第十節 ― 生き残った翌朝
翌朝、ドアル=メナは窓の外を睨んでいた。
夜の豪雨は嘘のように止み、ルマリアには薄い朝靄が漂っている。増水した川はまだ速く、茶色い水の上を折れた枝や水草が流れていた。
白い病室へ差し込む光は柔らかい。
その中で、ドアルの胸はゆっくりと上下していた。
以前とは音が違う。
息を吸うたび、胸の奥で薄い葉が擦れ合うような微かな音がする。生命接ぎによって形成された根状肺は、一晩のあいだに循環へ馴染み、酸素を血へ渡していた。
生きている。
しかも、昨夜よりずっと安定している。
リオは聴診具を外した。
「呼吸量は悪くないです」
ドアルが眉を上げる。
「熱もありません。根の暴走も今のところない。循環も安定してます」
また眉が動いた。
「言いたいことがあるなら、もう少し待ってください。まだ声は戻ってない」
ドアルの目が細くなる。
「その顔は文句ですね」
今度は、はっきり頷いた。
「先生、顔で会話する人、多くないですか」
病室の端からマヤが言った。
昨夜から二人の間に残っているぎこちなさは消えていない。それでも診療中は、いつものように必要なものを手渡してくれる。
「患者が喋れないんだから仕方ないだろ」
「先生の顔もよく喋りますよ」
「今その話するか?」
「昨日よりは静かです」
「比較するな」
寝台の上で、ドアルの肩が揺れた。
声は出ない。
だが、笑ったらしい。
その瞬間、胸の根状肺が大きく動き、ドアルは顔をしかめた。
「ほら。まだ笑うのも控えてください」
睨まれた。
「それは無理そうですね」
マヤが言う。
リオは診療鞄から薄い文字板を取り出した。
板の表面へ黒蝋を塗り、炭筆を添える。
「話せない間は、これを使いましょう」
ドアルの右手へ炭筆を持たせる。
指にまだ力が戻りきっていない。
一度、筆先が板の上を滑った。
ドアルは舌打ちしようとしたらしいが、音は出なかった。
「急がなくていいです」
リオは板を支えた。
「今すぐ全部話す必要はありません」
ドアルが息を整える。
もう一度、炭筆を動かした。
線が一本。
次に、横。
文字がゆっくり形になっていく。
マヤが横から覗き込みそうになり、リオに額を押さえられた。
「近い」
「見えません」
「書き終わるまで待て」
「先生も見てるじゃないですか」
「診察だからな」
「便利な言葉ですね」
最後の線が引かれる。
たった一文字だった。
《家》
ドアルは炭筆を置いた。
ちょうどその時、病室の扉が開いた。
レイナと孫が入ってくる。
「お父さん」
昨日より顔色のいい父親を見た瞬間、レイナの表情が緩んだ。
それから文字板に気づく。
「家……?」
寝台へ近づく。
「帰りたいの?」
ドアルが頷いた。
大きくではない。
けれど迷いはなかった。
レイナは一度、目を閉じた。
「……そう」
泣きそうになって、それを飲み込む。
「帰ろうか」
ドアルの皺だらけの目元が少し柔らかくなった。
「おじいちゃん、帰ってくるの?」
孫が寝台へ寄る。
ドアルが頷く。
「ほんと?」
もう一度。
「じゃあ一緒にご飯食べられる?」
少し間を置いてから、また頷いた。
少年が笑った。
その笑顔を見ていたレイナも、今度は堪えきれず口元を押さえた。
リオは文字板を取り直す。
「家へ帰ること自体は可能です。ただし、今の状態なら何もしないで退院とはいきません」
ドアルが顔を向ける。
「これからどう治療するか、決めましょう」
リオは新しい面を出した。
「根状肺は、今のところ正常に働いています」
胸元を示す。
「元の肺へ戻す処置を望みますか?」
ドアルはすぐに首を横へ振った。
リオは念のため待った。
「今の身体のままでいい、という意味ですか?」
ドアルの表情が少し険しくなる。
首を横へ振る。
「違う?」
頷く。
