終節 ――死を返したがらない医師
ハル=セイナを乗せた死者舟が見えなくなってから、リオはようやく生命保存剤の小瓶を洗った。
管理所の裏手には、花葬師が道具を洗うための小さな水場がある。汲み上げた河水を布で濾し、薬瓶に少しずつ注いで振る。
泥が落ちる。
乾いた樹液が剥がれる。
瓶口にこびりついていた血の色も薄くなった。
何度か水を替えるうち、曇っていた硝子の下から淡緑の紋様が現れた。
「先生」
隣でしゃがんでいたマヤの声が変わった。
「これ……」
「うん」
リオも気づいていた。
細い根脈。
その途中に咲く、白い花。
根の一部だけが黒く描かれている。
生命保存剤を調べた時には、汚れに埋もれて線の一部しか見えなかった。
きれいになった今なら分かる。
どこかで見ている。
マヤも同じ記憶へ辿り着いたらしい。
「港にあった布」
「似てる」
ラウ=マリカ。
事件が終わったあとに残されていた祈祷布。
そこに記されていた言葉。
――命が続くなら、救いは終わらない。
白い花と、黒い根。
完全に同じ意匠だとは言い切れない。
描き方も細部も違う。
だが偶然だと流してしまうには、よく似ていた。
「これも、記録に残します?」
マヤが訊いた。
リオの手が止まった。
「そういう言い方はやめようか」
「何がです?」
「……いや、何でもない」
小瓶を朝日に透かす。
底にまだ黒い汚れが残っている。
細い布を骨針へ巻き、傷をつけないよう慎重に拭った。
「また難しい顔です」
「これは本当に難しい」
「最近それ、多くないですか」
「俺もそう思う」
最後の汚れが落ちた。
瓶底へ、ごく小さな文字が刻まれている。
リオは光へ向け、目を細めた。
今度は読めた。
《VEIN》
「……ヴェイン?」
マヤが横から読む。
「人の名前ですか?」
「分からない」
「薬の名前?」
「それも分からない」
「何なら分かるんですか」
「綴り」
「先生、今日はずいぶん正直ですね」
マヤは膝を抱えたまま小瓶を眺めた。
リオは返事をせず、瓶底をもう一度確かめる。
刻印は確かにある。
だが、それ以上の意味はまだない。
製造者。
施設名。
薬剤名。
商標。
どれでもあり得る。
分からないものへ、先回りして意味を与える気はなかった。
「しまっておこう」
布へ包み直そうとした時だった。
水場の水面に、白いものが映った。
リオだけが動きを止めた。
朝の空。
自分の顔。
その後ろに。
白い獣面。
黒いシルクハット。
細い杖。
白衣。
あの白面の男は、水の中にしかいなかった。
「死者は返した」
リオは瓶を握ったまま、低く答える。
「……何が言いたい」
「何も」
白面がわずかに傾く。
杖先が水面を指した。
そこに、小瓶が映っている。
淡緑の根脈。
白花。
黒い根。
そして《VEIN》の刻印。
「君は」
白面の男の声が、朝の水音へ混じった。
「それを何と読む?」
リオは瓶底を見る。
「まだ読めるのは綴りだけだ」
「そうか」
「製造者か、施設名か、薬の名前かも分からない」
「それなら」
白面がわずかに傾く。
「分からないまま持っていくといい」
「あなたに言われなくてもそうします」
「それは結構」
白面の男は、それ以上何も言わなかった。
答えも。
意味も。
次に何を疑うべきかさえ。
ただ、リオが手にした小瓶を映している。
朝の風が水面を揺らした。
白い仮面が歪む。
シルクハットが波へほどけ、細い杖も消えた。
リオは振り返った。
誰もいない。
水面へ視線を戻す。
そこにも、もう白面は映っていなかった。
「先生?」
マヤが首を傾げる。
「どうしました?」
「……何でもない」
「今、水に向かって喧嘩してませんでした?」
「してない」
「してました」
「独り言」
「それはそれで心配です」
マヤは真面目な顔で言った。
リオは小瓶を布へ包む。
「心配するなら、荷物をまとめて」
「話を逸らしましたね」
「出発するよ」
「はいはい」
返事だけは軽かった。
だが立ち上がる直前、マヤも一度だけ水面を見た。
何も映っていない。
それを確認してから、リオの診療鞄を先に持ち上げた。
「重い」
「だから俺が持つって」
「さっき左腕が大変だった人は黙っててください」
「もう平気」
マヤの視線が、リオの左腕へ落ちた。
自分で巻いた包帯は、結び目が少し大きく、位置もわずかにずれている。
「平気なら、もう少し綺麗に巻けると思います」
「ほどけてない」
「そこだけは認めます」
「なら問題ない」
「問題あります」
リオは診療鞄へ手を伸ばした。
「自分で持てる」
「今はわたしが持ちます」
「腕は預けないよ」
「頼んでません」
即答された。
「荷物くらい持たせてください」
リオは一瞬だけ黙り、それ以上取り返そうとはしなかった。
「……重かったら言って」
「最初から重いって言いました」
「じゃあ返して」
「嫌です」
ようやく日常の音が戻ってきた。
腐花群島では、あちこちで舟を直す槌音が響いている。
昨夜まで絡み合っていた死者舟はすでに切り離され、それぞれの流れへ戻されていた。枯れた花を掃く者。腐った根を水へ返す者。避難させた住民を家へ戻す者。
