第二節 ― 名医アマル=ヴェイン
「遠いところを、よく来てくださいました」
アマル=ヴェインはそう言って、まだ薬湯の匂いが残る手を布で拭った。
間近で見ると、年齢はリオよりずっと上だと分かる。目元には細かな皺があり、頬もわずかに痩せていた。それでも老いというより、長い診療で少しずつ削られてきた人間の顔に見える。
白に近い生成りの医療衣。その襟元から覗く首筋には、淡い緑金の線が走っていた。血管にも細い根にも見えるそれを、本人は隠していない。
アマルの視線がリオへ向く。
「聖獣医師リオ=サルヴァ先生」
「先生は要りません」
「では、リオ先生と」
「減ってませんね」
マヤが横で小さく笑った。
アマルも口元を緩める。
「評判ほど堅い方ではないようで安心しました」
「どんな評判ですか」
「ラウ=マリカで死者に咲いた腐花を調べ、葬送反応が生者へ誤接続していることを突き止めた。獣母林では、変異を病として切り取らず、獣相適応そのものを診た。腐花群島では、死後に残った生命活動を、生存と取り違えなかった」
並べられてみると、ろくな場所を歩いていない。
リオはわずかに眉を寄せた。
「耳が早いですね」
「患者がいる場所の話は、できるだけ集めています」
返事に飾り気はなかった。
自分の名声を確認している人間ではない。どこで何が起き、どう診られたかを、本当に症例として集めている口調だった。
「特に腐花群島の件は興味深かった。死後も続く活動を見れば、人はどうしても『まだ生きている』と考えたくなる。そこで一度立ち止まった判断は、医師として正しいと思います」
「実際に見ていなければ、俺も間違えたかもしれません」
「だから現場へ行くのでしょう」
アマルはあっさり言った。
褒められているのに、妙に居心地が悪い。
相手の口から出てくる言葉に、今のところ訂正したくなるところがないせいだった。
やがてアマルの視線が、リオの隣へ移った。
「マヤ=ルクさん」
マヤの肩が、ごくわずかに動いた。
それだけだった。
けれど、隣に立つリオには分かった。
供物として呼ばれていた名ではない。
神殿が与えた名でも、奇跡として祭り上げられた呼び名でもない。今、彼女自身が使っている名前だった。
「はい」
返事が少しだけ柔らかい。
「あなたのことも伺っています」
マヤの表情に警戒が戻りかける。
だが、アマルはそこで余計な称号をつけなかった。
聖女とも、奇跡とも、帰り供物とも呼ばない。
「長い旅でしょう。体調はいかがですか」
「元気です」
「この人の『元気です』は診断として信用しないでください」
「先生」
「事実だ」
「さっき患者ではなく旅の相棒になったばかりです」
「患者でなくなった覚えはない」
「ひどいです」
アマルが二人を見比べる。
ほんの少し、目元の笑みが深くなった。
「よい関係なのですね」
「どこを見てそう判断したんです」
「少なくとも、遠慮はなさそうです」
否定しにくかった。
アマルはマヤへ視線を戻すと、声の調子を変えずに尋ねた。
「もしよければ、診せていただいても?」
マヤが黙った。
その視線が、反射的にリオへ向く。
「俺を見るな」
「……聞いただけです」
「目でな」
「目は喋りません」
「君の目はよく喋る」
マヤは唇を尖らせ、それからアマルを見た。
白い衣。
穏やかな顔。
患者を自分の手で洗っていた指。
それでも、しばらく考えてから首を横に振った。
「……今日は嫌です」
「分かりました」
アマルは即答した。
理由を聞かない。
説得もしない。
残念そうな顔すらしなかった。
「診察は、受けたい時に受けるものです。気が変わったら声をかけてください」
「……はい」
マヤが瞬きをした。
断ったあとに何も続かなかったことの方が意外だったらしい。
リオも黙ってアマルを見る。
少なくとも今の応対に、口を挟む理由はなかった。
「それで、お招きいただいた理由ですが」
リオが切り出しかけた、その時だった。
廊下の奥で、金属盆の落ちる甲高い音がした。
直後に声が飛ぶ。
「院長!」
空気が変わった。
アマルの顔から笑みが消える。
「どうしました」
「河獣にやられた子です! 胸を――血が止まりません!」
話を最後まで聞かず、アマルは歩き出していた。
速い。
走りはしないが、先ほどまでの穏やかな足取りとはまるで違う。
「手術室を空けてください。洗浄液と胸部固定具。聖樹薄膜も準備を」
「はい!」
治療師たちが散る。
担架が廊下の向こうから運び込まれてきた。
