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第六節 ― 戻ってこなくていい

 リネは、《帰花願》を死者舟の脇まで持ってきた。


 紙は折らず、胸元へ抱いている。


 水路には夕暮れが沈みかけていた。昼の青さを失った水が少しずつ黒くなり、その上で白い根だけが妙に鮮明に見える。舟から舟へ渡った根は、もう簡単には数えられないほど増えていた。


 ハル=セイナは、その中心にいる。


 昨日と同じ顔。


 昨日と同じ白い花。


 いや、同じではない。


 花は増えている。


 胸から肩へ伸びた根には新しい蕾がつき、葬布の上に淡い光を落としていた。


 リネは父親の舟を見たまま、足を止めた。


「……本当に、これで決めるんですか」


 リオは答えなかった。


 隣にいた花葬師も黙っている。


 マヤだけが、少し離れたところで《帰花願》とハルを交互に見ていた。


「病気だったんです」


 リネが言った。


 誰かへ説明するような声だった。


「心臓が悪くなって、それで……きっと弱気になってただけです」


 紙を持つ指に力が入る。


「死ぬと思ったから、こんなの書いたんですよ」


 リオは彼女を見る。


「そうかもしれない」


 リネが顔を上げた。


「じゃあ」


 そこに、わずかな希望が戻る。


「だったら、本当は帰ってきたいかもしれないじゃないですか」


「そうかもしれない」


「だったら――」


「でも」


 リオは、そこで初めて言葉を遮った。


 声は強くない。


 けれど、逃げるための隙間は残さなかった。


「そうかもしれない、を理由に」


 リネの手にある紙へ目を落とす。


「残した言葉を聞かなかったことにはできない」


 リネの口が閉じた。


 ハル本人が最後の瞬間まで同じ意思だったのかは、誰にも分からない。


 死の直前に考えを変えたかもしれない。


 苦しくなって、もっと生きたいと思ったかもしれない。


 娘に会いたいと願ったかもしれない。


 その可能性はある。


 だからといって、本人が生きているうちに残した言葉を、都合の悪いものとして捨てていい理由にはならない。


「じゃあ……送れって言うんですか」


 リネの声が震えた。


 リオは首を横に振る。


「言いません」


「でも、父さんは」


「ハルさんが何を残したかは伝えました」


 リオは一歩、舟から離れた。


「どうするかまで、俺が決めたら意味がない」


 リネが睨む。


「ずるいです」


「そうですね」


「医者なのに」


「医者だから、できないこともあります」


「そういうところ、本当にずるい」


 今度は返事をしなかった。


 リネはしばらく立ち尽くしていた。


 やがて、《帰花願》をマヤへ差し出す。


「持ってて」


「はい」


 マヤは両手で受け取った。


 いつものように余計なことは言わなかった。


 リネが死者舟へ乗る。


 舟板が沈み、黒い水が縁ぎりぎりまで上がった。


 白い根がわずかに揺れる。


 ハルの胸の花も、呼吸するように開きかけた。


 リネは父の横へ座った。


 近くで見ると、やはり眠っているようだった。


 頬は痩せている。


 髭は少し伸びている。


 仕事で日に焼けた手には、細かな傷がいくつも残っていた。


 リネはその手を取った。


「……温かい」


 生命保存剤と、身体に留まった生命圧。


 理由はもう聞いている。


 それでも、知識で感触までは消せない。


 死者の手は、冷たくなかった。


「まだ温かいのに」


 指を絡める。


「死んでるなんて、ずるいよ」


 声が掠れた。


 胸の花が開いた。


 白い花弁が、ひとつずつ夜へ向かって持ち上がる。


 最初にそれを見た時、リネは父が答えたと思った。


 今も、同じように見える。


 声へ応じて花が咲く。


 父の手は温かい。


 爪は伸びる。


 髪も伸びて見える。


 夜になれば、身体の熱さえ戻る。


 帰ってきそうなものばかりが残っている。


 なのに、父自身だけが戻らない。


「ねえ」


 リネは手を握ったまま言った。


「聞こえてないんでしょ」


 花がゆっくり閉じ始める。


「聞こえてないのに……そういうの、やめてよ」


 白い花が揺れた。


「期待するじゃん」


 息を吸う音が震えた。


「ずっと喧嘩してたんだから」


 リオは顔を伏せた。


 マヤは《帰花願》を胸元で抱いたまま、舟を見ている。


「心臓悪いくせに働いて」


 リネの言葉が少しずつ速くなる。


「薬代がもったいないとか言って。仕事減らせって言っても聞かないし。こっちが心配してるのに、『自分のことやれ』って」


