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第七節 ― 腐花神は、死者を返す

 最初に異変を起こしたのは、ハルの花ではなかった。


 水だった。


 リネが《帰花願》を死者舟へ置き、花葬師が送命の支度へ動こうとした、その時。


 腐花群島を縫う水路のすべてから、さざ波が消えた。


 風は吹いている。


 マングローブの葉も揺れている。


 それなのに、水だけが静止した。


 小舟の下でさえ、黒い鏡のように平らになっている。


「……動かない」


 マヤが呟いた。


 リオは返事をしなかった。


 鼻の奥に、匂いが来た。


 白花の甘い香。


 湿った泥。


 腐葉土。


 熟れすぎて割れた果実。


 水に沈んだ木の皮。


 それらの奥へ、ごく微かに肉の腐る匂いが混じる。


 腐臭そのものではない。


 もっと柔らかい。


 何かが土へ戻り始めた時の匂いだった。


 花葬師たちが、一人ずつ手を止めていく。


 誰も声を上げなかった。


 声を上げていいものなのか、分からなかったのだ。


 ハルの舟へ絡んでいた白い細根が、水中でゆっくり動いた。


 一本。


 二本。


 やがて数える意味がなくなる。


 根は死者舟から死者舟へ伸び、骨をくぐり、舟板の隙間を縫い、マングローブの根へ絡みついた。


 その途中で、白かったものが黒く染まる。


 黒い根から、黒い花が開いた。


 夜の中より暗い花だった。


 花弁の中心には白い菌糸が走り、そこへ水滴が光っている。


 美しい。


 リオはそう思った。


 思ってしまったことに、ぞっとした。


「リオ」


 マヤの声が低い。


「下がって」


「でも――」


「いいから」


 リオはマヤを背へ庇うように一歩前へ出た。


 左腕が疼いている。


 包帯の下の《医脈》が、触れてもいないのに反応していた。


 痛みではない。


 もっと原始的なものだ。


 獣が、自分より巨大な獣の気配を嗅いだ時のような緊張。


 水面へ、一輪の黒花が落ちた。


 沈まない。


 その周囲へ白い花弁が集まる。


 骨片。


 菌糸。


 腐った果実の皮。


 枯葉。


 マングローブの細根。


 死者舟から剥がれた古い木片。


 それらが水の上で重なった。


 偶然の形に見えたのは、一瞬だけだった。


 目がある。


 鼻梁がある。


 口がある。


 腐花群島そのものが、巨大な貌を作っていた。


 リネが息を呑んだ。


「……神、さま」


 花葬師の一人が膝をついた。


 別の者も続く。


「腐花の主……」


 その名が落ちた瞬間、大きな貌が崩れた。


 花と骨が水へ散る。


 代わりに、ハルの舟の先に人が立っていた。


 若い女だった。


 濡れた黒髪に花を絡ませ、素足を水面へ置いている。


 次に瞬きをした時には、老人になっていた。


 頬の皮膚が薄く、白い菌糸が皺の間を走っている。


 さらに少年。


 骨。


 花だけの顔。


 誰か一人の姿へ定まろうとする気が、最初からない。


 それは人の形を借りているだけだった。


 リオには、その方がかえって理解できた。


 死は老人だけのものではない。


 男だけでも、女だけでもない。


 ならば、この神が一つの顔を持つ方がおかしい。


 神格は、ハルの舟を見た。


 次にリネを見る。


 その眼差しが優しいのかどうか、リオには分からなかった。


 人間と同じ尺度で量れる感情が、そこにあるようには見えない。


 ただ、死者を見ていた。


 花を見ていた。


 帰り道の途中にいるものを、見ていた。


「ネクタ=ロア」


 リオが名を呼んだ。


 若い女の口が動く。


 声は、そこからだけ聞こえなかった。


 水。


 葉。


 花弁。


 骨の空洞を抜ける風。


 それらが一つの声になった。


「医師」


 マヤがリオの外衣を掴む。


 リオは振り返らない。


 目の前の存在は、ラウ=マリカで人々が都合よく語っていた腐花神とは違う。


 死者を美しい花へ変えて救う神。


 そんな単純なものではない。


 もっと冷たい。


 もっと自然だった。


「あなたが、これをやっているのか」


 リオは周囲を示した。


 数十艘の舟。


 枯れない花。


 死体をつないだ白い根。


 水上に作られつつある巨大な花床。


 ネクタ=ロアは答えなかった。


 代わりに黒い花が一輪、静かに開く。


 リオの奥歯が噛み合った。


「死ぬことが救いだと言うのか」


 水面の少年が、首を傾けた。


「違う」


 声は静かだった。


「死は救いではない」


 老人へ変わる。


「死は、死だ」


 花の貌になる。


 そこに表情はない。


「だから、死者から死まで奪うな」


 リオは言葉を失った。


 神格の声には、慰めがなかった。


 死ねば救われるとは言わない。


 苦しみが終わるから幸せだとも言わない。


 ただ死者には、死者としてほどける時間があると言っている。


 ハルの身体へ残された生命圧。


 それを留め続けた薬。


 その影響が、花葬そのものへ食い込み、周囲の死者まで巻き込み始めた。


 だから、この神が怒っているのか。


 それすらリオには分からない。


 怒りではないのかもしれない。


 川を塞げば水が溢れる。


 腐敗を止めれば、死者はほどけない。


 この神にとっては、それと同じことなのかもしれなかった。


「……父を」


 リネが口を開いた。


 声が震えている。


「父を返してくれるんですか」


