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第十節 ― 死が戻る

 最初に枯れたのは、ハルの胸に咲いていた一輪だった。


 送命を終えてから、まだ半刻も経っていない。


 夜明けの薄青い光の中で、白い花弁の縁がわずかに内側へ巻いた。ほんの少し前まで、リネの声を拾うたびに大きく開いていた花だった。


 今はもう動かない。


 風が吹けば揺れる。


 舟が波に持ち上げられれば、その揺れに従う。


 ただ、それだけだった。


 リネは父の手を握ったまま、その花を見ていた。


「……枯れるんですね」


 誰に訊いたのか分からない声だった。


 リオはハルの手首から指を離した。


「はい」


 皮膚の温度は、もう異常なほど保たれてはいない。


 指先から失われ始めた熱が手の甲へ、腕へと移っていく。生命保存根によって引き延ばされていた細胞活動も止まり、身体はようやく死後の時間へ戻り始めていた。


 リオは瞼を確認し、顎へ触れた。


 変化はゆっくりだった。


 先ほどまで不自然なほど柔らかかった指に、わずかな硬さが現れ始めている。


 死後硬直。


 異常ではない。


 医学を学んだ頃なら、ただの所見として書き込んでいたものだ。


 今は、その当たり前が妙に重かった。


「先生」


 マヤが呼ぶ。


 振り返ると、彼女は水面を見ていた。


 ハルの死者舟から周囲へ伸びていた太い白根が、少しずつ形を失っている。


 切れたわけではない。


 締めつけていた力が抜けていた。


 隣の舟へ橋のように渡っていた根が沈み、舟板との間へ水が入り込む。


 ぎし、と小さな音がした。


 一艘の舟が離れた。


 潮に押され、手のひら一枚分ほど。


 そこへ波が入り、さらに隙間を広げる。


「離れていく……」


 リネが顔を上げた。


 また一艘。


 その次も。


 死者舟同士を一つの花床へ縫いつけていた根が緩み、それぞれが本来の浮力を取り戻していく。


 数十人の死者を一つの身体のように固めていた島が、ほどけ始めていた。


 花葬師たちがすぐに動いた。


「流れを戻せ!」


「内水路側を閉めろ! 外へ出すぞ!」


 係留縄が投げられ、長竿が水を押す。


 昨日まで一塊になって動かなかった死者舟が、一艘ずつ本来の位置へ戻されていく。


 老人を乗せた舟。


 若い女の舟。


 花籠に包まれた小さな舟。


 誰もが、再び一人ずつになっていた。


 リオはその光景を見ながら、左腕へ新しい包帯を巻いた。


 白毛はまだ肘の上まで残り、樹皮のように硬くなった皮膚も戻っていない。獣爪だけが、少しずつ短くなり始めている。


 片手ではうまく巻けずにいると、マヤが新しい包帯の端を持ち上げた。


「そこ、緩いです」


「分かってる」


「曲がってます」


「巻けてればいい」


「患者さんにはもっと丁寧なのに」


「自分だから」


「そういうところです、先生」


 リオは返事をせず、歯で包帯の端を引き、もう一度巻き直した。


 マヤが横から端だけ押さえる。


「動かさないでください」


「君が引っ張ってるんだけど」


「先生が片手で無理するからです」


「できてる」


「結び目、大きいですよ」


「ほどけなければいい」


「それ、前にも聞きました」


 リオは自分で最後の結び目を締めた。


 少し不格好だったが、緩くはない。


 マヤはまだ何か言いたそうだったが、軽口を続ける気分ではないらしい。


 彼女の視線も、すぐハルへ戻った。


 朝日は、もう水面まで届き始めていた。


 光に温められれば、死体の変化は早くなる。


 それを待っていたかのように、小さな生命が戻ってきた。


 最初は羽虫だった。


 白い花の周囲を一匹だけ飛び、やがて萎れた花弁へ止まった。


 花葬師は追い払わない。


 次に、舟の縁を細い甲虫が歩いた。


 水中では、小魚が白根へ近づいてくる。


 昨日までは異常な生命圧に近づこうともしなかった魚たちが、慎重に尾を振りながら根の周囲を回り始める。


 一匹が根をつついた。


 白い繊維が水中へ散る。


 別の魚が、それを食べた。


 マヤが小さく息を吸った。


「食べてます」


「うん」


「いいんですか?」


 リオは少し考えてから頷いた。


「それでいい」


 根はもう、ハルを留めるためのものではない。


 腐花も、菌も、虫も、魚も。


 死者を傷つける侵入者ではなかった。


 むしろ、今まで締め出されていた側だ。


 黒ずみ始めた根の表面へ白い菌糸が広がる。


 水に沈んだ花弁には細かな虫が集まり、その下では魚が何度も口を開く。


 少し離れた杭へ、水鳥が一羽降りた。


 首を傾げて水面を見つめたあと、浮いてきた虫を嘴でつまみ上げる。


 死者を食べている。


 正確には、死者からほどけたものを食べている。


 それは決して美しいだけの光景ではなかった。


