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第五節 ― 死者本人の声

 翌朝、リネは父親の作業小屋の鍵を開けながら、三度目の失敗をした。


「……開かない」


「逆じゃないですか?」


 後ろからマヤが言う。


「逆じゃない。毎日開けてたんだから」


「でも、鍵が嫌がってます」


「鍵に気持ちはないでしょ」


「舟には名前があるのに?」


「それとこれは別」


 言い返しながら、リネはもう一度鍵をひねった。


 がちり、と錠が外れた。


 マヤは満足そうに頷いた。


「説得できましたね」


「あなた、けっこう変な子ね」


「よく言われます」


「誰に?」


「先生に」


「言ってない」


 少し離れて立っていたリオが即座に否定した。


 朝の腐花群島には、夜とは違う匂いがあった。


 白い花の甘い香りは残っているが、それより濡れた木、樹脂、泥、水草の青臭さが強い。死者舟の管理所では早朝から花葬師たちが異常な根の広がりを見回っており、遠くから舟板を叩く音や人の呼び声が聞こえてくる。


 ハルを中心とした根は、夜のうちにもさらに太くなっていた。


 だから、時間があるわけではない。


 それでもリオは、先にここへ来ることを選んだ。


 昨夜まで診ていたのは、ハルの身体だった。


 今日調べるのは、ハル=セイナという人間だった。


 戸を開けると、乾いた木屑の匂いが鼻をくすぐった。


 小屋の半分は水上へ張り出している。床には削り屑が積もり、壁には大小の鋸や鉋、木槌、細い鑿が整然と並んでいた。使い込まれた道具ばかりで、柄の部分だけ色が濃くなっている。


