第五節 ― 奇跡の次に来るもの
ヴェイン施療院の中庭には、大きな木が一本あった。
聖樹と呼ぶには小さく、庭木と呼ぶには根が立派すぎる。白い石畳を押し上げるように黒褐色の根が広がり、その隙間には患者の家族が持ち込んだらしい小さな花や薬草が植えられていた。
午後になると、病室を追い出された見舞客や、診察待ちに飽きた子どもたちがその木陰へ集まる。
今日も、片腕に鱗のある男が妻に果物を剥いてもらい、その隣では角の生えた少年が別の子どもと石遊びをしていた。少し離れた長椅子では、患者の家族らしい老夫婦が同じ椀から冷たい茶を飲んでいる。
マヤは木陰に座り、厨房でもらった焼き菓子を半分まで食べたところで、正面の壁を見た。
白い花。
その下から伸びる、黒い根。
施療院の紋章らしい意匠が、淡い金色の枠に囲まれて描かれている。
そして、その下に言葉が刻まれていた。
《命が続くなら、救いは終わらない》
噛みかけた焼き菓子を持ったまま、マヤの手が止まった。
「先生」
すぐ隣で診療記録を読んでいたリオが顔を上げる。
「どうした」
マヤは何も言わず、壁を指した。
リオの視線が文字を追う。
その表情から、ほんの少しだけ力が抜けた。驚いたのではない。記憶の中にあったものと、目の前のものが重なった時の顔だった。
ラウ=マリカ。
雨の夜。
検疫所で見つけた一枚の祈祷布。
そこにも、まったく同じ言葉が書かれていた。
「……同じですね」
「ああ」
「ここの言葉だったんですか?」
「少なくとも、ここでは使われてる」
「じゃあ、あの布も?」
「そこまでは分からない」
リオはすぐに線を引いた。
「同じ言葉を使う人間が他にいるかもしれない。ここからラウ=マリカへ渡ったとも限らない」
「でも、関係ないとも言えない」
「そうだな」
マヤはもう一度、壁の文字を見た。
命が続くなら。
救いは終わらない。
言葉だけを読めば、優しい。
この施療院で見てきたものを考えても、嘘だとは思えなかった。
ナユは生きた。
根になった足で暮らす女性は笑っていた。
声を失った男は、娘と指で話していた。
助かった人がいる。
助けられた家族がいる。
だからこそ、その言葉は簡単に嫌いになれなかった。
「焼き菓子、食べないならもらいますよ」
リオが言う。
マヤは慌てて手を引いた。
「食べます」
「考え事しててもそこは早いな」
「これは別です」
「何と別なんだ」
「難しい話と、おやつです」
最後の一口を食べてから、マヤはもう一度文字を見上げた。
黒い根の先に咲いた白花が、陽射しの中では妙に綺麗だった。
やがてリオは診療記録を閉じた。
「返してくる。ここにいるか?」
「はい」
「勝手にどこか行くなよ」
「施療院の中です」
「前にも似たようなことを聞いた」
「今日は行きません」
「今日は、か」
疑わしそうな顔を残して、リオは建物へ戻っていった。
マヤはその背中が扉の向こうへ消えるまで見送り、それから木の根元へ視線を落とした。
太い根の間に、小さな白い花が咲いている。
指を伸ばしかけて、やめた。
「気になりますか」
声に顔を上げる。
アマル=ヴェインが立っていた。
白い医療衣の袖を肘まで捲っている。診療帰りなのか、手にはまだ薄く薬草の匂いが残っていた。
「ここ、座っても?」
「どうぞ」
アマルはマヤから少し間を空けて腰を下ろした。
近づきすぎない。
第一印象の時から、それは変わらなかった。
マヤが診察を断った時も、彼は一歩で退いた。
だから嫌いではない。
むしろ、優しい人だと思う。
それでも、なぜか二人きりになると肩へ力が入った。
アマルはすぐには話さず、中庭を行き交う人々を見ていた。
「救済済みの方々を、怖いと思いましたか」
突然だった。
けれど、何を指しているかは分かった。
奥の病棟。
根になった身体。
失われた声。
人の輪郭を埋め尽くす花。
六年間、目覚めないまま動き続ける心臓。
マヤは少し考えた。
「少し」
「正直でいい」
アマルの声に責める響きはなかった。
「怖いと感じることまで、人に決められるものではありませんから」
その答えに、マヤは少しだけ意外そうに彼を見た。
アマルは穏やかに続ける。
「では、自分もああなるかもしれないと思いましたか」
マヤの指先が、膝の上で止まった。
「……少し」
「そうでしょうね」
「でも」
言葉が自然に出た。
「あの人たちは、わたしじゃありません」
アマルが、初めて強くマヤを見た。
これまでのような、患者を見る穏やかな視線ではなかった。
驚きでもない。
何かを見つけた人間の目だった。
「マヤ=ルク」
名前を呼ばれる。
「あなたは奇跡ではありません」
身体が硬くなった。
息が一瞬だけ浅くなる。
奇跡。
嫌いな言葉だった。
だから否定されたはずなのに、楽にはならなかった。
アマルは続ける。
「奇跡の次に来るものです」
マヤは何も言わなかった。
「強い生命再生を繰り返した身体では、何かが失われることが多い。形が変わる。言葉を失う。記憶が薄れる。反応そのものが減っていく」
アマルの目は、マヤの顔を見ていた。
視線が鎖骨へ落ちることも、手首の花痕へ落ちることもない。
それなのに。
なぜか、身体の内側を数えられているような感覚がした。
「あなたには再生がある。花化がある。獣性も、不死徴もある。それだけの変化を抱えながら、あなたは自分の言葉で話し、自分で考え、自分の嫌なことを嫌だと言える」
