第十一節 ― 朝の花
夜のあいだ水面を星空に変えていた花は、朝になると、一枚ずつ光を失っていった。
白い花弁が水へ落ちる。
昨日までなら、根に絡みついたまま沈まなかった。今は違う。潮に乗ってゆっくり離れ、濡れて透け、やがて流れの向こうへ運ばれていく。
腐花群島には、いつもの朝が戻りつつあった。
魚が跳ねる音。
遠くで水鳥が鳴く声。
湿った木を叩いて舟を直す音。
甘すぎた花の香りは薄れ、代わりに泥と水草、それから腐り始めた根の匂いが混じっている。
マヤは桟橋にしゃがみ込み、水面へ浮いた花弁を目で追っていた。
「夜は星みたいだったのに」
「朝になると花だな」
リオが隣で答える。
「ちょっと損した気分です」
「何が?」
「綺麗なものが普通になるのって、もったいなくないですか」
「普通に戻れなくて困ってたんだけど」
「それはそうですけど」
マヤは少し考えてから、水面を指差した。
「でも、あれは綺麗です」
一枚の花弁を小魚がつついていた。
リオも見る。
「うん」
今度は、そのあとに何も付け加えなかった。
死者だから。
腐っていくから。
食べられるから。
そういうものを理由に、美しいと感じたことまで訂正する必要はない。
リオの左腕には、自分で巻いた新しい包帯が巻かれている。片手で巻いたせいで、結び目が少し大きく、位置もわずかにずれていた。
動かすたびに邪魔だった。
マヤが横目でそこを見る。
「やっぱり巻き直した方がいいんじゃないですか」
「これでいい」
「曲がってます」
「ほどけてない」
「患者さんにはもっと丁寧なのに」
「自分だから」
「そういうところです、先生」
「朝から厳しいな」
「昨日から言ってます」
マヤはまだ不満そうだったが、それ以上手を出してはこなかった。
軽く言い合いながら歩いていた二人の足が、ハル=セイナの舟の前で止まった。
リネがいる。
昨夜から何度も泣いた顔だった。
それでも、もう父の手を握り続けてはいなかった。
ハルの身体は、朝の光の中で静かに横たわっている。
冷たい。
ようやく、そう言い切れる身体になっていた。
胸元の腐花も、もう異常な開閉を繰り返してはいない。
白い花は普通の花と同じように萎れ、花弁を落としていく。
花葬師が、舟の脇へ立っていた。
「そろそろ流れへ出す」
リネは小さく頷いた。
その時。
ハルの胸元から、一輪の花が落ちた。
摘まれたわけではない。
茎が力を失い、自然に離れた。
花は舟板の上を転がり、リネの手元で止まった。
花葬師がそれを拾う。
少し萎れている。
燐光もない。
どこにでもある朝の花のようだった。
花葬師は《帰花願》を一度確認してから、リネへ差し出した。
「一輪だけ」
リネはすぐには受け取らなかった。
白い花を見る。
それから、父を見る。
「……これがお父さんなの?」
リオは答えを急がなかった。
魂が花になった。
死者の記憶が宿った。
神が父親を一輪に変えた。
そう言えば、きっと分かりやすい。
けれど、リオには分からない。
「分からない」
リネが彼を見る。
リオは続けた。
「でも、お父さんが君に残すと決めた花ではある」
リネはしばらく黙っていた。
やがて両手を出す。
花葬師が、その掌へ花を置いた。
リネは壊れ物でも扱うように、指を少しずつ閉じた。
「……そっか」
それだけ言った。
父の魂だとは呼ばなかった。
奇跡とも言わなかった。
ただ、ハル=セイナという男が、生きているうちに娘へ一輪残すと決めていた。
その事実だけで、今は十分なのかもしれない。
潮が動く。
花葬師たちが係留を解き、舟を押し出す。
ハルの死者舟は静かに桟橋から離れた。
リネは追わなかった。
掌の花を胸元へ持ち、父の舟が流れていくのを見ていた。
水面へ朝日が差した。
その光の中に、もう一つの影があった。
人。
そう見えた次の瞬間には、花。
花かと思えば、白い骨。
骨の奥から菌糸が伸び、濡れた根へ姿を変える。
ネクタ=ロア。
夜ほど濃い姿ではなかった。
朝光に溶かされるように、輪郭が少しずつ失われている。
リオは黙って見た。
ネクタ=ロアも、流れていくハルを見ていた。
若い女の貌。
老人の貌。
少年の貌。
そのどれもが一瞬でほどけ、最後には黒い花の中へ重なった。
「医師よ」
呼ばれて、リオは顔を上げた。
ネクタ=ロアの声は、もう水音に近かった。