少年だった。
濡れた髪が額に張りつき、衣服は胸元から赤黒く染まっている。呼吸をするたび、全身が小さく跳ねていた。
「ナユ! ナユ、聞こえる!?」
担架へ縋りつこうとした女を、治療師が支えている。
母親だろう。
少年の唇は血の気を失い、息を吸うたび喉の奥で湿った音が鳴った。
リオの身体は、考えるより先に動いた。
「失礼」
担架の横へ入り、首筋へ指を当てる。
脈が速い。
弱い。
胸へ耳を寄せた。
一方の呼吸音が、ほとんど拾えない。
傷口近くの布を押さえていた治療師が、青ざめた顔を上げる。
「河獣の牙が胸を抜いています。傷は塞ぎ始めていますが、中が――」
「外だけ閉じるな。排出路を残して」
リオが言うのと、アマルが指示するのはほとんど同時だった。
「胸腔に溜まっています。先に抜きます」
二人の声が重なり、互いを見る。
アマルは一度だけ頷いた。
「処置室へ」
担架が押し込まれる。
リオも続こうとしたところで、アマルが振り返った。
「手を貸していただけますか」
迷う理由はなかった。
「もちろん」
「先生」
背後からマヤの声がした。
リオが振り向く。
マヤはついてこようとはしていない。ただ、リオの診療鞄を両手で持っていた。
「これ」
「ああ」
受け取ろうとすると、マヤは鞄を渡す前に一瞬だけ彼を見る。
「帰ってきます?」
「施療院の中だぞ」
「そういう意味じゃありません」
リオは一拍置いた。
「行ってくる」
「はい」
鞄が手渡された。
扉が閉まる。
そこから先は、患者だけを見る時間だった。
ナユの胸元を切り開くと、想像していた以上に損傷が深かった。
血を吸った布が次々と交換される。
アマルは自分で傷を確認し、指先で胸郭の動きを追った。迷いがない。それでいて、速さに任せて雑になることもない。
「傷側の肺が裂けています」
リオが血読針を取る。
「残っている部分だけで呼吸を維持するのは難しい」
「縫合だけでは持ちません」
アマルも同じ判断だった。
少年の胸が一度、大きく上下した。
次の呼吸が来ない。
「ナユ!」
母親の声が扉の外から響いた。
治療師が脈を確認する。
「落ちています!」
リオは左腕の包帯をほどいた。
白い獣毛の間に、根のような淡い光が走る。手のひらをナユの胸へ当てると、弱り切った生命脈が掌の奥へ伝わってきた。
散っている。
繋がってはいるが、このままでは足りない。
「まだ戻せます」
リオが言う。
アマルはナユを見たまま答えた。
「ええ」
その声には、希望を口にしている者の軽さがなかった。
できるかどうかを計算した医師の声だった。
アマルは治療師へ目を向ける。
「お母様を」
女がすぐに中へ通された。
血に濡れた息子を見て、膝が崩れそうになる。
「ナユ……」
アマルがその前へ立つ。
「お母様」
「助けてください」
「通常の処置だけでは、間に合いません」
「何でもしてください!」
女はアマルの袖を掴んだ。
「お願いです。何でもします。だから、この子を――」
「生命接ぎを使います」
母親の息が止まる。
その名は知っているらしい。
「傷ついた肺の一部を、人の組織だけではなく、生命根と根葉状の呼吸組織で補います。助かる可能性はあります。ただし、元と同じ身体には戻りません」
アマルは曖昧にしなかった。
「胸の内側に、人とは異なる組織が残ります」
「生きられるんですか」
「そのための処置です」
女は一度、息子を見た。
返事までに、長い時間はかからなかった。
「お願いします」
「分かりました」
アマルは母親の手から、自分の袖をそっと外した。
「全力を尽くします」
女が退出すると、処置室の空気がさらに張り詰めた。
アマルは白手袋を外した。
手の甲に、葉脈のような緑金の線が浮かんでいる。
「聖樹薄膜」
薄い半透明の膜が盆から持ち上げられる。
濡れた葉よりも薄く、光へ透かすと細かな脈が走っていた。
「生命根を」
次に渡されたのは、指ほどの細い根。
切断面から淡い樹液を滲ませながら、それ自体が呼吸するようにごく微かに縮んでいる。
最後に、腐花由来の分解抑制剤。
アマルは量を目で決めなかった。
一滴落とすたび、ナユの血色と脈を確かめる。
「もう一滴」
「多くないですか」
治療師が問う。
「この子にはここまで。次は要りません」
即答だった。
同じ術式でも、一定量を流し込んでいるわけではない。
患者を見ている。
リオはそれを確認してから、ナユの胸へ左手を戻した。
「生命脈をこちらへ寄せます」
