第三節 ― 死ぬことを選んだ老人
ドアル=メナは、診察を始めて五分もしないうちに、リオの手つきへ文句をつけた。
「もっと強く押せ。そんな撫で方じゃ、若い娘を口説くのにも使えんぞ」
「肺を診てるんです。口説き方の指導は頼んでません」
「若い医者はこれだから融通が利かん」
「先生、この人、元気ですね」
寝台の脇で聞いていたマヤが言うと、ドアルは胸を張ろうとして、すぐにひどく咳き込んだ。
乾いた咳ではない。
胸の奥に濁った水を抱えたような、重い音だった。一度始まると長く、老人の痩せた肩が何度も上下する。リオは背を支え、呼吸が戻るまで待った。
ようやくドアルが息を吐く。
「……元気に見えるなら、嬢ちゃんは医者に向いてないな」
「医者ではありません」
「なら見込みがある」
「どういう意味ですか」
「医者は人の顔を見るなり病気の話をする」
ドアルはそう言って、リオを顎で示した。
「こいつみたいにな」
「診察中ですからね」
窓の外を、荷舟が一艘ゆっくりと遡っていった。
ヴェイン施療院の病室は川に面している。開け放した窓から湿った風が入り、薬草を煮る匂いに川泥と船油の煙が混じっていた。
ドアルはその匂いを嗅ぎ、懐かしそうに鼻を鳴らす。
「下手くそな操船だ。あの流れなら、あと舟幅ひとつ東へ寄せろ」
「ここから分かるんですか?」
マヤが窓へ寄る。
「当たり前だ。四十年以上、ルマリアを上ったり下ったりしてたんだぞ」
「船乗り?」
「水先人だ。でかい荷船でも、川底を知らん船頭に任せれば泥に腹を擦る。霧で岸が消えようが、増水で水路が変わろうが、船を通すのが俺の仕事だ」
言いながら、ドアルは日に焼けて節くれ立った手を持ち上げた。
指の関節は太く、掌には古い傷がいくつも残っている。
「若い頃は夜明け前から舟に乗ってな。昔のルマリアは今より性格が悪かった」
「川に性格があるんですか」
「ある。雨の翌日は特に機嫌が悪い」
「先生みたいですね」
「どうしてそこで俺を見る」
「雨の日、左腕が痛むから機嫌が悪いでしょう」
リオは黙って診療記録へ視線を落とした。
ドアルが豪快に笑い、その直後にまた咳いた。
笑うだけでも呼吸が乱れる。
それが、この老人の身体に残された余裕だった。
記録に書かれている病名は《河肺》。
ルマリア流域で長く働く者に多い慢性の肺病だった。
河霧に混じる湿地菌。
荷積み場に舞う乾燥薬草の粉。
船油を燃やす煙。
湿った空気の中に何十年も漂い続ける細かな塵。
一つなら身体は耐える。
だが、それを十年、二十年、四十年と吸い続ければ、肺は少しずつ傷ついていく。
ドアルはその典型だった。
「もう一度、吸ってください」
「さっきも吸った」
「もう一度」
「息くらい好きに吸わせろ」
「好きに吸えないから診てるんでしょう」
「口の減らん医者だな」
悪態をつきながらも、ドアルは従った。
ゆっくり息を吸う。
途中で止まる。
深く入らない。
胸へ手を当てると、左右とも動きが浅かった。奥では細かな濁音が絶えず続いている。何度聞いても、いい材料は見つからなかった。
リオは手を離した。
「薬で戻る段階は過ぎています」
ドアルは驚かなかった。
「知ってる」
「前から説明を?」
「三人に聞いた。お前で四人目だ」
「なら、俺を呼ぶ必要もなかったでしょう」
「腕がいいって聞いたからな。三人が駄目でも、四人目が『前の三人は藪だ』って言ってくれりゃ儲けもんだ」
「残念ですが、三人とも藪ではなかったようです」
「つまらんな」
ドアルは枕へ背を預けた。
口調は変わらない。
けれど、窓の外へ向いた目だけが少し静かになった。
リオは記録紙を閉じなかった。
まだ話は終わっていない。
「通常の治療では、回復は難しいです」
「ああ」
「ただ」
ドアルの目が戻る。
マヤも黙った。
ナユの手術から、まだ半日も経っていない。
裂けた肺を、人とは違う呼吸組織で補った少年。その胸が再び上下した瞬間を、リオはまだ手のひらに覚えている。
「生命接ぎなら」
ドアルは何も言わない。
「生きられる可能性はあります」
老人はしばらくリオの顔を見た。
期待に目を見開くこともなければ、嫌悪することもなかった。
「その代わり?」
尋ね方が妙に早かった。
リオも誤魔化さなかった。
