↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/51

第二節 ― 名医アマル=ヴェイン

「遠いところを、よく来てくださいました」


 アマル=ヴェインはそう言って、まだ薬湯の匂いが残る手を布で拭った。


 間近で見ると、年齢はリオよりずっと上だと分かる。目元には細かな皺があり、頬もわずかに痩せていた。それでも老いというより、長い診療で少しずつ削られてきた人間の顔に見える。


 白に近い生成りの医療衣。その襟元から覗く首筋には、淡い緑金の線が走っていた。血管にも細い根にも見えるそれを、本人は隠していない。


 アマルの視線がリオへ向く。


「聖獣医師リオ=サルヴァ先生」


「先生は要りません」


「では、リオ先生と」


「減ってませんね」


 マヤが横で小さく笑った。


 アマルも口元を緩める。


「評判ほど堅い方ではないようで安心しました」


「どんな評判ですか」


「ラウ=マリカで死者に咲いた腐花を調べ、葬送反応が生者へ誤接続していることを突き止めた。獣母林では、変異を病として切り取らず、獣相適応そのものを診た。腐花群島では、死後に残った生命活動を、生存と取り違えなかった」


 並べられてみると、ろくな場所を歩いていない。


 リオはわずかに眉を寄せた。


「耳が早いですね」


「患者がいる場所の話は、できるだけ集めています」


 返事に飾り気はなかった。


 自分の名声を確認している人間ではない。どこで何が起き、どう診られたかを、本当に症例として集めている口調だった。


「特に腐花群島の件は興味深かった。死後も続く活動を見れば、人はどうしても『まだ生きている』と考えたくなる。そこで一度立ち止まった判断は、医師として正しいと思います」


