第一節 ― 水脈医療市
ルマリアを遡るにつれて、川は狭くなるどころか、ますます海に似ていった。
水は濁った緑褐色で、陽を受けるたび金色の鱗を散らす。対岸は朝靄の向こうに薄く霞み、時おり巨大な葉を広げた水生植物の群れが、島のように流れていく。湿った風には泥と藻、それにどこからか運ばれてくる煎じ薬の苦い匂いが混じっていた。
船縁にもたれていたマヤが、額に手をかざした。
「先生」
「何だ」
「あれ、町ですか?」
リオも同じ方角を見る。
「そうらしい」
「町って、浮くんですね」
「浮かない町の方が多い」
「では、珍しいんですね」
「君が見るものはだいたい珍しいことになるな」
マヤは少し考え、それから真顔で頷いた。
「得ですね」
「どういう勘定なんだ、それは」
ルマ=セナは、岸辺に築かれた都市ではなかった。
川そのものを地面として使っている。
巨大な筏が何枚も繋がれ、その上に高床の家が立つ。太い杭に係留された船が診療所や薬屋になり、そこからさらに細い浮桟橋が蜘蛛の巣のように延びていた。河岸から張り出した聖樹の根は、人の胴ほども太く、その根を柱にして白壁の建物が何層にも重なっている。
頭上では吊り橋が揺れ、足元では小舟が行き交う。
水面も道。
桟橋も道。
船の屋根すら、荷物を運ぶ者にとっては道らしい。
舟から舟へ担架が渡されていた。
熱に浮かされた男を寝かせた屋根付き舟。全身を布で覆った獣化患者を運ぶ、柵の高い筏。赤ん坊を抱えた母親を乗せ、白布を掲げて急ぐ産婆舟。その間を、薬草を山ほど積んだ細長い舟が器用に縫っていく。
「ぶつからないんでしょうか」
「たぶん、ぶつかった経験のある人間から上手くなる」
「先生みたいですね」
「何の話だ」
「失敗してから慎重になるところです」
リオはマヤを見た。
マヤは川を見たままだった。
偶然なのか、わざとなのか分からない顔をするのが、このところ妙に上手くなっている。
「君は時々、朝から重いことを軽く言うな」
「旅をすると朝に強くなるそうです」
「誰が言った」
「今、わたしが」
「信用できない情報源だ」
マヤが笑った。
その横を、大きな影がゆっくり通り過ぎた。
船ではなかった。
水面から丸い背が盛り上がっている。苔と水草に覆われた背だけで、小さな家ほどあった。岸近くの広い筏には数人の治療師が立ち、水に浸かったままの巨大な聖獣の首元へ長い包帯を巻いている。
傷口を岸へ上げることができないのだろう。
一人が筏の端に腹這いになり、聖獣の皮膚へ薬を塗っている。別の一人は舟から煎じ薬の桶を受け取り、長い柄杓で傷へ流していた。
聖獣が低く息を吐く。
ぼこり、と水面が持ち上がり、彼らの乗る舟まで揺れた。
マヤが目を丸くする。
「大きいですね」
「あれだけ大きいと、診療鞄より船大工が必要になるな」
「先生、診られます?」
「診るだけなら」
「治すのは?」
「まず近づく方法を考える」
「泳ぐ」
「俺を患者に増やすな」
船頭が吹き出した。
ルマ=セナへ入ってから、マヤの首は忙しかった。
右を見て、左を見て、また右へ戻る。
桟橋の市場では、下半身が細い根の束のように変わった老人が、その根を木製の台車に載せて買い物をしていた。老人は器用に身体を傾け、干した薬草を一本つまむと、鼻先で匂いを確かめる。
「三束でその値段は高いだろう」
「今朝届いたばかりだよ。根腐れ止めだって値上がりしてるんだ」
「わしの根を見てから言え。昨日から二本増えた」
「だから余計に買いなって言ってるんだよ」
店主と老人のやり取りに、周囲の誰も振り返らない。
その隣では、肩口から黄色い花を咲かせた若い女が薬草屋と値段交渉をしていた。花は飾りではない。茎が皮膚の下へ続き、女が腕を動かすたび、小さな花弁が震える。
「一束十二です」
「昨日は十だったでしょう」
「昨日より二輪増えてるじゃないですか。薬も多めに要る」
「花の数で値段を決めないでください」
「こっちは効く量で決めてるんですよ」
「では一輪摘みます」
「そういう問題じゃない!」
マヤが思わず肩を揺らした。
