第八節 ― あなたも一度
雨はまだ降っていた。
さっきまで病室を震わせていた雷は遠ざかり、代わりに増水したルマリアの低い音が床下から響いている。
ドアルは眠っていた。
正確には、強い疲労と処置の影響で意識が落ちている。
胸の奥では、人間の肺ではない根葉状の器官が呼吸を続けていた。吸うたびに胸郭がわずかに持ち上がり、その奥から濡れた葉を擦り合わせるような音がする。
レイナは父親の手を握ったまま離れなかった。
孫はその横で泣き疲れて眠っている。
命はある。
家族もいる。
それだけを見れば、救命は成功していた。
だから余計に、リオの腹の底には冷たいものが沈んでいた。
「明朝まで呼吸量を記録してください。根葉の色が白から灰へ変わったら、すぐに呼んでください」
アマルは治療師へ指示を出し、血に濡れた手袋を外した。
いつも通りの声だった。
ナユを救った時と変わらない。
リオはその背中を見ていた。
「アマル先生」
呼ばれて、アマルが振り返る。
「はい」
「外で話しましょう」
マヤがこちらを見る。
リオは何も言わなかった。
彼女も何も聞かず、眠っている少年の側へ残った。
廊下へ出る。
雨の匂いがする。
開いた窓から湿った風が入り、消毒香と血の匂いを薄く流していた。
リオは数歩進んでから止まった。
「医者が患者の人生を決めるな」
振り返らずに言った。
足音が止まる。
「あなたは、あの人が嫌だと言ったのを聞いた」
「聞きました」
「意識もあった。症状が悪化する前にも、同じ答えを聞いている」
「ええ」
あまりにも静かな返事だった。
リオは振り返った。
「それでもやった」
「はい」
「助けられたから?」
「助けられる可能性があったからです」
「同じだ」
「いいえ」
アマルの声は穏やかなままだった。
ただ、表情がほんの少しだけ変わった。
これまで患者を見る時にも、リオと話す時にも残っていた柔らかさが消える。
「その言葉を」
一拍。
「あなたが言うのですか?」
左腕が疼いた。
包帯の下で、白い毛が逆立つような感覚がした。
「何の話です」
分かっていた。
分かってしまったからこそ、訊いた。
アマルは答えを急がなかった。
「エラ=ミル」
廊下の音が遠のいた。
「終末期神格性疾患」
リオの手が、無意識に左腕を掴む。
「救済術拒否」
足音がした。
病室から出てきたマヤが、廊下の入口で止まっている。
アマルは彼女へ目を向けなかった。
「担当聖獣医師――リオ=サルヴァ」
マヤがリオを見る。
その視線を感じた。
リオは返せなかった。
「古い神殿の症例記録を読みました」
アマルが言う。
「あなたも一度、患者の言葉より命を選んだ」
雨音が、急に近くなった気がした。
左手の掌が熱い。
そこから始まったのだ。
ずっと昔。
まだ、この腕が今の姿になる前。
◇
あの頃の左腕には、小さな紋しかなかった。
掌の中央に刻まれた白い《医脈》。
聖獣医師として患者の生命脈を読むための、小さな徴。
獣毛もなかった。
樹皮も。
爪も。
包帯で隠す必要など、どこにもなかった。
若いリオは、それを誇りに思っていた。
救える命は救う。
病があるなら治す。
死にかけているなら、死なせない。
その頃は、それを疑ったことがなかった。
「……もういい」
エラ=ミルは、何度目か分からない同じ言葉を口にした。
病室には薬草の匂いが染みついていた。
窓は閉ざされ、神格反応を抑える祈診布が壁から何枚も垂れている。
寝台の上のエラは痩せていた。
呼吸のたびに胸が痛むのか、息を吸う直前に必ず眉が寄る。
熱は下がらない。
薬は効かない。
祈りも長くは持たない。
神格性疾患はすでに身体の深部まで侵食していた。
