根が、石の割れ目から姿を現す。
一筋。
二筋。
さらに何本も。
白い供物衣の裾へ絡み、足首を巻き、腰へ這い上がる。
神官たちが後退した。
祈りは止めない。
根は少女を傷つけようとしているようには見えなかった。牙も棘もない。ただ、抱き込もうとしていた。
けれど、その抱き方をマヤは知っていた。
密林で倒木が古い獣骨を包み、長い時間をかけて見えなくしていくのと同じだった。
取り込む。
境目をなくす。
少女一人の身体ではなく、もっと大きな生命の一部へ戻そうとしている。
「嫌……」
今度は、幼い少女の唇が動いたのかもしれない。
けれど声は出なかった。
根が胸へ届く。
白花を押し分け、赤い何かの脈へ触れようとする。
地下全体が一度、大きく鳴った。
どくん。
祭壇の少女の胸でも、別の脈が生まれた。
どくん。
その二つが重なりかけた瞬間。
祈祷の声が乱れた。
誰かが叫んだ。
祭壇の外側で、石が砕ける。
白い影が飛び込んできた。
マヤはその姿を知っていた。
今、現実で触れている獣より少し若いのか、それとも記憶の揺らぎがそう見せているだけなのかは分からない。白金の身体。獅子のような胸。前脚の爪。後脚の蹄。そして、枝のように広がる角。
ルクナ=サリオ。
白い獣が吠えた。
人へ向かってではなかった。
祭壇へ跳び上がり、幼いマヤの身体を跨ぐ。
巨大な顎が開く。
牙が向かった先を見て、マヤは息を止めた。
自分ではない。
白い獣は少女へ噛みつかなかった。
マヤの胸から伸びる生命脈と、祭壇の下から巻きついた巨大根。
その間へ牙を立てた。
赤い光が弾けた。
ルクナの頭が激しく振られる。
根は太く、一度噛んだ程度では切れない。
白い獣がもう一度噛みつく。
牙が深く沈む。
根の表面が裂け、中から赤い液が噴き出した。
同時に、ルクナの口元からも血が流れた。
牙の根元が赤く染まる。
それでも離さない。
爪を石へ食い込ませ、首を振り、少女へ巻きつく根を引き剥がしていく。
一度。
二度。
引き裂かれた生命脈が鞭のように跳ねる。
祈祷布が吹き飛び、神官の一人が尻もちをついた。
幼いマヤの身体が祭壇の上で大きく反った。
胸から白花が溢れる。
花弁に血が散る。
けれど根は完全には切れない。
奥に残った細いものが、少女の胸へつながったままだ。
ルクナが再び牙を立てようとする。
そのとき、視界が大きく揺れた。
マヤには分かった。
これは、自分だけの記憶ではない。
石の冷たさも、息が止まった苦しさも、自分の身体から来ている。
けれど、牙の奥に走った痛みは違う。
根を噛み切ったとき口の中へ流れ込んだ苦い血の味も。
少女を見下ろしていた視線も。
切れない根をもう一度噛もうとした焦りも。
それらは、マヤが覚えているはずのないものだった。
ルクナ=サリオの生命脈。
そこに残っている。
誰かを死なせなかった記憶ではない。
少女と、何かとの接続を断とうとした傷の記憶が。
最後に見えたのは、二つの赤だった。
白い獣の口から流れる血。
少女の胸元で咲き続ける、白花の中心に滲んだ赤。
そこへ地下から伸びる細い根が、まだ一本だけ残っている。
完全には切れていない。
だから第二の鼓動も、消えなかった。
どくん。
それが今の鼓動と重なった。
「――っ!」
マヤは現実へ引き戻された。
膝が崩れた。
リオがすぐに腕を回し、身体を支える。ルクナの胸へ置いていた手は離れ、三者を結んでいた光も一気に薄れた。
「マヤ、息して」
言われて初めて、呼吸を止めていたことに気づいた。
吸う。
うまく入らない。
もう一度。
喉が震え、ようやく冷たい夜気が肺へ入った。
「ゆっくり。急に吸い込まなくていい」
リオの声が近い。
マヤは彼の袖を掴んだまま何度か呼吸を繰り返した。
目の前には、現実のルクナ=サリオがいる。
白金の毛。
胸の古傷。
赤い根脈。
口元には今、血はついていない。
それなのに記憶の中の血の味が、自分の舌にまで残っている気がした。
「見えたの?」
リオが訊いた。
マヤはすぐには答えられなかった。
何から話せばいいのか分からない。
「……祭壇が」
掠れた声が出る。
「わたしがいました。もっと小さくて……白い服で寝かされてて、神官が祈ってました」
リオは黙って聞いている。
「地下に、すごく大きな根があって……それが、わたしに集まってきて」
胸元を押さえる。
今も第二脈は鳴っている。
「ここに、赤いものがありました」
「赤いもの?」
「分かりません。実みたいで……心臓にも見えて、種みたいにも見えて。でも、どれかは分からないです」