「終わらせることを」
水面へ花弁が落ちる。
「死なせることと同じにするな」
リオは答えなかった。
言葉をそのまま受け入れる気にもなれない。
昨夜、刃を入れたのは自分だ。
ハルに残っていた活動を、自分の手で切った。
その事実が別の言葉に置き換わるわけではない。
けれど、同じものでもない。
少なくとも、今のリオにはそう思えた。
ハルは死んでいた。
それでも終われなかった。
自分が行ったのは、その二つを同じ場所へ戻す処置だった。
それを何と呼ぶかは、まだ決めなくていい。
「……覚えておく」
リオが言った。
ネクタ=ロアの貌が、花へ崩れた。
それが笑ったのかどうかは分からない。
朝日に照らされるうち、黒い花も、骨も、菌糸も水へ溶けるように消えていった。
残ったのは、普通の流れだけだった。
昼を過ぎるころには、リオたちは管理所の一室を借りていた。
窓を開けると水の匂いが入ってくる。
卓上には三束の診療記録。
その脇で、マヤが椅子に座り、花葬師からもらった焼き菓子をかじっていた。
「書きながら食べていいんですか」
「食べてるのは君だろ」
「先生もいります?」
「手が塞がってる」
「じゃあ食べさせましょうか」
「やめて」
「遠慮しなくても」
「記録紙に粉を落としたら追い出す」
マヤは焼き菓子を口元から少し離した。
「厳しい」
「診療記録だからね」
リオは一枚目を開いた。
ラウ=マリカ。
死者へ作用するはずの葬送反応が、生きている患者の身体へ入り込んだ。
傷から花が咲き、体温が下がり、生者の身体が死者としてほどかれかけた。
筆を動かす。
次。
獣母林。
そこでは、人間の身体が環境へ過剰に適応した。
元の形を保つことより、生き残るために身体そのものが変わっていった。
さらに次。
腐花群島。
死者が死を完了できなかった。
残された生命圧が身体へ留まり、周囲の死者まで巻き込んだ。
マヤが焼き菓子を食べ終え、指についた粉を払った。
「全部、別の病気ですよね」
リオの筆が止まる。
「……そう見える」
「ラウ=マリカは、死者のものが生きてる人に来た」
「うん」
「森では、生きるために身体が変わりすぎた」
「うん」
「ここは、死んだ人が死にきれなかった」
マヤは三枚の記録を見比べた。
「やっぱり別です」
「そうだな」
リオもそう思う。
症状も違う。
経過も違う。
原因も、現時点では同一とは言えない。
一つの病名へまとめるには、証拠が足りなさすぎる。
それでも。
リオは三枚を並べた。
生者と死者。
人と獣。
身体と環境。
それぞれ別の境界で、生命の流れがおかしくなっている。
一度なら偶然。
二度なら、まだそう言える。
三度目になると、医師として無視しづらい。
「どうしました?」
マヤが覗き込んでくる。
「近い」
「見えないので」
「だから近い」
マヤは椅子を少しだけ引いた。
二指ほど。
「これで」
「変わってない」
「気持ちは離れました」
「それを距離とは呼ばない」
リオは苦笑し、記録へ戻った。
まだ病名はつけない。
原因も決めない。
分からないものを、分かった形に整えるのは簡単だ。
けれど、一度名前をつければ、人はその名前の中だけを見始める。
だから今は、空欄の方がいい。
三枚の記録を重ねる。
その一番下へ、小さく一行だけ書いた。
《共通原因――未確定》
マヤが横から読む。
「未確定」
「未確定」
「分かってないってことですね」
「そういうこと」
「先生、分からないこと増えてません?」
リオは三束の記録を見た。
ラウ=マリカ。
獣母林。
腐花群島。
旅を始める前より、確実に増えている。
「……増えてるな」
「医者なのに?」
「医者だからだよ」
マヤは納得していない顔をした。
「便利な言葉ですね」
「君にだけは言われたくない」
窓の外で、水鳥が鳴いた。
朝の花はもう光っていない。
水面にも星はない。
ただ舟が進み、人が働き、魚が泳いでいる。
いつもの腐花群島の昼だった。
リオは乾き始めた記録紙を見つめた。
まだ病名はない。
まだ原因もない。
それでも、同じ大陸で起きた三つの異常が、三枚の紙の上で初めて隣り合った。
その間に何があるのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。