事件は終わった。
少なくとも、ここで起きたことは。
二人が群島を出る小舟へ荷物を積み込んでいると、上流側で鐘が鳴った。
花葬の鐘とは違う。
航路を開けるための音だ。
「大きい船が来るぞ!」
船頭の声に、マヤがすぐ振り返った。
「大きい?」
その一言だけで興味を持つあたり、分かりやすい。
リオも上流を見る。
ルマリアの朝靄を割って、白い船首が現れた。
最初に帆。
次に、高い船楼。
群島で使われる平舟や根舟とは比較にならない。
大型船だった。
船体は白く塗られ、泥の多い河を上ってきたとは思えないほど清潔に保たれている。帆にも目立った染みはなく、甲板では白衣の人間たちが忙しく動いていた。
船腹に、紋様がある。
淡緑と金。
根のように枝分かれする線。
リオの手が診療鞄へ伸びた。
中にある、小瓶。
同じ系統の意匠だった。
「……先生」
「見えてる」
甲板には荷物ではなく、薬草箱が積まれている。
窓の向こうには寝台。
担架。
洗浄用と思われる水槽。
白衣の治療師が患者の身体を起こし、別の者が薬液を交換している。
商船ではない。
巡礼船でもない。
あれは。
「診療船……?」
マヤが呟く。
白い大型船は速度を落とし、腐花群島の外縁で停まった。
ほどなくして、一艘の小舟が降ろされた。
乗っているのは若い青年だった。
白衣。
襟元まで清潔に整え、胸には船体と同じ淡緑の紋章がある。
青年は器用に小舟をこちらへ寄せた。
「失礼します」
まず花葬師へ頭を下げる。
それから、迷わずリオを見た。
「リオ=サルヴァ先生ですね」
リオは一瞬、答えなかった。
知らない相手に名前を呼ばれることには、最近あまりいい思い出がない。
「そうです」
青年の顔がわずかに緩む。
「よかった。行き違いにならずに済みました」
「誰からです」
リオが先に訊いた。
青年は背負っていた革鞄から、一通の封書を取り出した。
「ヴェイン施療院院長からです」
マヤがリオを見る。
リオも彼女を見た。
次に、診療鞄を見る。
中には《VEIN》と刻まれた薬瓶がある。
青年はその反応を気に留めた様子もなく、封書を差し出した。
白い紙。
淡緑の封蝋。
そこにも根脈と花の印。
リオは受け取った。
「ヴェイン施療院」
確認するように読む。
「はい。各地で治療困難とされた患者を受け入れている施療院です」
青年の口調には誇りがあった。
警戒も、後ろめたさもない。
むしろ自分の勤め先を信頼している者の声だった。
リオは封を切った。
中の便箋を開く。
驚くほど整った筆跡だった。
無駄な装飾もない。
最初の一行。
『聖獣医師リオ=サルヴァ先生へ』
その下。
『あなたに診ていただきたい患者がいます。』
短い。
病状も。
報酬も。
依頼の理由も、ここには書かれていない。
最後に署名。
リオの目が止まった。
アマル=ヴェイン。
「アマル……」
マヤが隣から覗く。
「この人が院長?」
「そう書いてある」
「知ってます?」
「知らない」
「向こうは先生を知ってるんですね」
「らしいな」
便箋を閉じる。
胸の奥に、細い棘のような違和感が残った。
ヴェイン。
生命保存剤。
白花と黒根。
ラウ=マリカに残されていた祈祷布。
命が続くなら、救いは終わらない。
まだ、線でつなぐには早い。
証拠が足りない。
アマル=ヴェインが何者なのかさえ、リオは知らない。
ただ、今まで別々の場所で見てきたものが、同じ方向を向き始めている。
「先生」
マヤが白い診療船を見上げた。
その声から軽さが消えた。
甲板で騒ぎが起きている。
担架が運ばれていた。
重症患者らしい。
何人もの治療師が周囲についている。
だが家族と思われる者たちは、止めようとしていない。
泣いている。
笑いながら。
「助かった……!」
風に乗って声が届いた。
「生きてる。まだ生きてるぞ!」
担架の男も笑っていた。
弱々しい。
それでも確かに意識がある。
目も開いている。
家族の声へ反応している。
生きている。
だが、その胸から太い根が伸びていた。
服を押し破って外へ出た根は、担架の縁へ絡んでいる。
頬には白い花。
首筋には葉脈のような緑の線。
片腕の皮膚はすでに人間のものとは違う質感へ変わり始めていた。
それでも男は笑っている。
家族も泣きながら喜んでいる。
治療師が何か声を掛けると、男が小さく頷いた。
マヤは目を逸らさなかった。
「……あの人」
「うん」
リオも見ていた。
ハルとは違う。
脈がある。
呼吸がある。
意識がある。
今この瞬間、医学的に死者ではない。
だから簡単なはずだった。
生きている。
そう答えればいい。
けれど、マヤは自分の胸元へ手を置いていた。
白い花が咲く場所。
第二の鼓動が鳴る場所。
そして、リオの左腕には包帯の下で獣の徴が残っている。
白い診療船の甲板では、患者の身体から根が伸びている。
なのに、その人は笑っている。
家族も喜んでいる。
助かった、と。
生きている、と。
マヤがリオを見た。
「生きてるんですよね?」
朝の風が吹いた。
腐花群島から最後の花弁が一枚、水へ落ちた。
リオは、すぐには答えなかった。