リオは質問を変えた。
「戻すために、また大きな処置を受けたくない?」
今度は頷いた。
そういうことか。
今の身体を気に入ったわけではない。
受け入れたとも言っていない。
ただ、それをどうにかするために、さらに身体へ手を入れてほしいわけでもない。
「では、追加の生命接ぎは?」
強く首を振った。
「今後、状態が悪化しても?」
ドアルはリオを見た。
炭筆を取る。
震える手で、今度は時間をかけて文字を書いた。
《治療 最低限》
書き終えたところで、手から力が抜ける。
リオが炭筆を受け取った。
「分かりました」
それだけ答えた。
鎮痛。
呼吸補助。
根状肺の状態管理。
必要な感染予防。
それ以上は、今のところしない。
生かすために次々と別の生命を接ぎ足すのではなく、すでにある身体で家へ戻れるよう整える。
「退院まで少し時間をください。川がまだ荒れてる。家まで運ぶ方法も考えます」
ドアルは不満そうだった。
「今日帰りたい顔ですね」
頷く。
「駄目です」
睨まれる。
「そこは俺が決めます。舟ごとひっくり返って戻ってきたら、何のための退院か分からない」
ドアルが文字板へ手を伸ばす。
「悪口なら元気になってから聞きます」
手を止められて、老人はさらに睨んだ。
「元気そうですね」
マヤが言った。
「そう見える」
「先生、前にもそれ言ってました」
「あの時よりは本当に元気だ」
少年が祖父の手を掴む。
「帰ったら帽子買おうよ」
ドアルの目が動く。
「川に落としたやつ」
老人が激しく首を横へ振った。
「いらないの?」
また首を振る。
それから文字板を寄越せと指を動かした。
リオが渡す。
ドアルは震える字で、短く書いた。
《高い》
マヤが吹き出した。
レイナも涙を拭きながら笑う。
「そこなの?」
ドアルは当然だという顔をした。
病室へ入ってきたアマルが、その笑い声に足を止めた。
「朝から賑やかですね」
空気がわずかに変わる。
ドアルもアマルを見た。
昨日、自分の拒否を無視して生命接ぎを行った医師。
そして。
今日、自分を生かしている根状肺を作った医師。
二人の視線が合った。
アマルはいつもの穏やかな顔だった。
けれど、すぐには何も言わなかった。
「診ても?」
ドアルへ尋ねる。
ドアルは数秒、彼を見ていた。
やがて頷いた。
アマルが寝台へ近づく。
その許可を待ってから、胸へ手を当てた。
「失礼します」
根状肺の呼吸。
脈。
発熱。
接合部の色。
一つずつ確認する。
「安定しています」
アマルはリオが書いた診療方針へ目を通した。
「追加の生命接ぎは行わない。疼痛管理と呼吸維持を中心に、帰宅を目標とする」
「本人の希望です」
「ええ」
アマルは記録を閉じた。
「今の彼の選択には、もちろん従います」
リオの手が止まる。
「昨日も選択していた」
アマルは否定しなかった。
「そうですね」
「なら、どうして昨日は従わなかった」
レイナの顔から笑みが薄れる。
マヤも黙った。
ドアルは二人の医師を見ている。
アマルは少し考えてから答えた。
「昨日の彼は、今日を知りませんでした」
「誰だって明日は知らない」
「ええ」
「それを理由にしたら、いつでも患者の答えを無効にできる」
「私は無効だとは言っていません」
「やったことは同じです」
声を荒らげる必要はなかった。
昨夜と同じ議論を繰り返している。
ただし今日は、その間にドアル本人がいる。
アマルは寝台を見る。
「ドアルさん」
老人もアマルを見る。
「昨日、私はあなたの意思に反して生命接ぎを行いました」
濁さなかった。
「その判断を、私は今も撤回していません」
レイナの指が父親の手を強く握る。
「ですが、今ここにいるあなたが、これ以上の生命接ぎを望まないことも理解しました。その意思には従います」
ドアルは動かなかった。