通常の治療では、もう戻せない。
それをリオ自身が一番よく分かっていた。
「まだ方法があります」
若いリオは答えた。
血読針を洗う。
薬液を替える。
記録を読み直す。
「昨日も聞いた」
エラは掠れた声で言った。
「今日は昨日より反応があります」
「どこに」
リオの手が止まった。
「……心臓です」
「それ、止まってないってだけでしょう」
言い返せなかった。
エラが小さく笑う。
笑った直後、咳き込んだ。
身体を丸める。
リオはすぐ背へ手を入れた。
「喋らないでください」
「先生が喋らせてるんじゃない」
「なら休んでください」
「休んでるよ。ずっと」
エラは息を整えた。
長い時間をかけて枕へ戻る。
「もう、いいんだよ」
若いリオは、その言葉を聞くたびに腹が立った。
エラにではない。
病気に。
治せない自分に。
諦めなければならない状況そのものに。
「よくありません」
「先生が決めるの?」
「助かる可能性があります」
「少し?」
リオは答えなかった。
エラは目を閉じた。
「少しなんだ」
その夜も。
次の日も。
同じ会話をした。
エラは「もういい」と言った。
リオは「まだ方法があります」と返した。
いつからか、それは会話ではなくなっていた。
エラが何を言っても、リオの答えは決まっていた。
死なせない。
それだけだった。
最後の夜。
神殿の警鐘が鳴った。
エラの呼吸が急激に落ちた。
リオが駆け込んだ時には、唇が青く変わり始めていた。
「エラ!」
返事がない。
首筋へ触れる。
脈はある。
細い。
消えかけている。
「救済術の準備を!」
後ろから神官の声が飛ぶ。
リオが振り向く。
神殿上層の神官たちが病室へ入ってきていた。
「通常処置では持たん。救済術を使え」
「適合が分かっていません」
「このままなら死ぬ」
「変異率も予測できません」
「死ぬよりはいい」
その言葉を。
当時のリオは疑わなかった。
死ぬよりはいい。
生きていれば、その先がある。
姿が変わっても、あとで治す方法を探せる。
まず命を残す。
それから考えればいい。
「準備します」
リオは言った。
掌の《医脈》へ祈診液を垂らす。
白い紋が光る。
エラへ触れようとした時、指先が動いた。
「リオ……先生」
目が薄く開いていた。
「喋らないで」
「もう――」
聞かなかった。
本当に。
最後まで聞かなかった。
「大丈夫です」
自分が何を大丈夫と言ったのか、今でも分からない。
「助けます」
救済術を起動した。
サルヴァ=ティア系の生命圧が、掌から流れ込む。
最初は弱かった。
止まりかけた心臓へ。
壊れた肺へ。
侵食された血管へ。
生命を繋ぐ。
切れようとする流れを、無理やり結び直す。
「反応がある!」
神官が叫んだ。
「続けろ!」
リオも感じていた。
エラの心臓が応えている。
脈が戻る。
熱が上がる。
成功する。
そう思った。
次の瞬間。
流れが逆転した。
「……っ!」
掌へ何かが噛みついたような痛み。
エラへ流していた生命圧の一部が、《医脈》を逆流してリオの腕へ入った。
白い紋が手首まで伸びる。
「リオ!」
止めるべきだった。
それでも手を離さなかった。
離せばエラの命脈が切れる。
「まだです!」
腕の皮膚が裂けた。
血ではなく、白い毛が生えた。
手首から前腕へ。
薄い樹皮状の組織が皮膚を押し上げる。
爪が硬く伸びる。
痛かった。
それでも、目の前のエラの変化の方が遥かに大きかった。
胸元から白い花が開いた。
腕の皮膚が樹皮へ変わる。
片側の肩から獣毛が生える。
指の骨格が、人とも獣ともつかない形へわずかに変わる。
花。
根。
獣。
人。
どれか一つにはならなかった。