アマルの声には熱があった。
大きくはない。
だが、今まで聞いた中で一番強い声だった。
「あなたの身体は、救済が人を失わず成立し得る証明かもしれない」
褒められている。
たぶん。
アマルにとっては、これ以上ないほどの賛辞なのだろう。
けれどマヤには、そう聞こえなかった。
証明。
その言葉が、ひどく昔の匂いを連れてきた。
湿った土。
焚かれた香。
踏み荒らされた草。
密林から戻った日の、人の声。
――奇跡だ。
最初に誰が言ったのかは、もう覚えていない。
マヤは泥だらけだった。
白かった供物衣は裂れ、腕には乾いた血がこびりつき、裸足の足裏には細かな傷が無数にあった。
村へ戻った時、誰もすぐには近づかなかった。
死んだはずの少女が、歩いて帰ってきたのだから。
誰かが膝をついた。
それを見て、次の人も膝をついた。
「聖女だ」
「神が返した」
「奇跡だ」
声が増えていく。
泣く者がいた。
笑う者もいた。
額を地面へ擦りつける者までいた。
マヤは立っていた。
足が痛かった。
喉が渇いていた。
身体の奥が熱かった。
でも、誰もそれを聞かなかった。
祈りが始まった。
低い声が重なり、名を呼ばれ、祝福を乞われる。
最初に熱くなったのは左肩だった。
皮膚の下を、細い針が何本も走るような痛み。
次に鎖骨。
手首。
背中。
花が咲いた。
白い花だった。
自分の皮膚から咲くには、あまりにも綺麗だった。
「見ろ」
「祝福だ」
「本当に神が返された」
花が増えるたび、祈りの声も大きくなる。
祈りが大きくなるほど、身体が熱くなる。
息ができなくなった。
胸が痛い。
誰かに言いたかった。
けれど、声が出なかった。
目の前では、人々が泣きながら笑っていた。
よかった。
救われた。
奇跡だ。
誰も、
――痛い?
とは聞かなかった。
その声を聞いたのは、ずっとあとだった。
「祈るのをやめてください」
知らない男の声だった。
大きくはなかった。
けれど、祈りよりよく聞こえた。
人垣を押し分けて入ってきた若い医師が、地面へ膝をついた。
土と薬草の匂いがした。
左腕には包帯。
肩には古びた診療鞄。
神官が何か言った。
彼は聞かなかった。
「この子に向かって祈るのをやめてください」
「聖女への祈りです」
「症状を悪化させています」
「神の徴を症状と――」
「呼び方はあとで決めてください。先に熱を下げる」
冷たい布が額へ触れた。
次に手首。
呼吸を数えられた。
花を見られた。
血を採られた。
祈られなかった。
熱が下がるまで、何度も水を替えられた。
花が新しく開くたびに状態を確かめられ、呼吸が浅くなれば身体を起こされた。
奇跡だとも。
聖女だとも。
神に選ばれたとも言われなかった。
初めて、自分の身体を誰かが「何かの証」ではなく、具合の悪い身体として扱った。
中庭を渡る風で、マヤは現在へ戻った。
白い花が揺れている。
目の前にはアマルがいた。
彼は今も、真っ直ぐにマヤを見ていた。
「……証明には、なりたくありません」
マヤが言った。
アマルの表情がわずかに動く。
「そうですか」
「はい」
「分かりました」
それ以上、彼は押さなかった。
そこが余計に分からない。
嫌だと言えば退く。
診察を拒めば尊重する。
優しい。
それなのに、さっき自分を見た目だけは、村人たちとどこか似ていた。
アマルは立ち上がった。
「嫌な話をしてしまいましたね」
「少し」
「正直でいい」
同じ言葉を残し、彼は病棟へ戻っていった。
夕方。
診療を終えたリオとマヤは、施療院の外桟橋を歩いていた。
川面には夕陽が細長く伸び、帰りの舟がその光を何度も切っていく。薬草を煮る匂いに、どこかの屋台から焼いた魚の香りが混じっていた。
マヤはしばらく黙って歩いた。
「先生」
「何だ」
「あの人と話しました」
リオの足が少しだけ遅くなる。
「何を」
「わたしの身体のことです」
「勝手に診られたか?」
「いいえ」
即答すると、リオの肩からわずかに力が抜けた。
「ならいい」
「いいんですか?」
「君が話したなら」
マヤは桟橋の端を見ながら歩く。
足元で水がちゃぷちゃぷと鳴っていた。
「奇跡じゃないって言われました」
「それで?」
「奇跡の次に来るものだって」
リオは黙った。
「救済が、人を失わないでできる証明かもしれないって」
今度は長く黙った。
マヤは横目で彼を見る。
怒っているようには見えない。
ただ、考えている。
そういう顔だった。
「あの人」
マヤは言葉を探した。
「あの人、わたしを見てるのに」
一度、川面へ視線を落とす。
「わたしを見てない気がします」
リオはすぐには答えなかった。
しばらく二人で歩いてから、マヤの方を見る。
「そう感じたなら、覚えておけ」
「それだけですか?」
「俺が『あの人はこういう人だ』って決めたら、同じことになる」
マヤは少し考えた。
「先生、たまに面倒ですね」
「たまにで済んでるなら安心した」
「でも」
マヤは小さく笑った。
「今のは、ちょっと先生らしかったです」
リオは嫌そうな顔をした。
「褒めてないだろ」
「半分くらいは」
夕暮れのルマリアを、舟が一艘、静かに上っていく。
施療院の白い壁には、まだあの言葉が残っていた。
《命が続くなら、救いは終わらない》
マヤは一度だけ振り返った。
それから、リオと並んで外桟橋を歩いていった。




