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第一節 ― 赤い内海

 密林の道は、とうに道ではなくなっていた。


 マヤは顔の前へ垂れてきた蔓を片手で払い、その直後、足首に別の蔓を引っかけた。危うく前のめりになったところを、先を歩いていたリオが振り返りもしないまま腕を伸ばして支える。


「見えてたなら教えてください」


「見えてたから止めた」


「転ぶ前にお願いします」


「そこまで面倒を見る契約だったかな」


「患者を転ばせる医師は評判が悪くなりますよ」


「最近は患者の方がよく動くからね」


 マヤは口を尖らせたが、言い返すより先に、首筋へ冷たい雫が落ちて肩をすくめた。


 朝まで降っていた雨が、密林の天井にまだ大量に残っている。葉を押し退けるたび、水滴が髪や肩へ落ちてきた。湿気は肌へまとわりつき、土は踏むたびに柔らかく沈む。濡れた腐葉土と樹液の青臭さに、どこかで熟れきった果実の甘い匂いが混じっていた。


 これまで歩いてきた森より、獣道はずっと狭い。


 人が通るためにつくられた道ではないのだろう。根と根の隙間を縫い、ときには巨木の下をくぐり、急な斜面を横切る。リオはヴェイン施療院で写した目撃地点の印と、木に残された古い骨渡りの道標を何度も見比べていた。


「まだですか」


「さっきも聞いた」


「そのときより近づきました」


「その理屈なら、一歩ごとに聞けるな」


「そうですね」


「やめてくれ」


 マヤは少し笑った。


 笑えるうちは、まだ大丈夫だと思った。


 左鎖骨の奥では、朝からずっと二つ目の鼓動が落ち着かない。速くはない。ただ、自分の心臓とは少しずれた間隔で、こつ、こつ、と身体の奥を叩いている。


 白い獣の目撃が増えている。


 死ぬはずだった者のそばに現れ、花を噛み、足跡を残して消える何か。その痕跡が、ここ数か月、赤い内海と呼ばれる場所へ集まっている。


 それを知ってから、マヤが来ると言った。


 リオに連れてこられたのではない。


 自分で来た。


 その事実を確かめるように、マヤはぬかるみへ足を沈め、もう一歩進んだ。


「止まって」


 不意に、リオが言った。


 また何か踏みそうになったのかと思い、マヤは慌てて足元を見る。


 根しかない。


「何ですか?」


 返事がない。


 リオは前を見ていた。


 その先には、薄暗い密林しかないはずだった。


 マヤも顔を上げる。


 数歩先で、緑が終わっていた。


 木々の幹が途切れている。蔓も、葉も、その一点を境に急に薄くなり、向こう側から白い光が差し込んでいた。


 二人はほとんど同時に歩き出した。


 最後の灌木を抜ける。


 風が来た。


 湿った森の風ではなかった。広い水面を渡ってきた、わずかに鉄の匂いを含む風だった。


 マヤは何かを言おうとして、口を開いたまま止まった。


 空があった。


 それまで頭上を塞いでいた樹冠が消え、青い空が端から端まで広がっている。その下に、赤い水があった。


 湖、と呼ぶには大きすぎた。


 対岸は霞み、場所によっては水と空の境さえ曖昧になっている。外海のように大きな波は立たないが、風を受けた水面がゆっくりとうねり、光を返すたび、朱から錆色、赤褐色、深い葡萄色へと色を変えた。


