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第八節 ― 夜明けまでに

 神が消えたあと、最初に聞こえたのは木の軋む音だった。


 低く、長い。


 船腹を押し潰すような音に、リオは振り返った。


 ハル=セイナの死者舟が動いている。


 いや、舟そのものではない。


 白い根が太くなっていた。


 それまで糸のように水を渡っていた細根が、幾本も束になって舟底へ食い込んでいる。根は濡れた木目を押し広げ、別の舟へ渡り、その先でも絡まり合っていた。


 ぎしり、ともう一度鳴る。


 二艘の死者舟が引き寄せられた。


「離して!」


 花葬師が叫ぶ。


 数人が舟へ駆け寄り、係留縄を解こうとする。だが舟と舟の間には、すでに腕ほどの太さになった白根が橋のように渡っていた。


 鉈を持ち出した男を、リオが止める。


「まだ切らないで!」


「だが、このままじゃ舟ごと固まるぞ!」


「どこにつながってるか確認が先です!」


 言いながら、リオは膝をついた。


 水面へ手を差し入れる。


 さっきまでネクタ=ロアが映っていた水は、もうただの黒い水に戻っている。


 だが、その下で何かが動いていた。


 指先へ、かすかな震えが伝わる。


 根だ。


 見えているものだけではない。


 死者舟から垂れた白根が、水中へ沈み、その先でさらに深く潜っている。


「灯りを」


 マヤがすぐに燈籠を持ってきた。


 リオが受け取ろうとすると、彼女は渡さず自分で水面へ近づける。


「持ってます」


「落とさないで」


「さっきから信用がありません」


「君じゃなくて舟を信用してない」


 実際、足元は絶えず軋んでいた。


 マヤも言い返さず、燈籠を低くする。


 光が水中へ落ちた。


 白い根が見える。


 一本が下へ伸びている。


 さらに一本。


 その下で何本もの根が絡まり――泥の中へ消えていた。


 リオの顔から血の気が引いた。


「……まずい」


「何が?」


 マヤが訊く。


 リオは立ち上がった。


「花葬師さん。この下に、島の根がありますか」


 年嵩の花葬師が眉を寄せる。


「ある。腐花群島は、マングローブと古い花床の根で持ってる場所が多い」


「死者舟の根とつながったら?」


「そんなこと、今まで――」


「今、起きてます」


 言葉を失った花葬師の横で、マヤが胸元を押さえた。


「……下へ行ってる」


 リオが彼女を見る。


「分かる?」


「さっきより、ずっと大きいです」


 第二の鼓動ではない。


 マヤは目を閉じ、水の下へ意識を向けているようだった。


「ハルさんのところから、いっぱい……広がってる。舟だけじゃない。もっと下」


 指先が、島の内側を示した。


「向こうへ」


 その方向には、水上家屋の灯りが並んでいる。


 人が暮らす場所だった。


 リオはすぐに花葬師へ向き直った。


「満潮は?」


「……夜明けだ」


 答えた声が強張る。


「この辺りは満ちると流れが内へ返る。外側の花葬水路から、島の内水路へ水が上がってくる」


 リオは周囲を見渡した。


 白い花床。


 根で固定された死者舟。


 その下から島の根網へ入り込みつつある異常な生命圧。


 今はまだ、死者を置く外側の水路に留まっている。


 だが、潮が変われば。


 水と一緒に根が内側へ押し込まれる。


 住居。


 市場。


 井戸代わりに使う水路。


 生者の生活域へ。


「全員、外側の水路から人を離してください」


 リオが言った。


「家が近い者も、今夜だけ高い桟橋か内陸側へ。水には触らせない」


 花葬師が頷き、走り出す。


 別の者たちも続いた。


 水路へ呼び声が飛ぶ。


 灯りが動く。


 眠っていた家々から人が出てくる。


 それまで死者のためだけにあった異常が、今度は生者の方角を向いていた。


 リオは奥歯を噛んだ。


 ラウ=マリカでは、生きている身体が死者として扱われた。


 今回は逆だ。


 死者の側に留まるべきものが、生者の暮らす場所へ戻ろうとしている。


 背後で、舟板が弾けた。


 白い根が一本、太く盛り上がる。


