第十一節 ― 行くか
施療院を発つ朝、ルマ=セナには久しぶりに青空が戻っていた。
豪雨で膨れたルマリアはまだ茶色く濁っている。それでも水面には朝日が細かく跳ね、行き交う舟の櫂が光を砕いていた。濡れた木材と泥の匂いに、薬草屋から流れてくる苦い香りが混じっている。
ヴェイン施療院の船着き場では、朝から荷の積み込みが続いていた。
「多い」
リオは舟の上に置かれた荷物を見た。
診療鞄。
薬草袋。
着替え。
水筒。
保存食。
そこまでは分かる。
その横に、紙包みが四つ積まれていた。
「何だ、これは」
「食料です」
マヤが当然のように答える。
「保存食はこっちにある」
「それは旅の食料です」
「これは?」
「今日食べる分です」
リオは紙包みの数をもう一度数えた。
「四つあるぞ」
「朝、昼、おやつ、予備です」
「予備?」
「何があるか分かりませんから」
「遭難対策みたいにおやつを持つな」
「先生だって薬は予備を持つでしょう」
「薬と菓子を同列にするな」
「わたしにとっては大事です」
そこで会話が止まった。
昨夜までなら、そのまま軽口を続けられたかもしれない。
今は二人とも、少しだけ間合いを測っている。
昨日の喧嘩が消えたわけではなかった。
食事は一緒にした。
診療も手伝った。
必要な会話もした。
けれど、どちらもあの話には触れなかった。
リオは舟へ荷物を置き、結び紐を確かめる。
マヤは紙包みを一つずつ籠へ詰め直していた。
「マヤ」
「はい」
返事は普通だった。
だから、余計に言いづらい。
「……悪かった」
マヤの手が止まる。
振り向かないまま訊いた。
「何がです?」
分かっているくせに。
リオは小さく息を吐いた。
「君の答えを聞く前に決めた」
「はい」
「即答だな」
ようやくマヤが振り返った。
「そこは先生が悪いので」
「少しくらい迷え」
「迷うところですか?」
「謝った側の気持ちも考えろ」
「謝られる側だったので」
「強いな」
「昨日、食堂で考えました」
「何を」
「先生がどのくらい悪いかです」
「結論は?」
「かなり」
「聞くんじゃなかった」
マヤの口元が少し緩んだ。
リオも、それ以上は言わなかった。
大げさに仲直りするようなことでもない。
昨日の言葉をなかったことにはできないし、リオの不安が消えたわけでもない。
ただ、話す場所へ戻ればいい。
「もう一つ聞く」
「どうぞ」
リオは舟へ腰を下ろした。
マヤも向かいの縁へ座る。
桟橋の下で、水が柱を叩いている。
「白い獣を追いたいか」
マヤの表情から、さっきまでの笑みが消えた。
すぐには答えない。
それでいい。
リオも待った。
白い獣。
ラウ=マリカで残された足跡。
白花と黒花。
瀕死者の周囲に現れるという数十年分の目撃。
そして、赤い内海へ集まり始めた最近の記録。
マヤの第二脈は、その地図を前にして反応した。
危険なのは変わらない。
むしろ、危険でないと考える方がおかしい。
それでも今度は、先に答えを置かなかった。
「怖いです」
マヤが言った。
リオは少しだけ目を細める。
強がらなかった。
「そうか」
「はい」
マヤは自分の胸元へ指先を置く。
「白い獣が何なのかも分かりません。どうしてわたしの身体が反応したのかも。近づいたら、また花が咲くかもしれないし」
「もっと悪くなるかもしれない」
「はい」
「記憶に影響が出る可能性もある」
一瞬。
マヤの指に力が入った。
「……はい」
怖いのだ。
死ぬことではない。
また何かを失うことが。
自分の中から、自分だったものが少しずつ欠けていくことが。
リオはその顔を見た。
だから行くな、と言いたくなる。
喉まで来ていた。
今度は飲み込んだ。
「それでも?」
マヤが川を見る。
朝の光を受けた水面を、薬運びの小舟が横切っていく。
「でも、知りたいです」
声は小さかった。
迷いがない声ではない。
怖さを残したままの答えだった。
「自分の身体のことだから」
リオはしばらく何も言わなかった。
それから頷いた。
「分かった」
マヤがこちらを見る。
「それだけですか?」
「何か足した方がいいか?」
「危険だから気をつけろ、とか」
「言わなくても分かってるだろ」
「先生にしては信用がありますね」
