第五節 ― 贖罪の聖獣
巨大な頭蓋骨の島へ着いたころ、赤い内海には夕暮れが降り始めていた。
頭蓋そのものが小高い丘になっていた。象牙色の骨を土と苔が覆い、片方の眼窩から育った森が、額から頭頂へかけて根を這わせている。崩れた鼻腔の奥には赤い水が入り込み、波が寄せるたび、洞窟のような低い音を返していた。
マヤは骨渡りの老人に続いて斜面を登った。
足元には白い花が多かった。
これまで見てきたものよりも、ずっと多い。骨のひび、樹根の隙間、古い祠の周囲。薄い花弁を重ねた小さな花が、夕陽を受けて淡い金色に透けている。
その中には、先端だけ黒く枯れたものも混じっていた。
リオは何度か足を止めたが、花を採らなかった。
「調べないんですか」
マヤが訊くと、彼はしゃがんだまま花の根元を見た。
「今までのと同じかどうか、抜かなくても分かるところまでは見る」
「先生、たまに花に優しいですよね」
「患者じゃない花まで切って歩く趣味はないよ」
「患者の花は切ります」
「必要ならね」
マヤは自分の肩を押さえた。
「わたしには厳しい」
「君は花じゃない」
あまりに当然のように返されて、マヤは一瞬だけ黙った。
リオはもう先を見ている。
そういうところが、ずるいと思う。
本人はたぶん、何も特別なことを言ったつもりがない。
後ろから足音がした。
バルが一定の距離を空けたまま登ってくる。
朝から一度も、マヤへ話しかけてはいなかった。
骨渡りの老人も、二人の間に何があったのか訊かなかった。この内海では、誰もが何かを抱えている。知らない方がいいことを、老人は長い間に覚えたのかもしれない。
頭蓋の頂近くまで来ると、視界が開いた。
赤い内海が、夕陽の下に広がっている。
昼間より赤かった。
西へ沈みかけた太陽が水面へ長い光の道を作り、その周囲だけが溶けた銅のように輝いている。湖面から突き出した肋骨や角礁は黒い影になり、遠くの背骨島は霞の中へ沈みかけていた。
美しい。
けれど、マヤは妙に落ち着かなかった。
胸の奥が熱い。
自分の心臓とは違う、もう一つの鼓動が、朝よりもはっきりしている。
どくん。
少し遅れて、また。
どくん。
「先生」
「うん」
「近い気がします」
何が、とリオは訊かなかった。
マヤ自身にも、それ以上うまく説明できない。
白い獣。
そう呼んできた何か。
姿を知らないのに、身体だけが近づいていることを知っている。
頭蓋の額にあたる場所には、小さな祠があった。
柱も屋根も古い骨で作られ、無数の花が供えられている。すでに何人もの巡礼者が集まっていた。
戦場帰りらしい男。
子どもの靴を抱えていた女。
片腕のない老人。
顔を布で隠した若者。
宿で見かけた者もいれば、別の舟で先に渡った者もいる。
誰も大きな声を出さなかった。
祈っている者もいた。
ただ座って湖を見ている者もいた。
バルは群れには入らず、マヤたちの後ろで足を止めた。
老人が空を見上げる。
「日が落ちる」
それだけ言った。
夕陽が、巨大な肋骨の向こうへ半分沈んだ。
そのときだった。
マヤの足元で、白い花が閉じた。
一輪。
花弁が、音もなく中心へ集まる。
その隣も。
さらにその先も。
まるで波が走るように、白い花が次々と閉じていった。
「……先生」
マヤが呼ぶより早く、リオも気づいていた。
祠の周囲。
眼窩の森。
骨の斜面。
遠くの角礁。
見える範囲すべての白花が、ほとんど同時に花弁を畳んでいく。
夕方だからではない。
日が残っている場所の花まで閉じている。
黒く枯れた先端だけが外へ残り、小さな黒い棘のように見えた。
次に、鳥の声が消えた。
それまで眼窩の森では、小さな鳥たちが枝から枝へ飛び交っていた。
羽音さえ止まる。
虫も鳴かない。
骨の穴へ打ち寄せる水音だけが、急に大きくなったように感じた。
マヤは森の方を見た。
獣がいた。
赤褐色の小鹿。
骨の間を歩いていた山猫。
枝の上には、尾の長い猿がいる。
逃げていない。
それが、かえって異様だった。
小鹿が前脚を折った。
ゆっくりと首を垂れる。
山猫は腹を骨へつけた。
猿は枝の上で身を低くする。
どの獣も、同じ方向を向いていた。
湖。
誰かが息を呑んだ。
骨渡りの老人が立ち上がる。
その顔から、いつもの皮肉な表情が消えていた。
赤い水面の、ずっと遠く。
夕陽の道の中に、白いものがいた。
最初は光だと思った。
波頭が夕陽を返しているだけの、細い白。
それが動いた。
一度、消える。
また現れる。
水面の上を、こちらへ進んでいる。
「……来た」
巡礼者の誰かが呟いた。
声が震えていた。
白い影が近づく。
一歩。
赤い水面に輪が広がる。
また一歩。
波紋が重なる。
マヤは目を凝らした。
水の上を歩いている。
そう見えた。
けれど、白い前脚が沈む直前、水面の下に黒いものが浮かぶ。
太い根だった。