「実際に見ていなければ、俺も間違えたかもしれません」


「だから現場へ行くのでしょう」


 アマルはあっさり言った。


 褒められているのに、妙に居心地が悪い。


 相手の口から出てくる言葉に、今のところ訂正したくなるところがないせいだった。


 やがてアマルの視線が、リオの隣へ移った。


「マヤ=ルクさん」


 マヤの肩が、ごくわずかに動いた。


 それだけだった。


 けれど、隣に立つリオには分かった。


 供物として呼ばれていた名ではない。


 神殿が与えた名でも、奇跡として祭り上げられた呼び名でもない。今、彼女自身が使っている名前だった。


「はい」


 返事が少しだけ柔らかい。


「あなたのことも伺っています」


 マヤの表情に警戒が戻りかける。


 だが、アマルはそこで余計な称号をつけなかった。


 聖女とも、奇跡とも、帰り供物とも呼ばない。


「長い旅でしょう。体調はいかがですか」


「元気です」


「この人の『元気です』は診断として信用しないでください」


「先生」


「事実だ」


「さっき患者ではなく旅の相棒になったばかりです」


「患者でなくなった覚えはない」


「ひどいです」


 アマルが二人を見比べる。


 ほんの少し、目元の笑みが深くなった。


「よい関係なのですね」


「どこを見てそう判断したんです」


「少なくとも、遠慮はなさそうです」


 否定しにくかった。


 アマルはマヤへ視線を戻すと、声の調子を変えずに尋ねた。


「もしよければ、診せていただいても?」


 マヤが黙った。


 その視線が、反射的にリオへ向く。


「俺を見るな」


「……聞いただけです」


「目でな」


「目は喋りません」


「君の目はよく喋る」


 マヤは唇を尖らせ、それからアマルを見た。


 白い衣。

 穏やかな顔。

 患者を自分の手で洗っていた指。


 それでも、しばらく考えてから首を横に振った。


「……今日は嫌です」


「分かりました」


 アマルは即答した。


 理由を聞かない。


 説得もしない。


 残念そうな顔すらしなかった。


「診察は、受けたい時に受けるものです。気が変わったら声をかけてください」


「……はい」


 マヤが瞬きをした。


 断ったあとに何も続かなかったことの方が意外だったらしい。


 リオも黙ってアマルを見る。


 少なくとも今の応対に、口を挟む理由はなかった。


「それで、お招きいただいた理由ですが」


 リオが切り出しかけた、その時だった。


 廊下の奥で、金属盆の落ちる甲高い音がした。


 直後に声が飛ぶ。


「院長!」


 空気が変わった。


 アマルの顔から笑みが消える。


「どうしました」


「河獣にやられた子です! 胸を――血が止まりません!」


 話を最後まで聞かず、アマルは歩き出していた。


 速い。


 走りはしないが、先ほどまでの穏やかな足取りとはまるで違う。


「手術室を空けてください。洗浄液と胸部固定具。聖樹薄膜も準備を」


「はい!」


 治療師たちが散る。


 担架が廊下の向こうから運び込まれてきた。


 少年だった。


 濡れた髪が額に張りつき、衣服は胸元から赤黒く染まっている。呼吸をするたび、全身が小さく跳ねていた。


「ナユ! ナユ、聞こえる!?」


 担架へ縋りつこうとした女を、治療師が支えている。


 母親だろう。


 少年の唇は血の気を失い、息を吸うたび喉の奥で湿った音が鳴った。


 リオの身体は、考えるより先に動いた。


「失礼」


 担架の横へ入り、首筋へ指を当てる。


 脈が速い。


 弱い。


 胸へ耳を寄せた。


 一方の呼吸音が、ほとんど拾えない。


 傷口近くの布を押さえていた治療師が、青ざめた顔を上げる。


「河獣の牙が胸を抜いています。傷は塞ぎ始めていますが、中が――」


「外だけ閉じるな。排出路を残して」


 リオが言うのと、アマルが指示するのはほとんど同時だった。


「胸腔に溜まっています。先に抜きます」


 二人の声が重なり、互いを見る。


 アマルは一度だけ頷いた。


「処置室へ」


 担架が押し込まれる。


 リオも続こうとしたところで、アマルが振り返った。


「手を貸していただけますか」


 迷う理由はなかった。


「もちろん」


「先生」


 背後からマヤの声がした。


 リオが振り向く。


 マヤはついてこようとはしていない。ただ、リオの診療鞄を両手で持っていた。


「これ」


「ああ」


 受け取ろうとすると、マヤは鞄を渡す前に一瞬だけ彼を見る。


「帰ってきます?」


「施療院の中だぞ」


「そういう意味じゃありません」


 リオは一拍置いた。


「行ってくる」


「はい」


 鞄が手渡された。


 扉が閉まる。


 そこから先は、患者だけを見る時間だった。


 ナユの胸元を切り開くと、想像していた以上に損傷が深かった。


 血を吸った布が次々と交換される。


 アマルは自分で傷を確認し、指先で胸郭の動きを追った。迷いがない。それでいて、速さに任せて雑になることもない。


「傷側の肺が裂けています」


 リオが血読針を取る。


「残っている部分だけで呼吸を維持するのは難しい」


「縫合だけでは持ちません」


 アマルも同じ判断だった。


 少年の胸が一度、大きく上下した。


 次の呼吸が来ない。


「ナユ!」


 母親の声が扉の外から響いた。


 治療師が脈を確認する。


「落ちています!」


 リオは左腕の包帯をほどいた。


 白い獣毛の間に、根のような淡い光が走る。手のひらをナユの胸へ当てると、弱り切った生命脈が掌の奥へ伝わってきた。


 散っている。


 繋がってはいるが、このままでは足りない。


「まだ戻せます」


 リオが言う。


 アマルはナユを見たまま答えた。


「ええ」


 その声には、希望を口にしている者の軽さがなかった。


 できるかどうかを計算した医師の声だった。


 アマルは治療師へ目を向ける。


「お母様を」


 女がすぐに中へ通された。


 血に濡れた息子を見て、膝が崩れそうになる。


「ナユ……」


 アマルがその前へ立つ。


「お母様」


「助けてください」


「通常の処置だけでは、間に合いません」


「何でもしてください!」


 女はアマルの袖を掴んだ。


「お願いです。何でもします。だから、この子を――」


「生命接ぎを使います」


 母親の息が止まる。


 その名は知っているらしい。


「傷ついた肺の一部を、人の組織だけではなく、生命根と根葉状の呼吸組織で補います。助かる可能性はあります。ただし、元と同じ身体には戻りません」