 作業台には、修理途中らしい舟板が一枚。


 端には白い花粉が薄く残っていた。


「ここで、死者舟を直してた?」


 マヤが訊く。


「うん。ほとんどそれ」


 リネは小屋へ入ったものの、落ち着かなさそうに視線を動かしていた。


「普通の舟も直したけど、父さんは死者舟の仕事が多かったから。古くなった舟を引き上げて、板を替えて、根が通りやすいように隙間を直して……」


 話しているうちに、声が少しずついつもの速さへ戻る。


「わたし、子どものころ嫌だったんです。家じゅう花と泥の匂いになるし、たまに骨までくっついてくるし」


「骨」


 マヤが作業台から手を引っ込めた。


「触る前に言ってください」


「今、言ったじゃない」


「触る前がよかったです」


「だから触らないでって、俺が何度も」


「先生は黙っててください」


 リネが、ほんの少し笑った。


 笑ったあと、自分でもそのことに気づいたのか、すぐに口を閉じた。


 リオは何も言わず、作業台の端へ視線を落とした。


「ハルさんは、花葬を嫌ってました?」


「父が?」


 リネは首を傾げた。


「全然」


「自分の死について嫌がるようなことは?」


「それも……」


 答えかけて、考え込む。


「死にたくないとは言ってましたよ。そりゃ、普通に。でも、『死んだら燃やせ』とか『花葬なんかするな』とか、そういうのは一度も」


 壁際の棚から、リネは古い木片を一つ取り出した。


 細い舟板だった。縁に白い花の跡が染みついている。


「むしろ、うるさかったです」


「うるさい?」


「花が腐りすぎてる舟を見ると、管理が悪いって怒るし。根を切りすぎた舟を見ると、こんなんじゃ死者が河へ返れないって」


「職人気質だったんですね」


 マヤが言う。


「ただの頑固親父です」


 リネは迷いなく返した。


 その言葉だけは、ずいぶん自然だった。


 何十年も、ハルは死者を乗せる舟を直してきた。


 死者が花に覆われ、根にほどかれ、やがて河へ返っていくのを見送ってきた。


 少なくとも、死を知らない男ではない。


 死ぬということから目を背け続けていた人間でもない。


 リオは作業台に手を置いた。


「心臓が悪くなってから、花葬師に相談したことは?」


 リネの顔から、わずかに表情が消えた。


「……あると思います」


「思います?」


「父、わたしには病気の話をあんまりしなかったから」


 少し苛立ったように、棚の布を畳み直す。


「聞いても『まだ動く』とか『大したことない』とか。こっちが医者へ行けって言うと、金がかかるって言うし」


 リオは、生命保存剤の空瓶を思い出した。


 娘へ借金を残したくなかった。


 働き続けるために、命をつなぐ薬を使った。


 それだけを見れば、生きることへ執着していたようにも思える。


 けれど、生きたいことと、死を拒絶することは同じではない。


「花葬師に聞きましょう」


 作業小屋を出ると、管理所にいた年嵩の花葬師が話を聞いてくれた。


 ハルを昔から知っている男だった。


「相談なら、三度来た」


 帳面をめくりながら言う。


 リネが振り返る。


「三度も?」


「おまえには言ってなかったのか」


「何を?」


 花葬師はリネの顔を見て、少し言いにくそうにした。


「自分の花葬のことだ」


 リネの指が止まった。


「……いつ」


「最初は半年前。その次が三月ほど前。最後は、雨季へ入る少し前だった」


「そんな……」


「心臓の具合が悪いと聞いていた。本人も分かっていたんだろう」


 花葬師は帳面から顔を上げた。


「死者舟の指定。使う葬送種。川へ出す時刻。珍しい相談じゃない。あいつは仕事柄、こっちの手順を俺たちより知ってるくらいだったがな」


「何を話したんですか」


 リオが訊く。


「特別なことはない。どういう状態なら花葬へ入れるのか。死亡確認のあとは何をするのか。遺族が止めたいと言った場合はどうするのか」


「遺族が?」


 リネの声が低くなった。


 花葬師は一瞬黙り、それから頷いた。


「聞かれた」


「どうして」


「そこまでは知らん」


 答えは短かった。


 リネが視線を逸らす。


 マヤは彼女を見たが、何も言わなかった。


 管理所を出たあと、三人はもう一度ハルの作業小屋へ戻った。


 今度は、リネの方から探し始めた。


 引き出し。


 木箱。


 道具棚。


 古い注文票。


 修理記録。


「父さん、何でも取っておく人だったんです」


 紙束を床へ置きながら、リネが言う。


「縄の切れ端まで『まだ使える』って」


「先生と似てます」


 マヤが言った。


「何が」


「空の薬瓶、捨てませんよね」


「記録用だよ」


「欠けた骨針も」


「修理できる」


「穴の開いた袋も」


「縫える」


 リネが紙束の向こうから顔を出した。


「似てる」


「似てない」


 リオの返答が妙に早かったので、マヤは何か言いたそうな顔をした。


 その時だった。


「あ」


 リネが止まった。


 作業台の下。


 木屑に半分隠れるように、小さな舟が置かれていた。


 掌二つ分ほどの模型だった。


 マヤがしゃがみ込む。


「かわいい」


「触る前に確認」


「先生、しつこいです」


「学習したんだよ」


 リオが先に模型を持ち上げた。


 まだ完成していない。


 片側の縁は削り途中で、船首の装飾もない。それでも形は、夜ごと水路を流れていく死者舟によく似ていた。


「お父さん、模型なんて作ってたんですか」


「知らない」


 リネが受け取る。


 指で舟縁をなぞり、首を傾げた。


「これ、死者舟じゃない」


「違う?」


「似てるけど……死者を寝かせるなら、ここをもっと広く作る。父さんなら間違えない」


 舟をひっくり返した。


 舟底に、小さな文字が刻まれていた。


 リネの手が止まる。


 マヤが隣から覗き込んだ。


 そこには、二つの言葉があった。


《遺される者》


 その下に。


《リネ》


「……何、これ」


 リネの声が変わった。


 リオも模型を覗く。


 死者の名ではない。


 供物の名でもない。


 ハルが書いたのは、死ぬ者ではなく、そのあとに残る娘の名だった。


「花葬師さん」


 リオが言う。


「こういう模型に心当たりは?」


 呼ばれて小屋へ来ていた花葬師が、それを見る。


 やがて、低く息を吐いた。


「帰花願かもしれん」


「何です?」


 リネが訊く。


「花葬のあとの希望を書いておく記録だ。正式なものは管理所へ預ける。自分で舟の模型を作る奴は少ないが……舟大工なら、やってもおかしくない」


 リオはすぐに立ち上がった。


「正式な記録がある?」


「探せばな」


 古い記録棚は、管理所の最奥にあった。