 血の池には見えない。


 もっと澄んでいた。


 赤い硝子を溶かして、巨大な盆地いっぱいに満たしたようだった。


 そして、その水面から骨が生えていた。


 巨大な肋骨が、何本も空へ弧を描いている。


 一番近いものだけでも、港の船の帆柱よりはるかに高い。白ではなく、長い年月に焼かれた象牙色で、表面には黒い苔と細い根が絡みついている。


 遠くには、島のような背骨が連なっていた。


 一節一節の間に森が育ち、鳥の群れが飛んでいる。


 さらにその奥。


 水面から突き出した頭蓋骨があった。


 何の獣だったのか、マヤには分からない。家一軒どころではない。小さな集落なら、その眼窩の中に収まりそうだった。


 片方の眼窩から水が滝になって落ちていた。


 もう片方には、大樹が一本、根を張っている。


 枝葉が風に揺れていた。


「……これ」


 ようやく声が出た。


「全部、骨ですか」


「少なくとも、見えてる範囲はね」


 リオの返事も、いつもより少し遅かった。


 彼も足を止めている。


 こういう時でも先に歩き出す人だと思っていたので、マヤは横顔を見た。


 リオは黙って赤い内海を見ていた。


 医師の目ではなかった。


 病変を探しても、脈を読んでもいない。


 ただ、見ている。


 それが少しおかしくて、マヤは言った。


「先生も驚くんですね」


「驚くよ」


「知っていたのかと思いました」


「知ってるのと、見るのは違う」


 その言葉に、マヤはもう一度、水面へ目を戻した。


 確かに違った。


 赤い内海。


 聖獣の墓場。


 名前だけなら聞いたことがある。


 けれど、名前の中には風の匂いも、骨の大きさも、こんな空の広さも入っていなかった。


 崖を下る細い道の先に、小さな船着き場があった。


 粗い杭に数隻の小舟が繋がれている。船といっても、二人と荷物、それに船頭が乗ればいっぱいになる程度のものだった。


 船着き場の脇には、骨片を積んだ小さな祠がある。


 そこへ、一人の女が白い花を供えていた。


 その後ろにも人がいる。


 観光に来た者には見えなかった。


 荷物が少ない。


 笑っている者もいない。


 頬に古い刀傷のある男は、戦場帰りらしい擦れた革鎧を畳んで抱えていた。少し離れたところでは、年嵩の女が子ども用の小さな靴を胸に抱き、祠の前から動けずにいる。


 片腕のない男。


 水夫らしい日焼けした老人。


 手首に縄痕の残る若者。


 顔を布で隠した者もいた。


 祠へ置かれる花も、皆同じではない。白いもの。赤いもの。乾いて黒くなったもの。誰も供えた理由を説明しない。


 それでも、マヤには分かった。


 ここへ来る人々は、何かを置いて帰りたいのだ。


 荷物ではない何かを。


「次は三人か」


 しゃがれた声がした。


 船着き場の端で、小舟を直していた老人が顔を上げた。


「二人です」


 リオが答える。


「医者の鞄も一人に数える」


「料金を取る気ですね」


「沈んだら三人分助けることになる」


「鞄は泳ぎませんよ」


「なら先に沈めておけ」


 老人は鼻で笑い、縄を解いた。


 日に焼けた肌は樹皮のように皺が深い。片目が白く濁っていたが、残った目はひどくよく動いた。水面よりも、その下を見ている目だった。


「骨渡りですか?」


 マヤが訊くと、老人は顎で舟を示した。


「乗ればそう呼ばれる。落ちれば、別のものになる」


「別のもの?」


「水死体」


「そこは普通なんですね」


 マヤが小さく呟くと、リオが横で肩を揺らした。


「笑わないでください」


「笑ってない」


「笑いました」


「気のせいだ」


 舟へ乗り込むと、底板がぎしりと鳴った。


 老人が細長い櫂で岸を押す。


 赤い水へ、舟が滑り出した。


 近くで見ると、水そのものは思った以上に澄んでいる。舟の下を、細い魚が銀色の腹を返しながら泳いでいた。そのさらに下には、沈んだ骨の影が横たわっている。


 どれほど深いのか分からない。


 一本の骨が、家ほどの太さのまま暗い水底へ消えていた。


 舟は最初の肋骨へ向かった。


 遠くから巨大だとは思っていた。


 真下へ来ると、感覚がおかしくなった。


 骨のアーチが空を横切っている。ひび割れた表面には土が溜まり、そこから草が生え、白い小花まで咲いていた。鳥が巣を作り、細い蔓が水面近くまで垂れている。


「聖獣って、こんなに大きくなるんですか」


 マヤが見上げたまま訊いた。


「分からない」


 リオは即答しなかった。


「今いる聖獣と同じものだったかも、骨がどれだけ昔のものかも。勝手に決めない方がいい」


「先生が分からないって言うと、ちょっと安心します」


「どういう意味かな」


「ちゃんと人なんだなって」


「今さら?」


 マヤは答えず、水面へ指を伸ばした。


「触らない」


「まだ触ってません」


「触る顔をしてる」


「顔で診断しないでください」


「君の場合はかなり当たる」


 マヤは不服そうに手を引っ込めた。


 舟は肋骨を抜け、角礁へ入った。


 今度は赤い水面から、無数の角が突き出している。