 アマルは曖昧にしなかった。


「胸の内側に、人とは異なる組織が残ります」


「生きられるんですか」


「そのための処置です」


 女は一度、息子を見た。


 返事までに、長い時間はかからなかった。


「お願いします」


「分かりました」


 アマルは母親の手から、自分の袖をそっと外した。


「全力を尽くします」


 女が退出すると、処置室の空気がさらに張り詰めた。


 アマルは白手袋を外した。


 手の甲に、葉脈のような緑金の線が浮かんでいる。


「聖樹薄膜」


 薄い半透明の膜が盆から持ち上げられる。


 濡れた葉よりも薄く、光へ透かすと細かな脈が走っていた。


「生命根を」


 次に渡されたのは、指ほどの細い根。


 切断面から淡い樹液を滲ませながら、それ自体が呼吸するようにごく微かに縮んでいる。


 最後に、腐花由来の分解抑制剤。


 アマルは量を目で決めなかった。


 一滴落とすたび、ナユの血色と脈を確かめる。


「もう一滴」


「多くないですか」


 治療師が問う。


「この子にはここまで。次は要りません」


 即答だった。


 同じ術式でも、一定量を流し込んでいるわけではない。


 患者を見ている。


 リオはそれを確認してから、ナユの胸へ左手を戻した。


「生命脈をこちらへ寄せます」


「お願いします。私は受け側を作ります」


 二人が並ぶ。


 リオが残った肺と心臓から流れる脈を拾い、途切れかけた道筋を探す。


 アマルが傷口へ聖樹薄膜を置く。


 生命根の先端を、壊れた組織へ添える。


 普通なら拒む。


 人の肉と、樹の生命は同じではない。


 無理につなげば、どちらかが腐るか、暴走する。


「急がないでください」


 アマルが低く言った。


 リオは思わず目を上げた。


 ナユの脈は落ち続けている。


 それでもアマルは、接合を急がなかった。


「今つなぐと、根の方が勝ちます」


「……同感です」


 リオは左腕へ意識を集中する。


 残った肺が、かすかに動く。


 心臓。


 血流。


 ナユ自身の身体が、まだ生きようとしている流れ。


「今」


 リオが言った。


 アマルの指が動いた。


 生命根が薄膜へ触れる。


 緑金の光が、少年の胸の奥で一度だけ走った。


 根は伸びすぎなかった。


 人の肉を呑み込むこともない。


 裂けた肺の代わりになる位置で枝分かれし、薄い葉のような膜を広げていく。


 呼吸組織。


 肺ではない。


 だが、空気を取り込み、血へ渡すための別の器官。


「脈が戻ります!」


 治療師の声。


 まだ弱い。


 アマルは喜ばない。


「固定を。根を引っ張らないでください」


 リオもナユの胸から手を離さない。


 光脈の流れを見る。


 一度、乱れる。


「待って」


 リオが止める。


 アマルの手も止まった。


「何か?」


「根側へ血が寄りすぎてる」


 アマルが一瞬で視線を走らせる。


「分解抑制剤を半量だけ洗い流してください」


「はい」


 薬液が調整される。


 根の色が少し落ち着いた。


「……戻った」


 リオが呟く。


「助かりますか」


「まだです」


 アマルの返答は厳しかった。


 そこだけは、リオも同じだった。


 処置は続く。


 傷を閉じる。


 血を戻す。


 根葉組織が広がりすぎないよう固定する。


 何度も脈を取る。


 何度も呼吸を見る。


 アマルは一度も、「成功した」と言わなかった。


 ナユ自身が答えを返すまでは。


 やがて、少年の胸が持ち上がった。


 浅い。


 それでも自力だった。


 一度。


 二度。


 三度。


 根葉状の組織が、人の肺とは違う微かな擦過音を立てながら、その呼吸を補っている。


「ナユ」


 アマルが呼ぶ。


 反応はない。


 リオは少年の手を取った。


「聞こえるか。握れるなら握って」


 しばらく何も起こらなかった。


 指先が、動く。


 ほんの少しだけ。


 リオの指を握った。


「……よし」


 声が漏れた。


 今度はアマルが少年の瞼へ指を添える。


「ナユ。お母様が外にいます」


 瞼が震えた。


 ゆっくりと開く。


 焦点の合わない目が天井を彷徨い、やがて声の方へ向いた。


「……かあ……さん……」


 小さな声だった。


 けれど、言葉だった。


 リオは胸へ当てていた手を離した。


 左腕の光が弱まっていく。


 ナユの胸の中には、もう人間の肺だけがあるわけではない。


 それは事実だ。


 変わった。


 元には戻っていない。


 それでも、少年は母親を呼んだ。


 自分の意思で息を吸い、自分の声で。


 扉が開けられる。


 母親が駆け寄り、寝台の横へ膝をついた。


「ナユ!」


「かあ、さん……」


「いる。ここにいるよ」


 母親は少年の手を両手で包み、額を押しつけた。


 泣き声を抑えようとして、抑えきれない。


 アマルは少し離れた場所でそれを見ていた。


 勝ち誇った様子はない。


 奇跡を示した司祭の顔でもない。


 ただ、長い処置を終えた医師の顔だった。


 リオは器具を片づけながら、もう一度ナユの胸へ目をやる。


 生命接ぎ。


 危険な技術だ。


 人間の身体を、人間ではない生命で補う。


 使い方を誤れば、何が起こるか分からない。


 けれど、少なくとも今ここで行われたものは、乱暴な延命ではなかった。


 必要量を見極めた。


 患者の反応を追った。


 変化する身体を置き去りにせず、その瞬間ごとに処置を変えた。


 そして、死にかけていた少年は生きている。


 否定できなかった。


 技術として、正しい。


 医療として、成功している。


 アマルが寝台へ戻り、ナユの呼吸をもう一度確かめた。


 母親が涙に濡れた顔を上げる。


「助かったんですか……?」


 アマルはすぐには答えなかった。


 脈。


 呼吸。


 瞳孔。


 根葉組織の動き。


 ひとつずつ確認する。


 それからようやく、穏やかに笑った。


「この子は、明日の朝を迎えられます」


 母親が泣いた。


 ナユの細い指が、その手を握り返す。


 リオは何も言わなかった。


 言えることがなかった。


 少なくとも、この瞬間だけは。


 アマル=ヴェインは、一人の子どもの命を救った医師だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。