第九節 ― これは、わたしが決めます
ルクナ=サリオの枝角に増えたばかりの黒花を見上げながら、マヤはしばらく動けなかった。
鎖骨の近くでは、噛み取られた白花の跡がもう塞がり始めている。傷そのものは浅い。けれど、その奥で鳴っている第二の鼓動は、先ほどまでとは違っていた。ルクナの胸が脈打つたび、自分の内側から細い根を引かれるような感覚があり、身体のどこか見えない場所で二つの命が結ばれているのが分かる。
マヤは胸元へ手を当てた。
指先に触れるのは、服越しの自分の体温だけだった。ところが意識を集中すると、そのさらに奥に、自分の身体ではない方向へ伸びていく感覚がある。蔓とも血管とも違う。もっと太く、古く、傷を縫い止めるために身体の中心へ食い込んだ根のようなものだった。
これを抜けばいい。
そう思った瞬間、考えるより先に指が動いた。
「待て」
リオの声が飛んできた。
マヤは手を止めなかった。襟元へ指を入れ、白花の根が続いている感覚を探る。皮膚の上に見えている花だけを摘むのでは意味がない。もっと内側、第二脈が鳴っているところまで辿れば、この接続を外せるような気がした。
ルクナの胸が脈打つ。
ほとんど同時に、マヤの身体の奥でも鼓動が返った。
そのたび、白い獣の角に咲く黒花がわずかに震える。
「マヤ、手を離せ」
今度のリオの声は近かった。
彼は数歩の距離まで来ていたが、いきなり腕を掴もうとはしなかった。マヤの指がどこへ向かっているのか、鎖骨の花痕がどう変化しているのかを見ながら、ぎりぎりのところで止まっている。
「このままだと、この子が――」
「どうなるか分からない」
リオは即座に遮った。
ルクナを「この子」と呼んだことには何も言わなかった。そんなことを気にしている余裕は、今の彼にもないらしい。
「接続を切れば負荷が減るかもしれない。でも、第二脈が何を支えてるのか分かってない。君の再生だけなのか、心臓そのものに関わってるのか、それすらまだ診切れてない」
「でも、わたしが死にかけるたびに、この子の花が増えてたんでしょう?」
「その可能性が高い。それと、今ここで切っていいかは別の話だ」
マヤは唇を噛んだ。
ルクナ=サリオは静かに立っている。呼吸は浅いままで、胸の古傷から漏れる赤い光も弱まってはいない。枝角には、枯れきった黒花が数えきれないほど残っていた。その一つが自分のものかもしれないと知ってしまえば、もう見ないふりはできなかった。
「またわたしが倒れたら、増えるかもしれない」
「かもしれない」
「今度もっと大きな傷を負ったら?」
「分からない」
「死ぬくらいの傷だったら?」
「分からないって言ってる」
リオの声にも焦りが混じり始めていた。
それでもマヤは胸から手を離せなかった。何も知らずに生き残ってきた。自分だけが死ねず、花を咲かせて戻ってくるたび、その向こうで別の命が傷んでいたのだとしたら、知らなかったというだけで、この先まで同じことを続けていい理由にはならない。
「だから、確かめます」
「どうやって」
「分かりません。でも、この根を――」
「触るな」
リオが一歩踏み込んだ。
マヤの指先が止まる。
「お前が感じてるものが本当に切れる構造なのかも分からない。切った瞬間、第二脈が止まるかもしれない。再生だけじゃ済まない可能性がある」
「分かってます」
「お前が死ぬ可能性もある」
「分かってます」
「分かってない!」
声が、頭蓋骨島に響いた。
巡礼者たちが息を呑み、少し離れたところで肩の角痕を押さえていたバルも顔を上げた。ルクナ=サリオの耳がわずかに動く。
マヤも動けなかった。
リオがこれほど強く声を荒らげるのを、ほとんど聞いたことがない。
「死ぬかもしれないって言葉を、そんな顔で分かったって言うな」
リオの呼吸が乱れていた。
怒っているのではない。
少なくとも、マヤにはそう見えなかった。
彼の右手は、今にもこちらの腕を掴みそうな位置まで上がっている。けれど、その指は最後まで届かなかった。掴んでしまえば簡単だ。自分の方が力は強い。診療鞄から鎮静香を出すことだってできる。ここから無理にでも連れ帰れば、少なくとも今すぐマヤが危険な真似をすることはない。
以前なら、そうしたかもしれない。
マヤは、その顔を知っていた。
アマル=ヴェインのもとへ行こうとした自分を、危険だからと遠ざけようとしたときの顔。守りたいという気持ちが強すぎて、相手が何を選ぼうとしているのか見えなくなっていたときの顔だった。
あのとき、自分は言った。
――今度は、わたしの代わりに決めるんですか?
