第九節 ― 送命
夜明け前の水は、黒というより深い青に変わり始めていた。
東の空にはまだ太陽の色はない。それでも、腐花群島を覆っていた夜は少しずつ薄くなり、水上家屋の輪郭と、根で縫い合わされた死者舟の群れがはっきり見えるようになっている。
時間がない。
満潮を知らせる目盛りまで、水はあと指二本ほどだった。
リオはハル=セイナの舟へ膝をついた。
診療鞄を開き、骨針、細刃、祈診布を一つずつ板の上へ並べる。手順を確かめる動きはいつもと同じだったが、指先だけがわずかに硬かった。
目の前にいるのは死者だ。
治療すべき生者ではない。
それでも、リオはいつものように名を呼んだ。
「ハル=セイナ」
リネが顔を上げる。
リオは死者の顔を見たまま続けた。
「あなたの意思を確認しました」
返事はない。
胸に咲く白い花だけが、淡い光を含んで揺れた。
それでよかった。
答えられないから、名前を呼ばなくていいわけではない。
まして、目の前の身体をただの異常現象として扱っていい理由にもならない。
リオは祈診布をハルの胸から腹へ掛けた。
「始めます」
花葬師たちが動いた。
死者舟の周囲へ三艘の小舟を寄せ、香炉を置く。湿った香草に火が入り、細い煙が水面へ這うように流れた。
年嵩の花葬師が、ハルの舟へ伸びた白根を一本ずつ確認していく。
「こちらは開ける」
根を切るのではない。
死者から抜けるはずだった生命が、河と腐花へ流れる道を整える。
花葬師が黒い種壺の蓋を外すと、乾いた花粉が香煙へ混じった。舟の外側で白花が一斉に震える。
「送路、ひとつ」
別の花葬師が答える。
「西側、開いた」
「南も」
リオはマヤを見た。
彼女はハルの足元へ座っている。
先ほどまで胸に咲いていた白い花は、すでに閉じていた。それでも頬には血の気が薄く、第二の鼓動がまだ身体の奥で落ち着いていないのが分かる。
「無理なら言って」
「先生にだけは言われたくないです」
「俺は仕事だから」
「わたしも仕事です」
「いつから」
「今からです」
言い切ると、マヤは両手を膝へ置いた。
リオは何か言い返しかけて、やめる。
「……分かった」
「素直ですね」
「時間がない」
「そういうことにしておきます」
短いやり取りが終わると、マヤの顔つきが変わった。
ハルへ手を伸ばす。
触れる寸前で一度止まり、リオを見る。
今度は勝手に触らない。
それだけのことなのに、リオには妙に嬉しく感じられた。
頷く。
マヤの指先が、ハルの手の甲へ触れた。
ドクン。
彼女の胸がわずかに揺れる。
次いで、ハルの舟を包む白根が反応した。
水面へ円い波紋が走る。
「……いっぱいあります」
マヤが目を閉じた。
「どれがハルさん?」
「身体そのものの流れを探して」
「分かってます」
「花は別」
「それも分かってます」
「保存根は――」
「先生」
「何」
「集中できません」
リオは口を閉じた。
リネが一瞬だけ、泣き腫らした目のまま二人を見た。
ほんの少し、口元が動いた。
すぐに父へ視線を戻す。
マヤは息を整えた。
「……あります」
声が低くなる。
「三つ」
リオも左腕をハルへ伸ばした。
包帯はもう外している。
白い獣毛が手首から肘の上まで広がり、皮膚の一部は樹皮のように硬く変わっていた。爪も普段より長い。
その腕を、ハルの胸へ置く。
《医脈》を開いた。
光が走る。
腕の内側から肩へ。
さらに、ハルの身体へ。
世界の輪郭が一瞬、薄くなった。
代わりに生命の流れだけが浮かぶ。
一つ目。
ハル自身の組織。
もう脈はない。
呼吸もない。
けれど保存された力によって、皮膚や筋、内臓の一部に残された細胞活動が細く灯っている。
二つ目。
腐花。
死者から受け取ったものを、花、菌、根へ渡そうとしている流れ。
本来はこちらが外へ抜ける道だ。
三つ目。
異物。
生命保存剤によって長くつなぎ止められ、死後も身体へ残り、そこから肥大した生命保存根。
それが二つの流れへ絡みついている。
ハルの組織を離さない。
腐花を外へ出さない。
両方を抱え込み、死者舟から島の地下根網へ広がっている。
「……見えた」
リオは息を吐いた。
これなら切り分けられる。
