第六節 ― おまえも患者だ
ルクナ=サリオは、頭蓋骨島へ上がってから動かなかった。
赤い内海の向こうでは、太陽の最後の縁が骨の群れへ沈みかけている。空は青紫へ変わり、水面だけがまだ赤い。閉じた白花の間を夕風が抜けても、黒く枯れた花弁は一枚も落ちなかった。
巡礼者たちは跪いたままだった。
誰も顔を上げようとしない。
骨渡りの老人も、バルも。
マヤだけが中途半端に立ったまま、隣のリオを見ていた。
リオはルクナ=サリオの顔を見ていなかった。
いや、正確には一度見た。その後は、首、肩、胸、脚へと視線を移している。
マヤには見覚えがある目だった。
患者を前にしたときの目だ。
巨大な胸が上下する。
一度。
少し間が空いて、もう一度。
浅い。
あれほど大きな身体なのに、呼吸で動く範囲が狭い。
しかも左右が揃っていなかった。
右胸が膨らんだあと、左が遅れる。
古く裂けた胸の傷の側だ。
ルクナが一歩、前へ出た。
後脚がわずかに遅れた。
蹄が骨面を擦る。
前脚で体重を受けてから、右の後脚を引き寄せるように運んでいる。
マヤにも分かった。
「……脚」
小さく呟くと、リオが頷いた。
「庇ってる」
ルクナが首を動かした。
枝分かれした巨大角が夕闇を横切る。
角の根元で、赤い脈が目に見えて跳ねた。
一定ではない。
強く膨らんだかと思えば、次は弱い。
その周囲には白い蕾より、黒く枯れた花の方が多かった。
リオの眉間へ皺が寄る。
胸の大傷。
引きずる後脚。
浅く、左右差のある呼吸。
異常に脈打つ角の根。
落ちない黒花。
神話を見れば見るほど、病変ばかりが目についていく。
リオは小さく息を吐いた。
「……おい」
何人もの肩が跳ねた。
マヤも一瞬、聞き間違えたかと思った。
骨渡りの老人が、跪いた姿勢のまま顔だけを上げる。
「お、おいって……」
誰かが掠れた声を漏らした。
贖罪の聖獣。
サルバティアで何百年、あるいはそれ以上の時を罪とともに歩いてきた存在。
その相手に、リオはもう一度言った。
「おい。ちょっとじっとしてろ」
ざわめきが走った。
「先生」
さすがにマヤも呼んだ。
「なに」
「もう少し、こう……ありません?」
「なにが」
「敬意のある呼び方」
「今それどころじゃない」
本気だった。
マヤは口を閉じた。
ルクナ=サリオの頭がゆっくり下がる。
金色の瞳がリオを捉えた。
低い音が響いた。
唸りだった。
音というより、骨の中へ直接伝わる振動に近い。
頭蓋骨島そのものが震えたように感じた。
巡礼者たちがさらに身を低くする。
バルも息を呑んだ。
ルクナの口元がわずかに開く。
白い牙が見えた。
前脚の爪だけでも人の胴ほどある獣だ。
その顎なら、人間の身体など骨ごと砕ける。
リオは止まらなかった。
一歩進む。
ルクナがもう一度唸る。
「分かってる」
リオは静かに返した。
「俺も近づきたくて近づいてるわけじゃない」
マヤは思わず言った。
「それ、患者さんに言う台詞じゃないです」
「今は黙ってて」
「はい」
リオはさらに距離を詰めた。
五歩。
三歩。
近づくほど、ルクナの異常ははっきりした。
白金の毛並みは美しい。
だが胸元の毛は、乾いた赤で何度も固まっている。
古傷は塞がっているように見えて、呼吸のたび縁がわずかに開く。その奥で、血とも樹液ともつかない赤い生命液が薄く滲んでいた。
角の黒花には艶がない。
根元では脈動しているのに、先端だけが死んでいる。
生きようとする力が、末端まで届いていない。
リオはルクナの目の前まで来た。
巨大な顔が少し下がる。
吐息が髪を揺らした。
温かい。
甘い花の香りに、血と獣毛の匂いが混ざっていた。
その呼気の間隔まで、やはり短い。
「触るぞ」
返事はない。
当然だった。
リオは左腕の包帯へ手をかけた。
一巻きずつ外す。
夕闇の中へ、白い獣毛が現れる。
その下には樹皮のようなひび割れた皮膚。手首から肘へ、根を思わせる淡い光の筋が走っている。
指先は人の手の形を残していたが、爪だけが白く硬く伸びていた。
周囲の巡礼者が息を呑む。
マヤはそちらを見なかった。
見慣れている。
それでも、リオ自身がこの腕を人前に晒すことを好まないのは知っていた。
その左手が、ルクナの胸へ伸びる。
ルクナが牙を見せた。
低い唸りが強くなる。
リオの指先が一瞬止まる。
逃げない。
無理に押しつけもしない。
ただ、待った。
ルクナの金色の目と、リオの目が合う。
長い数秒だった。
やがて、唸りがわずかに低くなる。
リオは掌を置いた。
古傷のすぐ脇。
その瞬間、光が走った。
リオの左腕から。
ルクナの身体から。
白い毛の下にあった根状の光脈が、一斉に浮かび上がる。
同時にルクナの胸から腹、肩、首へ走る赤い線が強く輝いた。
二つの脈が接触点で重なる。
リオの身体が硬直した。
「先生?」
マヤが一歩出る。
返事はない。
左腕の光が、いつもより明らかに強い。
聖獣医師の《医脈》。
これまで人間や変異者、神格異常へ触れてきた診療器官。
だが、本物の聖獣そのものへ触れ、その生命脈を直接読むのは初めてだった。
入ってきたものの量が違った。