 その先で、別の死者舟の花が開いた。


「先生!」


 マヤの声。


 さらに一艘。


 さらに二艘。


 これまで根につながっていなかった舟にまで、白い花が灯っていく。


 死後数日を経ているはずの遺体。


 本来なら花弁を落としているはずの者。


 腐敗の始まっていた者。


 どの身体も変化が止まり、花だけが新しい朝を待つように咲いている。


 一体。


 三体。


 十体。


 数える意味がなくなる。


 根は死者を拾い上げるように増殖し、水上の花床へ加えていった。


「これ……島になりますよ」


 マヤが呟いた。


 冗談ではなかった。


 舟はもう個別の舟ではない。


 根で縫われ、骨と木と花で一つの塊になりつつある。


 波が来ても、動かない。


 水に浮かぶ死者たちが、自分たちだけの大地を作り始めている。


 その中央。


 ハル=セイナの舟だけが、まだわずかに温かかった。


 リオはそこへ戻った。


 左腕の包帯を解く。


 白い獣毛が夜気に触れる。


 《医脈》を開き、ハルの胸へ掌を置いた。


 前より強い。


 保存された生命圧は、もはやハルの身体だけを巡っていなかった。


 胸から腹。


 腹から脚。


 そこから舟底へ。


 根へ。


 他の死者へ。


 そして地下へ。


 一つの身体を留めていた流れが、群島全体を「終わらせない」方向へ広がっている。


「……先生?」


 リネだった。


 いつの間にか、ハルの舟のそばへ戻っている。


 泣いた跡はまだ顔に残っていた。


「父さん、どうなってるんですか」


 リオは手を離した。


 答える前に、一度ハルを見る。


 閉じた目。


 動かない胸。


 その上で咲き続ける花。


 温かい皮膚。


 脈はない。


 呼吸もない。


 それでも細胞の一部は、保存された生命圧に支えられて活動を続けている。


「ハルさんに残っている生命圧が、根を通して外へ広がっています」


「止められる?」


「……たぶん」


 リネの目が動く。


 希望を持たせる言い方だった。


 リオはすぐに続けた。


「ただし、根元から切る必要があります」


「根元?」


「ハルさんの身体と、生命保存根のつながりを切る」


 マヤが息を止めた。


 リネはまだ意味を掴めていない。


「それを切ったら、父さんは?」


 リオは答えられなかった。


 一瞬だけ。


 たった一瞬なのに、長かった。


 記憶の中で、別の身体が横たわっている。


 死にかけていた。


 終わろうとしていた。


 自分は、それを許せなかった。


 まだ何かできる。


 まだつなげる。


 まだ生かせる。


 そう思った。


 死なせないことを、救うことだと思おうとした。


 結果がどうなったかを、左腕の異形は今も忘れさせてくれない。


「リオ」


 マヤの声がした。


 近い。


 いつの間にか、すぐ隣にいる。


 彼女は何も訊かなかった。


 ただ、リオの左腕を見ていた。


 包帯の外れた腕。


 白い獣毛。


 樹皮状の皮膚。


 淡く脈打つ根。


 それから、ハルへ視線を移す。


 マヤには、分かっているのかもしれない。


 この処置が何を意味するのか。


 リオは息を吐いた。


「切れば」


 リネを見る。


「残っている細胞活動も止まります」


 自分の声が、ひどく乾いて聞こえた。


「体温も下がる。花を動かしている生命圧も抜ける」


「それって……」


「今でも、ハルさんは医学的には死者です」


 言葉を選ぶ。


 誤魔化さないために。


「でも、今は身体の一部だけが終われずに残ってる」


 リネの唇が震えた。


「切ったら」


 彼女が先に言った。


「今度こそ、全部……死ぬ?」


 リオは頷いた。


 それしかできなかった。


 リネは父の手を見た。


 ついさっきまで握っていた手。


 まだ温かい。


 だからこそ、残酷だった。


 別れを決めたあとに、身体だけが生者の真似を続けている。


「……何時まで?」


 リネが訊いた。


「夜明けまでです」


 花葬師が戻ってきて答えた。


 息を切らしている。


