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第四節 ――死者舟の白面医

 夜更けの腐花群島は、昼よりも明るかった。


 家々の灯りが増えたわけではない。水路に留められた死者舟の花が、いっせいに淡い燐光を帯びているせいだった。


 白い花。

 白い根。

 それらをつなぐ暗い舟板。


 遠目には、水面に巨大な花壇が浮かんでいるように見える。


 近づけば、その一輪一輪の下に死者がいる。


 リオは一人、ハル=セイナの舟の脇に腰を下ろしていた。


 生命保存剤の小瓶は、布に包んで診療鞄へしまってある。製造元は読めない。ハルがなぜ長期間使っていたのかも、誰から手に入れたのかも分からない。


 分かったのは、薬そのものに人を蘇らせる力などないこと。


 そして死んだハルの身体には、まだ生命圧が閉じ込められたままだということだけだった。


 胸に咲く白花が、ゆっくり開く。


 呼吸のように見える。


 見えるだけだ。


 指が動くこともある。


 声に花が応えることもある。


 水面へ脈のような波紋が広がることもある。


 けれど、瞳孔は光を返さない。脈はない。呼吸も、神経反射もない。


 ハル=セイナは死んでいる。


 診断としては、それで終わるはずだった。


「……終われないのは、身体だけか」


 独り言が、湿った夜気へ溶けた。


 返事はない。


 当然だった。


 リオは膝を立て、その上へ腕を置いた。左腕の包帯の下が、わずかに疼いている。


 昼間、死者舟をつなぐ根を調べたせいだろう。


 白い根の一部は、もう舟板へ入り込んでいた。木を腐らせるのではなく、逆に補強するように繊維の隙間を縫っている。


 死体を土に。


 舟を地面に。


 水上へ、新しい花床を作ろうとしている。


 そこまで考えたところで、リオは視線を落とした。


 ハルの舟の縁から、黒い液体が一滴垂れた。


 樹液だった。


 白い根の一部が黒く変色し、その裂け目から粘り気のある液が滲んでいる。


 ぽたり、と水へ落ちる。


 波紋が広がった。


 一つ。


 二つ。


 その中心に、白いものが現れた。


 獣の顔。


 いや、仮面だ。


 何の獣を模したものかは、今でも分からない。狼にも鹿にも、鳥にも見える細長い白面。その上に場違いな黒いシルクハット。


 細身の白衣。


 黒い杖。


 水面の中にだけ、男が立っていた。


 リオは目を細めた。


「……またあなたか」


 白い獣面が、ほんの少し傾いた。


「覚えていてくれたとは光栄だ」


「忘れにくい格好をしてますから」


「医師は清潔感が大切だろう?」


「普通の医師は水の中から話しかけません」


「なるほど。では、次に会う時は気をつけよう」


 まったく気をつける気のない口調だった。


 リオは溜息をつく。


 ラウ=マリカでも何度か現れた、あの白面の男だった。


 問いを置く。


 答えは置かない。


 治療をしない。


 助言もしない。


 人が隠しているものを、勝手に鏡へ映して帰る。


 正直、医師としてはかなり嫌いな種類だった。


「何の用です」


「用?」


 水面の男は杖の先を持ち上げた。


「君は患者の声を聞くそうだね」


「話せるなら」


「では、死者は?」


 リオの眉が寄る。


「死者は話さない」


「本当に?」


 白面の奥は見えない。


 それでも、笑っているように感じた。


「生き返ると言いたいのか」


 思ったより強い声が出た。


 白面の男は首を傾げる。


「私は何も言っていない」


 黒い杖の先が、水面へ触れた。


 小さな輪が広がり、その中でハルの胸の花が映る。


「君が、生き返ってほしいと思っただけだ」


 左腕が、包帯の下で疼いた。


 リオは無意識にそこを押さえた。


「……勝手なことを」


「そうかな」


「ハルさんは死んでいる。診察した。確認もした。あの動きは蘇生反応じゃない」


「私は、それを否定していないよ」


「なら何が言いたい」


「何も」


 白面の男は楽しそうに答えた。


「君が何を聞くのか、見ているだけだ」


 苛立たしい。


 いつもそうだ。


 相手は一つも答えないくせに、こちらが自分で口にした言葉だけは逃がしてくれない。


 リオはハルへ目を戻した。


 死んでいる。


 それでも、リネが名を呼べば花が開く。


 娘がそれを見れば、父が応えていると思う。


 当然だ。


 もし自分でも、救えなかった誰かの身体が目の前で動いたなら。


 もし、もう一度だけ声が届く可能性があると思ったなら。


 診断より先に、その可能性へ手を伸ばさなかったと言い切れるだろうか。


 喉の奥に、古い記憶の感触だけが残った。


 呼びかけても返らなかった声。


 それでも手を止められなかった自分。


 助けるという名目で、相手が望んでいたかも分からないものを身体へ押しつけた手。


 リオは目を閉じかけ、やめた。


「患者自身の意思を尊重する」


 白面の男が、静かに言った。


 リオは水面を見る。