その拍子に、若い女と目が合う。
マヤは慌てて口元を押さえたが、女の方が先に笑った。
「笑っていいのよ。わたしも今のは面白かったから」
「……すみません」
「謝るなら薬代を半分出して」
「それは無理です」
即答だった。
リオは横目で見る。
「ずいぶん金銭感覚が身についたな」
「先生のお金なので」
「それは身についたとは言わない」
女がまた笑い、薬草屋が「旅人まで巻き込まない」とぼやいた。
異形が、ここでは事件になっていない。
リオはそれを、しばらく黙って見ていた。
獣の耳を持つ子どもが走っている。
片腕が樹皮状に変わった男が荷を担いでいる。
鱗の浮いた頬を隠しもせず、若者たちが舟を漕いでいる。
治された者なのか。
治らなかった者なのか。
あるいは、そもそも治す必要がないと決めた者なのか。
見ただけでは分からない。
それでいいのかもしれない、と考えかけて、リオは自分の左腕をわずかに引いた。
包帯の下が蒸れていた。
川の湿気のせいだ。
そういうことにしておく。
「先生」
「今度は何だ」
「ここ、好きです」
マヤは前を向いていた。
「まだ着いたばかりだろ」
「誰も見ないので」
その言葉だけは、少し静かだった。
リオは返事をしなかった。
マヤの鎖骨の近くには、衣服の下へ隠した花痕がある。傷つけば白い花が咲くこともある。ラウ=マリカでは祈られ、森では神の子のように見られ、腐花群島では死と結びつけて見られた。
ここでは、花が咲いている程度では、誰も足を止めない。
それが彼女にとってどれほど珍しいことなのかを、リオは今さら思い知った。
「気に入ったなら、迷子になるなよ」
マヤがこちらを見る。
「わたし、子どもじゃありません」
「昨日、舟を間違えただろ」
「あれは同じ色だったからです」
「船頭の顔が違った」
「そこまで見てませんでした」
「だから言ってる」
不満そうに唇を尖らせたところで、船が大きな桟橋へ寄せられた。
白い建物が、川の上へそびえている。
ヴェイン施療院。
近づいてみると、遠目に感じた華やかさとは少し印象が違った。
白と象牙色を基調にした建物は確かに大きい。柱には淡い金の装飾が入り、壁面には生命樹を思わせる細い緑の意匠が走っている。だが、貴族の療養院にありがちな磨き上げられた静けさはなかった。
入口からして騒がしい。
泣く子ども。
咳き込む老人。
包帯を替える治療師。
床を拭く見習い。
食事を運ぶ者。
大きな籠いっぱいに洗濯物を抱えた女。
外舟診療用の桟橋には、舟から降ろせない患者がそのまま並んでいる。
リオは船を降り、案内板へ目を向けた。
受付。
外舟診療。
幼生院。
変生病棟。
さらに、その下。
無銭診療。
リオの視線が止まった。
「無料なんですね」
マヤも気づいたらしい。
「全部じゃない。薬材によっては負担があるだろう」
「でも、診てもらえる」
「ああ」
受付脇では、服の擦り切れた母親が子どもの診察票を受け取っていた。銅貨を数えようとする母親へ、受付係が首を振る。
「今日は要りません。次に余裕がある時、薬草を一束でも持ってきてください」
「でも……」
「払える人からいただいていますから」
母親は何度も頭を下げた。
リオは何も言わず、その様子を見た。
腐花群島で見つかった生命保存剤。
その容器に刻まれていた《VEIN》の文字。
そして事件が終わった朝、上流から届いた手紙。
差出人は、ここの院長だった。
招かれたから来た。
それだけだ。
少なくとも、そういうことにしていた。
「少し、安心しました?」
隣からマヤが覗き込む。
「何が」
「眉間」
リオは指先で自分の眉間に触れた。
「変わってない」
「さっきより一段浅いです」
「よく見てるな」
「患者ですから」
「それは診る側の台詞だ」
「では、旅の相棒ですから」
言い直されて、リオは一瞬だけ黙った。
マヤはもう受付の方を見ている。
たぶん、深い意味はない。
だからこそ、リオは少しだけ困った。
「リオ=サルヴァ先生ですね」
受付の女性に呼ばれた。