すべてが同じ身体の中で、生きるための場所を奪い合っていた。
「脈が戻った!」
誰かが叫んだ。
「成功だ!」
心臓は動いていた。
呼吸もあった。
エラは死ななかった。
数時間後。
彼女は目を開けた。
「エラ」
リオは寝台の横にいた。
「聞こえますか」
目が動いた。
リオを見る。
「エラ?」
唇が開く。
声は出なかった。
もう一度。
何かを言おうとした。
喉から漏れたのは、人の言葉ではない、低い掠れた音だけだった。
それを見ていた神官が息を呑んだ。
次に、笑った。
「奇跡だ」
リオが振り向く。
「……何を」
「救済は成功した」
周囲の神官たちにも安堵が広がっていく。
「これほど強い変異を受けてなお、生存している」
「記録しろ」
「救済成功例だ」
「待ってください」
誰も聞かなかった。
リオは自分の左腕を見た。
掌だけだった紋は、肘の向こうまで伸びていた。
白い毛。
樹皮。
獣の爪。
その傷よりも。
寝台のエラの方が、ずっと静かだった。
何も言わない。
言えない。
あの時、何を言おうとしていたのか。
リオは最後まで聞かなかった。
その日の診療記録。
神殿の正式記録には、
《神格救済術・成功》
と書かれた。
リオは自分の診療録を開いた。
左手では、もう筆をうまく持てなかった。
右手で書いた。
症例名。
エラ=ミル。
処置。
神格救済術。
結果。
生命活動継続。
高度複合変異。
発語機能喪失。
その下。
何度も筆が止まった。
最後に一行だけ書いた。
《患者意思を無視した重大医療事故》
翌日、神殿から訂正を求められた。
リオは拒否した。
「成功例だ」
「違う」
「患者は生きている」
「それは結果です」
「なら何が事故だ」
若いリオは、自分の左腕を押さえた。
「俺が、聞かなかった」
神殿とはそれきりだった。
しばらくして、リオは所属を離れた。
掌だけにあったはずの《医脈》は元へ戻らなかった。
白い獣毛も。
樹皮も。
伸びた爪も。
あの夜からずっと、左腕に残った。
◇
「……先生?」
マヤの声で、リオは現在へ戻った。
廊下。
雨。
白い医療衣のアマル。
包帯の下では、昔より遥かに異形化した左腕が熱を持っている。
リオは息を吐いた。
「知ってたんですね」
「記録に残っていますから」
「神殿の記録では成功例のはずだ」
「公式には」
アマルの視線がリオの左腕へ落ちる。
「あなた自身の診療録も残っていました」
「……そうですか」
「重大医療事故」
マヤが僅かに息を呑む。
「かなり強い言葉です」
「弱く書く理由がなかった」
「エラさんは、今も生きていますね」
リオがアマルを見る。
獣母林で再会したエラは、今も自分の意思を失ってはいなかった。
獣母林。
ラウ=マーナの群れの中。
人の声を失い、樹皮と獣毛と花の感覚器を持ちながら、それでも自分の意思で果実を選んだエラ。
苦手な薬草から顔を背けた。
診察しようと近づいたリオから、最初は自分で距離を取った。
リオが止まると。
待つと。
最後には、エラ自身から手を差し出した。
そして。
指を三度鳴らした。
昔と同じ癖で。
あの日、リオは初めて理解した。
自分はエラの身体が変わったことだけを罪だと思っていた。
言葉を失わせたこと。
人の姿を変えてしまったこと。
そればかりを悔いていた。
けれど、違った。
エラは変わった身体の中でも生きていた。
彼女の人生は、救済術の失敗によって価値を失ったわけではない。
だからといって。
あの夜の自分が正しかったことにもならない。
「生きています」
リオは言った。
「意思もある」
「なら、あなたが選んだ命には、その後があった」
「ええ」
「あなたが治療しなければ、その後はなかった」
「そうですね」