「……何です」


「君の考えだろう?」


 白面がわずかに上を向く。


「美しい」


「からかってるなら帰ってください」


「褒めているのだよ」


 まるで信用できない。


 白面の男は杖を両手で持ち、その上へ軽く身体を預けた。


「では」


 その一言だけで、空気が変わった。


「患者がもう答えられない時、医師は誰の声を聞く?」


 リオは黙った。


 水路の向こうで、花弁が一枚落ちた。


 音もなく水へ触れ、流れていく。


 誰の声を聞いた。


 リネ。


 父が戻ってくるかもしれないと願う娘。


 花葬師。


 死者を正しく送ろうとする者たち。


 現地の医師。


 生命保存剤を分析した者。


 自分自身。


 瞳孔を見て、脈を取り、神経反射を調べ、《医脈》を通し、死者だと判断した。


 死者舟をつなぐ根も追った。


 薬も調べた。


 なのに。


 リオは、ハル=セイナが生きていた時のことをほとんど知らない。


 何を怖がっていた。


 何を望んでいた。


 自分の死について、何を考えていた。


 花葬をどう思っていた。


 病が悪化した時、どう生きたかった。


 どう死にたかった。


 何一つ、調べていない。


「……死者本人には、もう聞けない」


「そうだね」


「だから、記録や遺族から推測するしかない」


「そうかもしれない」


「相変わらず何も言わないな」


「君がもう言ったからね」


 白面の男は軽く肩をすくめた。


 リオは舌打ちしたい気分になったが、やめた。


 視線をハルへ戻す。


 ずっと異常な死体として診ていた。


 死後残命症。


 生命保存剤。


 白い根。


 異常な腐花。


 群島規模へ広がる生命現象。


 どれも必要な診察だった。


 けれど、その身体には名前がある。


 ハル=セイナ。


 リネの父。


 そこまで考えた時、背後の板敷きが小さく鳴った。


「リオ?」


 マヤだった。


 薄い外衣を羽織り、眠そうな顔で立っている。


「寝てたんじゃないのか」


「起きました」


「見れば分かる」


「先生がいないので」


「子どもじゃないんだから」


「そう思うなら、勝手にいなくならないでください」


 そこでマヤの視線が、水面へ落ちた。


 白い獣面。


 シルクハット。


 杖。


 水の底には何もないのに、そこだけ別の場所を映している。


 マヤの眠気が消えた。


「……誰かいます」


「見えるのか」


「見えます」


 白面の男がゆっくり顔を向ける。


 その姿が、ハルの舟脇の黒い樹液から、少し離れた水溜まりへ滑るように移った。


 歩いたわけではない。


 像だけが、別の反射へ移った。


 マヤはそちらへ一歩近づく。


「あなた、誰ですか」


「映っている者だよ」


 マヤは眉を寄せた。


「それ、名前ですか?」


「名前が必要かな」


「呼ぶ時に困ります」


「では、困っておくといい」


「感じ悪いですね」


 リオは思わず水面を見た。


 白面の男は、仮面のまま沈黙している。


 マヤの方が強いかもしれない、と一瞬だけ思った。


 だが、マヤはすぐ別のことを訊いた。


「わたしを知ってる?」


 水面に、マヤの姿も映っている。


 濡れた髪。


 外衣。


 細い肩。


 その像が胸元へ差しかかったところで、白いものが浮いた。


 花。


 実際のマヤの服には咲いていない。


 けれど、水面の像だけが白花に乱され、胸の輪郭が見えなくなる。


 マヤも気づいた。


 指先で自分の胸元へ触れる。


 白面の男はしばらく、その映り方を眺めていた。


「君は、ずいぶん不思議な映り方をする」


「どういう意味ですか」


「そのままの意味だよ」


「わたしも死者みたいってこと?」


 リオの身体がわずかに強張った。


 白面の男は答えない。


 白い仮面は、ただマヤを映している。


 やがて水面へ落ちた花粉が一粒、像を横切った。


 波紋。


 シルクハットが歪む。


 白衣がほどける。


 獣面も水の揺れへ混じり、消えた。


「……逃げました」


 マヤが言った。


「いつもああだよ」


「知り合いなんですか」


「知り合いに数えたくない」


「向こうは先生のこと、よく知ってそうでした」


「それが一番嫌なんだ」


 マヤは少し考えてから、ハルの舟を見た。


「何を話してたんですか」


 リオは答えようとして、止まった。


 ハルの胸には、白い花が咲いている。


 その向こうに、娘がいる。


 そして、ハル自身が生きていた時間がある。


「……明日、リネさんに聞く」


「何を?」


 リオは死者の顔を見た。


「この人が、どんな人だったか」


 夜の水路を風が抜けた。


 腐花が揺れる。


 死者は何も語らない。


 だからこそ、生きていた時に残した声を探さなければならない。


 リオはようやく、そこへ向き直った。

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