↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
59/64

第七節 ― 罪を消してくれ

 ルクナ=サリオの呼吸は、まだ浅かった。


 夜の色が落ちた頭蓋骨島で、巨大な胸がゆっくりと上下している。古傷の奥には赤い光が残り、角に咲いた黒花は風にも落ちなかった。


 リオが診療鞄へ道具を戻している間も、巡礼者たちは立ち去ろうとしなかった。


 先ほどまで祈りの対象だった聖獣が、脈を乱し、傷を開き、まともに休めてもいない。


 その事実をどう受け取ればいいのか、誰にも分からないのだろう。


 マヤにも分からなかった。


 ただ一つ、以前とは違って見える。


 白い獣は、何でも引き受けられるものではない。


 そう思ったとき、後ろで骨を踏む音がした。


 バルだった。


 顔は青ざめている。それでも足を止めず、ルクナ=サリオの前まで歩いていく。


「バル」


 骨渡りの老人が呼んだ。


 制止ではなかった。


 バルも振り返らない。


 巨大な白い獣を前にして、両膝を骨へついた。


 額までは伏せなかった。


 ルクナの金色の目を見上げたまま、震える息を吐く。


「俺の罪を消してくれ」


 白い獣は動かなかった。


 角の花が、夜風にわずかに揺れる。


 バルは待った。


 一息。


 二息。


 何も起こらない。


「……頼む」


 声が掠れた。


 ルクナの瞳は、ただバルを見ている。


 責めもしない。


 慰めもしない。


 バルの両手が骨の上で握られた。


「俺は、そのために来たんだ」


 返事はない。


「何年も……何をやっても消えなかった。酒を飲んでも、祈っても、謝っても、眠ればまた戻ってくる」


 マヤの肩がわずかに強張った。


 木漏れ日。


 縄。


 汗の臭い。


 遠ざかる村。


 身体の奥で、途切れた記憶が触れ合う。


 バルの声が大きくなった。


「罪を喰うんだろ」


 それでもルクナは動かない。


 バルは立ち上がりかけるほど身を乗り出した。


「喰ってくれ!」


 その瞬間、ルクナ=サリオが動いた。


 巨大な首がゆっくりと傾く。


 バルへ向いていた顔を、静かに横へ背けた。


 それだけだった。


 だが、拒絶だと誰にでも分かった。


 頭蓋骨島にざわめきが走る。


「なぜだ……」


 バルが呆然と呟いた。


 ルクナは見ようともしない。


「なんでだよ」


 声に熱が混じる。


 怒りなのか、恐怖なのか、もうバル自身にも分からないようだった。


「俺は認めてる! 後悔してる! ずっと苦しんできた!」


 一歩、前へ出る。


「それでも足りないっていうのか!」


 リオが顔を上げた。


 だが止めない。


 ルクナも振り向かない。


 バルの声が夜の湖へ響いた。


「何のための贖罪の聖獣だ!」


 巡礼者たちが顔を見合わせる。


 誰かが小さく祈りの言葉を唱え、別の誰かは黙ったまま自分の胸を押さえた。


 ここへ来た者の多くが、同じものを求めていたのだろう。


 背負っているものを、なくしてほしい。


 楽にしてほしい。


 白い獣なら、それができる。


 そう信じて。


「消してくれるんじゃないんだと思います」


 マヤの声は、大きくなかった。


 それでもバルが振り返った。


「……じゃあ何だ」


 マヤはすぐには答えなかった。


 ルクナの角を見る。


 白い蕾。


 赤い花。


 枯れても落ちない黒い花。


 次にリオの左腕を見た。


 巻き直された包帯の下に、白い毛と樹皮の痕がある。


 エラの姿も思い出した。


 そして自分の肩へ触れる。


 薄布の下には、消えない花の徴がある。


 どれも、なかったことにはなっていない。


「残すんじゃないですか」


 バルの眉が寄った。


「……残す?」


「生きて」


 マヤは自分の胸元へ触れた。


「忘れないように」


 バルが何かを言おうとした。


 その前に、マヤは続けた。


「あの日」


 喉の奥が狭くなる。


 それでも目を逸らさなかった。


「わたしが帰りたいって言ったの」


 バルの顔が固まった。


 風が閉じた花を揺らす。


 遠くで赤い水が骨へ当たり、低い音を立てた。


「聞きましたか」


 長い沈黙だった。


 バルは俯かなかった。


 逃げる場所を探すように目を動かすこともしなかった。


 ただ、マヤを見ていた。


 やがて唇が動く。


「……聞いた」


 マヤは何も言わない。


 バルの喉が鳴った。


「聞いた」


 今度は少しだけ、はっきりした。


「でも、運んだ」


 命令されたから。


 村の決まりだったから。


 自分が断っても、別の誰かがやったから。


 その言葉を、バルは一つも続けなかった。


「おまえが帰りたいって言ったのを、俺は聞いた」


