第四節 ― 救済された人々
ヴェイン施療院に滞在して三日目になると、マヤは食堂の献立表をリオより先に確認するようになった。
「今日は川魚の香草焼きです」
「そうか」
「昨日は豆でした」
「覚えてる」
「一昨日も豆でした」
「それも覚えてる」
「これは大きな進歩だと思います」
朝の診療記録から顔を上げずに、リオは訊いた。
「何が」
「魚が出ます」
「君の旅の評価基準、だいぶ食事に寄ってきたな」
「生活は大事です」
その主張自体は間違っていない。
ヴェイン施療院に来てから、リオも改めてそれを感じていた。
病院にも生活がある。
患者は一日中、病気だけをしているわけではない。
鱗化した漁師は、朝から同室の男と昨夜の賭けについて揉めていた。頬から首まで青緑の鱗が広がっているくせに、本人の最大の関心事は負けた銀貨三枚の行方だった。
「絶対に壺の下へ隠しただろう」
「患者を泥棒扱いするな」
「昨日まで船泥棒だった男が何を言ってる」
「元、だ」
向かいの寝台では、身体から香草が生える女性が、その葉を勝手に摘もうとする看護師の手を叩いていた。
「それ、今日の夕食に使うつもりでしょう」
「違います。伸びすぎた分を整えるだけです」
「だったら厨房の人が塩持って待ってるのは何ですか」
リオが通りかかると、看護師と料理人がそろって目を逸らした。
「院内で患者を調味料にするな」
「先生、本人が昨日はいいって」
「昨日はね。今日は気分が変わったの」
女性が胸を張る。
「わたしの香草なんだから、わたしが決めます」
「それはもっともです」
そう答えるしかなかった。
片腕だけ豹化した船頭は、左腕の爪を器用に使って果物の皮を剥いていた。
「便利ですね」
マヤが感心すると、船頭は得意げに爪を光らせた。
「縄を切る時なんか最高だぞ」
「でも服は?」
「三着駄目にした」
「不便ですね」
「嬢ちゃん、評価が早いな」
別の病室では、両目の代わりに淡黄色の感光花を咲かせた老人が、窓辺へ顔を向けていた。
「今日は晴れですか」
老人が訊く。
「雲が多いです。でも明るいですよ」
マヤが答えると、花弁がゆっくり開いた。
「なら晴れだ」
「雲があります」
「わしが明るいと言ったら晴れなんだ」
「頑固ですね」
「老人の特権だ」
その横では、人語を失った男が紙いっぱいに舟を描いていた。
話しかければ、返事の代わりに絵が増える。
マヤが「これ、ルマリアですか」と訊くと、男は太い線で川を描き、その上へ大きな魚を足した。
「魚が大きすぎません?」
男は少し考え、さらに魚を大きくした。
「そういう意味ではありません」
男が肩を震わせる。
笑っているらしい。
聖獣血清の影響で額に短い角が生えた少年は、その角へ紐を結んで小さな旗を立てようとして、看護師に叱られていた。
「危ないでしょう!」
「でも真っ直ぐ立つよ」
「立てなくていいの!」
「先生」
少年がリオを見つける。
「これ取った方がいい?」
リオは角の根元へ指を当て、痛みや熱がないことを確かめた。
「今すぐ取る理由はない」
「じゃあ旗つけていい?」
「それは看護師さんと相談してくれ」
「逃げた」
「医療判断じゃない」
施療院では、変わってしまった身体が珍しくない。
だが、それだけではなかった。
病室には誰かが持ち込んだ花が飾られ、面会時間になると子どもが走り回り、夕方には窓際で賭け札が回る。恋人が来る日は髪を整えてくれと頼む患者もいれば、退院したら仕事へ戻ることで家族と喧嘩している者もいる。
治療された身体の向こうに、それぞれの暮らしがあった。
それはリオにとって、心地よい光景だった。
同時に、少しだけ痛かった。
彼自身の左腕を、患者たちはほとんど気にしない。
包帯の隙間から白い獣毛が覗いていても、樹皮状の皮膚が見えても、珍しそうに眺める者はいなかった。
ここにいる誰もが、自分の身体について他人から勝手な意味をつけられる面倒を知っているのかもしれない。
