第七節 ― 罪を消してくれ
ルクナ=サリオの呼吸は、まだ浅かった。
夜の色が落ちた頭蓋骨島で、巨大な胸がゆっくりと上下している。古傷の奥には赤い光が残り、角に咲いた黒花は風にも落ちなかった。
リオが診療鞄へ道具を戻している間も、巡礼者たちは立ち去ろうとしなかった。
先ほどまで祈りの対象だった聖獣が、脈を乱し、傷を開き、まともに休めてもいない。
その事実をどう受け取ればいいのか、誰にも分からないのだろう。
マヤにも分からなかった。
ただ一つ、以前とは違って見える。
白い獣は、何でも引き受けられるものではない。
そう思ったとき、後ろで骨を踏む音がした。
バルだった。
顔は青ざめている。それでも足を止めず、ルクナ=サリオの前まで歩いていく。
「バル」
骨渡りの老人が呼んだ。
制止ではなかった。
バルも振り返らない。
巨大な白い獣を前にして、両膝を骨へついた。
額までは伏せなかった。
ルクナの金色の目を見上げたまま、震える息を吐く。
「俺の罪を消してくれ」
白い獣は動かなかった。
角の花が、夜風にわずかに揺れる。
バルは待った。
一息。
二息。
何も起こらない。
「……頼む」
声が掠れた。
ルクナの瞳は、ただバルを見ている。
責めもしない。
慰めもしない。
バルの両手が骨の上で握られた。
「俺は、そのために来たんだ」
返事はない。
「何年も……何をやっても消えなかった。酒を飲んでも、祈っても、謝っても、眠ればまた戻ってくる」
マヤの肩がわずかに強張った。
木漏れ日。
縄。
汗の臭い。
遠ざかる村。
身体の奥で、途切れた記憶が触れ合う。
バルの声が大きくなった。
「罪を喰うんだろ」
それでもルクナは動かない。
バルは立ち上がりかけるほど身を乗り出した。
「喰ってくれ!」
その瞬間、ルクナ=サリオが動いた。
巨大な首がゆっくりと傾く。
バルへ向いていた顔を、静かに横へ背けた。
それだけだった。
だが、拒絶だと誰にでも分かった。
頭蓋骨島にざわめきが走る。
「なぜだ……」
バルが呆然と呟いた。
ルクナは見ようともしない。
「なんでだよ」
声に熱が混じる。
怒りなのか、恐怖なのか、もうバル自身にも分からないようだった。
「俺は認めてる! 後悔してる! ずっと苦しんできた!」
一歩、前へ出る。
「それでも足りないっていうのか!」
リオが顔を上げた。
だが止めない。
ルクナも振り向かない。
バルの声が夜の湖へ響いた。
「何のための贖罪の聖獣だ!」
巡礼者たちが顔を見合わせる。
誰かが小さく祈りの言葉を唱え、別の誰かは黙ったまま自分の胸を押さえた。
ここへ来た者の多くが、同じものを求めていたのだろう。
背負っているものを、なくしてほしい。
楽にしてほしい。
白い獣なら、それができる。
そう信じて。
「消してくれるんじゃないんだと思います」
マヤの声は、大きくなかった。
それでもバルが振り返った。
「……じゃあ何だ」
マヤはすぐには答えなかった。
ルクナの角を見る。
白い蕾。
赤い花。
枯れても落ちない黒い花。
次にリオの左腕を見た。
巻き直された包帯の下に、白い毛と樹皮の痕がある。
エラの姿も思い出した。
そして自分の肩へ触れる。
薄布の下には、消えない花の徴がある。
どれも、なかったことにはなっていない。
「残すんじゃないですか」
バルの眉が寄った。
「……残す?」
「生きて」
マヤは自分の胸元へ触れた。
「忘れないように」
バルが何かを言おうとした。
その前に、マヤは続けた。
「あの日」
喉の奥が狭くなる。
それでも目を逸らさなかった。
「わたしが帰りたいって言ったの」
バルの顔が固まった。
風が閉じた花を揺らす。
遠くで赤い水が骨へ当たり、低い音を立てた。
「聞きましたか」
長い沈黙だった。
バルは俯かなかった。
逃げる場所を探すように目を動かすこともしなかった。
ただ、マヤを見ていた。
やがて唇が動く。
「……聞いた」
マヤは何も言わない。
バルの喉が鳴った。
「聞いた」
今度は少しだけ、はっきりした。
「でも、運んだ」
命令されたから。
村の決まりだったから。
自分が断っても、別の誰かがやったから。
その言葉を、バルは一つも続けなかった。
「おまえが帰りたいって言ったのを、俺は聞いた」