リオの呼吸が止まりかける。
脈。
ひとつではない。
胸の奥に巨大な拍動がある。
そこから枝分かれする無数の生命脈。
角へ。
花へ。
脚へ。
古傷へ。
さらに、もっと細い流れが全身に食い込んでいる。
見覚えのある流れだった。
花痕。
角。
獣毛。
根。
血晶。
人間たちの身体で、何度も見てきた生命変換の痕跡。
それがルクナの内部では、比較にならないほど大量に重なっていた。
ひとつを受け取り、別の形へ変える。
また受け取る。
変える。
さらに受け取る。
花へ。
角へ。
傷へ。
毛へ。
生命痕へ。
消えていない。
どこにも消えていない。
形を変え、身体の中へ残っている。
リオの額に汗が滲んだ。
さらに奥へ意識を沈める。
一度、脈が来た。
二度目が来ない。
遅れて強い拍動。
その次は弱い。
さらに一拍――抜ける。
リオが目を開いた。
「……脈が飛んでる」
マヤの顔から血の気が引いた。
リオは掌を離さない。
胸の動きを見る。
左右差。
傷の奥で脈が一度乱れるたび、角の根元が膨らむ。
黒花が微かに震える。
後脚へ流れる生命脈も細い。
身体は膨大な生命力で動いている。
なのに、その流れそのものが崩れかけていた。
「これでよく歩いてるな」
呆れたような声だった。
周囲の誰も、その言葉を咎められなかった。
リオの顔には、畏怖も感動もなかった。
あるのは患者を前にした医師の苛立ちだった。
こんな状態になるまで、どうして動き続けた。
どうして休まなかった。
どうして誰も診なかった。
そもそも――誰が、聖獣を診ようと思う。
祈る。
跪く。
罪を差し出す。
救いを求める。
その相手が傷ついているかどうかなど、誰が確かめる。
リオはルクナを見上げた。
「おまえも患者だ」
誰も声を出さなかった。
赤い内海の波音だけが、遠くで骨を叩いていた。
ルクナ=サリオは怒らなかった。
金色の瞳が細くなる。
それだけだった。
リオはようやく左手を離した。
膝がわずかに揺れたが、そのまま踏みとどまる。
掌には、赤い光がまだ残っている。
「先生」
マヤが近づく。
「大丈夫ですか」
「……たぶん」
「それ、わたしが言うと怒るやつですよ」
「今は許して」
「嫌です」
間を置かずに返され、リオは一瞬だけマヤを見た。
「水、飲んでください」
「はい」
診療鞄から出された水筒を受け取り、一口飲む。
その間も、目はルクナから離さなかった。
診察はまだ終わっていない。
リオは角を見上げる。
黒花が多すぎる。
古い傷は再び開いている。
角の根元は異常に脈打ち、心拍は飛ぶ。
後脚へ十分な生命脈が届かない。
さらに、身体全体に休止の波がほとんどない。
生き物の脈には揺れがある。
活動し、沈み、休み、また動く。
ルクナには、その沈む時間がなかった。
ずっと高いまま。
眠っていないのと似ている。
休めていない。
「……過負荷だ」
リオが呟いた。
骨渡りの老人が顔を上げる。
「なんだと?」
「まだ仮だ」
リオは自分に言い聞かせるように続けた。
「病名をつけるなら――《贖罪過負荷》」
マヤがルクナを見る。
「贖罪……?」
「こいつは罪を消してない」
リオは黒花を指した。
「少なくとも、俺が今読んだ脈では」
断言する範囲を慎重に選ぶ。
「受け取ったものを、別の生命反応に変えてる。花、角、毛、傷……形は違うけど、全部こいつの中に残ってる」
バルが膝をついたまま顔を上げた。
「残ってる……?」
その声に、リオは振り返らなかった。
「消えたように見えるだけだ」
ルクナの胸で、赤い脈が強く打つ。
一拍。
また一拍抜ける。
黒い花が震えた。
「ずっと受け取り続けて、変え続けてきた。けど今は、処理する速さより入ってくる方が多い」
リオの頭に、地下で見た記録が浮かんだ。
押し上げられる生命圧。
本来なら流れ、巡り、どこかへ抜けるはずのものが、行き場を失って積み上がっていた。
あの異常と、似ている。
同じだとは、まだ言えない。
だが無関係とも思えなかった。
「ヴェイン施療院の根脈観測井で見た、あの生命圧の上昇と……」
言いかけて、リオはそこで止めた。
マヤが見る。
「つながったんですか?」
「一部だけ」
リオは答えた。
「大陸側で生命圧が上がってる。それと、こいつの負荷が増えてる。原因まで同じかは分からない」
ルクナの角から、黒い花弁がひとつ落ちた。
初めてだった。
骨へ触れた瞬間、花弁は崩れず、黒いまま残った。
その下から、小さな白い蕾が押し出されるように膨らんでいる。
死んだ部分を落としても、すぐ次が生える。
休む暇がない。
マヤはその光景を見上げた。
罪を抱えきれなくなった人間が、ここへ来る。
それを受け取る獣がいる。
誰もが背負ってほしいと願う。
少しでも軽くなりたいと。
けれど。
背負わせる側にも、限界がある。
ルクナ=サリオの浅い呼吸が、暗くなった頭蓋骨島に響いていた。
リオはもう一度、胸の古傷を見る。
神でも、奇跡でも、贖罪そのものでもない。
少なくとも今、彼の目の前にいるのは。
罪を背負いすぎて、脈を乱している一頭の患者だった。