 ハルは答えない。


「それで最後に」


 リネの喉が詰まった。


「『自分の家を持て』って」


 握った手の甲へ、額を押しつける。


「追い出したいんだと思った」


 長いあいだ胸の中に残っていた言葉だった。


「邪魔になったのかなって」


 肩が小さく震える。


「病気になって、わたしの面倒まで見られないから……だから出ていけって意味だと思った」


 声が途切れた。


 水の音だけが残る。


 周囲に浮かぶ死者舟では、白い花が静かに灯っている。


 誰も急かさない。


 花葬師さえ、舟へ近づかなかった。


「ごめん」


 リネが言った。


 ハルの手を包み込む。


「ごめん」


 二度目は、もっと小さかった。


「ほんとは、分かってたのかもしれない」


 父が心臓を押さえる回数が増えていた。


 仕事へ出る前、長く座るようになった。


 薬瓶を隠すようになった。


 いつも自分が直していた死者舟について、やけに細かく話すようになった。


 死について話さなかった男が、自分の死後だけは少しずつ準備していた。


 気づかなかったのではない。


 気づきたくなかったのかもしれない。


「自分の家なんて、いらなかった」


 リネが笑った。


 涙で崩れた、ひどい笑いだった。


「父さんがいる家でよかった」


 返事はない。


「だから、あの時……ほんとは」


 唇を噛む。


 それでも、言葉にした。


「帰ってきてほしかった」


 胸の花が、また一輪開いた。


 リネはそれを見る。


 以前なら、その一輪へ縋っていただろう。


 今は見つめるだけだった。


 花が開いた。


 それだけだった。


 リオは何も言わない。


 それが父の返事ではないと、もう診断している。


 けれど、それをこの瞬間に口へ出す必要もなかった。


 リネは父の手を握ったまま、長く黙っていた。


 空の星が増える。


 水にも星が灯る。


 腐花群島が、あの最初の夜と同じ美しさを取り戻していく。


 いや、何も取り戻してはいない。


 死者舟は異常な根でつながったままだ。


 ハルの身体も終われない。


 問題は一つも解決していない。


 それでも、この舟の上だけでは、別のものが終わろうとしていた。


「父さん」


 リネが呼んだ。


 花が開く。


 今度も。


 確かに。


 美しく。


 まるで応えているように。


 リネは泣きながら、それを見届けた。


「……もういいよ」


 息を吐く。


「わたし、自分の家、持つから」


 鼻をすすった。


「たぶん」


 少し間が空く。


「……いつか」


 後ろでマヤの口元がほんの少し緩んだ。


 リネは気づかない。


 父の指を一本ずつ、ゆっくり離していく。


 最後に、手のひらを両手で包んだ。


「ほんとは、もっといてほしかった」


 声はもう大きくなかった。


「もっと喧嘩したかったし」


「謝ってないこともいっぱいあるし」


「聞きたいことだって」


 言葉が止まる。


 そこから先を全部言うには、人生は長すぎた。


 だから、リネは一つだけ選んだ。


 父の手を舟へ戻す。


 胸の上へ。


 生前、何十年も死者舟を修理してきた男の手を、死者として整える。


 それから、白い花へ触れないように気をつけながら、葬布の乱れを直した。


「でも……戻ってこなくていいよ」


 花が開いた。


 リネはもう、それを答えだとは言わなかった。


 ただ泣いた。


 声を殺さず、顔も隠さず、父の舟の脇で泣いた。


 マヤが目を伏せる。


 リオは少し離れた場所から、その時間が終わるのを待った。


 治療はしていない。


 命も救っていない。


 死者を送ったわけでもない。


 ただ、娘が父親へ別れを告げるまで、誰にもその選択を奪わせなかった。


 やがてリネが立ち上がった。


 涙を袖で拭い、マヤから《帰花願》を受け取る。


 今度は、それを胸元へ抱かなかった。


 父の舟の上へ、そっと置いた。


「……花葬師さん」


 振り返る。


 まだ涙の跡が残っている。


 それでも、自分の声で言った。


「父を、帰したいです」


 花葬師が静かに頭を下げた。


 リオは何も付け加えなかった。


 その言葉は、医師の診断でも、神の教えでもない。


 リネ自身が、父の残した声を聞いたあとで選んだ答えだった。


 夜の水面で、白い根がゆっくり揺れていた。


 まだ、死者を放すつもりはないように。

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