「危ないことをしないとは一言も言ってない」
「そこは信用してないんですね」
「実績がある」
「またそれですか」
マヤは少し不満そうにしたあと、籠から紙包みを一つ取り出した。
「食べます?」
「今?」
「話が終わったので」
「君は本当に切り替えが早いな」
「昨日ずっと重かったので、今日はもういいです」
包みを開く。
中には薄く焼いた穀粉の皮で、甘く煮た果実を包んだ菓子が二つ入っていた。
「四包み全部これか?」
「違います」
「何が入ってる」
「秘密です」
「腐りやすいもの入れてないだろうな」
「先生」
「何だ」
「旅の相棒を信用してください」
「食べ物に関しては信用してない」
「ひどいです」
一つ渡された。
リオは受け取った。
甘酸っぱい匂いがした。
いつもの距離へ戻った気がしたのは、その時だった。
◇
出発前に、リオはもう一度だけ根脈観測井へ降りた。
マヤも一緒だった。
今度は「来るな」とは言わなかった。
ただ、階段を降りる途中で三度振り返ったせいで、二度目にはマヤから、
「見えてます」
と言われた。
「何が」
「わたしがいること」
「確認してない」
「じゃあ何です?」
「足音が止まった気がした」
「止まってません」
「そうか」
「心配性」
「うるさい」
地下へ降りると、空気が変わった。
地上の湿気とは違う。
古い土と樹液の匂い。
冷たい岩肌。
その奥に、わずかな鉄臭さを含んだ生命の匂いがある。
巨大な根は今日も何も語らず、岩盤を押し割って横たわっていた。
数百本の測定管が、その身体へ細い針を差し込んでいる。
透明管の中で赤い樹液が上下する。
小さな針が揺れる。
記録紙の上では、数字だけが静かに積み重なっていた。
アマルはすでにそこにいた。
白い医療衣の上へ長い外套を羽織り、古い記録帳を何冊か開いている。
「来ると思っていました」
「そんな顔してましたか」
「研究者が出発前に記録をもう一度見る顔でした」
「医者です」
「両方でしょう?」
それは否定しにくい。
アマルはマヤにも頭を下げた。
「おはようございます、マヤ=ルクさん」
「おはようございます」
マヤの返事は丁寧だった。
以前より少し距離がある。
アマルもそれを詰めようとはしなかった。
「白い獣の記録も、調べていくのですか」
アマルが訊く。
リオは壁の地図を見る。
最近の白い獣の目撃印は、大河上流から西へ偏っている。
その先。
赤く塗られた内海。
「候補は、いくつか見ています」
「そうですか」
「止めませんか」
「なぜ?」
「マヤも追うつもりです」
アマルの視線がマヤへ向く。
わずかに長い。
マヤはその視線から逃げなかった。
「わたしが決めました」
「そうですか」
アマルはそれだけ答えた。
「お気をつけて」
その素直さが、逆にリオには扱いづらい。
「あなたは本当に、そういうところだけまともですね」
マヤが横からリオを見る。
「先生、それ悪口ですよ」
「褒めてない」
アマルが小さく笑った。
「安心しました」
「何がです」
「いつものお二人に戻ったようですので」
「見てたんですか」
「施療院は狭いですから」
「最悪だ」
「先生、声が大きかったです」
「君もだろ」
「わたしは静かでした」
そこは否定できなかった。
リオは咳払いをして、記録卓へ向き直る。
三十年前。
二十年前。
十年前。
現在。
同じ場所。
同じ測定法。
地下生命圧。
以前にも見た線だった。
だが、改めて並べると不気味だった。
昔は、緩やかだった。
上がってはいる。
しかし、世代をまたいでようやく分かる程度の変化だ。
十年前から傾きが増している。
数年前から、さらに。
直近の記録だけを抜けば、もはや誤差とは呼べない。
「この半年は?」
リオが訊く。
「こちらです」
アマルが別紙を差し出す。
リオの眉間に皺が寄る。
「……また上がってる」
「ええ」
「豪雨の影響は」
「水圧は上がっています。ただし、生命脈の上昇率はそれでは説明できません」
「季節変動」
「過去三十年分と照合済みです」
「祈祷祭は?」
「周辺では大規模なものは行われていません」
一つずつ消していく。
残るものは、前と同じだった。
地下で。
大陸の奥で。
