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終節 ― 骨の島

 出航の準備が終わったところで、上流から患者船が来た。


 最初に見えたのは、帆ではなかった。


 白い骨だった。


 ルマリアの濁った水を割って下ってくる細長い船。その船首に、巨大な白骨が括りつけられている。肋骨にも、獣の顎にも見えない。長く湾曲した骨が幾重にも枝分かれし、朝日に晒された表面だけが不自然なほど白かった。


 桟橋にいた者たちが振り返る。


「患者だ!」


 船上から声が飛んだ。


「上流で拾った! 熱が下がらない!」


 さっきまで荷を積んでいた治療師たちが、一斉に動き始める。


 リオは自分たちの舟へ置いた診療鞄を取り戻した。


「出発は?」


 マヤが訊く。


「あとだ」


「ですよね」


「分かってるなら聞くな」


「一応です」


 患者船が桟橋へ横づけされる。


 板が渡されるより早く、担架が持ち上げられた。


 男だった。


 三十代か、四十代か。


 日に焼けた皮膚は高熱で赤く染まり、濡れた髪が額へ貼りついている。身体を覆う布から、汗と川水、それに古い血の匂いがした。


「処置室へ」


 アマルの声が飛ぶ。


 リオも担架の横へ入った。


「いつ負傷した?」


「昨日の夕方です」


 付き添ってきた船頭が答える。


「どこで」


「上流の分岐を西へ入った先です。本人たちはもっと奥から下ってきたらしい。舟が流されてるのを見つけて――」


 男が激しく咳き込んだ。


 呼吸はある。


 脈は速い。


 意識は曖昧だが、完全には失っていない。


 リオは男の額へ触れた。


「熱いな」


「四十近くあります」


 治療師の返事。


「先に冷却。水分も。傷を見ます」


 衣服を切り開く。


 マヤは処置室の入口で足を止めた。


 前ならそのまま入っていただろう。


 リオは一度だけ彼女を見る。


 マヤもこちらを見る。


「入っていいですか」


 訊いた。


 一瞬。


 昨日なら何と答えただろう、と考えた。


「血が多い」


「大丈夫です」


「その返事は信用してない」


「じゃあ、見たいです」


 リオは頷いた。


「気分が悪くなったら出ろ」


「はい」


 マヤが入る。


 それだけのやり取りだった。


 だが、リオには妙に大きく感じられた。


「ここです」


 治療師が男の肩を露出させた。


 リオの意識が患者へ戻る。


 傷は右肩から胸の上部へ走っていた。


 深い。


 ただし、牙による傷とは違う。


 牙なら刺入点が残る。


 爪なら数本の平行した裂創になる。


 これは一本の傷が途中で二つに分かれ、さらに先で細く枝分かれしていた。


 皮膚を裂いたというより。


 硬い枝を捻じ込まれ、そのまま抉られたような傷だった。


「これ……」


 マヤが言葉を止める。


 リオは傷の縁へ指を添えた。


 腫れている。


 熱も強い。


 だが、妙だった。


「獣に襲われたって?」


「本人がそう言ってました」


「牙じゃない」


 アマルが反対側から傷を見る。


「爪でもありませんね」


「ああ」


 リオは裂創の形を目で辿る。


 一度、離れた。


 もう一度見る。


「枝角……?」


 自然に出た言葉だった。


 マヤの胸元へ、ふと視線が行く。


 彼女も同じことを考えたらしい。


 けれど、何も言わない。


「洗浄します」


 今は傷だ。


 正体を考えるのはあとでいい。


 血と泥を洗い流す。


 傷の奥に異物がないか確認する。


 男は何度か呻いたが、目は開かなかった。


 処置が半ばまで進んだ時だった。


「先生」


 マヤが低く呼んだ。


「今度は何だ」


「あの手」


 男の左手。


 強く握り込まれている。


 最初は泥でも掴んでいるのかと思った。


 治療師が指を開こうとする。


 男の手は、高熱で力が抜けているはずなのに、そこだけ妙に固かった。


「無理に開くな」


 リオが言う。


