第六節 ― 根脈観測井
ヴェイン施療院には、地下があった。
それ自体は珍しくない。薬草を乾かす貯蔵室や、日光を嫌う薬液の保管庫なら、サルバティアの施療院ではよくある。
問題は、階段を三つ降りても終わらなかったことだった。
「先生」
「何だ」
「まだ降ります?」
「俺に聞くな」
「先生なら何でも知ってそうなので」
「そういう雑な信頼はやめろ」
先を歩いていたアマルが振り返り、申し訳なさそうに笑った。
「もう少しです」
その言葉を、マヤは二度ほど聞いている。
石造りだった壁は、いつの間にか土と岩へ変わっていた。湿気が肌へまとわりつき、冷たい水滴が天井から時おり落ちてくる。灯りは壁に吊るされた油灯だけで、その橙色の光の外では、何か太いものが岩盤を押し退けて走っていた。
根だ。
最初は腕ほどだった。
さらに下ると人の胴ほどになり、今では三人で抱えても足りない太さの黒褐色の根が、壁と床を区別するように地中を貫いている。
樹皮の隙間には赤みを帯びた樹液が滲み、暗い地下でぬるく光っていた。
リオは足を止めた。
左腕の包帯の下が、微かに疼く。
「サルヴァ=ティア系ですね」
「ええ」
アマルが根へ手を添えた。
「かなり古い根です。施療院を建てたからここにあるのではなく、これがあったから、この場所に施療院を建てました」
「地上からは分かりませんでした」
「その方が患者にはいい。病院の床下にこんなものが這っていると知れば、眠れなくなる方もいますから」
「わたしは眠れます」
マヤが言った。
「君は比較対象に向いてない」
「先生よりはよく寝ます」
「それは認める」
さらに数十段。
階段の先で、急に空間が開けた。
マヤが足を止める。
「……すごい」
巨大な地下洞だった。
その中央を、一本の生命根が横切っている。
幹ではない。
根だ。
それだけで施療院の建物より太いのではないかと思えるものが、黒い岩盤を割って露出し、さらに奥の闇へ沈んでいる。
だが、マヤが驚いたのは大きさだけではなかった。
根の周囲を、無数の細い管が取り巻いていた。
透明な測定管。
金属針。
水盆。
細い硝子筒。
小さな浮標。
樹液を引き込む枝管。
壁一面には数字を書き込んだ札と記録紙が並び、天井から吊られた細糸の先では、小さな針が絶えず揺れている。
巨大な生命を、何百もの器具が囲んでいた。
「神殿というより……」
マヤが周囲を見回す。
「診察室ですね」
「そのつもりです」
アマルが答えた。
声が少しだけ違った。
患者を診る時の柔らかな声ではない。
研究者の声だった。
「根脈観測井と呼んでいます」
アマルは最も近い硝子管を指した。
「これは地下水位。こちらが温度。樹液圧はこちらです。生命脈はこの針。神格反応は奥の五本で別々に取っています」
マヤは顔を近づけた。
細い管の中を、淡い赤色の液体がゆっくり上下している。
「触らないでくださいね」
「まだ触ってません」
「『まだ』なんですね」
アマルが笑う。
リオは別の管を覗き込んだ。
刻まれている目盛りは細かい。
器具自体にも使用痕がある。新しく作った見せ物ではない。
記録卓に積まれた紙束も、数冊どころではなかった。
「いつから測ってるんです?」
「私がここへ来る前からの記録も残っています。系統的に揃うのは三十年ほど前からですね」
アマルが棚から一冊抜き取った。
革紐が擦れ、表紙の角が丸くなっている。
次に、その隣。
さらに隣。
四冊が机の上へ並んだ。
「三十年前」
一冊目。
「二十年前」
二冊目。
「十年前」
三冊目。
最後に、現在使われている記録帳。
数字だけを見ても、マヤにはよく分からない。
だが、リオは黙ったまま頁を追っていた。
同じ季節。
同じ測定箇所。
同じ時間帯。
条件を揃えた数値が並んでいる。
温度に多少の差はある。
水位にも年ごとの振れがある。