怒ることも。
頷くことも。
ただアマルを見ている。
「昨日のことを、どう思っていますか」
アマルが訊いた。
リオは何も言わなかった。
それを訊くべきなのは、アマルだと思っていた。
ドアルの指が動いた。
炭筆を取る。
一度、板へ触れる。
止まる。
長い時間、誰も声を出さなかった。
書こうと思えば、何かは書ける。
助かった。
余計なことをした。
感謝している。
許さない。
生きてよかった。
死なせてほしかった。
どれでも。
だが、ドアルは炭筆を置いた。
何も書かなかった。
アマルは急かさなかった。
「分かりました」
それだけ言った。
ドアルの目が少し細くなる。
それが何を意味したのか、リオにも分からなかった。
分からないままでいい。
今は。
「帰宅用の呼吸器具はこちらで用意します」
アマルが言った。
「根状肺用の薬液も。費用は要りません」
ドアルがすぐ文字板へ手を伸ばした。
《借り》
「返さなくていいですよ」
ドアルが眉間に皺を寄せる。
《嫌》
「では、元気になったら施療院の船を一艘、川で沈めずに案内してください」
ドアルの手が止まった。
しばらく考えてから、大きく丸を描いた。
「交渉成立ですね」
アマルは微笑んだ。
それは、いつものアマルだった。
患者の退院を手伝う医師。
昨夜のことなどなかったように振る舞っているわけではない。
自分の行為を悔いてもいない。
そのうえで、今の患者の希望には従う。
だから、リオには分からなくなる。
単純に悪い医師なら、もっと簡単だった。
間違った技術なら、否定すればいい。
だが生命接ぎによって、ドアルはここにいる。
娘の手を握っている。
孫の声を聞いている。
家へ帰ると、自分で決めている。
「先生」
マヤが小さく呼んだ。
「何だ」
「難しい顔してます」
「難しいんだよ」
「珍しく素直ですね」
「今は放っとけ」
「はい」
放っておくと言いながら、マヤはそこから離れなかった。
レイナは父親の手を握ったまま、アマルへ深く頭を下げた。
「先生」
声が震える。
「昨日は……ありがとうございました」
言ったあと、自分でも迷ったように父を見る。
ドアルは娘を責めなかった。
目を逸らしもしない。
ただ、握られた手を握り返した。
レイナの顔が歪む。
彼女にとっては、たぶん簡単だった。
父が生きている。
そのことが嬉しい。
その喜びを、昨夜の父の言葉が間違っていたという意味に変える必要はない。
けれど、助けてもらってよかったと思う心まで嘘にはできない。
「おじいちゃん」
少年が寝台へ身を寄せる。
「帰ったら、また川の話してね」
ドアルの口が動いた。
声は出ない。
少年は困った顔をした。
「喋れないね」
ドアルが眉を寄せる。
文字板を引き寄せた。
ゆっくり書く。
《絵》
「絵?」
頷く。
《川 描く》
少年が笑う。
「じゃあ僕が船描く」
ドアルは首を横へ振った。
《下手》
「ひどい!」
病室に笑い声が戻った。
ドアルも笑ったように見えた。
胸の奥で、白い根葉が静かに開閉する。
昨日まで存在しなかった呼吸器。
本人が望んで得たものではない。
それでも今は、その呼吸で娘の声を聞き、孫を見て、自分の家へ帰ろうとしている。
リオは診療記録を開いた。
処置方針の欄へ書く。
追加生命接ぎ、なし。
疼痛緩和。
呼吸維持。
根状肺の経過観察。
帰宅支援。
そこまで書いて、筆を止めた。
昨夜の判断が正しかったとは書かない。
間違っていたから、今日が無価値だとも書かない。
今ここにいる患者が、今どうしたいのか。
診療録に必要なのは、それだけだった。
窓の外では、雨上がりのルマリアを朝の舟が行き始めていた。
流れは昨夜より速い。
それでも一艘ずつ、自分の行き先を選ぶように、舟は別々の岸へ向かっていった。




