第二節 ― 許してほしい男
赤い内海の入口にある集落は、巨大な背骨の根元へ寄り添うようにできていた。
骨渡りの舟を降りると、まず鼻についたのは煙だった。湿った薪を焚く青臭い煙と、魚を焼く脂の匂い。その奥に、赤い水から立ち上る鉄臭さと、祠へ供えられた花の甘い香りが混じっている。
家々は骨と木を組み合わせて造られていた。白く風化した肋骨を柱代わりにした軒。背骨の窪みを利用した物置。道の端には巡礼者が置いていった花が点々と並び、雨に濡れた花弁が骨の白さへ張りついている。
マヤは舟を降りた途端、ふらつく足元より先に道端の屋台へ目を向けた。
「先生」
「駄目」
「まだ何も言ってません」
「魚を見てた」
「見ただけです」
「串焼きも見てた」
「よく見てますね」
「君を見失うとだいたい食べ物の前にいるからね」
屋台では、赤い内海で獲れるらしい平たい魚が葉に包まれ、炭火の上で焼かれていた。皮が弾けるたびに香辛料を含んだ脂が落ち、火が小さく鳴る。
マヤは名残惜しそうに振り返った。
「夕食に出るでしょうか」
「宿に着く前から夕食の心配?」
「歩いたので」
「俺も歩いた」
「先生は食事を忘れます」
「忘れてない」
「昨日のお昼は?」
リオが黙った。
「ほら」
「……宿を探そう」
「逃げましたね」
そんなことを言いながら歩いていられたのは、宿へ入るまでだった。
巡礼者宿は集落の奥、巨大な骨の節を背にして建っていた。
扉の上には宿の名ではなく、白い花を一輪くわえた獣の木彫りが下がっている。風が吹くたび、その下に結ばれた細い骨片が触れ合い、乾いた音を鳴らしていた。
中は思ったより広かった。
土間の中央に炉があり、その周囲へ長卓が三つ。壁際には旅具や濡れた外套が吊られ、奥へ二階へ上がる階段が続いている。
宿泊客のほとんどは、舟で見かけた巡礼者だった。
革鎧を畳んで抱えていた男が、一人で酒を飲んでいる。子どもの靴を持っていた女は、卓の隅で花を束ねていた。ほかにも、誰とも目を合わせず食事をする者、祠から持ってきたらしい土を小袋へ詰めている者がいる。
静かだった。
無言ではない。食器の触れる音も、炉の薪がはぜる音もする。だが、誰も必要以上の声を出さない。
ここへ来た理由を、互いに訊かない場所なのだとマヤにも分かった。
「二人、一晩」
リオが帳場へ声をかける。
宿の女主人が顔を上げ、診療鞄とマヤを順番に見た。
「奥へ行くのかい」
「そのつもりです」
「なら朝は早いよ。骨渡りは日が高くなる前に出る」
鍵代わりの木札を二枚出してから、女主人は炉を顎で示した。
「食事は魚の香草煮。まだある」
マヤがリオを見た。
「そんな顔をしなくても頼むよ」
「どんな顔ですか」
「俺が食事を断ると思ってる顔」
「先生、成長しましたね」
「君に言われたくない」
少しだけ、空気が戻った。
そのときだった。
炉の向こうで、陶器の杯が卓へ当たった。
硬い音が一度。
マヤは何気なくそちらを見た。
一人の男がいた。
三十代の終わりか、もう四十を越えているかもしれない。日に焼けた顔。伸びかけの髭。古い旅衣。目立つところのない、ごく普通の男だった。
その男が、マヤを見ていた。
見ているというより、動けなくなっていた。
杯を持った右手が途中で止まっている。
指先が震えていた。
血の気が、目に見えて引いていく。
マヤは自分の背後を見た。
誰もいない。
もう一度、男を見る。
やはり自分を見ている。
「……?」
男の唇が動いた。
声は出なかった。
喉だけが上下する。
リオも気づいていた。だが前へ出ることはせず、マヤの少し横へ立った。
男が椅子を引いた。
脚が床を擦り、宿の中でひどく大きな音を立てる。
周囲の何人かが顔を上げた。
男はそれにも気づかない。
一歩。
マヤへ近づく。
また一歩。
近くで見ると、震えているのは手だけではなかった。
顎まで小さく揺れている。
「……マヤ」
名前を呼ばれた。
マヤは眉を寄せた。
知っている声ではない。
少なくとも、そう思った。
顔にも覚えがない。
港で会った者でも、旅の途中ですれ違った者でもない。
それなのに、男は何年も探し続けたものを突然目の前へ突きつけられたような顔をしている。
