第八節 ― 二つの鼓動
バルの肩から生えた小さな角を確かめると、ルクナ=サリオは静かに顔を上げた。
それ以上、彼へ何かを与えることも、奪うこともしなかった。
バルも追いすがらない。
左肩を押さえたまま、その場に立っている。痛みで呼吸は浅いが、先ほどまでのように白い獣へ救いを求める目ではなくなっていた。
ルクナが首を巡らせる。
枝角に咲いた赤花と白蕾が、夜風に揺れた。
金色の目が、マヤを捉えた。
「……」
マヤの足が動かなくなった。
怖い。
最初に浮かんだのは、それだった。
湖上から歩いてくる姿を見たときとは違う。あのときには、美しさや懐かしさに紛れていたものが、今ははっきりしている。
この獣は、自分と関係がある。
たぶん、思っていたよりもずっと深く。
ルクナ=サリオが歩き出した。
前脚の爪が、白い骨を掴む。
一歩。
後脚の蹄が続く。
一歩。
マヤは下がらなかった。
逃げたくないと思ったわけではない。ただ、身体の奥で起きたことに気を取られて、足まで意識が回らなかった。
胸が鳴った。
どくん。
自分の心臓。
そのすぐあとに、もう一つ。
どくん。
「……っ」
マヤは胸元を押さえた。
ずっと身体の奥にあった第二の脈。
白い獣へ近づくほど強くなっていた、あの鼓動。
今は指先で感じられるほどだった。
どくん。
少し離れた場所で、ルクナの古傷が赤く明滅する。
どくん。
マヤの胸。
どくん。
ルクナの胸。
まったく同じ間隔だった。
「……同じ?」
声が漏れた。
隣でリオが息を止めた。
彼の目がマヤの胸元から、ルクナの古傷へ移る。
もう一度。
マヤの第二脈が打つ。
直後、白い獣の胸を走る赤根脈が明るくなる。
「先生」
「見てる」
短い返事だった。
リオは近づいてこない。
マヤとルクナの間へ入ろうともしなかった。
ただ、片方ずつを見比べている。
ルクナの鼻先が、マヤのすぐ前まで来た。
大きい。
改めて近くで見ると、その頭だけでマヤの身体ほどある。温かな吐息が髪を揺らし、獣毛と血、湿った根、それから枯れかけた花の匂いがした。
マヤは顔を上げた。
金色の目の奥に、自分が小さく映っている。
「……わたしを、知ってるんですか」
答えはない。
ルクナの鼻先が、ゆっくり下がる。
鎖骨の近く。
マヤの身体に咲いた白い花へ。
痛みが走る。
「っ……」
花が開いた。
白い花弁が一枚ずつほどける。
祈られたわけでもない。
傷を負ったわけでもない。
ただルクナが近づいたことで、身体の内側から押し出されるように咲いた。
リオが一歩だけ動いた。
しかし、それ以上は来ない。
「マヤ」
「……大丈夫、です」
いつもの癖で答えてから、マヤは少し顔をしかめた。
「……痛いですけど」
「それなら痛いって言って」
「今、言いました」
「うん」
それだけで、少し呼吸が戻った。
ルクナは白花を嗅いだ。
一度。
二度。
それから口を開く。
マヤの肩が強張る。
巨大な牙が近づいた。
けれど噛まれたのは身体ではなかった。
白い花を一輪だけ、根元から食んだ。
「あ……」
ちぎれる瞬間、鎖骨の奥に鋭い痛みが走った。
ルクナが顔を上げる。
牙の間に白花がある。
噛む。
花弁の先から、黒が広がった。
墨を水へ落としたように、白が黒へ変わっていく。
ラウ=マリカの雨上がりの夜から、白い獣の痕跡を追うたびに目にしてきた黒だった。
白い獣が去ったあとに残った、黒く枯れた花。
ルクナが花を飲み込む。
同時に。
枝角の先で、小さな音がした。
ぷつり、と蕾が開くような音。
マヤが見上げる。
新しい花が一輪、咲いていた。
黒い花だった。
つい先ほどまで、そこにはなかった。
古い黒花の間に、まだ艶を残した新しい一輪が増えている。
「……先生」
「ああ」
リオも見ていた。
その顔から、先ほどまでの診察時とは別の緊張が浮かぶ。
マヤは角を見つめた。
黒い花。
新しいもの。
その周囲には、もっと古いものがある。
乾ききり、花弁が硬く縮んだもの。