「それでいい。決めなくていい」
リオは先を急がせなかった。
マヤは一度目を閉じた。
呼吸が止まる。
花が咲く。
根が身体へ巻きつく。
そして白い獣が飛び込んでくる。
「ルクナが来ました」
目を開く。
目の前の聖獣は静かにこちらを見ていた。
「わたしを噛んだんじゃありません」
言葉にした瞬間、自分がずっと何を信じていたのかが見えた。
供物として捧げられた。
そこで死ぬはずだった。
白い獣が現れた。
自分は死ななかった。
だから、ルクナが自分の死を引き受けたのだと思っていた。
それが、花を咲かせ、死を終わらせない身体になった理由なのだと。
けれど、見えたものは違った。
「……わたしを」
マヤはルクナを見上げた。
「殺さなかったんじゃない」
リオの目がわずかに細くなる。
彼も、記憶の意味を組み直している。
「……ああ」
すぐには続けなかった。
マヤが見たものを、そのまま確かめるように間を置く。
「何かから切り離そうとした」
その言葉で、マヤの中の断片が初めて一つにつながった。
ルクナは祭壇を壊した。
自分へ巻きついた巨大根へ牙を立てた。
一度では切れず、血を流しながらもう一度噛んだ。
それでも完全には断てなかった。
今も第二脈は残っている。
もしあれが救済の儀式だったのなら。
もし神へ供物を渡すための正しい儀式だったのなら。
なぜ、神に連なる白い獣は、それを壊そうとしたのか。
マヤはルクナを見る。
「じゃあ……あの儀式って、何だったんですか」
リオは答えなかった。
答えられないのだと、マヤにも分かった。
神官たちは祈っていた。
地下には、サルバティアの生命へつながるような巨大根があった。
少女へ生命の圧が集中していた。
それをルクナが阻んだ。
見えたのはそこまでだ。
「神に捧げられたんですよね、わたし」
「そう聞いてる」
「神が供物を欲しがったから」
「……それも、今まで聞いてきた話ではね」
リオは慎重に言葉を選んだ。
マヤは胸元へ手を当てた。
第二脈が返す。
その周期に合わせて、ルクナの胸の赤根脈が淡く明滅していた。
「だったら、変です」
「うん」
「ルクナは、神につながってるんですよね」
「少なくとも、無関係とは考えにくい」
「なのに、どうして」
その先は言わなくても同じだった。
供物を望んだ神。
供物儀式を壊そうとした、神に連なる聖獣。
どちらかが間違っている。
あるいは、自分たちが最初から何かを取り違えている。
リオはそれを今ここで一つの答えへまとめなかった。
代わりに、マヤの手首へ指を当てた。
「普通の脈は戻ってきた。第二脈もある」
「切れてませんね」
「うん。あのときも、完全には切れなかったんだろうね」
リオはルクナの胸へ視線を移した。
「少なくとも、さっき見えたものがそのまま過去の事実なら」
「先生、こういうとき絶対に『少なくとも』って言いますね」
「大事だからね」
マヤは少しだけ息を吐いた。
笑えるほどではなかった。
それでも、今の一言で現実へ少し戻れた。
リオはマヤを支えていた腕をすぐには離さなかった。立てるかどうかを確かめてから、力だけを弱める。
「自分で立てる?」
「立てます」
「本当に?」
「たぶん」
「それは大丈夫より信用できないな」
マヤは一度だけ彼を睨んだが、手は借りたまま立ち上がった。
足元には、閉じた白花が広がっている。
少し離れた場所では、バルも巡礼者たちも声を出さず、こちらを見ていた。彼らには何が起きたのか分からないだろう。
マヤにも、まだ全部は分からない。
供物儀式で何をしようとしていたのか。
胸にあった赤い器官が何なのか。
巨大根が自分を取り込もうとした理由。
なぜ神官たちは祈り続けていたのか。
そして、なぜルクナ=サリオだけがそれを止めようとしたのか。
分からないことの方が増えていた。
それでも、一つだけ以前とは違う。
白い獣は、自分を供物として受け取るために祭壇へ現れたのではなかった。
少なくとも、あの記憶の中では。
ルクナは牙を、自分ではなく儀式へ向けていた。
夜の赤い内海から風が吹き上がり、枝角に残る黒花を揺らした。
マヤはその花を見つめながら、胸の第二脈へ手を置く。
これまで意味の分からなかった第二脈は、もしかすると、壊された儀式が最後まで切れずに残したものなのかもしれない。
答えではない。
新しい疑問だった。
けれど、その疑問は、これまで聞かされてきた神話よりもずっと確かな手触りで、マヤの身体の中に残っていた。