少なくとも、理屈の上では。
左腕へ圧が戻ってきた。
「っ……」
肘から上へ、白毛が伸びる。
皮膚の下で根状の光脈が膨らみ、肩口まで走った。
指先の爪が伸び、舟板へ食い込む。
「先生」
「平気」
「平気な人は、舟を爪で削りません」
見れば、確かに板へ四本の傷がついていた。
「……あとで謝る」
「舟に?」
「持ち主に」
「ハルさん?」
返事が詰まる。
「そうなるな」
マヤが、かすかに笑った。
だが次の瞬間、リオの左腕が大きく痙攣した。
過剰な生命圧が《医脈》へ逆流する。
熱い。
血管へ煮えた樹液を流し込まれたようだった。
視界が一度白くなる。
「リオ!」
リネの声がした。
「大丈夫です」
答えたつもりだった。
声になったかは分からない。
左腕の樹皮化が進む。
手首の皮膚が硬く割れ、その下から根状の光が滲む。指先はもう人間の爪より獣のそれに近かった。
切断点を読むには、《医脈》を閉じられない。
閉じればまた最初からだ。
夜明けまでの時間も失う。
「先生」
マヤが近づく。
「離れてろ」
反射的に言った。
今の左腕は、何が起きるか分からない。
生命圧が逆流したままなら、触れたマヤの身体まで反応する可能性がある。
「嫌です」
「マヤ」
「嫌です」
二度言って、彼女はリオの左腕を両手で支えた。
白毛にも。
樹皮にも。
伸びた獣爪にも怯まない。
「触るな」
「もう触ってます」
「危ない」
「先生もです」
「俺は医師だ」
「知ってます」
マヤは腕を離さなかった。
「だから、支えます」
その言葉に、リオは黙った。
今まで、逆だった。
自分が診る。
自分が止める。
自分が守る。
マヤは患者だった。
守るべき相手で、診察する相手で、無茶をすれば叱る相手だった。
その少女が今、自分の腕を支えている。
力は強くない。
むしろ、体格の差を考えれば頼りないほどだ。
それでも、震えていた左腕が少し安定した。
「……重くない?」
「重いです」
「そこは嘘でも軽いって言わない?」
「先生、患者には正直に言うんでしょう?」
「妙なところだけ覚えるな」
「便利なので」
リオは短く息を吐いた。
痛みが消えたわけではない。
怖さも。
それでも、手を進められる。
「そのまま」
「はい」
マヤが頷いた。
花葬師の声が飛ぶ。
「送路、全部開いた!」
周囲の香煙が流れを変えた。
白花の中心から、淡い粒子が水面へ落ち始める。
腐花の経路が開いている。
今なら、切り離した生命圧を外へ逃がせる。
「マヤ」
「見てます」
二人でハルの内部へ意識を重ねる。
ハル本人の残存組織。
腐花。
生命保存根。
三つが複雑に絡んでいる。
一つ間違えば、腐花の流れごと断つ。
それでは死者はまた留まる。
深すぎれば、ハルの身体そのものを傷つける。
死者だとしても。
だから、そこは切らない。
「右じゃない」
マヤが呟く。
リオも同じ場所を見ていた。
「うん」
「こっちも違う」
「腐花だ」
「……その下」
マヤの指が、リオの手首を少し動かした。
白い根の束。
見た目には全部同じだ。
だが《医脈》の中では一本だけ、流れの向きが違う。
身体へ戻る。
外へ出さない。
周囲から集めた生命圧まで、ハルへ返している。
異常の根。
マヤが目を開いた。
「ここです」
リオは頷く。
「分かった」
細刃を取った。
普通の刃ではない。
《医脈》の光を沿わせ、切るべき流れだけを刃先へ重ねる。
左腕がさらに軋んだ。
白毛が肩へ達する。
爪が完全に獣の形になる。
奥歯を噛み締める。
「先生」
「大丈夫」
「またそれ言ってます」
「今は言わせて」
「じゃあ今だけです」
マヤの手が、腕を強く支える。
リオは刃先を下ろした。
ハルの胸の花を避ける。
組織へ入らない。
腐花も傷つけない。
その奥を通っている、生命保存根だけへ。
触れる。
一瞬、抵抗があった。
まるで生きた筋を切ろうとしているように、根が刃から逃げる。
「動く……」
マヤが息を呑む。
「押さえて」
「どうやって?」
「方向を読んで」
「無茶言いますね」
「知ってる」
白根が逃げる。
マヤが目を閉じる。
「左」
刃をずらす。
「下」
追う。
「止まった」
リオの手も止まる。