形を残したまま色褪せたもの。
まだ黒くなって間もないようなもの。
全部が同じ時に咲いたわけではない。
時間が違う。
マヤの指が、自分の鎖骨へ触れた。
花を噛み取られた場所は、もう血を流していない。
皮膚の奥では、いつもの再生が始まっている。
そこから、古い感覚がいくつも浮かんだ。
大きな傷を負ったとき。
身体の奥まで熱に焼かれ、何日も起き上がれなかったとき。
呼吸が遠くなって、自分の身体なのに指先の感覚さえなくなったとき。
死に近づいたはずなのに。
花が咲いた。
肉が戻った。
息が戻った。
自分だけが、また起き上がった。
その記憶はどれも曖昧だった。
顔は抜け落ちている。
場所も、順番も、ひどく頼りない。
けれど身体が戻った瞬間だけは、妙に残っている。
再生したときの熱。
花が皮膚を押し開く痛み。
そして。
そのたびに胸の奥で鳴っていた、もう一つの鼓動。
マヤはルクナの角を見た。
古い黒花。
自分の記憶の中にある、古い傷。
少し若い黒花。
高熱のあとに起きた再生。
数えることなどできない。
正確な時期も分からない。
それでも。
偶然だと思うには、重なりすぎていた。
「……わたしが死にかけるたび?」
ルクナ=サリオは答えない。
金色の瞳だけが、マヤを見ている。
胸の古傷が、また赤く脈打った。
どくん。
マヤの第二脈も応える。
どくん。
喉が震えた。
「わたしの代わりに?」
沈黙。
白い獣は頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、角に咲いた新しい黒花が、夜風に揺れている。
何が、どこから、どうやって渡っているのかは分からない。
それでも、自分の再生と、この獣に増えていく黒花が無関係だとは、もうマヤには思えなかった。
マヤは息を吸えなくなった。
ほんの少し前。
バルに言った。
あなたが楽になるために、今度はわたしが許す役をするのか、と。
自分へ、誰かのためのものを背負わせないでほしい。
供物も。
聖女も。
奇跡も。
赦す少女も。
もう勝手に役を渡されたくない。
そう言った。
なのに、自分の身体を見る。
死にかけるたび、生き残った。
傷が塞がった。
花が咲いた。
記憶を失いながら、それでも歩いてきた。
その向こうで。
この獣の角には、黒い花が増えていた。
「わたし……」
声が震えた。
望んだわけではない。
頼んだ覚えもない。
そもそも、知らなかった。
それでも結果だけを見れば、自分が生きることと、別の何かへ重さが移っているように見えることは切り離せなかった。
胸の奥が冷たくなる。
「ずっと、あなたに……」
その先を言えなかった。
自分のせいだ、と言えば簡単だった。
けれど、それも違う。
バルが自分を運んだこととは違う。
マヤはルクナへ、自分の代わりに苦しんでくれと頼んでいない。
選んですらいない。
なのに、負荷はここにある。
ルクナの浅い呼吸。
閉じない胸の傷。
増えすぎた黒花。
先ほどリオが読んだ、飛ぶ脈。
それらの一部に、自分がつながっている可能性がある。
マヤの膝から力が抜けかけた。
そのとき、後ろにあった布を掴んだ。
リオの袖だった。
自分でも、掴んでから気づいた。
リオは何も言わなかった。
手を振りほどきもしない。
代わりに抱き寄せることもしない。
ただ、そこに立っていた。
マヤは袖を握ったまま、ルクナを見上げる。
「……痛かったですか」
答えはない。
白い獣の目は、変わらない。
責めてもいない。
許してもいない。
そのことが、余計につらかった。
マヤの鎖骨では、花を噛まれた跡が静かに塞がり始めている。
ルクナの角には、その代わりのように黒い一輪が残っている。
二つの鼓動が、もう一度鳴った。
どくん。
どくん。
同じ間隔。
同じ夜の中で。
別々の身体に。
マヤは初めて、自分が死ねなかったことが、自分一人の身体だけで完結していたのではないかもしれないと考えた。




