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第七節 ― 拒否された救済

 夜半から降り始めた雨は、日付が変わる頃には川と空の境を消していた。


 屋根を叩く雨音が絶え間なく続き、その合間を雷鳴が押し潰す。増水したルマリアは施療院の杭へ何度もぶつかり、水上へ張り出した建物全体が低く軋んでいた。


 リオが目を覚ましたのは、廊下を駆ける足音のせいだった。


「リオ先生!」


 扉を叩く音と同時に、治療師の声が響く。


「ドアルさんが急変しました!」


 眠気は一瞬で消えた。


 外衣だけを引っかけ、診療鞄を掴む。廊下へ出ると、向かいの部屋からマヤも顔を出していた。


「先生?」


「ドアルさんだ。君は――」


 雷が鳴った。


 建物がわずかに震え、遠くで硝子の触れ合う音がする。


「待ってろ、って言っても来ますよ」


「なら邪魔にならないところにいろ」


「はい」


 二人で病棟へ走った。


 ドアルの部屋には、すでに何人もの治療師が集まっていた。


 老人は寝台の上で半身を起こされ、呼吸補助の管を口元へ当てられている。


 息が入っていない。


 胸が大きく上下しているのに、一回ごとの呼吸は浅く、速い。喉の奥から濡れた笛のような音が漏れ、顔色は薄い灰色へ変わっていた。


「いつから」


「十分ほど前です。咳が急に増えて、そのあと酸素が落ちました」


 リオは寝台へ寄り、聴診具を当てた。


 悪い。


 以前から濁っていた両肺の音が、さらに遠い。胸郭は動いているのに、肺そのものが応えていない。


「ドアルさん。聞こえますか」


 老人の目が動いた。


 意識はある。


「……うる、せえ」


 掠れた声だった。


 それでもドアルだった。


「喋らなくていい」


「なら……聞くな」


「そこまで言えるならまだ余裕ありますね」


 軽く返したが、リオの手は止まらなかった。


 脈を取る。


 速い。


 弱い。


 指先には冷えが始まっている。


 治療師へ鎮痛薬の量を指示し、呼吸補助を調整する。咳を無理に止めれば分泌物が溜まる。だが、咳そのものがもう体力を削りすぎている。


 均衡を探すしかない。


「レイナさんは?」


「呼びに行っています」


 その時、病室の入口に白い衣が現れた。


 アマル=ヴェインだった。


 濡れた髪を後ろへ撫でつけ、医療衣の肩には雨の跡が残っている。


「状態は」


「末期の呼吸不全です。意識はあります」


 アマルは寝台へ近づいた。


 ドアルの胸、瞳、爪先を見る。


 診断は速かった。


「生命接ぎなら、まだ間に合います」


 その言葉に、リオはドアルを見る。


 老人も聞いていた。


 目だけがこちらを向く。


 今なら訊ける。


 今、訊かなければならない。


「ドアルさん」


 リオは寝台の脇へ腰を落とした。


「生命接ぎを使えば――」


 最後まで言う前に、老人が首を振った。


 小さな動きだった。


 呼吸するだけで精いっぱいの身体では、それだけでも苦しそうだった。


「確認します」


 リオは近くへ寄る。


「生命接ぎを使わない、という意思で変わりませんか」


 ドアルが息を吸う。


 入らない。


 一度咳き込み、口元へ赤いものが滲んだ。


 それでも目は逸らさなかった。


「……するな」


 たった三文字。


 だが、はっきりしていた。


 アマルもそこにいた。


 聞こえる距離だった。


 リオは老人の手を握る。


「分かりました」


 ドアルの指から、わずかに力が抜けた。


 その時、廊下から駆け込んできたレイナが寝台へ向かった。


「お父さん!」


 その後ろに孫もいる。


 少年は病室に入った途端、母親の服を強く掴んだ。


「おじいちゃん……?」


 ドアルは目を動かした。


 孫を見る。


 口元がほんの少しだけ上がった。


「大丈夫です。今、息苦しさを抑えます」


 リオはレイナへ言った。


「でも、治すんですよね?」


 返事をするまでに、一拍かかった。


「苦痛を減らします」


 レイナの顔が強張る。


「生命接ぎは?」


「本人が望んでいません」


「でも今、こんな――」


「レイナ」


 ドアルが掠れた声で呼ぶ。


 娘が止まった。


 老人はそれ以上、何も言えなかった。


 呼吸が続かない。


 レイナは唇を噛み、父親の手を取った。


「……分かってる」


 言葉とは逆に、指が強く震えていた。


「分かってるけど……」


 リオは鎮痛薬を入れた。


 呼吸補助を一段上げ、胸の苦しさを軽減する。意識を奪いすぎない量で鎮静をかける。


 少しずつ、ドアルの呼吸が落ち着いていった。


 浅いことに変わりはない。


 だが、先ほどまで全身で空気を求めていた力が抜けていく。


 眉間の皺も薄くなった。