「肺の一部が、人間の肺ではなくなる可能性があります」
「なら、いらん」
即答だった。
マヤがわずかに顔を上げる。
リオも、ほんの一拍だけ言葉を失った。
「説明は、まだ途中です」
「聞けば答えが変わるのか?」
「変わるかどうかを決めるための説明です」
「じゃあ聞く」
ドアルは顎を引いた。
リオは生命接ぎで起こり得る変化を、必要な範囲で説明した。
傷んだ肺機能を、生命根や別の呼吸組織で補うこと。
成功すれば、今より呼吸を保てる可能性があること。
変化の程度は、実際に接いでみるまで完全には分からないこと。
元の肺へ戻す治療ではないこと。
ドアルは途中で口を挟まなかった。
最後まで聞いたあと、鼻から細く息を吐いた。
「やっぱり、いらん」
「変わるのが嫌ですか」
ドアルの眉が動いた。
「俺がそんな上等な見た目してるか?」
日に焼けた顔。
曲がった鼻。
欠けた耳の先。
長年の船仕事で節くれ立った指。
ドアルは自分の胸を指で叩いた。
「肺が葉っぱになろうが、根っこが生えようが、それ自体はどうでもいい」
「では、どうして」
「もういいからだ」
窓の外で、水鳥が鳴いた。
ドアルはそちらを見たまま続ける。
「四十年以上、川を走った。嵐にも遭った。舟も二回沈めた」
「それは自慢しない方がいいのでは」
マヤが思わず言った。
「一回は俺のせいじゃない」
「もう一回は?」
「若かった」
「先生、この人、反省してません」
「診断済みだ」
「お前ら、病人相手に好き勝手言うな」
ドアルは笑った。
今度は咳が来る前に、自分で呼吸を整えた。
それから、少しだけ声を落とす。
「女房も見送った」
部屋の空気から、余計な音がひとつ消えた。
「いい女だった。俺より口が悪くてな。死ぬ前の日まで、川へ行くなら床を直してから行けって怒ってた」
ドアルの口元に、薄い笑いが残る。
「娘も育てた。まあ、半分以上は女房が育てたようなもんだが。孫の顔も見た。あいつが俺の船帽子を勝手に被って川へ落としたのも見た」
「落としたのは帽子だけですか?」
マヤが訊く。
「孫まで落ちてたら、今頃もっと大騒ぎしてる」
「よかったです」
「ああ。帽子は流れた」
それを一番惜しんでいるような顔だった。
やがてドアルは、リオへ視線を戻した。
「まだ生きたいのと」
一度、息を吸う。
途中で咳きそうになり、胸を押さえて待つ。
それでも、自分の言葉で最後まで続けた。
「何をしてでも死にたくないのは違う」
リオは答えなかった。
答える必要がないと思った。
これは、診察室で突然思いついた言葉ではない。
病に疲れた一日の絶望でもない。
妻を見送り、娘を育て、孫を抱き、四十年以上も大河を往復してきた男が、自分の残り時間を見たうえで出した答えだった。
「分かりました」
リオは記録紙へ視線を落とした。
「では、生命接ぎは行いません」
ドアルが肩の力を抜いた。
「話が早いな」
「代わりに、息苦しさを抑えます。咳で胸が痛む時の処置も変えましょう。呼吸補助を増やせば、起きて話せる時間は多少長くできると思います」
「飯は?」
「食べられるうちは」
「酒は?」
「駄目です」
「なら治療を考え直す」
「そこは生命接ぎでも変わりません」
「役に立たんな」
「肺を治す話と酒を飲む話を一緒にしないでください」
ドアルは不満げだったが、やがて頷いた。
「それでいい」
その時、病室の入口で足音が止まった。
「それでいいって、何が?」
女の声だった。
ドアルの顔が、わずかにしかめられる。
「……面倒なのが来た」
「聞こえてるわよ」
三十代半ばほどの女が、少年の手を引いて立っていた。
レイナ。
ドアルの娘だとすぐに分かった。
目元がよく似ている。
ただし、父親よりずっと疲れた顔をしていた。
「お父さん、また先生に余計なこと言ってないでしょうね」
「余計なことしか喋ってない」
リオが答えると、ドアルが睨んでくる。
「医者が患者を売るな」
「事実確認です」
少年は母親の手を離れ、寝台へ近づいた。
「おじいちゃん」
「おう。今日は川に落ちてないか」
「落ちてないよ」
「つまらんな」
「落ちた方がいいの?」
「駄目に決まってるだろ」
祖父に抱きつこうとした少年を、ドアルは咳を堪えながら片腕で受け止めた。
その様子を見ていたレイナが、リオへ向き直る。
「先生。父の具合は」