握っていた手がほどける。
「聞いて、それでも……俺が祭壇まで運んだ」
マヤの中で、昨日よみがえった感触がまた動いた。
肩へ食い込む布。
背中の熱。
揺れる視界。
遠ざかる家。
怖かった。
今も、全部を思い出したいとは思えない。
それでも、この人が今口にしたことだけは、消えてほしくなかった。
「忘れないでください」
バルの目がわずかに揺れる。
「……それだけか」
「それだけです」
許すとは言わない。
罰を与えるとも言わない。
何をすれば償えるのかも、マヤには分からない。
それを考えるのは、自分の役目ではなかった。
マヤは少し間を置いてから、自分の肩を見た。
「わたしも」
指先が花痕へ触れる。
「覚えていられるところまで、覚えます」
その言葉だけは、少し怖かった。
自分の記憶は、ずっと同じ形では残らない。
花が咲くたび、何かが遠くなる。
もうバルの顔を忘れていたように、いつか今日のことさえ薄くなるかもしれない。
だから、覚えている間は覚えている。
許すためではない。
憎み続けるためでもない。
自分に起きたことを、誰かの都合のいい物語に変えさせないために。
バルは長く黙っていた。
やがて、ルクナ=サリオへ向き直る。
今度は跪かなかった。
白い獣と向き合ったまま、ゆっくり息を吐く。
「……消してほしくない」
先ほどとは、声が違った。
震えてはいた。
けれど、祈りではなかった。
「俺がやったこととして、生きて持っていく」
ルクナ=サリオの耳が動いた。
マヤは息を止めた。
白い獣が、初めてバルへ顔を戻す。
金色の瞳の奥に、赤い輪が浮かんだ。
バルは逃げなかった。
ルクナが一歩踏み出す。
巨大な前脚の爪が骨を掴む。
もう一歩。
バルの身体など、一噛みで消えてしまいそうな距離まで顔が近づいた。
巨大な口が開く。
牙が月明かりを受けた。
巡礼者の誰かが悲鳴を飲み込む。
バルは目を閉じなかった。
ルクナの顎が、その左肩へ降りる。
がちり、と牙が触れた。
「――っ!」
バルの身体が跳ねる。
噛み砕かない。
だが優しくもない。
牙が衣を裂き、皮膚へ食い込む。
血が流れた。
すぐにルクナは離れる。
バルは肩を押さえ、膝をついた。
「バル!」
骨渡りの老人が動きかける。
「待って」
リオが低く止めた。
血の間で、何かが動いていた。
傷口が塞がっていくのではない。
赤く濡れた皮膚の内側から、硬い白いものが押し出されてくる。
バルが歯を食いしばった。
「ぐ……っ」
痛みは消えていない。
むしろ新しい組織が肉を押し分けるたび、額へ脂汗が浮かんでいく。
やがて肩から、小さな角が生えた。
指ほどの長さ。
乳白色で、根元には薄い赤が走っている。
服を戻しても、盛り上がりは隠しきれない。
マヤはそれを見つめた。
消えていない。
バルがしたことも。
あの日の自分の声も。
痛みも。
ただ、別の形になった。
これからバルが町へ戻れば、その角を見た誰かが何かを言うかもしれない。
罪を喰われた者。
聖獣に触れられた者。
赦された者。
罰せられた者。
きっとまた、勝手な名前をつけられる。
けれど今度のそれは、何もなかったことにするための印ではなかった。
リオがバルの肩へ近づき、出血を確かめる。
「触るよ」
返事を待ってから、角の根元へ指を添えた。
バルが痛みに顔をしかめる。
「……痛い」
「だろうね」
リオは淡々と答えた。
少しだけ脈を確かめ、手を離す。
「消える感じはない」
バルは自分の肩へ触れた。
角の先へ指が当たり、すぐに引っ込める。
それから、小さく息を吐いた。
「……そうか」
落胆ではなかった。
安堵でもない。
ただ、受け取ったものの重さを確かめるような声だった。
ルクナ=サリオは、もうバルを見ていなかった。
傷ついた巨大な胸を上下させながら、赤い内海の方へ顔を向けている。
罪を赦したようには見えない。
裁いたようにも見えなかった。
ただ一つだけ、形が変わった。
消してほしいと願っていた罪が。
生きて背負えるものへ。
マヤは肩の花痕へ、もう一度触れた。
そこにはまだ、自分の痛みがある。
それでいいとは、まだ思えない。
けれど少なくとも。
消えないものを抱えたまま生きることと、誰かに消してもらうことは、同じではなかった。