たぶん、リオも同じ言葉を思い出していた。
伸びかけた右手が止まる。
マヤはその手を見てから、リオの顔へ視線を戻した。
「先生」
返事はなかった。
一拍置いて、マヤは言った。
「これは、わたしが決めます」
声は震えなかった。
怖くないわけではない。むしろ、身体の内側へ指を入れて自分の命を引き抜くような想像をしただけで、膝が冷たくなるほど怖かった。それでも、この身体で何をするかまで誰かに預けてしまえば、供物だったころと何も変わらない。
ルクナへ負荷を背負わせ続けるかもしれないことも。
それを止めようとして、自分が死ぬかもしれないことも。
どちらも、自分に関わることだった。
リオは何も言わなかった。
琥珀色の目がマヤを見る。その奥にあるのは、医師の冷静さだけではなかった。止めたいのだと、見ているだけで分かる。何か起きる前に手を掴んで、危険な場所から引き離し、絶対に触るなと言い聞かせたいのだろう。
それができる距離にいるのに、彼はしなかった。
長い沈黙のあと、リオはゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
今度はマヤの方が目を瞬いた。
「え」
「分かったって言った」
「止めないんですか」
「止めたいよ」
そこは迷わなかった。
「ものすごく止めたい。できれば縛ってでも宿まで連れて帰りたい」
「患者に言うことじゃないです」
「だから実行してない」
ほんの少しだけ、いつものリオの声が戻った。
けれど、次に彼が左腕の包帯へ手をかけたとき、その表情はすぐ医師のものへ変わった。
「ただし、一人ではやらせない」
マヤは黙って彼を見る。
リオは包帯を解きながら、ルクナ=サリオへ視線を移した。白い獣もこちらを見ている。金色の瞳の奥には赤い輪がなく、拒む様子も、近づいてくる様子もない。
「君が切ると決めたとしても、今この場でいきなり根を引き抜くのは駄目だ。まず構造を診る。どこから来て、どこへつながって、何を支えてるのか確認する。それで切断に耐えられないなら、別の方法を探す」
「別の方法がなかったら?」
包帯の下から白い獣毛が現れる。樹皮のような皮膚の亀裂には、すでに淡い光が滲み始めていた。
「そのとき考える」
「先生でも、それしか言えないんですね」
「分からないものを分かったふりするよりはましだろ」
「はい」
「それから、勝手に途中で切ろうとしない」
「……はい」
「今の間は何?」
「ちゃんと聞いてました」
「信用しづらい返事だな」
マヤは少しだけ口元を緩めた。
張りつめていた胸の奥に、息が入る。
リオはしゃがみ込み、まずマヤの手首を取った。いつものように脈を数えるだけではなく、指先を少しずつずらしながら、第二脈が表の脈へどこで干渉しているのかを探していく。
「普通の脈は速い。緊張してる?」
「してます」
「正直でよろしい」
「先生が痛いって言えって言ったので」
「そこまで素直になるとは思わなかった」
「注文が多いですね」
数往復のやり取りだけで、指先の震えが少し収まった。
リオは次に鎖骨近くの花痕を見た。直接そこへ手を置く前に「触るよ」と声をかけ、マヤが頷いてから白毛に覆われた左の指先を当てる。
淡い光が皮膚の下へ沈んだ。
マヤは小さく息を吸う。
痛みではない。
冷たい水を血管の中へ流されたような感覚だった。リオの《医脈》が自分の身体へ入ってくることには慣れているはずなのに、今日はその光が途中で止まらず、胸の奥へ引かれていく。