アマルは黙る。
リオも逃げなかった。
そこだけは否定できない。
エラが今、生きている。
好きなものを選び。
嫌なものを拒み。
自分の群れの中で暮らしている。
その事実を、自分の罪を守るために軽く扱うことはできなかった。
アマルが静かに問う。
「では、あの時のあなたは間違っていたのですか」
「間違ってました」
答えはすぐに出た。
「今も?」
「今もです」
「エラさんが生きていても」
「関係ない」
アマルの眉がわずかに動く。
リオは続けた。
「エラさんが今どう生きてるかは、エラさんの人生です。俺の処置が正しかったかどうかの証明じゃない」
「では、もし彼女が今、あなたに『生かしてくれてよかった』と伝えたら?」
言葉が止まった。
分からない。
嬉しいかもしれない。
救われるかもしれない。
何年も抱えてきたものが少し軽くなるかもしれない。
それでも。
「……あの時、聞かなかった事実は消えません」
リオは左腕の包帯へ指をかけた。
少しほどく。
白い毛が覗く。
樹皮状の皮膚。
淡く光る根脈。
爪。
「これも消えない」
アマルは左腕を見つめる。
「罰だと思っていますか」
「そういう便利なものじゃない」
「では」
「傷です」
リオは包帯を巻き直した。
「俺が患者を救ってしまった夜から残ってる」
マヤは何も言わなかった。
リオがこの腕を嫌っていることは知っている。
強い神格反応のたびに疼くことも。
包帯を外すのを好まないことも。
けれど、その始まりを知ったのは初めてだった。
アマルが息を吐く。
「リオ先生。私は、あなたを責めたいのではありません」
「なら、何が言いたい」
「同じ場所に立ったことがあるあなたなら、分かると思っただけです」
「何を」
「目の前で命が消える時」
アマルは病室の方を見た。
ドアルの呼吸が、壁一枚向こうで続いている。
「手段があるのに、何もしないことの難しさを」
リオは答えなかった。
分かる。
嫌になるほど分かる。
あの夜、自分はそこに負けた。
だから今の自分がいる。
「分かりますよ」
ようやく言った。
アマルがリオを見る。
「分かるから止めろと言ったんです」
声は大きくなかった。
「俺も同じことをした。だから、あなたが何を考えて手を伸ばしたのかも分かる」
一歩近づく。
「でも、分かることと、許すことは別です」
アマルの目から、柔らかな笑みは消えていた。
敵意はない。
怒りもない。
ただ、譲らない。
リオも同じだった。
長い沈黙のあと、アマルが口を開く。
「では、ドアルさんが明日、生きていてよかったと言ったら?」
「聞きます」
「死にたかったと言ったら?」
「それも聞きます」
「あなたを責めたら?」
リオは一度、病室の扉を見た。
「俺じゃない」
アマルを見る。
「あなたが聞いてください」
アマルは何も言わなかった。
リオは踵を返した。
マヤの横を通り過ぎる。
数歩進んだところで、後ろから彼女の足音がついてきた。
しばらく無言だった。
雨音だけが続く。
「先生」
「何だ」
「知りませんでした」
「ああ」
「言いたくなかった?」
「たぶん」
「じゃあ、今は聞きません」
リオが横を見る。
マヤは前を向いていた。
「聞きたいことはありますけど」
「あるのか」
「たくさん」
「じゃあ何で聞かない」
「先生が今、顔で『やめろ』って言ってるので」
「また俺の顔に台詞つけてるな」
「よく喋る顔です」
少しだけ。
本当に少しだけ、息が抜けた。
マヤはそれ以上、何も聞かなかった。
二人の背後では、ドアルの新しい肺が呼吸を続けている。
その音は聞こえない。
けれどリオには、左腕の古い疼きと同じくらい、はっきりそこにあるように感じられた。