リオが招待状を渡すと、女性は封の印を確かめてから、申し訳なさそうに頭を下げた。
「院長から伺っています。少々お待ちください。今、診療が長引いておりまして」
「構いません」
二人は待合用の長椅子へ案内された。
そこで待つことになったのだが、マヤが三分と座っていられなかった。
壁に並ぶ薬瓶を見る。
廊下を通る担架を見る。
窓の向こうの診療桟橋を見る。
立ち上がりかけるたびに、リオが袖を掴む。
「座ってろ」
「見てるだけです」
「君の『見るだけ』は、だいたい三歩後に触る」
「信用がありません」
「実績がある」
マヤが渋々座り直した、その時だった。
「あちら」
小さく声を落とす。
待合の奥、仕切りの向こうに白い衣の男がいた。
最初、リオは治療助手だと思った。
長身だが、腰を低く落としているせいで目立たない。床に置いた浅い洗浄桶の前に膝をつき、一人の老女の足を自分の手で洗っていた。
足首から先は黒ずみ、一部の皮膚が崩れている。
壊死しかけた患部を、男は嫌な顔ひとつせず、ぬるい薬湯で少しずつ洗っていた。指先で皮膚の温度を確かめ、腫れの境目を押し、老女の表情を見る。
「院長がこんなことしなくても」
老女が気まずそうに言った。
男は顔を上げた。
四十代ほどだろうか。
白に近い生成りの医療衣。袖口には淡い緑金の刺繍があり、首筋には根か血管のような細い紋様がうっすら浮いている。だが、それ以上に印象に残ったのは、患者を見る目だった。
穏やかだった。
「昨日より腫れが引きましたね、ルナさん」
「そうかい?」
「ええ。昨夜は眠れましたか?」
「隣の爺さんのいびき以外はね」
近くの寝台から「聞こえてるぞ」と声が飛び、周囲に笑いが起きた。
男も笑った。
大声ではない。
患者たちと同じ場所にいる人間の笑い方だった。
洗い終えた足を丁寧に拭き、新しい布を巻く。それから立ち上がる前に、隣を通り抜けようとしていた少年の襟首を軽くつまんだ。
「ネイ」
少年の肩が跳ねた。
「何ですか」
「苦い薬を捨てたでしょう」
「捨ててません」
即答だった。
男は少しだけ首を傾げる。
「植木鉢の薬草が昨日から急に元気ですが」
少年が黙る。
周囲がまた笑った。
「水をやったんです」
「茶色くて苦い水を?」
「……薬草には薬が効くかもしれないので」
「興味深い仮説ですね。では午後の薬は、私の前で検証しましょう」
「最悪だ」
「味を薄くする相談には乗ります」
少年はぶつぶつ言いながら逃げていった。
白衣の男は追わない。
次の患者に呼ばれればそちらへ行き、途中で落ちた布を拾い、治療師へ渡す。
誰も彼を特別扱いしていなかった。
院長なのに。
いや、院長だからこそなのかもしれない。
マヤが小声で言った。
「優しい人ですね」
リオは男から目を離さない。
「そう見える」
隣からじっと視線を感じた。
「先生、会う前から嫌いでしょう」
「嫌いとは言ってない」
「顔が言ってます」
「君は俺の顔に勝手な台詞をつけるな」
「さっき眉間を診ましたから」
「無資格診療だ」
マヤは笑ったが、リオはもう一度、男を見る。
アマル=ヴェイン。
死者の身体を、生き続けさせた薬の名につながる医師。
だから警戒していた。
それなのに、目の前にいる男は、壊死した老人の足を自分で洗い、薬を捨てた子どもの名前を覚え、金のない患者を門前払いにしない。
少なくとも今、リオの目に映る範囲では。
善人に見せようとしている男ではなかった。
患者を診ている医師だった。
やがてアマルがこちらを向いた。
受付係から何か告げられ、リオとマヤを見つける。
一瞬だけ驚いたように目を細めたあと、彼は患者へ断りを入れてから、こちらへ歩いてきた。
白い衣の裾が、磨かれた床を静かに滑る。
リオは無意識に背筋を伸ばした。
マヤも隣で立ち上がる。
アマル=ヴェインは二人の前まで来ると、ごく普通の医師が遠方から来た同業者を迎えるように、穏やかに頭を下げた。
「遠いところを、よく来てくださいました」
近くで見る彼の手には、まだ先ほどの薬湯の匂いが残っていた。




