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第九節 ― 選ばせる医師

 朝になっても、ルマリアは濁っていた。


 夜通し降った雨は止んでいたが、増水した川には千切れた枝や葉が流れ、施療院の杭へぶつかるたび鈍い音を立てている。雲の切れ間から差す光だけが妙に白く、濡れた桟橋と病棟の壁を冷たく照らしていた。


 ドアルは生きていた。


 朝を迎えた。


 アマルの言葉どおりに。


 リオは早朝から診察へ入り、呼吸量、循環、根葉組織の状態を確認した。胸の奥に定着した白根は安定し、人間の肺だった部分よりむしろ規則正しく空気を取り込んでいる。


 声だけは戻っていなかった。


 紙と炭筆を渡してみたが、ドアルはまだ指に十分な力が入らず、何かを書こうとしても黒い線が震えるだけだった。


 レイナは父親が目を覚ましただけで泣いた。


 孫は寝台へ駆け寄り、「おじいちゃん」と何度も呼んだ。


 ドアルがその子の頭を撫でた時、リオは病室から出た。


 見ていられなかったわけではない。


 何を思えばいいのか、まだ分からなかった。


 助かってよかった。


 そんな気持ちは確かにある。


 同時に、昨夜の「するな」という声も消えていない。


 二つは簡単には打ち消し合ってくれなかった。


「先生」


 廊下の窓際で、マヤが待っていた。


 片手には包み紙。


 もう片方には、半分食べた蒸し菓子がある。


「朝ごはん、食べました?」


「まだ」


「やっぱり」


 包み紙を差し出される。


「これは?」


「先生の分です」


「君が二つ取っただけじゃないのか」


「結果として先生の分になりました」


「最初から俺のために取ったみたいな顔をするな」


「渡した時点からは先生のためです」


「時間を遡って善意にするな」


 それでも受け取った。


 まだ温かい。


 葉で包んで蒸した芋粉の菓子で、割ると中から甘い豆の香りが立った。


 マヤは先に食べ終え、濡れた中庭を眺めている。


「ドアルさん、起きてましたね」


「ああ」


「怒ってました?」


 リオの手が止まった。


「まだ分からない」


「そうですか」


「声が出ない。筆談も今は難しい」


「じゃあ、あとで分かりますね」


 マヤはそれ以上、答えを急がなかった。


 リオは蒸し菓子を一口食べる。


 妙に甘かった。


「マヤ」


「はい」


 呼ぶと、少女がこちらを見る。


 言おうとしていたことは、昨夜から決めていた。


 いや。


 決めていた、という言葉そのものに、今は少し引っかかる。


 それでも口にした。


「次から危険な診療には入るな」


 マヤが瞬きをした。


「はい?」


「神格反応の強い患者。生命接ぎを使う処置。あとは、根脈観測井みたいな場所にも、必要がなければ来なくていい」


「どうしてですか」


「危険だからだ」


 マヤの顔から、さっきまでの軽さが少し消えた。


「今までも危険でした」


「今までは今までだ」


「便利ですね、その言い方」


「茶化してない」


「わたしもです」


 リオは包み紙を畳んだ。


「白い獣も追わなくていい」


 今度は、マヤが完全に黙った。


「赤い内海の目撃記録も、俺が調べる。君は――」


「待ってください」


 声は強くなかった。


 だからこそ、リオも言葉を止めた。


「わたしが決めます」


「今回は駄目だ」


 言ってから。


 自分でも分かった。


 何を言ったのか。


 けれど、もう遅かった。


 マヤは目を逸らさなかった。


「どうして今回は駄目なんですか」


「昨日、地下で反応しただろ」


「第二脈が一度だけです」


「二度だ」


「数えてたんですか」


「診てた」


「痛みもありませんでした。花も咲いてません」


「それでも反応した」


「だから調べたいんです」


「だから近づくなと言ってる」


「先生」


 マヤの声が、さらに静かになった。


「わたしに選ばせるって言ったの、先生ですよ」


 返せなかった。


 旅を続けるか迷った時。


 乳樹の村に残る道を前にした時。


 マヤが他人の願いや祈りに押し流されそうになるたび、自分は選べと言ってきた。


 それが正しいからではない。


 少なくとも、そうしなければならないと思ったからだ。