一本ではない。
巨大な樹根が、水底から持ち上がるように内海を横切っている。その上を、白い獣は歩いていた。
普段は赤い水の下に隠れている道。
獣が踏むたび、根の表面がわずかに水を押し上げる。
白い姿が、少しずつ形を持つ。
鹿に似ていた。
だが、鹿ではない。
身体はあまりにも大きい。
湖上に立つ肋骨ほどではないにせよ、頭を上げれば小舟の帆柱を越えるだろう。
首から背へ流れる体毛は白金。
夕陽の角度が変わるたび、象牙色にも、薄い灰色にも見えた。純白ではない。古い骨や、乾いた花弁のような色だった。
胸と肩は厚い。
鹿の細さより、獅子の力強さに近い。
前脚が根を踏む。
大きな爪が見えた。
四本。
泥に残っていたものと同じ形。
続いて後脚が上がる。
蹄だった。
マヤは息を止めた。
一つの身体。
前脚の爪と、後脚の蹄。
これまで別々に見えていた足跡が、その一頭の歩みの中で初めてつながった。
次に目を奪われたのは、角だった。
巨大な枝角が、頭上へ樹冠のように広がっている。
骨ではない。
古木の枝にも、根にも見える。
そこに花が咲いていた。
赤い花。
血を吸ったように深い色。
まだ開いていない白い蕾。
そして、その間には黒く枯れた花がいくつも残っている。
風に揺れても落ちない。
角そのものが、長い時間を抱え込んでいるようだった。
白い体毛の下には、赤い線が走っていた。
首。
肩。
胸。
腹。
脚の内側。
血管に見える。
だが枝分かれの仕方は、樹根にも似ている。
赤い光は脈打つたびに薄く強まり、夕暮れの中で生き物の内部を外側へ透かして見せていた。
そして胸には、傷があった。
マヤはそこから目を離せなくなった。
古く、大きく裂けた傷。
胸を斜めに横切り、長い体毛を分けている。
塞がっていない。
赤いものが傷の奥に見える。
血なのか、光なのか分からない。
傷の縁にも白い花が咲き、その先端は黒く枯れていた。
あれほど大きく、美しく、周囲の獣すべてが頭を垂れる存在。
それなのに。
傷ついている。
白い獣は歩き続ける。
波紋だけが先に頭蓋骨島へ届く。
足元の赤い水が、かすかに震えた。
骨渡りの老人が膝をついた。
額を骨へ近づける。
それを合図にしたように、巡礼者たちも次々と跪いた。
子どもの靴を抱えた女。
戦場帰りの男。
片腕の老人。
顔を隠した若者。
誰も声を上げない。
祈りの言葉さえなかった。
ただ、頭を下げる。
バルも膝をついた。
震える手を骨の上へ置き、白い獣を見上げている。
その顔にあるものを、マヤは読もうとしなかった。
自分の足が動かない。
跪くべきなのだろうか。
周囲を見れば、そうするのが正しいように思える。
この大陸で長く語られてきたものが、今、自分の目の前へ歩いてきている。
怖い。
同時に、胸の奥がひどく懐かしかった。
覚えていないはずなのに。
身体のどこかが、この姿を知っている。
左肩の花痕が熱を持つ。
手首の蔓紋様が脈打つ。
背中の痕が疼き、髪の根元へ細かな熱が走った。
マヤは思わず一歩下がった。
白い獣が頭を上げる。
遠いはずなのに、目が合った気がした。
淡い金色の瞳。
その奥に、深い赤がある。
責めるような目ではない。
優しくもない。
ただ見ていた。
隠しているものまで、最初からそこにあると知っているように。
骨渡りの老人が、地面へ額を寄せたまま、掠れた声でその名を呼んだ。
「……ルクナ=サリオ」
空気が、その名を受け取った。
贖罪の聖獣。
罪を食む白き獣。
マヤはその名を胸の中で繰り返さなかった。
ただ、見た。
自分を供物にした人々が求めたもの。
バルが会いに来たもの。
多くの巡礼者が、自分の罪を軽くしてくれると信じているもの。
そして、自分の身体のどこかへ続いているかもしれないもの。
膝が震える。
跪くべきか、まだ分からない。
その横で、人の気配が動かなかった。
マヤは振り向いた。
リオが立っていた。
ただ一人。
跪いていない。
祠の前でも。
神格の名を聞いても。
巨大な聖獣がこちらへ向かってきても。
彼は立ったままだった。
不敬そうには見えなかった。
挑んでいるようにも見えない。
むしろ、誰より真剣だった。
金茶の目が、白い獣の全身を追っている。
角。
脚。
胸。
呼吸。
傷。
リオだけが、ほかの巡礼者とは違うものを見ていた。
マヤには、それが分かった。
皆が《贖罪の聖獣》を見ている。
リオは、一頭の生き物を見ていた。
ルクナ=サリオが、最後の根を踏み越える。
巨大な前脚が、頭蓋骨島の白い岸へ降りた。
爪が骨に触れ、乾いた音が響く。
白い花はすべて閉じたまま。
獣たちは頭を垂れたまま。
人々も跪いたまま。
夕陽が沈み、赤い内海から最後の光が消えていく。
暗くなり始めた島の上で、ルクナ=サリオの胸の傷だけが、赤く脈打っていた。




