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第三節 ― 許す役

 翌朝の赤い内海は、前日よりも静かだった。


 風が弱く、赤い水面には大きな波ひとつない。遠くで巨大な肋骨が朝靄を突き抜け、その白い弧だけが空へ浮かんで見える。岸辺には夜露を含んだ花がいくつも伏せるように咲き、湿った土からは鉄に似た匂いがした。


 マヤは宿から少し離れた湖畔に座っていた。


 膝を抱えるほど縮こまってはいない。ただ、平たい骨の欠片を椅子代わりにして、水面を眺めている。


 昨夜のことは、夢には出なかった。


 その代わり、目を覚ましたときから肩が痛かった。


 傷はない。


 縄の痕もない。


 それでも布が食い込んでいた場所を、身体だけが覚えている。


 マヤは無意識に鎖骨のあたりへ指を当て、すぐに離した。


「吐き気は?」


 後ろから声がした。


 リオだった。


 診療鞄を肩に掛け、片手に水筒を持っている。マヤの横へは座らず、少し離れた岩へ腰を下ろした。


「ありません」


「頭痛」


「ないです」


「熱っぽさは」


「ないです」


「花は?」


 マヤは襟元を少し引いて、左肩を確かめた。


 淡い花痕はいつも通りだった。


「増えてません」


「じゃあ、今のところ身体反応は落ち着いてる」


「先生」


「なに」


「朝からずっと診察ですね」


「患者だからね」


「こういうときだけ便利な言葉ですね、患者」


「便利じゃないよ。面倒が増える」


 マヤは少しだけ口元を緩めた。


 昨日の夜から、リオはあの男について何も訊かなかった。


 思い出したことも。


 覚えていないことも。


 自分から話さなければ、そこへ手を突っ込んでこない。


 それが今はありがたかった。


 湖面の向こうから、水鳥が一羽飛び立った。


 その羽音に重なるように、背後で砂利を踏む音がした。


 リオがそちらを見る。


 マヤも振り返った。


 バル=セナが立っていた。


 昨日よりひどい顔をしていた。


 眠っていないのだろう。目の下が黒く、無精髭の伸びた頬には血の気がない。昨日震えていた手は、今は強く握りしめられていた。


「……話を」


 声が掠れている。


 マヤは答えなかった。


 バルの視線が一度リオへ向いた。


 リオは何も言わない。


 席を立つこともしなかった。


 ただマヤを見る。


 続けるかどうかを、彼女へ預けている。


 マヤは赤い水面へ目を戻した。


「ここでいいです」


 バルが息を呑んだ。


 ゆっくり近づいてくる。


 昨日、マヤが一歩下がった距離よりも遠いところで、自分から止まった。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 岸へ小さな波が届き、骨片の間で細く砕ける。


「昨日は……」


 バルが言った。


「悪かった」


 マヤは膝の上へ置いた自分の手を見た。


 まだ、顔は思い出せない。


 この男の背中に乗せられていたという確かな映像もない。


 けれど、声を聞くと肩の奥が強張る。


 身体は、この人を知らないとは言ってくれなかった。


 バルは言葉を探していた。


 何度か唇を動かしてから、ようやく絞り出す。


「許してくれ」


 マヤの指先が止まった。


 バルは続けた。


「頼む」


 声が震えた。


「俺はずっと――」


「わたしが許せば、あなたは楽になるんですか」


 マヤが遮った。


 自分でも、思ったより静かな声だった。


 バルは口を開いた。


 何か言おうとした。


 だが、言葉が出てこない。


 目が泳ぎ、水面へ落ちる。


 その沈黙だけで十分だった。


 マヤはバルを見た。


「だったら、嫌です」


 バルの肩がわずかに落ちた。


「……」


「あなたが楽になるために」


 胸の奥で、嫌なものがひとつずつ形になっていく。


 供物。


 神に渡すための少女。


 死なずに帰ってきたら、聖女。


 花が咲けば奇跡。


 アマルには救済の証。


 誰かが望むたび、勝手に名前をつけられる。


 役割を渡される。


 その役に合うように笑うことを求められる。


 今度は。


「今度はわたしが、許す役をするんですか」


 バルが顔を上げた。


 マヤは逸らさなかった。


「あなたがずっと苦しんできたから、わたしが許したら終わりですか」


「違う」


 反射的な否定だった。


「違うんだ。俺はそんな――」


「じゃあ、どうして最初に『許して』なんですか」


 バルの言葉が止まった。


 マヤの胸は速く上下していた。


 怒鳴ってはいない。


 泣いてもいない。


 それでも、喉が少し痛い。


「わたし、覚えてないんです」


 マヤは言った。


「あなたの顔も。昨日まで、名前も知りませんでした」


 バルの目元が歪む。


「……ああ」


「でも、身体は覚えてました」


 右手が、自分の肩へ上がった。


 布の感触。


 縄。


 汗。


 誰かの背中。


 揺れる木漏れ日。


「帰りたいって言ったことも」


 バルの顔から、さらに血の気が失われた。


 その反応を見て、マヤは分かった。


 この人も覚えている。


 今はそれだけでよかった。


「わたしは、あなたが何年苦しんだか知りません」


「……」


「どんなふうに後悔したのかも、知らないです」


 マヤはいったん言葉を切った。


 自分の手首に細い蔓の痕が浮いている。


 昨日より濃くなっているわけではない。ただ、朝の光の中ではよく見えた。


「でも、それを知ったら、わたしが許さなきゃいけなくなるんですか」


「そんなことは……」


 バルの声は小さかった。


「頼む」


 また、その言葉が出た。


 今度は先ほどより弱かった。


「俺は……どうしたらいいんだ」


 その問いに、マヤはすぐ答えなかった。


 ほんの少し前までなら、自分が何か言わなければいけない気がしたかもしれない。


 優しい言葉。


 相手が少し楽になる言葉。


 大丈夫です、と言うように。


 自分が痛くても、先に相手を安心させるように。


 そういうことを、ずっとしてきた気がする。


 けれど今は。


「知りません」


 マヤは言った。


 バルが固まった。


 マヤ自身も、少しだけ胸が痛んだ。


 だが、言い直さなかった。


「わたしに聞かないでください」


 湖の向こうで、巨大な骨の影が赤い水へ落ちている。


 バルは何も言えずに立っていた。


 やがて、握っていた手をゆっくり開いた。


 掌には、爪が食い込んだ跡が残っていた。


 謝罪を拒まれた怒りはなかった。


 ただ、行き場を失った顔だった。


 その顔を見ても、マヤは続きを与えなかった。


 慰めなかった。


 許さなかった。


 何をすればいいかも教えなかった。


 しばらくして、バルは小さく頭を下げた。


 深くはない。


 祈るようでもない。


 ただ、自分の身体を少し折っただけだった。


 それから背を向ける。


 湖畔の道を、ゆっくり宿の方へ戻っていった。


 その姿が見えなくなるまで、リオは一度も口を挟まなかった。


 マヤは水面を見たまま言った。


「先生」


「うん」


「何も言わないんですね」


「言ってほしかった?」


 マヤは少し考えた。


「……分かりません」


「じゃあ、それでいい」


 リオは水筒の栓を閉めた。


 それだけだった。


 許さなくていいとも言わない。


 いつか許せとも言わない。


 マヤの答えを、別の正しい言葉へ直そうともしない。


 赤い内海から、朝の風が吹いてきた。


 マヤは目を細める。


 胸の奥に残っているものは、少しも軽くなっていなかった。


 それでも、自分の口から出した「嫌です」と「知りません」だけは、誰にも決められていない。


 それが妙に確かなものとして、身体の中に残った。

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