「お願いします。私は受け側を作ります」
二人が並ぶ。
リオが残った肺と心臓から流れる脈を拾い、途切れかけた道筋を探す。
アマルが傷口へ聖樹薄膜を置く。
生命根の先端を、壊れた組織へ添える。
普通なら拒む。
人の肉と、樹の生命は同じではない。
無理につなげば、どちらかが腐るか、暴走する。
「急がないでください」
アマルが低く言った。
リオは思わず目を上げた。
ナユの脈は落ち続けている。
それでもアマルは、接合を急がなかった。
「今つなぐと、根の方が勝ちます」
「……同感です」
リオは左腕へ意識を集中する。
残った肺が、かすかに動く。
心臓。
血流。
ナユ自身の身体が、まだ生きようとしている流れ。
「今」
リオが言った。
アマルの指が動いた。
生命根が薄膜へ触れる。
緑金の光が、少年の胸の奥で一度だけ走った。
根は伸びすぎなかった。
人の肉を呑み込むこともない。
裂けた肺の代わりになる位置で枝分かれし、薄い葉のような膜を広げていく。
呼吸組織。
肺ではない。
だが、空気を取り込み、血へ渡すための別の器官。
「脈が戻ります!」
治療師の声。
まだ弱い。
アマルは喜ばない。
「固定を。根を引っ張らないでください」
リオもナユの胸から手を離さない。
光脈の流れを見る。
一度、乱れる。
「待って」
リオが止める。
アマルの手も止まった。
「何か?」
「根側へ血が寄りすぎてる」
アマルが一瞬で視線を走らせる。
「分解抑制剤を半量だけ洗い流してください」
「はい」
薬液が調整される。
根の色が少し落ち着いた。
「……戻った」
リオが呟く。
「助かりますか」
「まだです」
アマルの返答は厳しかった。
そこだけは、リオも同じだった。
処置は続く。
傷を閉じる。
血を戻す。
根葉組織が広がりすぎないよう固定する。
何度も脈を取る。
何度も呼吸を見る。
アマルは一度も、「成功した」と言わなかった。
ナユ自身が答えを返すまでは。
やがて、少年の胸が持ち上がった。
浅い。
それでも自力だった。
一度。
二度。
三度。
根葉状の組織が、人の肺とは違う微かな擦過音を立てながら、その呼吸を補っている。
「ナユ」
アマルが呼ぶ。
反応はない。
リオは少年の手を取った。
「聞こえるか。握れるなら握って」
しばらく何も起こらなかった。
指先が、動く。
ほんの少しだけ。
リオの指を握った。
「……よし」
声が漏れた。
今度はアマルが少年の瞼へ指を添える。
「ナユ。お母様が外にいます」
瞼が震えた。
ゆっくりと開く。
焦点の合わない目が天井を彷徨い、やがて声の方へ向いた。
「……かあ……さん……」
小さな声だった。
けれど、言葉だった。
リオは胸へ当てていた手を離した。
左腕の光が弱まっていく。
ナユの胸の中には、もう人間の肺だけがあるわけではない。
それは事実だ。
変わった。
元には戻っていない。
それでも、少年は母親を呼んだ。
自分の意思で息を吸い、自分の声で。
扉が開けられる。
母親が駆け寄り、寝台の横へ膝をついた。
「ナユ!」
「かあ、さん……」
「いる。ここにいるよ」
母親は少年の手を両手で包み、額を押しつけた。
泣き声を抑えようとして、抑えきれない。
アマルは少し離れた場所でそれを見ていた。
勝ち誇った様子はない。
奇跡を示した司祭の顔でもない。
ただ、長い処置を終えた医師の顔だった。
リオは器具を片づけながら、もう一度ナユの胸へ目をやる。
生命接ぎ。
危険な技術だ。
人間の身体を、人間ではない生命で補う。
使い方を誤れば、何が起こるか分からない。
けれど、少なくとも今ここで行われたものは、乱暴な延命ではなかった。
必要量を見極めた。
患者の反応を追った。
変化する身体を置き去りにせず、その瞬間ごとに処置を変えた。
そして、死にかけていた少年は生きている。
否定できなかった。
技術として、正しい。
医療として、成功している。
アマルが寝台へ戻り、ナユの呼吸をもう一度確かめた。
母親が涙に濡れた顔を上げる。
「助かったんですか……?」
アマルはすぐには答えなかった。
脈。
呼吸。
瞳孔。
根葉組織の動き。
ひとつずつ確認する。
それからようやく、穏やかに笑った。
「この子は、明日の朝を迎えられます」
母親が泣いた。
ナユの細い指が、その手を握り返す。
リオは何も言わなかった。
言えることがなかった。
少なくとも、この瞬間だけは。
アマル=ヴェインは、一人の子どもの命を救った医師だった。