 花は傷む。


 根は黒くなる。


 肉は腐る。


 菌が増え、虫が寄り、魚が食べ、その魚を鳥が食べる。


 誰かの父親だった身体が、少しずつ他の命へ渡されていく。


 リオは、そこから目を逸らさなかった。


 ネクタ=ロアが言った言葉を、正しい答えとして信じたわけではない。


 死が救いだとも思わない。


 ハルが死んでよかったなどとは、絶対に思えない。


 それでも、今ここで起きていることまで間違いだとは言えなかった。


 ハルの胸の花から、花弁が一枚落ちた。


 リネの膝へ乗る。


 彼女はそれを指先で拾った。


 ただの一枚の花弁だった。


 まだ白さを残している。


 けれど、もう光ってはいない。


 リネはそれをしばらく見たあと、舟の中へそっと戻した。


 そして父を見る。


「冷たい」


 もう一度、そう言った。


 今度の声は、先ほどより静かだった。


 ハルの頬へ触れる。


 温度を探すように、掌を当てる。


 見つからなかったのだろう。


 唇が震えた。


「ほんとに、冷たい」


 涙が一筋だけ落ちた。


 次は止められなかった。


 リネは父の肩へ顔を伏せた。


「……嫌だなあ」


 誰も何も言わなかった。


「分かってたのに」


 泣きながら笑おうとして、失敗する。


「戻ってこなくていいって、自分で言ったのに」


 リオは少し離れた場所に座った。


 あの言葉を言えたからといって、悲しみまで終わるわけではない。


 別れを選ぶことと、別れたくないことは両立する。


 むしろ、両方とも本当だから苦しい。


「まだ触ってていいですか」


 リネが訊いた。


 花葬師ではなく、リオを見た。


「もちろん」


 それだけ答えた。


 リネは再び父の手を包んだ。


 死後硬直の始まった指は、もう握り返すようにすら見えなかった。


「父さん」


 呼ぶ。


 花は開かない。


「……父さん」


 二度目も。


 何も起きない。


 リネは泣いた。


 けれど、「戻って」とは言わなかった。


 代わりに、父の手の甲を親指でゆっくり撫でた。


「寒いね」


 死者に向けるには、少しおかしな言葉だった。


 それでも誰も訂正しなかった。


 やがて、ハルの胸の花がもう一枚、花弁を落とした。


 次も。


 白い花は、一度に崩れることなく、時間をかけて萎れていく。


 普通の花と同じように。


 舟底では根が腐り始めていた。


 水へ落ちた欠片を小魚が食む。


 腐花群島の朝の匂いも変わっていた。


 数日間、異常な甘さに覆われていた空気へ、泥の匂いが戻る。


 腐葉土。


 湿った木。


 菌。


 水草。


 そして、かすかな腐敗臭。


 マヤが鼻を動かした。


「臭いますね」


「うん」


「昨日までの方が、いい匂いでした」


「そうだな」


 彼女はしばらく考えたあと、父を抱くリネを見た。


「でも、こっちの方が……」


 言葉を探している。


 リオは続きを待った。


「生き物がいる匂いがします」


 不思議な言い方だった。


 けれど、リオには分かった。


 腐っているのは死者なのに。


 その周囲へ、命が戻ってきている。


 虫が飛ぶ。


 魚が泳ぐ。


 鳥が鳴く。


 根がほどける。


 花が枯れる。


 水が流れる。


 止められていた死が再び動き始めたことで、止められていた生もまた戻っている。


 水上にできかけていた巨大な死者花床は、もう島には見えなかった。


 一艘ずつの舟が、朝の水へ浮かんでいる。


 それぞれ別の死者を乗せて。


 それぞれ別の速度で花を落としながら。


 やがて花葬師が、ハルの舟へ近づいた。


 胸の花。


 舟底の根。


 ハルの顔と手足を順に確かめる。


 それから、静かに息を吐いた。


「もう大丈夫だ」


 リネが顔を上げる。


「……何がですか」


「通常の花葬へ戻せる」


 花葬師は、まだ桟橋へ留められたハルの舟を見た。


「根はほどけた。花も、ちゃんと枯れてる。身体も、死後の時間へ戻った」


 リネは父の手を握ったまま聞いている。


「もう少ししたら、流れへ戻そう」


 すぐには動かさなかった。


 リネも急がなかった。


 ハルの舟はまだ桟橋に留まり、朝の潮に小さく揺れている。


 昨日までなら、この舟だけはどこにあっても分かった。


 枯れず。


 腐らず。


 温かく。


 死者の群れの中で、一人だけ死ねずにいたからだ。


 今はもう、他の死者と同じ時間を進んでいる。


 それでいいのだと、簡単には思えなかった。


 ただ。


 ハル=セイナは、ようやく死者として送り出せるところまで戻ってきた。


 死が、戻ってきた。


 その水の中で、次の命もまた動き始めていた。

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