「先生」
マヤが診療記録を覗き込んだ。
「これ、なんですか」
「どれだ」
指先が、一枚のカルテの上で止まる。
患者名。
年齢。
症状。
施術歴。
その右上に、小さく記された分類があった。
《救済済》
リオの眉が寄った。
「……診療分類じゃないな」
「治った、という意味ですか?」
「そうなら《治癒》でいい」
同じ印は、一枚ではなかった。
二枚。
三枚。
棚の奥へ行くほど増えている。
リオが一冊を抜いたところで、背後から声がした。
「見つけましたか」
アマルだった。
相変わらず白い医療衣を着ている。片手には診療記録を数冊抱え、もう一方の手には、どこかの患者から預かったらしい編みかけの毛糸が乗っていた。
「妙な分類ですね」
リオがカルテを示す。
「ええ」
アマルは否定しなかった。
「見ていただきたかった」
そう言って、奥へ続く廊下へ視線を向ける。
そこは、これまでリオたちが診療を手伝っていた区画より静かだった。
「行きますか?」
マヤが訊いた。
リオはカルテを棚へ戻す。
「ああ」
廊下を進むにつれ、人の声が減っていった。
消毒香の匂いが濃くなる。
窓から差し込む午後の光は明るい。それなのに、奥へ行くほど時間の流れだけが遅くなるように感じた。
最初の部屋には、一人の女性がいた。
年齢は五十代ほど。
腰から下が、人間の脚ではない。
太い根が何本も絡み合い、床へ固定されている。根の先は木製の台へ伸び、そこから外へ動かすことはできそうになかった。
けれど、女性は膝の代わりに置かれた板の上へ布を広げ、針を動かしていた。
「あら、院長」
「調子はいかがですか」
「最悪よ」
女性は笑う。
「刺繍糸の赤が足りないの」
「それは重症ですね」
「でしょう?」
布には、小さな川船と白い鳥が縫われていた。
マヤが目を輝かせる。
「綺麗です」
「欲しい?」
「いいんですか?」
「完成したらね。ただし川船はわたしのだから、鳥の方だけ」
「船は取らないです」
「分かってる子ね」
リオは女性の根を見た。
色は良い。
腐敗もない。
根の表面には細い血管様の脈が走り、人間の体温とほぼ同じ温かさを保っている。
「生命接ぎですか」
「ええ」
アマルが答える。
「骨盤から下の壊死が進み、切断では生命を保てなかった。根化によって循環を繋いだ症例です」
「歩けないけどね」
女性が自分から言った。
「でも手は動くし、ご飯も食べられる。娘も孫も来る。わたしはこれでいいの」
それ以上、リオには訊くことがなかった。
次の部屋では、痩せた男が寝台へ半身を起こしていた。
喉元には淡い樹皮状の痕が広がり、声は出ない。
その横で、若い娘が本を読んでいる。
「それで、王子は三日間も森で迷って――」
父親が娘の腕を指で二度叩いた。
「はいはい。そこ昨日も読んだって?」
今度は一度。
「じゃあ次の頁ね」
娘は慣れた様子で本をめくる。
男は声を失っていた。
だが、会話を失ったわけではない。
娘の読む声に合わせて、指先が返事をする。
笑うところでは肩が揺れ、つまらないところでは娘の腕を叩く。
それを見て、マヤが小さく笑った。
「けっこう厳しいですね」
男が指を三度鳴らした。
「今のは何です?」
娘が笑う。
「たぶん、『その通り』です」
三つ目の部屋へ入った時、空気が変わった。
甘い匂いがした。
腐花とは違う。
もっと青く、瑞々しい花の香り。
寝台の上に、人がいた。
人だったもの、と言うべきなのか、リオには一瞬判断できなかった。
胸から肩、首、頬の半分までが花に覆われている。
白。
淡い桃。
薄紫。
あまりにも美しく、丁寧に咲いていた。
花弁の隙間から、かろうじて人間の皮膚が見える。
「意識反応は?」
リオが訊く。
「ほとんどありません」
アマルが答える。
「痛覚刺激への反応もごく僅かです。ただ、心拍は安定しています」
「家族は?」
少し間があった。
「今は来ていません」