「状況が違う」


 出てきた言葉は、それだった。


 マヤの眉がわずかに寄る。


「何がですか」


「今は、君が何に反応してるのか分からない。白い獣が何なのかも分からない。地下の生命圧との関係も――」


「分からないから、調べるんじゃないんですか」


「君自身が症例かもしれないんだぞ」


「知ってます」


「分かってない」


 声が強くなった。


 マヤの目が見開かれる。


 リオは止められなかった。


「アマルは君を《救済の完成形》として見てる。地下では君の第二脈が反応した。白い獣の目撃地点とも繋がってる。何が起きるか分からないのに、今まで通り連れて歩けるか」


「じゃあ」


 マヤは一度だけ息を吸った。


「わたしを置いていくんですか」


「危険な場所には」


「同じです」


「違う」


「先生にとっては」


 廊下の向こうを治療師が通った。


 二人の様子を見て、何も言わず足を速めていく。


 マヤは声を荒らげなかった。


 それが、かえってリオには苦しかった。


「わたし、何も知らないまま待ってるんですか」


「必要なことは話す」


「先生が必要だと思ったことを?」


「マヤ」


「先生が危なくないと思ったことだけ?」


「そういう話じゃない」


「そういう話です」


 マヤの指が自分の服の裾を握った。


「わたしの身体のことですよ」


「だから言ってるんだ」


「わたしの身体なのに?」


 リオの喉が詰まった。


 マヤも気づいた。


 けれど、止まらなかった。


「エラさんにしたことを後悔してるから」


 その名前が出た瞬間、左腕が痛んだ。


 実際に疼いたのか、ただそう感じただけなのか分からない。


 マヤの声がわずかに揺れる。


「今度は、わたしの代わりに決めるんですか?」


 言葉が落ちた。


 マヤ自身が、一番先に傷ついた顔をした。


 唇を閉じる。


 視線が一度だけ下がった。


「……ごめんなさい」


 小さく言った。


 リオは何も返せない。


 マヤは服の裾を握ったまま、もう一度顔を上げた。


「でも、撤回しません」


 目が赤くなり始めていた。


 泣いてはいない。


「先生が怖いのは分かります」


「分かったように言うな」


 今度はリオの方が刺すような言い方になった。


 マヤの肩が動く。


「分かりませんよ」


 それでも離れなかった。


「全部は分かりません。でも先生が昨日からずっと変なのは分かります」


「俺は――」


「守ってくれようとしてるのも」


 先に言われた。


「でも」


 マヤは自分の胸元へ手を当てた。


「わたし、守られるために先生についてきたんじゃありません」


「……」


「自分で、先生と行くって決めたからです」


 乳樹の村で、ここに残ってもいいと言われた時。


 あの頃は「もう少し先生と行く」と口にするだけでも、ひどく時間がかかった少女だった。


 今は自分から言える。


 嫌だと。


 行きたいと。


 決めたいと。


 それを、自分は望んでいたはずだった。


 なのに、いざその答えが怖いものになった途端。


「白い獣を追うかどうかも」


 マヤは言った。


「危険な診療に入るかどうかも、相談してください」


「相談して、君が行くと言ったら?」


「その時は、先生も反対してください」


「意味ないだろ」


「あります」


 少しだけ、いつものマヤの頑固さが戻った。


「喧嘩できます」


「したいのか」


「今してます」


「……そうだな」


 そこだけは一致した。


 けれど、笑えなかった。


 マヤはしばらくリオを見ていた。


「今日は、もういいです」


「マヤ」


「今話すと、もっと嫌なこと言いそうなので」


 その言葉には、少しだけ自分への怒りが混じっていた。


 踵を返す。


「どこへ行く」


「食堂です」


「朝飯は食べただろ」


「喧嘩するとお腹が減ります」


「……そうか」


「先生の分はもう取りません」


「そこまで怒ってるのか」


「怒ってます」


 今度こそ、マヤは行ってしまった。


 リオは追わなかった。


 追えば、また何かを決めようとする気がした。


 濡れた窓硝子に、自分の顔が映っている。


 ひどく疲れた顔だった。


     ◇


 夜。


 雨上がりのルマリアには、昼間より多くの灯が映っていた。