「楽になった?」


 レイナが訊く。


 ドアルがわずかに頷く。


 孫が寝台へ近づいた。


「おじいちゃん」


 ドアルの手が動く。


 少年の頭まで届かない。


 マヤがそっと少年の肩へ手を添え、一歩だけ前へ出した。


 孫が自分から頭を寄せる。


 老人の指先が髪に触れた。


 外では雨が降り続けている。


 雷も鳴っている。


 それでも、その数分だけは静かだった。


 ドアルの呼吸は浅く続いた。


 リオはその横で、脈を測り続けた。


 一度。


 また一度。


 少し間が開く。


 長くなる。


「先生?」


 マヤが小さく呼んだ。


 リオは答えなかった。


 ドアルの手首へ当てた指の下で、脈が消えた。


「ドアルさん」


 反応はない。


 胸を見る。


 動かない。


 もう一度、頸部へ指を当てる。


 何も返ってこない。


「お父さん?」


 レイナの声が震える。


 リオは確認する。


 一度。


 念のため、もう一度。


「心停止です」


 心臓は止まった。


 呼吸も止まっている。


 けれど、この時点でハルのように死後変化まで確認したわけではない。循環が途絶え、救命できる時間が急速に失われている状態だった。


 その言葉を聞いた瞬間、レイナが立ち上がった。


「助けて!」


 さっきまで父親の意思を聞いていた声だった。


 それでも、目の前で心臓が止まれば、そんな言葉が出る。


「お願い、助けて! 何かできるんでしょう!?」


 孫が泣き始めた。


「おじいちゃん、起きて……」


 マヤが少年を抱き寄せる。


 リオは動かなかった。


 動けなかったのではない。


 動かないと決めた。


 ドアルの声が耳に残っていた。


 するな。


「生命接ぎを」


 静かな声がした。


 振り向く。


 アマルが白手袋を外していた。


「聖樹膜。生命根。緑血を準備してください」


 治療師たちが一瞬だけ止まる。


 それから、院長の指示に従って動き始めた。


「待て」


 リオが言った。


 アマルは器具卓へ向かっている。


「アマル先生」


「時間がありません」


「本人が拒否した」


 アマルが振り返った。


 表情は変わっていない。


 穏やかですらあった。


「今は答えられません」


「答えはもう聞いた!」


 声が病室に響いた。


 マヤが顔を上げる。


 この数日、リオがアマルへ声を荒らげたことは一度もなかった。


 アマルはそれでも静かだった。


「死にかけた時の諦めを」


 細い生命根を手に取る。


「医師が最終意思として固定するのですか?」


「一度じゃない」


 リオはアマルとの間へ立った。


「元気な時にも聞いた。さっきも、意識がある状態で確認した」


「人の意思は変わります」


「だからって、答えられなくなった瞬間に都合よく変わったことにするのか」


「私は変わったと決めていません」


「同じだ」


 雷光が窓を白く染めた。


 その一瞬、アマルの首筋に走る緑金の聖痕が鮮やかに浮かんだ。


「死ねば、もう変えることもできません」


「やめろ」


 リオは低く言った。


 アマルの足が止まる。


「今なら、まだ戻せます」


「やめろ」


「リオ先生」


「ドアルさんは、するなと言った」


 その言葉を聞いたレイナが泣きながら首を振った。


「でも私は助けてほしい!」


 リオが彼女を見る。


「お願い……」


 レイナは父親の胸へ縋りつく。


「死なないでほしいの。勝手だって分かってる。でも、お願いだから……!」


 孫も泣いている。


 治療師たちは手を止めたまま、誰を見ればいいのか分からない。


 誰も悪意でここにいるわけではなかった。


 娘は父に生きてほしい。


 孫も祖父を失いたくない。


 アマルは助けられる命を助けようとしている。


 だからこそ、リオには余計に分かった。


 これは簡単な善悪ではない。


 それでも。


 ドアルは答えた。


 自分の肺で。


 自分の声で。


「処置を始めます」


 アマルが言った。


「アマル!」


 リオがその腕を掴んだ。


 白手袋を外した手の甲に、根状の聖痕が走っている。


「離してください」


「しない」


「このままなら死後変化が進みます」


「もう心臓は止まった」


「まだ戻せる」


「本人は戻すなと言った!」


 アマルの目が、初めて強くリオを見た。


「それでも、私は医師です」


 声は穏やかだった。


「目の前に戻せる命があるなら、手を伸ばします」


 その言葉に、リオの指が一瞬だけ止まった。


 救える命なら救えばいい――そんな考えが、その言葉の奥にあるように聞こえた。


 ずっと昔、自分の中にもあったような言葉。


 その一瞬で、アマルは腕を抜いた。


「腐花反転剤」


 治療師が小瓶を渡す。