その言い方で分かった。
今日だけではない。
長く来ていない。
マヤは寝台へ近づかなかった。
遠くから、花に覆われた顔を見ている。
彼女の指が無意識に自分の手首へ触れていた。
リオは気づいたが、何も言わなかった。
最後の部屋には、花すらなかった。
静かな寝台。
細い胸。
淡い呼吸。
長い昏睡状態の患者だった。
生命接ぎによる根の補助が胸部へ入り、心臓だけは一定のリズムを保っている。
目は開かない。
声もない。
指も動かない。
ただ、心臓は動いていた。
とく、とく、と。
小さな音が、静かな部屋の中に続いている。
「何年です?」
「六年になります」
アマルは答えた。
リオは患者の手首へ指を当てた。
脈はある。
温かい。
生きている。
その事実だけなら、疑いようがない。
だが、それ以上の何かを訊こうとすれば、言葉が途端に曖昧になる。
聞こえているのか。
夢を見ているのか。
苦しいのか。
戻りたいのか。
終わりたいのか。
何ひとつ分からない。
アマルは、リオが手を離すまで待っていた。
急かさない。
自分の答えを先に置くこともしない。
廊下へ出てから、ようやく口を開いた。
「先生」
リオが振り向く。
「どこからを失敗と呼びますか」
静かな問いだった。
責める調子ではない。
試すようでもない。
ただ、本当に訊いている。
最初の女性は、歩けない。
だが刺繍をして笑っていた。
二人目の男は、言葉を失った。
それでも娘と話していた。
三人目は、身体の大半を花に変え、ほとんど反応しない。
四人目は六年間、目を開けていない。
全員の心臓は動いている。
全員、生命接ぎによって死を免れた。
なら、どこで線を引く。
一人目は成功で、二人目も成功。
三人目から失敗なのか。
では、その境目は誰が決める。
反応の有無か。
言葉か。
歩けるかどうかか。
家族がいるかどうかか。
本人が笑えるかどうかか。
リオは答えようとして、口を閉じた。
脳裏に浮かんだ顔があった。
エラ。
かつて、自分が救った患者。
救ってしまった患者。
人の形を失い、言葉を失ったあとも、彼女の中には確かに意思が残っていた。
それを知ったのは、ずっと後になってからだ。
だからといって、あの日の選択が正しかったことになるわけではない。
だが――もし。
あの時、変わってしまった姿だけを見て「失敗だった」と決めつけていたのなら。
それもまた、彼女の生を勝手に決めていたことになるのではないか。
包帯の下で、左腕が鈍く疼いた。
「分かりません」
リオは言った。
アマルが静かに彼を見る。
「そうですか」
「少なくとも、見た目だけでは決められない」
「ええ」
「話せるかどうかだけでも」
「ええ」
アマルは嬉しそうにはしなかった。
勝った顔もしない。
ただ、同じ問いを抱える医師のように頷いただけだった。
「私も、そう思っています」
その言葉が、リオには重かった。
マヤは二人の少し後ろに立っていた。
「先生」
「何だ」
「さっきの刺繍、欲しいです」
あまりに違う話だったので、リオは一瞬ついていけなかった。
「……鳥のやつか」
「はい」
「完成したらな」
「先生が覚えておいてください」
「自分で覚えてろ」
「わたし、忘れるかもしれないので」
さらりと言われて、リオの返事が止まる。
マヤはすぐに笑った。
「だから先生が覚えてください」
軽く言った。
軽く言えるようになったのかもしれない。
リオはしばらく彼女を見てから、息を吐いた。
「分かった」
「約束です」
「ああ」
マヤは満足そうに頷き、廊下の先へ歩き出す。
その背を見ながら、リオはもう一度、先ほどの病室を振り返った。
救われた命。
救われたと言われる命。
救われたかどうか、本人に訊くことさえできない命。
そのすべてを、同じ一語で括ることはできなかった。
けれど同時に、ひと目見ただけで「失敗」と切り捨てることも、もうできなかった。