そこだった。
迷えば、また逃げる。
刃を引く。
一本。
ただ一本。
生命保存根だけを断った。
音はしなかった。
それでも、腐花群島全体が震えた。
水上の白根が大きく跳ねる。
数十艘の死者舟が一斉に軋んだ。
水面へ無数の波紋が走り、互いにぶつかり、砕ける。
ハルの胸が持ち上がった。
大きく。
深く。
まるで、長い眠りから目覚めた人間が、初めて空気を吸い込んだように。
「お父さん!」
リネが舟へ飛びついた。
リオ自身も、一瞬だけ息を止めた。
胸郭が上がった。
口が開く。
喉の奥から、かすかな音まで漏れた。
生き返った。
そう見えた。
リネがハルの手を握る。
「お父さん! ねえ、お父さん!」
けれど。
二度目の呼吸は来なかった。
瞳は開かない。
脈も戻らない。
ハルの胸から抜けたのは空気ではなかった。
身体の内側へ閉じ込められていた生命圧が、最後に胸郭と花を押し上げただけだった。
白い光が、口元から細く漏れる。
花弁の間からも。
指先からも。
それは煙より軽く、水蒸気より淡い。
腐花の根へ触れると、小さな光になって枝分かれし、開かれた送路へ流れていく。
花葬師たちが声を重ねた。
祈りというより、道を示す低い響きだった。
ハルに留められていたものが、ようやく外へ出ていく。
白花へ。
菌糸へ。
水へ。
泥へ。
「……最後の保存反応です」
リオの声は掠れていた。
リネは父の手を握ったまま、動かなかった。
「今のは……」
「ハルさんが起きたわけじゃない」
言葉にするのが苦しかった。
それでも、曖昧にはしない。
「残っていたものが、抜けました」
リネは唇を強く結んだ。
それから、ゆっくり頷いた。
「……うん」
ハルの胸の花が閉じ始める。
一輪。
また一輪。
これまでリネの声へ何度でも応えていた花が、今度は名前を呼ばれても開かなかった。
「お父さん」
リネが呼ぶ。
花は動かない。
もう一度。
「お父さん」
静かなままだった。
リネは泣いた。
それでも、前のように取り乱しはしなかった。
父の手を両手で包んでいる。
「……冷たくなってきた」
リオもハルの手首へ触れた。
あれほど不自然に残っていた温度が、少しずつ失われていく。
急には落ちない。
指先から。
手。
腕。
ゆっくりと。
ただの死者の身体が辿る速度で。
リオは、その変化から手を離せなかった。
冷たくなる。
今までなら、恐れていたことだった。
自分の処置で体温が下がる。
残っていた生命活動が消える。
そんなものを治療と呼べるのかと、身体のどこかがまだ抵抗している。
けれど、ハル自身は書いていた。
留めないこと。
リネも選んだ。
帰してほしい、と。
だからリオは、冷たくなっていく手を再び温めようとはしなかった。
左腕が震える。
今度は生命圧ではない。
力が抜けたせいだった。
「先生」
マヤが支える。
「もう離していいよ」
「嫌です」
「終わったから」
「終わったら倒れていいんですか?」
「倒れない」
立とうとして、膝がわずかに崩れた。
マヤが両腕で支えた。
「説得力がありません」
「……そうだな」
リオは素直に認めた。
マヤの肩を借りて、ゆっくり身体を起こす。
左腕には白毛が広がったままだ。
樹皮も。
獣爪も。
すぐには戻らない。
それでも、マヤはそこを避けなかった。
普通の腕を支えるように、変わってしまった腕を持っている。
リオは一度、その手を見た。
「怖くない?」
マヤは左腕を見た。
「ちょっと痛そうです」
「そうじゃなくて」
「分かってます」
彼女は顔を上げた。
「先生が、わたしの花を触る時と同じです」
リオは何も返せなかった。
水面で、大きな音がした。
死者舟をつないでいた白根の一本が、力を失って水へ沈む。
次も。
その次も。
太かった根が細くなり、舟と舟の間に隙間が戻っていく。
死者たちは、再び一人ずつの舟へ戻り始めていた。
東の空に、ようやく薄い光が差した。
夜明けだった。
ハル=セイナの身体からは、もう熱が上がってこない。
胸の花も呼吸しない。
指も動かない。
何も起きない。
死者は、静かだった。
リオはその静けさを、今度は異常とは呼ばなかった。