だが、それとは別に、一方向へ動き続けている数値があった。
「生命圧……」
リオが呟く。
アマルは頷いた。
十年前の値と二十年前の値の差。
二十年前と三十年前の差。
そして、ここ数年。
上昇幅が違う。
「上がってる」
「はい」
「ずっと?」
「少なくとも、この記録が残る範囲では」
リオは現在の頁をめくる。
一年前。
半年前。
三か月前。
先月。
線は緩やかな坂ではなかった。
年を追うごとに傾きが深くなっている。
「加速してる」
「そう見えます」
アマルはそこで結論を口にしなかった。
サルヴァ=ティアが目覚めているとも、神格異常だとも言わない。
ただ、積み重ねられた数字を指で押さえる。
「最初は、局所的な変動だと思っていました。大河の水量。都市人口。祈祷密度。周囲の聖獣活動。いくつか条件を分けてみましたが、どれだけ除外しても、この上昇だけが残る」
「他の場所では?」
「同じ精度で三十年分を取っている場所は多くありません。ただ、短期間の観測なら似た傾向があります」
リオは巨大な根へ視線を上げた。
暗い。
静かだ。
触れなければ、ただの古い大樹の根にも見える。
それなのに、数百本の測定管の中では、目に見えない何かが少しずつ強くなっている。
アマルが別の卓へ移動した。
「先生に来ていただきたかった理由の一つです」
三枚の記録紙を並べる。
一枚目には、ラウ=マリカ。
二枚目には、獣母林。
三枚目には、腐花群島。
リオの目が細くなる。
「ずいぶん揃えてますね」
「あなたの記録だけではありません。現地の治療師、花葬師、森の群れ、検疫所から取れる範囲で照合しています」
アマルは最初の紙を指した。
「死者へ働くはずの葬送が生者へ」
次。
「人間が森へ合わせて作り替わる」
最後。
「死体が死を完了できない」
地下洞のどこかで、水滴が落ちた。
ぽつん、と音が響く。
アマルは三枚の記録を見下ろしてから、リオへ視線を上げた。
「別々の奇病だと思いますか?」
リオは答えなかった。
答えられないのではない。
まだ、答えるだけのものがない。
ラウ=マリカでは、死者用の葬送構文が生者へ誤接続した原因を突き止めた。
獣母林では、森の中で生きるために身体そのものが変わろうとする現象を見た。
腐花群島では、死んだ身体に残った生命活動が、死の完了を曖昧にしていた。
個々には理由があった。
治療も違った。
そこに大陸全体を貫く一つの原因がある、と結びつけるには早い。
だが。
全く無関係だと言い切るには、この数字は不気味すぎた。
「私にも原因は分かりません」
アマルが先に言った。
リオが顔を上げる。
「神格の変化なのか。大地そのものの変化なのか。人間が長く祈りすぎた結果なのか。それとも、私たちがまだ見つけていない別の理由なのか」
アマルは巨大な根へ掌を当てた。
「分かっているのは、一つだけです」
壁の針が揺れる。
樹液が透明な管をゆっくり押し上げる。
「この大陸では、命を続ける方向への力だけが、年々強くなっています」
マヤは、無意識に胸元へ手を置いた。
命を続ける。
優しい言葉のはずだった。
それなのに、この数日で何度も聞いたせいか、胸の奥に少し冷たいものが残る。
死にかけたナユを朝へ運んだ力。
根になった女性を生かしている力。
六年間、眠る患者の心臓を動かしている力。
そして、自分を死なせなかった何か。
「……増えすぎたら、どうなるんですか」
マヤが訊いた。
アマルは彼女を見る。
「分かりません」
迷わず答えた。
そこに、マヤは少しだけ安心した。
少なくとも、今の彼は答えを持っているふりをしなかった。
「ただ、症例は増えています」
アマルは壁際へ歩いた。
「もう一つ、お見せします」
そこには観測表とは別の大きな地図が掛けられていた。
サルバティアの内陸部。
ルマリア大河と、その支流。
密林。