生命へ向かう圧だけが、強くなっている。
「赤い内海でも測れますか」
「古い観測点が残っていれば」
「残ってなければ」
「作るしかありませんね」
「気軽に言いますね」
「研究とはそういうものです」
マヤが記録紙を覗く。
「数字だけ見ると、あまり怖くないですね」
「数字は悲鳴を上げないからな」
リオが言う。
言ってから、巨大な根へ目を向けた。
もしこれが患者なら。
脈が速くなっている。
圧が上がっている。
代謝が増えている。
だが本人は何も訴えない。
そもそも本人と呼べるものがあるのかさえ分からない。
診断はできない。
症状だけがある。
「アマル先生」
リオは記録から目を上げた。
「俺は、あなたのやったことを許すつもりはありません」
「ドアルさんのことですか」
「ええ」
「承知しています」
「それと、マヤを妙な完成形として見るのもやめてほしい」
アマルの目がマヤへ向く。
「努力します」
「そこは即答しないんですね」
「考え方は、治療器具のように棚へ戻せませんので」
アマルらしい答えだった。
腹立たしい。
しかし、嘘ではない。
少しの沈黙のあと、アマルが言った。
「私は、あなたを敵だと思っていません」
リオは記録帳を閉じた。
「俺は少し思い始めています」
マヤが横で小さく息を呑んだ。
アマルは怒らなかった。
ほんのわずかに笑った。
「構いません」
「構うところでしょう」
「敵だと思われたからといって、観測値は変わりませんから」
「そういうところですよ」
「よく言われます」
「誰に」
「主に、私と意見の合わない医師に」
「かなりいそうですね」
「ええ」
妙に穏やかな会話だった。
決裂したわけではない。
理解し合えたわけでもない。
同じ患者を前にすれば、また並んで治療するかもしれない。
同じ患者の意思を前にして、次は本当に殴り合うかもしれない。
そういう相手なのだと、リオはようやく分かり始めていた。
アマルが古い記録帳の一冊へ手を置いた。
「リオ先生」
「何です」
いつもと同じ穏やかな声だった。
「私は、この上昇をもう長く放置できるとは思っていません」
リオの指が止まった。
マヤも顔を上げる。
地下洞の奥で、水が一滴落ちた。
「……どういう意味です」
「このままの上昇が続けば、そう遠くないうちにこの観測井の測定域を越えます」
「越えたら?」
「まだ分かりません」
アマルの目は記録から離れない。
本当に分からないのだ。
脅すための言葉ではない。
未来を知る司祭の予言でもない。
何十年分もの数字を見てきた研究者の危機予測だった。
「根が裂ける?」
「かもしれない」
「聖獣が増える?」
「かもしれない」
「変異が増える?」
「すでに増えています」
リオは黙った。
アマルは指先で、現在の線をなぞった。
「私たちは死者の数を記録してきました。出生も。聖獣の繁殖も。薬草の発芽も。変異症例も。死体から続く生命反応も」
そこで一度、言葉を切る。
「減っているものもあります。死者が消えたわけでもない」
「なら」
「ただ」
アマルが顔を上げた。
「命が増え続けています」
リオは巨大な根を見る。
赤い樹液が、透明管の中をゆっくり押し上がっている。
死者から花が咲く。
人が森へ合う身体へ変わる。
死んだ身体が生命活動を終えない。
マヤは死を完了できない。
別々の現象。
まだ一つの病名で結んではいけない。
それでも、同じ方向だけが見える。
続く。
増える。
終わらない。
アマルの声が、静かな地下へ落ちた。
「死より速く」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
マヤの胸元で、指先がわずかに動く。
第二脈は反応していない。
それでも彼女は、自分の中にあるもう一つの鼓動を確かめるように手を当てていた。
リオは壁の地図へ目を向けた。
ルマリア。
大河上流。
西へ偏り始めた白い獣の目撃印。
その先に広がる、赤い内海。
まだ、どこへ向かうかは決めていない。
ただ、見なければならないものが増えた。
白い獣だけではない。
この大陸そのものに、何かが起きている。
病名も。
原因も。
まだない。
それでも、数字だけは黙って上がり続けていた。