「……先生」
「俺も感じてる」
リオの眉が寄った。
彼の左腕を走る光が、いつもと違う方向へ枝分かれしている。マヤの脈を読むために入ったはずの《医脈》が、第二脈へ触れたところで、さらに外へ引かれようとしていた。
行き先はルクナ=サリオだった。
白い獣の胸の赤根脈が、ゆっくり明るくなる。
リオはすぐに接触を切った。
「やっぱり、ただの共鳴じゃない」
「つながってますか」
「少なくとも、脈が行き来できる道はある。でも一方向じゃない」
「どういうことです?」
「まだ説明できるほど読めてない」
そう言いながら、リオはルクナを見上げた。
「もう一度やる。今度は向こう側も同時に診る」
簡単に言うが、相手は巨大な聖獣である。
マヤがそのことを言おうとする前に、ルクナ=サリオの方が動いた。
白金の巨体がゆっくり近づき、頭を下げる。胸の古傷が、マヤの手の届く高さまで来ることはない。それでも前脚を折り、骨の上へ伏せると、赤い根脈の走る胸元がかなり近くなった。
リオが一瞬だけ黙った。
「協力的ですね」
マヤが言う。
「俺より話が早い患者かもしれない」
ルクナが低く鼻を鳴らした。
「今、怒られました?」
「たぶんね」
リオはそれ以上ふざけず、位置を確認した。
「マヤ、右手を胸の赤い脈の横へ。傷口そのものには触れないで」
「はい」
「違和感が強くなったらすぐ言う。大丈夫は禁止」
「そこまで言わなくても」
「君には言う必要がある」
マヤはルクナの胸へ手を伸ばした。
白金の毛に指が沈む。見た目より温かく、根元には汗とも樹液ともつかない湿り気があった。すぐそばを赤い線が走り、一拍ごとに指の腹へ脈が伝わる。
どくん。
マヤの胸の奥で、第二脈が返す。
どくん。
「来ました」
「そのまま」
リオがマヤの背後へ回った。
白毛に覆われた左手を、ルクナへ触れているマヤの手首へ重ねる。
「始める」
光が入った。
最初に感じたのは、自分の心臓だった。
速い。
次に、その少し奥。
第二脈。
それから手のひらの向こうにある、ルクナ=サリオの巨大な拍動。
三つは別々だった。
少なくとも最初は。
リオの《医脈》が細く広がるにつれて、それぞれの間にあった境目が変わっていく。無理に一つへ束ねるのではなく、絡まった糸をほどくために、一筋ずつ触れて確かめていくような慎重さだった。
マヤは目を閉じた。
胸の奥にある根が、初めて形を持つ。
自分からルクナへ伸びていると思っていた。
違った。
ルクナから自分へ伸びているだけでもない。
二つの方向から伸びたものが途中で絡み合い、その結び目の中に第二脈がある。
「……先生」
「喋らなくていい。今、そこを見てる」
リオの声も余裕がなかった。
彼の左腕に浮かぶ根状の光が、肩の方まで広がっている。異なる生命脈を同時に読む負荷で、額には細かな汗が滲んでいた。
それでも手は離さない。
マヤ一人にやらせないと言った、その言葉どおりに。
ルクナの胸が脈打った。
マヤの第二脈が応じる。
そこへ、リオの《医脈》が重なった。
三つの光が、一度だけ強くなる。
次の瞬間。
どくん、と大きな鼓動が響いた。
誰の脈だったのか、マヤには分からなかった。
自分か。
ルクナか。
それとも、二つを診ていたリオの左腕から伝わったものか。
分からないまま、三者の生命脈が同じ一拍の中で重なった。