「もう水が上がり始めてる。満潮になれば外水路の流れが内へ返る」


 遠くで鐘が鳴った。


 警戒を知らせる音だった。


 水上家屋の灯りが次々に移動していく。


 人々が避難を始めている。


 リオは死者花床を見た。


 花は美しい。


 白い根も、夜の水に浮かぶ燐光も。


 そこだけ見れば、神が作った庭にさえ見える。


 だが根の先は、生者の住む島へ向かっている。


 放置する選択肢はない。


 中心はハル。


 生命保存根を断てば、流れを止められる可能性がある。


 今ある情報では、それしかない。


「他の方法は?」


 マヤが訊いた。


 リオは首を横に振る。


「今から夜明けまでに探して、確実に間に合う方法はない」


「ネクタ=ロアは?」


 リネが周囲を見た。


「さっきの神なら、できないんですか。死者を返す神なら――」


 その時。


 水面に黒い花が一輪、浮かんだ。


 花弁の間に、一瞬だけ貌が見えた。


 若い女。


 次には老人。


 そして骨。


 ネクタ=ロア。


 何も言わない。


 手も伸ばさない。


 根も切らない。


 ただ見ている。


 リオはその沈黙を見返した。


「……やらないんだな」


 返事はなかった。


 当然だった。


 神は先ほど、価値観を示しただけだ。


 死者から死まで奪うな、と。


 どうやって死者を送るか。


 誰が刃を入れるか。


 その責任まで引き受けてくれるわけではない。


 医師の仕事を、神に渡すことはできなかった。


 リオは診療鞄を開いた。


 指先が止まる。


 切る。


 その言葉が、妙に重い。


 これまで何度も傷を切った。


 膿を出した。


 腐った組織を落とした。


 患者を生かすためなら、迷わず刃を入れてきた。


 今回は違う。


 切ることで、残っている生命活動を終わらせる。


 生かすためではなく。


 死を完成させるために。


「先生」


 マヤが呼んだ。


 リオは顔を上げる。


「怖いですか」


 唐突だった。


 リネも、花葬師もこちらを見る。


 リオは少し黙った。


 医師が処置の前に怖いと言うべきではない。


 そんな考えが頭をよぎって、やめた。


「怖いよ」


 マヤが瞬きをした。


「そうなんですか」


「意外そうだな」


「先生、難しい顔でだいたい誤魔化すので」


 こんな時なのに。


 ほんの少しだけ、息が抜けた。


「今回は誤魔化せそうにない」


「じゃあ、怖いままやるんですね」


 マヤはそれ以上、励まさなかった。


 大丈夫とも言わない。


 正しいとも言わない。


 ただ、リオの隣に立った。


 それで十分だった。


 リオはリネを見る。


「もう一度だけ確認します」


 彼女の父親だ。


 だが、答えを押しつけるためではない。


 何が起こるかを、隠さないためだった。


「根を切れば、ハルさんの身体は冷たくなります。今みたいに花が声へ反応することも、おそらくなくなる」


 リネは目を閉じた。


 苦しそうに息を吸う。


 それから、父の《帰花願》へ触れた。


「……父さんは」


 声が震える。


「留めないでって、書いた」


 リオは頷く。


「はい」


「わたしも」


 一度、言葉が止まった。


「戻ってこなくていいって言った」


 涙はもう流れなかった。


「だから」


 リネはハルの顔を見る。


「今度は、本当に帰してあげてください」


 リオは答えず、深く頭を下げた。


 軽く請け負えることではなかった。


 水位が上がる。


 死者舟の縁を、黒い水が洗い始める。


 白い根はなおも太くなり、島の内側へ伸びようとしていた。


 夜明けまで、もう長くない。


 リオは左腕の包帯を完全に外した。


 《医脈》が淡く光る。


 その光を見て、ネクタ=ロアは何も言わなかった。


 マヤも、リネも。


 誰も代わりには選ばない。


 リオはハルの舟へ膝をついた。


 今度は、生をつなぎ止めるためではない。


 終われなくなった死を、終わらせるために。

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