第四節 ― 白い獣の痕跡
赤い内海の奥へ入るほど、人の道は骨の上へ移っていった。
巨大な背骨から張り出した白い稜線を歩き、ところどころで小舟へ乗り換える。古い骨は日に焼かれて乾いているように見えたが、朝露を吸った場所はひどく滑った。
「そこ、気をつけて」
「分かってます」
言いながらマヤが足を置き、つるりと滑った。
リオが無言で腕を掴む。
「……今のは骨が悪いです」
「骨に謝らせようか」
「何百年も前の骨に?」
「君が納得するなら」
「そこまで理不尽じゃありません」
後ろから、骨渡りの老人が鼻を鳴らした。
「喋ってる暇があるなら足元見ろ。ここで落ちても、下は浅くないぞ」
マヤは素直に前を向いた。
少し離れて、もう一人の足音がついてくる。
バル=セナだった。
宿を出たところから同じ道を歩いている。
ついて行っていいかとは訊かなかった。マヤも来るなとは言わなかった。昨日のことが片づいたわけではない。許したわけでもない。ただ、白い獣を探しているという目的地だけが同じだった。
だから、そのままにしている。
マヤは振り返らずに歩いた。
「止まれ」
先頭の老人が急にしゃがんだ。
骨の道が途切れ、わずかな土が溜まった窪地になっている。巨大な椎骨と椎骨の隙間に、雨と風が運んだ泥が薄く積もっていた。
リオが老人の横へしゃがむ。
泥の上に跡があった。
白い。
足跡そのものが白く染まっているのではない。踏み込まれた泥の縁に細かな白い粉が残り、その輪郭を浮かび上がらせていた。
リオは指を触れず、まず顔を近づけた。
「……爪」
大きな前脚だった。
肉球らしい沈みの先に、四本の長い爪跡が残っている。狼より幅があり、猫科に似ているが、爪を完全には引き込んでいない。
マヤも隣へしゃがむ。
「乳樹の根元に残っていた跡と似てます」
「うん」
「でも、ラウ=マリカで最初に見たのは、蹄跡だけでしたよね」
リオは返事をせず、足跡の先を目で追った。
二つ。
三つ。
爪跡は泥を横切り、白い骨の上へ出ている。
そこで消えた。
「なくなりました」
「いや」
リオが少し先を指す。
硬い骨面に、小さな欠けが二つ並んでいた。
半月形。
その次にも同じ形がある。
蹄跡だった。
マヤが爪跡と蹄跡を見比べる。
「別の獣が一緒に歩いた?」
「それなら歩幅が合いすぎる」
リオは立ち上がり、少し戻った。
泥の部分を見る。
前方へ深く沈んだ爪跡。その少し後ろに、今まで足跡だと思っていなかった細い割れ目が二つある。
蹄だった。
泥が柔らかすぎて輪郭が崩れ、見落としていた。
さらに一歩先。
爪。
蹄。
爪。
蹄。
ひとつの歩行の中に、二種類の足が並んでいる。
マヤの口がわずかに開いた。
「一頭……?」
「たぶん」
リオはまだ断定しなかった。
だが、これまで別々の獣だと思っていた痕跡が、初めて一本につながった。
前脚には爪。
後脚には蹄。
そんな生き物を、リオは知らない。
少なくとも普通の獣ではない。
「器用ですね」
マヤが言った。
「感想がそれ?」
「だって、前だけ爪で後ろだけ蹄ですよ。歩きにくくないんでしょうか」
「本人に訊いてみる?」
「会えたら先生が先に訊いてください」
「医者が最初に訊くことじゃない」
「じゃあ二番目で」
リオは何も返さず、泥の端へ視線を落とした。
白い小花が咲いていた。
足跡の中から、一本だけ。
花弁は薄く、朝の光を受けると半透明に見える。ラウ=マリカの雨上がりの夜、白い蹄跡の中で黒く枯れていった花とよく似ていた。
ただし、先端が黒い。
墨を染み込ませたように、白から黒へゆっくり色が落ちている。
「触らない方がいいですか」
マヤが先回りして訊いた。
「今日は偉いね」
「昨日から先生の顔を見れば分かるようになりました」
「それは診断じゃなくて警戒だよ」
リオは診療鞄から細い金属棒を取り出し、花弁をそっと持ち上げた。
黒い部分は乾いている。
腐っているのではない。
水分だけを急速に失ったように、薄く硬く枯れていた。
しかし、茎は生きている。
白い根は泥の中へ入り、まだ水を吸っている。
「変ですね」
「何が?」
「普通なら、ここまで枯れたら落ちる」
後ろから老人が言った。
二人が振り返る。
老人は顔をしかめ、骨の隙間に咲く花を見ていた。
「昔から白い花は出る。あいつが通ったあとにな。先が黒くなることもある。だが黒くなったところは、二、三日もすれば落ちた」
「今は?」
「残る」
老人は杖代わりの櫂で周囲を示した。
言われて初めて気づいた。
骨の割れ目。
角礁の根元。
小さな祠の屋根。
供えられた古い花の隙間。
あちこちに黒がある。