 ネクタ=ロアの貌が、彼女へ向く。


 少しだけ間があった。


「返す?」


 その問いに、リネが息を止めた。


 神は答えを続けなかった。


 死者を生者へ返すのか。


 河へ返すのか。


 土へ返すのか。


 花へ返すのか。


 その言葉がどの意味を持つのか、人と神では違う。


 リネは《帰花願》を見た。


 その紙には、父親自身が書いた言葉がある。


 残りは河へ返すこと。


 彼女は唇を噛み、もう一度ハルへ目を向けた。


 そこで、ネクタ=ロアの様子が変わった。


 今までリオとリネへ向いていた無数の貌が、一斉に別の方向を向く。


 マヤ。


「……え」


 マヤが後ずさった。


 腐花群島の白花が、同時に閉じた。


 数十艘。


 その周囲。


 さらに遠い水路まで。


 夜に開いていた花が、誰かに命じられたように花弁を閉ざす。


 音が消えた。


 甘い香りまで薄くなる。


 ネクタ=ロアは、女の姿になった。


 今度は若くも老いても見えない。


 鼻先をわずかに上げる。


 匂いを嗅いだ。


 マヤの。


「奇妙だ」


 マヤの指が胸元を押さえた。


「……何が?」


 リオはマヤの前へ出ようとした。


 だが、彼女が袖を掴んだ。


「待って」


「マヤ」


「聞きたいです」


 声は震えている。


 それでも、手を離さない。


 ネクタ=ロアの顔が、花へ崩れた。


 花の隙間から骨が覗く。


「おまえは死なないのではない」


 マヤの肩が強張った。


 第二の鼓動が鳴った。


 ドクン。


 リオにも聞こえた気がした。


 いや、空気が震えただけかもしれない。


 マヤの胸の奥で、もう一度。


 ドクン。


 ネクタ=ロアが言う。


「おまえの死は、終われない」


 マヤの顔から血の気が引いた。


 リオは反射的に腕を伸ばしたが、彼女は倒れなかった。


 ただ胸を押さえている。


 呼吸している。


 生きている。


 それなのに、ハルへ触れた時と同じ共鳴が起きている。


「どういう意味だ」


 リオが問い詰める。


 ネクタ=ロアは彼を見なかった。


 マヤだけを見ている。


 そして、その背後にある何かを嗅ぐように、静かに顔を近づけた。


「白い獣が噛んでいる」


 時間が止まったように感じた。


 白い獣。


 ラウ=マリカの夜。


 腐花を噛み取り、そこだけを黒く枯らした大きな影。


 密林。


 水辺に残された足跡。


 これまで追い続けてきた痕跡。


 マヤの指が震えた。


「何を……噛んでるんですか」


 ネクタ=ロアは、しばらく答えなかった。


 水面へ黒い花弁が一枚落ちる。


「おまえが終わるたびに」


 神格の貌が、少女から老人へ変わる。


 老人から骨へ。


 骨から花へ。


「終わりへ来るものを」


「終わりへ……?」


 マヤの声が掠れた。


「それは、死ですか」


 ネクタ=ロアは答えなかった。


「病気?」


 沈黙。


「わたしの中にいるもの?」


 花弁だけが揺れる。


 リオは歯を食いしばった。


「答えろ」


 その声に、ネクタ=ロアの貌が一度だけ彼へ向く。


「医師」


 それだけだった。


 答えを与える気はない。


 あるいは、人間の言葉へ置き換えられる答えではない。


 次の瞬間、対岸で大きな音がした。


 枝が折れた。


 全員が振り向く。


 水路の向こう。


 古い死者の骨が積み重なってできた小さな骨島。


 マングローブの根の間に、白い影が立っていた。


 巨大だった。


 鹿に似ている。


 だが鹿ではない。


 肩はもっと厚く、脚は獣のように強い。


 頭から伸びた角は、木の根を逆さにしたように複雑に枝分かれしていた。


「……あれ」


 マヤが呟く。


 白い獣の顔は、闇に隠れている。


 目だけが、淡く光っていた。


 その瞬間、マヤの鎖骨の下に痛みが走った。


「っ……」


「マヤ!」


 リオが振り返る。


 外衣の胸元から、白い花が一輪、押し出されるように咲いた。


 血は出ていない。


 けれどマヤは痛みに眉を寄せている。


 同時に。


 対岸の白い獣の枝角にも、何かが浮かんだ。


 黒い影。


 一瞬だけ、花のように見えた。


 黒い花弁。


 角へ絡みつき、咲きかける。


 次の瞬間には消えた。


「……今の」


 リオが目を凝らす。


 白い獣は動かなかった。


 ただ、こちらを見ている。


 マヤを。


 リオを。


 あるいは、そのどちらでもないものを。


 ネクタ=ロアの気配が薄れていく。


 若い女も。


 老人も。


 少年も。


 骨も。


 すべてが花と水へほどけていく。


 最後に残った黒い花が、水面へ落ちた。


 波紋が広がる。


 止まっていた水が、再び流れ始めた。


 白花がゆっくり開く。


 甘い香りが戻ってくる。


 花葬師たちが、ようやく息を吐いた。


 リネはハルの舟の横で立ち尽くしていた。


 マヤは自分の胸に咲いた白い花を見つめている。


 リオは、その二人の間に立ったまま動けなかった。


 死者から死まで奪うな。


 おまえの死は、終われない。


 白い獣が噛んでいる。


 三つの言葉が、まったく違う方向から同じ場所へ刺さっている。


 対岸を見る。


 白い獣はもういなかった。


 骨島の枝だけが揺れている。


 その根元に、一枚。


 黒い花弁のようなものが落ちていた。

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