 リオはもう手を貸さなかった。


 アマルは一人でも迷わなかった。


 ドアルの胸部を開き、止まった循環へ緑血を流す。


 暗赤色だった血に、淡い緑が混ざった。


 聖樹膜が胸郭の内側へ置かれる。


 そこへ細い生命根。


 通常なら慎重に適応を待つところを、アマルは今度だけは速く進めた。


 時間がない。


 それでも雑ではない。


 その技術の高さが、リオには嫌というほど分かった。


 腐花反転剤が一滴落ちる。


 死へ向かい始めた組織の分解が鈍る。


 二滴目。


 白い根が広がる。


 肋骨の内側をなぞりながら、傷んだ肺へ向かって細く枝分かれしていく。


 まるで水中で白い花が開くようだった。


 美しかった。


 だから、ぞっとした。


 根は肺胞の代わりに薄い葉状の膜を広げる。


 一枚。


 二枚。


 何十枚もの半透明な膜が胸の奥で重なり、空気を受け取る形へ変わっていく。


「循環を開始します」


 アマルの掌が胸へ触れた。


 緑金の聖痕が光る。


 白根が脈打った。


 血が動く。


 止まった心臓へ戻る。


 一度。


 何も起きない。


 二度。


 胸の奥で小さな収縮があった。


 三度。


 心臓が跳ねた。


「脈!」


 治療師が叫ぶ。


「戻っています!」


 もう一度。


 鼓動。


 次は少し強い。


 ドアルの胸が持ち上がった。


 白い根葉が空気を取り込む。


「呼吸再開!」


 レイナが口元を押さえた。


「お父さん……」


 涙が溢れる。


 孫がマヤの腕を抜け、寝台へ走った。


「おじいちゃん!」


 治療師の一人も目を潤ませていた。


 別の者が安堵の息を吐く。


 誰もが喜んだ。


 当然だった。


 止まった心臓が再び動き、呼吸が戻ったのだから。


 リオだけが動かなかった。


 目の前で起きたことは、医療として成功していた。


 アマルは心臓を動かした。


 呼吸を戻した。


 循環が途絶えたドアルを、心停止状態から救命した。


 その事実を否定することはできない。


「ドアルさん」


 アマルが呼ぶ。


 老人の瞼が震えた。


 ゆっくり開く。


 焦点が合うまでに数秒かかった。


 最初に見たのは天井。


 次にアマル。


 そのあと、泣きながら自分の手を握っている娘と孫。


 ドアルの目が見開かれた。


 口が動く。


 何か言おうとする。


 音は出なかった。


「お父さん?」


 もう一度、唇が動く。


 声がない。


 喉から空気さえ抜けない。


 代わりに、胸の奥から微かな音がした。


 葉が擦れるような。


 湿った薄膜が、呼吸に合わせて開閉する音。


 リオは寝台へ近づいた。


 胸へ手を当てる。


 人の肺とは違う。


 元から傷んでいた肺の大部分を、根葉状の呼吸器が置き換えている。


 空気は入っている。


 血も回っている。


 だが、発声に必要な呼気の流れが以前とは変わっていた。


「……ドアルさん」


 老人の目がリオへ向く。


 何かを言う。


 言えない。


 その目に何が浮かんだのか、リオにはまだ決められなかった。


 怒りなのか。


 恐怖なのか。


 安堵なのか。


 混乱なのか。


 決めてはいけない気がした。


 アマルが最後の脈を確認した。


「安定しています」


 レイナが泣きながら笑う。


「よかった……」


 孫も何度も頷いた。


「おじいちゃん、生きてる」


「ええ」


 アマルは穏やかに微笑んだ。


「明日の朝を迎えられます」


 同じ言葉だった。


 ナユを救った夜と。


 あの時は、心から正しいと思えた言葉だった。


 リオはアマルを見る。


「本人は望まなかった」


 病室の喜びが、そこで少しだけ止まった。


 アマルは笑みを消さなかった。


「そして、明日も望まないと」


 静かに問い返す。


「先生には分かるのですか?」


 リオは答えなかった。


 答えられない。


 明日のドアルが、何を思うかなど分からない。


 生きてよかったと言うかもしれない。


 声を失っても、孫の成長を見たいと思うかもしれない。


 あるいは。


 今日と同じ答えを、声の出ない口で繰り返すかもしれない。


 それはまだ誰にも分からない。


 だからこそ。


 今夜、確かに聞いた答えまで、なかったことにはできなかった。


 ドアルの胸の中で、白い根葉が静かに呼吸している。


 外では豪雨がルマリアを叩き続けていた。


 心拍も呼吸も戻った。


 救命そのものは、間違いなく成功だった。


 けれどリオは初めて、アマル=ヴェインが救う瞬間を見ながら、その手を止めなければならないと思った。

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