遠目には煤か苔に見えていた。
だが、近づけば全部、花だった。
白く咲き、先端だけ黒く枯れ、そのまま落ちずに残っている。
「いつ頃から増えました?」
「急に目立つようになったのは、ここしばらくだな」
老人はそこで言葉を切った。
「もっと嫌なのもある」
彼が向かったのは、湖畔へ大きく突き出した肋骨だった。
表面は風雨で滑らかになっている。その根元近く、ちょうど人の胸ほどの高さに、深い溝が何本も走っていた。
リオが近づいた。
傷は新しくない。
縁が丸い。長い時間をかけて削られている。
だが自然に割れたものでもない。
並び方が一定だった。
「牙……」
マヤが呟く。
上下から噛み込んだ跡がある。
一度ではない。
同じ場所へ、何度も。
肉が残っていた時代についた傷には見えなかった。牙は骨を割ろうとしたのではなく、まるで何かを確かめるように、古い骨そのものへ繰り返し立てられている。
「食べた跡じゃないですね」
「うん」
リオは溝の奥を覗き込んだ。
そこで、赤いものが光った。
小さな粒だった。
乾いた血が結晶になったような、暗い赤。
リオの表情が変わる。
「マヤ、鞄」
言われる前に、マヤは診療鞄を開いていた。
「血読針?」
「細い方」
「はい」
針を受け取り、リオは結晶の端をわずかに削った。
赤い粉が先端へつく。
匂いを確かめ、次に包帯をずらした左手の指先へ針を添えた。
白い獣毛の下で、根のような光が一瞬だけ走る。
すぐにリオは手を離した。
「人の血じゃない」
「獣ですか?」
「それだけなら、こんな反応はしない」
左腕を見下ろす。
包帯の下の光が、まだ完全には消えていない。
「聖獣性が高い。血というより……生命液に近い」
「この骨のもの?」
マヤが訊く。
「分からない」
リオは結晶を小瓶へ落とした。
「噛んだ側かもしれないし、骨から出たものかもしれない」
老人が低く言った。
「骨からだよ」
リオが顔を上げる。
「見たの?」
「ああ」
老人は湖へ突き出した巨大骨を見た。
「こんなのだけじゃない。古い骨から赤い汁が出る。傷のところからな。昨日今日ついた傷じゃない。俺の爺さんの爺さんより前からあった噛み跡からだ」
マヤが骨へ目を戻した。
白い骨。
何百年も前に死んだはずの、名も分からない巨大な聖獣。
そこに刻まれた古い傷。
その奥から、赤いものが滲んでいる。
美しかった。
陽光を受けた結晶は宝石のように透けていた。
だからこそ、その光景はひどく気味が悪かった。
死んで乾いたはずのものが、いまになって再び傷口を開いている。
リオの頭に、別の場所の記録が浮かんだ。
ヴェイン施療院の地下。
生命が過剰に押し込められた場所で見た、地下生命圧の記録。
正常とは言えない上昇。
局所的な異常として片づけるには、引っかかる数字。
そして今。
遠く離れた赤い内海で、数百年前の骨が再び生命のようなものを滲ませている。
「……ここもか」
声が漏れた。
マヤがすぐに振り向く。
「何がです?」
リオは答えかけて、やめた。
まだ線が足りない。
白い獣。
黒く枯れたまま落ちない花。
古骨から出る赤い生命液。
地下で上がっていた生命圧。
同じ現象なのか。
ただ似ているだけなのか。
ここで名前をつければ、それに引っ張られる。
「まだ分からない」
リオはそう言って、小瓶を鞄へ戻した。
マヤは少しだけ不満そうな顔をしたが、追及しなかった。
「分かったら教えてください」
「分かったらね」
「先生、ときどき分かっても黙ります」
「確信がない時は言わないだけ」
「それを黙るって言うんです」
「医者が適当なことを言うよりいいだろ」
「それはそうです」
納得したらしい。
リオが立ち上がると、後ろにいたバルも動いた。
ずっと何も言わず、数歩離れたところにいる。
巨大骨の噛み痕を見ていた顔は青ざめていたが、帰ろうとはしなかった。
マヤは一度だけ、彼を見た。
バルもこちらを見る。
何も言わない。
マヤは視線を外した。
来たいなら来ればいい。
止める理由も、導く理由もなかった。
彼が何を考えているのかも、今は知る必要がない。
同じ道の先に用がある。
それだけだった。
「行くぞ」
老人が前を向いた。
その先では、巨大な角礁が赤い水面から林のように突き出している。
角の一本に、小さな祠が建っていた。
屋根も柱も、白い花で覆われている。
風が吹いた。
花弁が揺れる。
けれど一枚も落ちなかった。
白い花の先端だけが、黒く枯れたまま空を向いていた。
その下を縫うように、骨の上へ二種類の足跡が続いている。
爪。
蹄。
爪。
蹄。
一頭の何かが、赤い内海のさらに奥へ向かっていた。