リオは一瞬、ドアルを見る。
本人は何も言わない。
「通常の治療で回復させるのは難しい状態です」
レイナの顔が強張った。
「でも……ヴェイン先生の治療がありますよね」
「生命接ぎなら、生存できる可能性はあります」
「じゃあ――」
「断った」
ドアルが先に言った。
レイナが止まる。
「何を?」
「生命接ぎだ」
「……どうして」
「いらんからだ」
女の顔から、血の気が引いた。
「助かる方法があるのに?」
「可能性があるって話だ」
「だから何?」
「だから、その可能性ごといらんと言ってる」
「お父さん」
声が低くなる。
「ちゃんと考えて」
「考えた」
「いつ?」
「ずっとだ」
「そんなの――」
「レイナ」
「そんなの、勝手じゃない!」
少年が母親を見上げる。
レイナは一度唇を噛んだが、止められなかった。
「治せないって言われてたのに、治療があるんでしょう? 助かるかもしれないんでしょう? それなのに、どうして何もしないって決められるのよ」
「俺の肺だ」
「私の父親でもある!」
病室が静まった。
廊下を行き交う足音と、窓の外の水音だけが聞こえる。
ドアルもすぐには言い返さなかった。
レイナの目には、もう怒りだけではなかった。
「お母さんの時だって、そうだった」
声が震える。
「仕方ないって言った。十分生きたって。最後まで一緒にいられたからって。今度はお父さんまで同じこと言うの?」
「同じじゃない」
「私には同じよ」
「レイナ」
「私はまだ、十分じゃない」
その一言に、ドアルの顔が止まった。
リオは口を挟まなかった。
ここで「患者本人の意思です」と言えば、簡単だった。
正しいことを言ったつもりにもなれる。
だが、レイナが恐れているのは治療方針ではない。
父親がいなくなることだ。
それを理屈で片づければ、この家族の話を医師の都合のいい言葉へ変えてしまう。
マヤも黙っていた。
先ほどまでドアルと軽口を叩いていた少女は、今は少年の方を見ている。
少年は大人たちの会話をどこまで理解しているのか、祖父の寝台の端を握ったまま動かなかった。
「……おじいちゃん」
やがて、小さな声で訊いた。
「帰ってくる?」
レイナが目を伏せる。
ドアルは孫を見た。
「どこにだ」
「家」
少年は答えた。
「治ったら帰ってくるんでしょ?」
ドアルの大きな手が、孫の頭へ乗る。
乱暴に撫でようとして、途中で力が抜けた。
「帰る場所が違うだけだ」
少年は分からない顔をした。
「違う場所?」
「ああ」
「遠い?」
「たぶんな」
「船で行く?」
ドアルは少し考えた。
「船があるなら、俺が操る」
少年がようやく笑った。
その隣で、レイナは顔を背けた。
肩が小さく震えている。
ドアルは娘へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
口の悪い老人にも、どう触れればいいか分からない時があるらしい。
リオは診療記録を閉じた。
「今日すぐに、何かを決め直す必要はありません」
レイナが振り向く。
「生命接ぎをしない方針は、今のドアルさんの意思として記録します。ただ、呼吸の状態はこれからも変わります。その時に話したいことがあれば、何度でも話してください」
「説得しても?」
レイナが訊いた。
リオは少し考えた。
「家族ですから」
それ以上は言わなかった。
説得するなとも、説得しろとも。
ドアルの人生はドアルのものだった。
けれど、その死によって残される時間は、ドアル一人のものではない。
医師にできるのは、そのどちらかを消して話を簡単にすることではなかった。
「じいさん」
マヤが不意に呼んだ。
「何だ、嬢ちゃん」
「帽子、もう一つ買った方がいいですよ」
「何の話だ」
「次の船で流したら困るので」
ドアルが目を丸くし、それから笑った。
レイナも、涙を拭いながらわずかに口元を緩める。
「二つ買っても、二つとも落とすわよ」
「人を何だと思ってる」
「昔からそういう人でしょう」
「親に向かって失礼な娘だ」
「育てたの、お父さんでしょ」
それにはドアルも返せなかった。
窓の外では、ルマリアを行く舟の櫂が、水をゆっくりと掻いていた。
流れは止まらない。
けれど、どの岸へ上がるかまで、川が決めるわけではなかった。