 真っ直ぐなものは一つもない。枝のように分かれたもの、螺旋を描くもの、途中で折れたもの。水中にも白い影が幾重にも沈み、小舟が通れる隙間は細かった。


 老人は目印らしいものを見ている様子もなく、櫂を小さく操って進んだ。


「毎回、同じ道なんですか?」


「同じだったら骨渡りなんぞ要らん」


「骨が動くんですか」


「水が動く。泥が動く。沈んでた角が出る。出てた骨が沈む。たまに馬鹿が目印を勝手に結ぶ」


 老人は少し先の赤布を見つけると、櫂で器用に引っかけて水へ落とした。


「こういうのだ」


「道標じゃないんですか?」


「願掛けだ。信じて曲がると腹を裂く」


 すぐ横の水面下に、鋭い角先があった。


 マヤは黙って舟の中央へ寄った。


「さっきより座り方がいいね」


 リオが言う。


「学習しました」


「偉い」


「子ども扱いしました?」


「してない」


「今の『偉い』はしました」


 そんなやり取りをしているうちに、舟は巨大な頭蓋のそばを通った。


 眼窩の森は、遠くから見るよりずっと深かった。


 空洞だったはずの場所へ土が溜まり、幹の太い木々が根を張っている。骨の穴から伸びた根が、顎のあたりまで垂れていた。滝の飛沫が風に乗り、赤い水面へ白い筋をつくる。


 その眼窩の縁にも、小さな祠があった。


 人が三人ほど立てるだけの板場が骨へ打ちつけられ、白い花が山のように積まれている。


「みんな、あそこまで行くんですか」


「行く者もいる」


 老人が答えた。


「もっと奥へ行く者もいる。帰ってくる者も、帰ってこない者もいる」


 前方を行く別の小舟から、声が聞こえた。


「本当に会えるんだろうな」


 男の声だった。


 船頭らしい者が返した言葉は、風に流されて聞こえない。


 男はしつこく続ける。


「ここまで来たんだ。罪を喰ってもらえば楽になれるって聞いた。俺はそのために――」


 老人が、ほんの少しだけ眉を動かした。


 マヤはそちらを見た。


 前の舟にいる男は、両手を強く組んでいた。


 祈っているようにも、自分の指を押さえつけているようにも見える。


「罪を、喰う……」


 マヤが呟いた。


 これまでも噂は聞いた。


 白い獣。


 罪を食むもの。


 その獣へ会えば、背負ってきたものを持っていってもらえる。


 だから、この内海には人が来る。


 戦場から逃げた者も。


 助けられなかった者も。


 生き残った者も。


 誰かを見捨てた者も。


 自分の手で人を殺した者も。


 そして――供物を捧げる側にいた者も。


 マヤの指が、膝の上でわずかに縮んだ。


 老人は前の舟を見たまま言った。


「あれは、そんなに親切な獣じゃない」


 声に笑いはなかった。


 それ以上も話さない。


 何を知っているのかとリオが問うこともなかった。


 ただ、彼の視線が一瞬だけ、マヤの胸元へ落ちた。


 二つ目の鼓動。


 今は、はっきり分かるほど強くなっている。


 どくん。


 自分の心臓。


 少し遅れて、


 どくん。


 もう一つ。


 水面の向こうに、背骨の島が見えてきた。


 巨大な椎骨がいくつも水上へ連なり、その上に低い森と、人の手で作られた細い参道が続いている。骨の高い場所にはいくつもの小さな祠が並び、風に揺れる花が見えた。


 老人が言った。


「ここから先は、戻る舟が少ない。奥へ行く連中は、みんな自分だけは覚悟があると思ってる」


 リオは返事をせず、マヤを見た。


 その目を見ただけで、何を言うつもりなのか分かった。


 マヤは先に答えようとして――できなかった。


 喉が詰まった。


 赤い水。


 聖獣の骨。


 罪を食ってもらいたい人々。


 そして、この先にいるかもしれない白い獣。


 自分が死ねなかった理由へ近づくということは、知りたいことだけを知れるという意味ではない。


 思い出したくないことまで、戻ってくるかもしれない。


 自分が何なのか。


 何を背負わされたのか。


 その答えが、欲しいものとは限らない。


 マヤは膝の上の手を握った。


 掌に爪が当たる。


 怖かった。


 そのことを、誤魔化したくはなかった。


 リオが静かに言う。


「戻るなら今でも戻れる」


 マヤはすぐには答えなかった。


 背骨の島へ続く赤い水面を見た。


 次に、自分の胸元へ触れた。


 二つの鼓動は、どちらも消えていない。


「……怖いです」


「うん」


 リオは、それ以上何も言わなかった。


 大丈夫だとも、心配するなとも言わない。


 マヤは息を吸った。


 水と鉄と、どこか遠くの花の匂いがした。


 それから顔を上げる。


「戻りません」


 リオは少しだけ目を細めた。


「分かった」


 それだけだった。


 老人が櫂を入れる。


 小舟は向きを変えず、巨大な骨の群れの奥へ進んだ。


 赤い内海の上で、白い花が一枚、風にちぎれて落ちた。


 花弁が水へ触れた瞬間。


 赤い光が、輪のように一度だけ広がった。

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