 湿気を避けるため床より一段高く作られ、年代ごとに木札と紙束が並べられている。


 花葬師が箱を一つずつ引き出す間、リネは黙っていた。


 先ほどまで父親のことを話すたび、必ず何か一言つけていた。


 頑固だった。


 うるさかった。


 仕事ばかりだった。


 今は何も言わない。


 やがて、一冊の薄い綴りが出てきた。


「ハル=セイナ」


 花葬師が名を読み上げる。


 リネが一歩前へ出た。


 紙は古くない。


 半年前の日付。


 さらに二度、追記された印がある。


 最後の欄には、ハル自身の署名が残っていた。


 リオは勝手に手を伸ばさず、リネを見る。


「読んでいいですか」


 リネはしばらく紙を見ていた。


 それから、小さく頷いた。


 リオが綴りを開く。


 死後の処置。


 葬送の方法。


 残すもの。


 返すもの。


 余計な言葉のない、実務的な筆跡だった。


 その中に、三行。


「呼びかけに答えられなくなったなら、留めないこと」


 リネの唇がわずかに開いた。


 リオは続ける。


「花が咲いたなら、娘に一輪だけ残すこと」


 その次。


「残りは河へ返すこと」


 部屋の外で、水音がした。


 誰かの死者舟が通ったのだろう。


 花葬師が目を伏せる。


 マヤはリネから視線を外さなかった。


「……父さんが、書いたんですか」


「署名は本人のものだ」


 花葬師が答えた。


「俺も立ち会ってる」


「いつ?」


「最後に来た日だ」


「その時、父さん……」


 リネは声を詰まらせ、言い直した。


「死ぬつもりだったの?」


「死ぬつもりだったかは知らん」


 花葬師は静かに言う。


「ただ、自分が死んだ後のことは決めていた」


 リネは紙を見つめた。


 目は濡れていない。


 まだ、泣くところまで行けていないようだった。


「……勝手」


 ぽつりと落ちた。


「こんなの、勝手じゃない」


 誰も否定しなかった。


 自分の死後について自分で決めた。


 それはハルの意思だ。


 けれど、それを知らされなかった娘が傷つかないわけではない。


 リオは次の紙へ指を掛けた。


 正式な記録とは別に、小さく折られた紙片が挟まっていた。


「まだあります」


「何」


「私的な追記みたいです」


 リネが手を出す。


「貸して」


 今度は自分で開いた。


 父親の字を見慣れているのだろう。


 一行目を読んだ途端、眉が寄った。


「あいつは一人でも生きられる」


 声に出す。


 少し間が空く。


 次の行。


「本人は信じないだろうが」


「……何それ」


 リネの口元が歪んだ。


「何それ。腹立つ」


 紙を握り潰しかけて、止める。


「だったら言えばいいじゃん」


 声が強くなる。


「一人でも大丈夫だって。ちゃんと言えばいいじゃん。なんで……」


 最後まで続かなかった。


 リオには、その言葉の先が分かった。


 リネが初めて会った時から、父親の死を受け入れきれなかった理由。


 花が開いたからではない。


 指が動いたからでもない。


 身体が温かかったからだけでもない。


 父親との最後の会話が、終わっていなかった。


「今年の雨季が終わったら」


 リネが呟く。


 マヤが顔を上げる。


「父さん、言ったんです」


 今度は誰に向けたのでもなく、ぽつぽつ話し始めた。


「『おまえも自分の家を持て』って」


 指の中で、紙片が震える。


「急にですよ。ずっと二人で住んでたのに。病気になって、こっちは心配してるのに。それなのに、いきなり出ていけみたいなこと言うから」


 リネは唇を噛んだ。


「だから、わたし……『追い出したいなら、そう言えばいい』って」


 水路から風が入る。


 記録棚の紙がかすかに鳴った。


「それが最後」


 リネは笑おうとしたようだった。


 うまくいかなかった。


「ほんとに最後になるなら、もっと別のこと言ったのに」


 マヤが、ほんの少しだけ近づいた。


 慰める言葉は口にしなかった。


 リオも言わない。


 代わりにリネは、もう一度父親の追記を見た。


《あいつは一人でも生きられる》


《本人は信じないだろうが》


「……自分の家を持て、って」


 リネの声が小さくなる。


「追い出したかったんじゃ、なかったのかな」


 リオは答えなかった。


 それを決めるのはハルではない。


 まして、ハルをほとんど知らない自分でもない。


 紙に書かれた言葉から推測することはできる。


 けれど、都合よく父親の真意を代弁することはできない。


「少なくとも」


 リオは言った。


「ハルさんは、君が自分なしでは生きられないとは思ってなかった」


 リネが顔を上げる。


「それ、褒めてます?」


「たぶん」


「たぶん?」


「本人に確認できないので」


「医者なのに役に立たない」


「そこは専門外です」


 リネの鼻から、小さく息が漏れた。


 笑ったのか、泣きかけたのかは分からなかった。


 マヤが隣で言う。


「わたしは、けっこういい言葉だと思います」


「どこが」


「本人は信じないだろうが、のところ」


「そこ?」


「ちゃんと分かってた感じがします」


 リネはしばらくマヤを見ていた。


「……あなた、やっぱり変な子ね」


「よく言われます」


「だから俺は言ってない」


 今度こそ、リネは少し笑った。


 ただ、その笑いはすぐ消えた。


 手元にはまだ《帰花願》がある。


 父親は明確に書いている。


 呼びかけに答えられなくなったなら、留めないこと。


 花が咲いたなら、一輪だけ娘へ。


 残りは河へ。


 その身体は今、まるでその言葉に逆らうように死を留められている。


 リネは記録を胸元まで持ち上げた。


「これがあったら」


 かすかな声だった。


「父さんを……終わらせるんですか」


 リオはすぐには答えなかった。


 記録を見つけることと、その通りに処置することは同じではない。


 ハルの意思は見つかった。


 だが、その結果を受け止める娘は、今ここに生きている。


「まず、見つけたものを全部持って戻りましょう」


 リオは言った。


「それから考えます」


「でも、父さんは――」


「ハルさんの言葉をなかったことにはしません」


 そこで止める。


「でも、君の言葉も聞きます」


 リネは何も返さなかった。


 ただ、《帰花願》を両手で持った。


 破らないように。


 落とさないように。


 けれど、まだ受け入れてしまわないように。


 管理所の外では、白い根に繋がれた死者舟が朝の水面で揺れていた。


 その中心で、ハル=セイナの花だけが、今日も枯れずに咲いていた。

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