 握っていた手がほどける。


「聞いて、それでも……俺が祭壇まで運んだ」


 マヤの中で、昨日よみがえった感触がまた動いた。


 肩へ食い込む布。


 背中の熱。


 揺れる視界。


 遠ざかる家。


 怖かった。


 今も、全部を思い出したいとは思えない。


 それでも、この人が今口にしたことだけは、消えてほしくなかった。


「忘れないでください」


 バルの目がわずかに揺れる。


「……それだけか」


「それだけです」


 許すとは言わない。


 罰を与えるとも言わない。


 何をすれば償えるのかも、マヤには分からない。


 それを考えるのは、自分の役目ではなかった。


 マヤは少し間を置いてから、自分の肩を見た。


「わたしも」


 指先が花痕へ触れる。


「覚えていられるところまで、覚えます」


 その言葉だけは、少し怖かった。


 自分の記憶は、ずっと同じ形では残らない。


 花が咲くたび、何かが遠くなる。


 もうバルの顔を忘れていたように、いつか今日のことさえ薄くなるかもしれない。


 だから、覚えている間は覚えている。


 許すためではない。


 憎み続けるためでもない。


 自分に起きたことを、誰かの都合のいい物語に変えさせないために。


 バルは長く黙っていた。


 やがて、ルクナ=サリオへ向き直る。


 今度は跪かなかった。


 白い獣と向き合ったまま、ゆっくり息を吐く。


「……消してほしくない」


 先ほどとは、声が違った。


 震えてはいた。


 けれど、祈りではなかった。


「俺がやったこととして、生きて持っていく」


 ルクナ=サリオの耳が動いた。


 マヤは息を止めた。


 白い獣が、初めてバルへ顔を戻す。


 金色の瞳の奥に、赤い輪が浮かんだ。


 バルは逃げなかった。


 ルクナが一歩踏み出す。


 巨大な前脚の爪が骨を掴む。


 もう一歩。


 バルの身体など、一噛みで消えてしまいそうな距離まで顔が近づいた。


 巨大な口が開く。


 牙が月明かりを受けた。


 巡礼者の誰かが悲鳴を飲み込む。


 バルは目を閉じなかった。


 ルクナの顎が、その左肩へ降りる。


 がちり、と牙が触れた。


「――っ!」


 バルの身体が跳ねる。


 噛み砕かない。


 だが優しくもない。


 牙が衣を裂き、皮膚へ食い込む。


 血が流れた。


 すぐにルクナは離れる。


 バルは肩を押さえ、膝をついた。


「バル!」


 骨渡りの老人が動きかける。


「待って」


 リオが低く止めた。


 血の間で、何かが動いていた。


 傷口が塞がっていくのではない。


 赤く濡れた皮膚の内側から、硬い白いものが押し出されてくる。


 バルが歯を食いしばった。


「ぐ……っ」


 痛みは消えていない。


 むしろ新しい組織が肉を押し分けるたび、額へ脂汗が浮かんでいく。


 やがて肩から、小さな角が生えた。


 指ほどの長さ。


 乳白色で、根元には薄い赤が走っている。


 服を戻しても、盛り上がりは隠しきれない。


 マヤはそれを見つめた。


 消えていない。


 バルがしたことも。


 あの日の自分の声も。


 痛みも。


 ただ、別の形になった。


 これからバルが町へ戻れば、その角を見た誰かが何かを言うかもしれない。


 罪を喰われた者。


 聖獣に触れられた者。


 赦された者。


 罰せられた者。


 きっとまた、勝手な名前をつけられる。


 けれど今度のそれは、何もなかったことにするための印ではなかった。


 リオがバルの肩へ近づき、出血を確かめる。


「触るよ」


 返事を待ってから、角の根元へ指を添えた。


 バルが痛みに顔をしかめる。


「……痛い」


「だろうね」


 リオは淡々と答えた。


 少しだけ脈を確かめ、手を離す。


「消える感じはない」


 バルは自分の肩へ触れた。


 角の先へ指が当たり、すぐに引っ込める。


 それから、小さく息を吐いた。


「……そうか」


 落胆ではなかった。


 安堵でもない。


 ただ、受け取ったものの重さを確かめるような声だった。


 ルクナ=サリオは、もうバルを見ていなかった。


 傷ついた巨大な胸を上下させながら、赤い内海の方へ顔を向けている。


 罪を赦したようには見えない。


 裁いたようにも見えなかった。


 ただ一つだけ、形が変わった。


 消してほしいと願っていた罪が。


 生きて背負えるものへ。


 マヤは肩の花痕へ、もう一度触れた。


 そこにはまだ、自分の痛みがある。


 それでいいとは、まだ思えない。


 けれど少なくとも。


 消えないものを抱えたまま生きることと、誰かに消してもらうことは、同じではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。