 一本ずつ。


 親指。


 人差し指。


 中指。


 最後に小指。


 掌の中から、潰れた花が現れた。


 白い花だった。


 たぶん。


 花弁の中央にはまだ白さが残っている。


 だが縁から黒く枯れ、乾いた煤のような色が中心へ侵食していた。


 花弁の一枚が、男の掌から剥がれて床へ落ちる。


 黒い部分から、ぱらりと崩れた。


 マヤの顔から色が消える。


 知っている。


 リオも知っていた。


 白い花。


 夜明けまでに黒く枯れる花。


 それだけで答えにしてはいけない。


 似た花はいくらでもある。


 だが、傷の形まで合わせれば偶然で片づけるには材料が増えすぎている。


「保存して」


 リオが言う。


「袋を別に。素手で触らないでください」


 治療師が頷いた。


 その時。


 男の唇が動いた。


「……しろ……」


 リオが顔を寄せる。


「聞こえますか」


「……白い……」


 男の呼吸が乱れる。


「無理に喋らなくていい」


「獣……」


 マヤの指が、自分の胸元へ触れた。


「白い獣?」


 男の瞼が震える。


 焦点の合わない目が、ほんの僅かに開いた。


「……いた……」


「どこです」


 アマルが訊いた。


 声は静かだった。


「どこで見たんです」


 男は答えようとした。


 喉から掠れた息しか出ない。


 リオが止めようとする前に、男の指が動いた。


 空中を探る。


 何かを指そうとしている。


「場所はあとでいい」


「ほね……」


 男が言った。


「何?」


 船頭が近づく。


「骨……」


 もう一度、大きく息を吸う。


「骨の島に……いる」


 その瞬間。


 マヤの胸が大きく跳ねた。


「――っ!」


 ドクン。


 服の上からでも分かるほどだった。


 いつもの心臓とは違う。


 僅かにずれた場所で。


 第二脈が、強く打った。


 マヤの身体がよろめく。


「マヤ!」


 リオが腕を掴む。


「座れ」


「大丈――」


「それ以外」


 マヤが口を閉じた。


 一度、呼吸する。


「……驚きました」


「痛みは」


「ないです」


「息苦しさ」


「ないです」


「花は?」


 マヤが手首と胸元を見る。


「咲いてません」


 リオは脈を取った。


 通常脈は速くなっている。


 第二脈は。


 もう弱まっていた。


 ただし、なくなってはいない。


 まるで遠くで打つ何かへ応えるように、僅かな間隔で揺れている。


「骨の島」


 マヤが呟いた。


「今は患者を見る」


「はい」


 リオは男へ戻った。


 言い方が少し強かったかと思ったが、マヤは何も言わない。


 男は再び意識を失っていた。


「これ以上、聞くのは無理ですね」


 アマルが言う。


「ああ」


「治療を続けましょう」


 白い獣。


 黒く枯れた白花。


 枝角に抉られたような傷。


 骨の島。


 今は全部、後回しだ。


 患者の熱を下げ、傷を洗い、呼吸と循環を保つ。


 二人の医師はまた、何事もなかったように同じ寝台へ並んだ。


     ◇


 男の状態が落ち着いたのは、昼近くになってからだった。


 熱はまだ高い。


 だが、呼吸は安定し、傷からの出血も止まった。


 眠っている。


 今すぐ聞き取りを続ける必要はない。


 リオたちは再び根脈観測井へ降りていた。


 壁の地図。


 赤い内海。


 白い獣の目撃記録。


 アマルは新しく届いた報告地点へ印を置いた。


「患者船が彼を拾った場所は、ここ」


 ルマリアの上流。


 西へ分かれた支流。


「本人たちがどこから来たかは、まだ確認できません」


「ただ、『骨の島』と言った」


「ええ」


 アマルの指が地図を滑る。


 過去数年分の目撃点。


 白い大型獣。


 二種類の足跡。


 白花。


 黒花。


 古い供物祭壇。


 聖獣墓場。


 ばらばらだった印を、直近のものだけに絞る。


 赤い内海の中で。