湿地。
集落。
地図のあちこちに、小さな印が打たれている。
白。
黒。
赤。
中には花の形をした札もあった。
「何の地図です?」
リオが近づく。
「目撃記録です」
「何の」
アマルは白い印へ指を置いた。
「大型の白い獣」
マヤの呼吸が止まりかけた。
リオもそれに気づく。
地図には、想像していたよりずっと多くの印があった。
「これだけ?」
「確実性はばらばらです。遠目に見たもの。鳴き声だけ。白い毛だけが残っていたもの。足跡だけの記録も多い」
アマルが別の札を示す。
「足跡は二種類に分かれます」
「二種類」
「ええ。同じ獣の歩様違いなのか、そもそも別種なのかも分かっていません」
マヤの脳裏に、雨上がりの夜が戻る。
ラウ=マリカ。
湿った小道。
黒土に残っていた、大きな獣の痕。
その中に咲いていた白い花。
花弁の縁から、ゆっくり黒く枯れていった花。
胸の奥が、ちくりとした。
「目撃場所に共通点は?」
リオが訊く。
「それを探しています」
アマルは地図上の印を辿った。
「白花が残っていた場所。黒く枯れた花が見つかった場所。古い供物祭壇。聖獣墓場」
指が移る。
「そして」
一つの印の上で止まった。
「瀕死者の周囲」
リオがアマルを見る。
「何者です」
「分かりません」
その答えは早かった。
本当に知らない顔だった。
「ただ」
アマルは地図を見たまま続ける。
「死ぬはずだった者の近くへ現れる」
その瞬間。
マヤの胸の奥で、もう一つの脈が打った。
とくん。
普段の心臓とは、少しずれた場所。
少し遅れた拍。
第二脈。
「……っ」
マヤが胸元を押さえた。
リオがすぐ振り返る。
「マヤ?」
「大丈夫です」
「その返事は禁止したい」
「少しだけです」
「何が」
マヤは答えず、地図を見た。
第二脈は、もう静かになっている。
だが、確かに反応した。
白い獣。
瀕死者。
供物祭壇。
聖獣墓場。
それらの言葉のどれに反応したのかは分からない。
あるいは、地図そのものなのかもしれない。
「痛い?」
リオが低く訊く。
「いいえ」
「息は」
「普通です」
左手首へ触れられる。
今度はマヤも拒まなかった。
リオは脈を取り、瞳を確認する。
「花は?」
「咲いてません」
「熱もないな」
「だから大丈夫です」
「それを決めるのは――」
言いかけて、リオが止まった。
マヤがじっと見上げている。
「何です?」
「……何でもない」
「先生、今危なかったですね」
「何が」
「いつもの説教が出るところでした」
「診察だ」
「似てます」
小さなやり取りに、アマルは口を挟まなかった。
ただ、マヤの胸へ向けかけた視線を途中で止め、再び地図へ戻した。
リオもそれに気づいたが、何も言わない。
「最近は?」
地図へ向き直る。
「目撃場所に偏りがあります」
アマルは、古い印とは別に、新しい白札だけを指で辿った。
ルマリアを上る。
さらに上流へ。
そこから西へ。
いくつもの札が、同じ一帯へ寄っていく。
「この辺りです」
地図の西方。
川の流れが細かく分かれ、その先に大きな赤い水域が描かれている。
マヤが地名を読む。
「……赤い内海」
「ええ」
アマルの指先の周囲には、白い印がいくつも集まっていた。
白花。
黒花。
獣の目撃。
古い聖獣墓場。
それぞれ別の報告として集められたものが、同じ場所へ近づいている。
リオは長く地図を見た。
地下では、サルヴァ=ティア系の巨大根が、一定の間隔で低く軋んでいる。
鼓動のようにも聞こえた。
「行くつもりですか」
アマルが訊いた。
リオは地図から目を離さない。
「まだ決めてません」
「そうですか」
「ただ」
赤い内海へ集まる白い札を見る。
「診る必要はありそうです」
マヤもその隣で、同じ場所を見ていた。
胸の奥。
第二脈が、もう一度だけ。
遠くから呼び返すように、小さく打った。