 病棟の白壁。

 窓の明かり。

 桟橋の灯籠。


 川面が揺れるたび、それらが長く伸びて崩れる。


 リオは一人で外桟橋に立っていた。


 マヤとは、あれからほとんど話していない。


 夕食の席では向かいに座った。


 薬草炒めを取りすぎたマヤに「それ辛いぞ」と言ったら、「知ってます」と返された。


 一口食べたあと水を三杯飲んでいた。


 笑いそうになったが、笑う空気ではなかった。


 マヤもこちらを見なかった。


「患者へ選ばせる医師」


 声がした。


 リオは目を閉じた。


「……今日は帰ってください」


 川面に、白いものが映っていた。


 振り向いても、桟橋には誰もいない。


 水の中にだけいる。


 白い獣面。


 細身の白衣。


 場違いなシルクハット。


 杖を一本、両手の前で静かに立てている。


 あの白面の男だった。


 濁った川に映っているはずなのに、その姿だけが妙に鮮明だった。


「冷たい歓迎だね」


「呼んでません」


「私は、呼ばれて来るばかりでもない」


「もっと迷惑です」


 水面の白い仮面が、ほんの少し傾いた。


「君は彼女に選ばせた」


 リオは黙る。


「だから彼女は、ついてきた」


「……」


「残る場所も、旅を続けることも選んだ。診察を断ることも覚えた」


「何が言いたい」


「何も」


 静かな声だった。


 苛立つほどに。


 リオは川面を睨む。


「今度は?」


 白面の男が訊いた。


 間を置く。


「君が怖くなったから、彼女の答えを変えるのかい?」


「黙れ」


 反射の中の杖先が、川面へ触れているように見えた。


 波紋は起きない。


「白い獣の正体でも教えに来たんですか」


「知らないね」


「地下の生命圧は」


「測ったのは君たちだろう」


「アマルが次に何をするか」


「本人へ聞くといい」


「なら本当に何しに来た」


 白面の仮面は笑わない。


 それなのに、笑われているような気がした。


「私は何も決めない」


 川上から一枚の葉が流れてくる。


 白い病棟の反射を横切り、白面の男の胸元を歪ませた。


「映しているだけだよ」


 リオは歯を食いしばった。


「性格が悪い鏡ですね」


「鏡を嫌う時、人はたいてい映った顔の方を嫌っている」


「今日は本当に黙ってください」


「では、黙ろう」


 珍しく素直だった。


 その方が腹が立った。


 リオは欄干へ両手をつく。


 左腕の包帯が湿った木へ触れる。


 エラ。


 ドアル。


 マヤ。


 全部が同じではない。


 同じにしてはいけない。


 エラの時は、患者の言葉を聞かなかった。


 ドアルの時、アマルは聞いた上で上書きした。


 そして今日。


 自分はマヤが何を言うか分かる前に、答えを決めた。


 理由はある。


 危険だ。


 アマルはマヤを人ではなく、救済構造の完成形として見ている。


 白い獣との繋がりも分からない。


 第二脈の反応も。


 何もかも不明なまま、危険へ連れていくことなどできない。


 それでも。


 自分が怖いということと。


 マヤがどうしたいかは、別の話だった。


「……守るのも駄目なのか」


 気づけば口に出していた。


 白面の男は答えなかった。


 黙ると言ったからかもしれない。


 あるいは、答える気が最初からないのか。


 リオは苦い息を吐く。


「そこは何か言え」


 白い仮面が少し傾いた。


「欲張りだね」


「帰れ」


 ぽつり。


 葉から落ちた雨粒が、川へ落ちた。


 小さな波紋が広がる。


 白い獣面が崩れる。


 シルクハットが伸び、白衣が水の光へ溶け、杖だけが最後まで細い影として残った。


 それも、次の波で消えた。


 川面には、白い病棟が映っているだけだった。


 リオはしばらくそこに立っていた。


 やがて背を起こす。


 マヤに何を言うかは、まだ決まっていない。


 謝れば済むとも思わない。


 危険だという考え自体が消えたわけでもない。


 たぶん、また反対する。


 また喧嘩もする。


 けれど次は。


 彼女が答える前に、扉を閉めるのだけはやめようと思った。

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