 一つの領域へ集まっていた。


「ここですか」


 マヤが訊く。


「可能性は高いでしょう」


「島の名前は?」


「正式な島名はありません」


 アマルが答えた。


「水位によって島の形自体が変わる地域です。古い航路記録にも、骨が多く漂着する場所という記述しかない」


 リオは地図を見た。


 朝見た患者船の船首。


 あの巨大な白骨を思い出す。


「何の骨なんです」


「それも、まだ」


「分からないことばっかりですね」


 マヤが言う。


「研究というものは、だいたいそんなものです」


 アマルが答えた。


「先生もよく『分からない』って言います」


「分からない時は分からないと言うしかない」


「二人、そこは似てますね」


「不本意だ」


「私は光栄です」


「やめてください」


 軽く返したが。


 リオはすぐに地図へ視線を戻した。


 印が集まりすぎている。


 偶然ではない、と断定するにはまだ早い。


 それでも。


 何かがある。


「あなたも探しているんですね」


 リオが言った。


 アマルは否定しなかった。


「ええ」


 横にいたマヤがアマルを見る。


「どうしてですか」


 アマルはすぐには答えなかった。


 机の上。


 保存袋へ入れられた黒い花を見る。


 白かったものが、縁から黒く死んでいる。


 しばらくして。


 アマルは言った。


「あの獣なら」


 指先が、袋越しに花の近くへ止まる。


「死なずに背負う方法を知っているかもしれないからです」


 リオの眉が寄った。


「何を背負う」


「生命接ぎには、限界があります」


 アマルは地図から目を離さない。


「一つの身体へ命を残そうとすれば、その身体が負荷を引き受ける。根も、花も、獣性も、変異も。命を止めない代わりに、一人へ集まりすぎる」


 マヤの表情がわずかに硬くなる。


 アマルはそれに気づいた。


 けれど、言葉を取り消しはしなかった。


「もし、その負荷を一つの身体へ集中させずに済む方法があるなら」


「それを白い獣が知ってると?」


「知っている、とは言えません」


 アマルは静かに答えた。


「だから探しています」


「誰かに使うために?」


「救える命が増えるなら」


 答えは、アマルらしかった。


 リオは何も言わなかった。


 ここで議論しても、同じ場所を回るだけだ。


 マヤは黒い花を見つめていた。


「背負う……」


 小さく呟く。


「マヤ」


「はい」


 振り向く。


「気分は」


「普通です」


「第二脈は」


 マヤは胸へ手を当てる。


「さっきより静かです」


「そうか」


 リオは壁の地図を見る。


 赤い内海。


 その奥。


 白い獣の印が集まる場所。


 骨の島。


「赤い内海へ――」


 口にしたところで止めた。


 昨日までなら。


 たぶん、そのまま言った。


 行くぞ。


 危険だから残れ。


 あるいは。


 何か別の答えを、自分が先に決めていた。


 リオは隣を見る。


 マヤもこちらを見ていた。


 怖いと言った少女。


 それでも知りたいと言った少女。


 供物として選ばれ。


 奇跡と呼ばれ。


 救済の証明と呼ばれ。


 それでも、自分の名前と行き先を選んだ少女。


 リオは訊いた。


「行くか?」


 マヤは一度だけ、地図を見た。


 黒く枯れた花を見る。


 自分の胸元へ触れる。


 それから、リオへ向き直った。


「行きます」


 今度は、それだけだった。


 リオは頷く。


「分かった」


 地上へ戻る階段の先から、赤みを帯びた昼の光が差していた。


 大河の上流。


 西の果て。


 赤い内海。


 白い骨が積もる島。


 黒く枯れる花。


 そして。


 死ぬはずだった者の近くへ現れる、白い獣。


 二人はまだ、その獣が何を背負っているのか知らなかった。

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