「……誰ですか?」
男の呼吸が止まった。
ほんの一瞬、本当に息をすることを忘れたようだった。
手から杯が滑る。
陶器が床へ落ち、割れた。
酒が土間へ染み込む。
「……俺だ」
かすれた声だった。
マヤは答えられずにいる。
男は自分の胸元を掴んだ。
「俺だ。……俺……」
「?」
「あの日……」
そこで声が途切れた。
目を閉じる。
何度か息を吸おうとして、うまく吸えない。
宿の誰も口を挟まなかった。
リオも、黙っていた。
男がようやく目を開ける。
今度は逃げなかった。
「おまえを運んだ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
マヤの肩が、勝手に強張った。
記憶は戻らなかった。
男の顔を見ても、何も浮かばない。
いつ、どこで会ったのかも分からない。
なのに身体だけが知っていた。
肩へ、何かが食い込んだ。
「……っ」
痛みではない。
今ここには何もない。
それでも布の感触がある。
硬く引かれた布が、鎖骨の近くへ食い込んでいる。
胸の下を締めつける縄。
息を吸うたび、それが擦れる。
鼻の奥へ、汗の臭いが入った。
男のものだ。
知らないはずなのに、そう思った。
視界が揺れる。
宿の炉が消えた。
代わりに緑が流れていく。
木漏れ日。
葉。
地面。
誰かの肩越しに見える細い道。
自分の足は地面についていない。
背負われている。
身体を固定する布。
歩くたび、揺れる。
遠くに家々が見えた。
小さくなっていく。
村だった。
帰る場所だった。
なのに、遠ざかっていく。
喉がひどく乾いていた。
何度も何かを言おうとして、言えなかった。
前を歩く人間たちは振り返らない。
布が肩へ食い込む。
汗。
揺れ。
木漏れ日。
遠ざかる村。
その先。
石。
根。
白い布。
祭壇。
『帰りたい』
声がした。
幼い声ではなかった。
今より少し細い、自分の声だった。
「――っ」
胃がひっくり返った。
マヤは口元を押さえた。
次の瞬間、身体を折った。
「マヤ」
リオの腕が入る。
倒れるより先に肩を支えられ、そのまま床へ膝をついた。胃の中のものがこみ上げ、マヤは土間の端へ吐いた。
喉が焼ける。
息ができない。
涙が勝手に滲んだ。
「無理に吸わなくていい。吐いて」
リオの声が近い。
背中へ手が添えられている。
強く撫でるでも、抱き込むでもない。ただ、倒れないだけの力で支えていた。
吐けるものがなくなっても、身体はしばらく痙攣するようにえずいた。
「水」
宿の女主人が差し出した椀を、リオが受け取る。
すぐには飲ませない。
マヤの呼吸が少し戻ってから、口元へ寄せた。
「一口だけ」
水が唇へ触れる。
冷たい。
それだけで、ようやく宿の中へ戻ってきた気がした。
炉の熱。
魚の香草煮の匂い。
割れた杯。
床へ染みた酒。
そして、少し離れた場所に立つ男。
バル=セナ。
その名を、誰かが小さく呼んだ。
男が一歩、近づこうとした。
リオは見た。
だが、止めなかった。
手を上げることも、間へ入ることもしない。
マヤはそのことに気づいた。
たぶん、今ならリオが止めてくれと言えば、すぐ止める。
ここから連れ出してほしいと言えば、そうする。
けれど、先には決めない。
マヤは水の椀を握ったまま、バルを見た。
顔はやはり思い出せなかった。
それが逆に怖かった。
身体はこんなにも覚えているのに。
男の汗の臭いを。
背中の揺れを。
肩を締めつけた布を。
遠ざかっていく村を。
あのとき口にした言葉を。
バルが、もう一歩踏み出しかける。
マヤは一歩、後ろへ下がった。
それだけだった。
バルの足が止まった。
近づけと誰も言わない。
離れろとも誰も言わない。
二人の間には、ほんの数歩分の距離しかなかった。
けれど今のマヤには、それが必要だった。
バルは俯いた。
握りしめた手が、まだ震えている。
マヤは胸元へ手を当てた。
二つの鼓動が重なるように速く鳴っていた。
思い出したわけではない。
許したわけでもない。
ただ、自分の身体が一度だけ確かに言った言葉を、マヤはもう知ってしまった。
――帰りたい。
その願いを聞いた誰かが、目の前にいた。




