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第三節 ― 死者が増えていく

 異常は、朝になれば収まる――少なくとも、花葬師たちはそう考えていた。


 夜に強く開く花は珍しくない。月や水温に反応する葬送花もある。ハル=セイナの死後残命症そのものが稀な状態であっても、周囲の死者舟まで同じことになる理由はない。


 だから夜明け前、リオは一度ハルの舟を離れた。


 数時間後に戻ってきて、最初に足を止めたのはマヤだった。


「……先生」


「見えてる」


「わたし、まだ何も言ってません」


「言いたいことは同じだと思う」


 朝靄の向こうに、白い花が咲いていた。


 ハルの舟ではない。


 その隣に留められた死者舟だった。


 昨夜見たとき、その舟の花はすでに枯れ始めていた。花弁の縁は茶色く縮れ、いくつかは水へ落ちていたはずだ。


 それが今は、花弁を持ち上げている。


 完全に若返ったわけではない。枯れた縁はそのままだった。それでも茎は起き上がり、昨日なら落ちているはずの花が死者の胸に留まっている。


 リオは舟へ乗り移った。


「触らないで」


「今日はちゃんと言いましたね」


「学習するんだよ、俺も」


 返しながら、リオは花の根元へ指を近づけた。


 死者は老女だった。


 身体にはすでに死斑が出ている。瞳孔、頸部、胸郭を順に確かめる必要もないほど、死後の変化は明らかだった。


 問題は花だった。


 枯れるはずの花が、枯れきっていない。


 リオは舟底へ視線を落とした。


 白い糸のようなものが、板の隙間から出ていた。


「根?」


 マヤが少し離れた場所から覗き込む。


「細根だな」


「この舟の花の?」


「……たぶん」


 リオは細根の先を目で追った。


 それは舟底から水へ垂れ、薄い朝靄の下を横へ伸びていた。


 行き先は、ハルの舟だった。


 嫌な予感がした。


 リオは顔を上げる。


「昨日、ここに入れた舟は何艘あります?」


 近くにいた花葬師が、まだ眠気の残った顔で答えた。


「昨夜からなら六艘。古いものを合わせれば、この区画には二十を少し越える」


「全部見ます」


「全部?」


「急いで」


 それから一刻もしないうちに、六艘では済まなくなった。


 最初は、ハルの隣の老女。


 次は水路を一本挟んだ男だった。


 腐敗が止まっている。


 本来なら夜の湿気と暑さで進んでいるはずの変化が、昨日の状態からほとんど動いていない。


 三艘目では、胸の花が新しい蕾をつけていた。


「これもです」


 花葬師の声が強張る。


 リオは返事をせず、その舟の底を見た。


 白い細根。


 またあった。


 四艘目。


 五艘目。


 数えるほど、同じものが見つかる。


 根は死者の身体から直接伸びているわけではない。花の根が舟底へ回り、水に触れ、そこから別の舟へ渡っている。


 その先で、別の死者の花へ絡む。


 まるで、一人分では足りない何かが、次の身体を探しているように見えた。


「十体目」


 現地の医師が、低い声で言った。


 リオは返事をしなかった。


 十という数が怖いのではない。


 増えていることが問題だった。


 朝に調べた一艘が、昼には二艘へ根を伸ばしていた。午前中には変化のなかった舟にも、午後になると白い菌糸のような根が絡み始めている。


 死者舟の管理所は、昼を過ぎるころには騒然としていた。


 新しい遺体の受け入れは止められ、花葬師たちは舟同士を離そうとした。


 だが、簡単にはいかなかった。


「切るな!」


 リオが声を上げる。


 鉈を構えた花葬師が手を止めた。


「しかし、このままでは――」


「切った後にどうなるか分からない。少なくとも、まだ根の働きを見切れてない」


「では放っておけと?」


「離せる舟だけ離してください。根がつながったものは、そのまま」


 花葬師は唇を噛んだが、鉈を下ろした。


 リオ自身も、その判断が正しいとは言い切れなかった。


 増殖するなら切るべきかもしれない。


 だが生命圧がどこへ流れているのか分からない状態で断ち切れば、別の形で噴き出す可能性もある。


 ラウ=マリカで扱った腐花聖油とは違う。


 あれは生者へ葬送反応が入り込んだ。


 今回は、死者から出るべきものが出ていかない。


 似た花が咲いていても、同じ病理とは限らない。


「先生」


 隣にいたマヤが、そっと袖を引いた。


「今度は何」


「わたし、触ってません」


「偉い」


「褒め方が子どもです」


「じゃあ取り消す」


「それはそれで嫌です」


 言いながらも、マヤの視線は水面に落ちていた。


 白い根が、ゆっくり揺れている。


「……あれ、増えてます」


 リオも気づいた。


 一本だった根が、途中で枝分かれしている。


 その先に、別の死者舟。


 さらに、その舟から次へ。


 根は水上へ網を編み始めていた。


 日が沈むころには、誰も冗談を言わなくなった。


 腐花群島に夜が戻る。


 前夜、マヤが「綺麗です」と言った景色は、まだそこにあった。


 空には星がある。


 水にも星がある。


 死者舟の花が淡く光り、燐光を含んだ水が波に揺れる。


 ただし、今夜は舟が一艘ずつではなかった。


 白い根が、それらをつないでいる。


 数十艘の舟が、ひとつの巨大な塊になりつつあった。


 舟と舟の隙間へ根が渡り、その上に花弁が積もる。古い舟からは骨が覗き、白い根が肋骨の間を抜けて次の舟へ伸びていた。


 水の上に土はない。


 それなのに、花床ができていく。


 死体が土の代わりになっていた。


 骨が支柱になり、舟が器になり、根がそれらを編み合わせている。


 遠くから見れば、美しい浮島だった。


 白い花に覆われ、淡い光を帯びて水上に浮かぶ庭。


 近づけば、その花の下に一人ずつ死者がいる。


 マヤが長いあいだ黙っていた。


「……昨日より、綺麗です」


「うん」


 リオは否定しなかった。


 マヤも続けなかった。


 二人とも、その美しさが何の上にできているか知っていた。


 リオは小舟から身を乗り出し、白い根の流れを追った。


 外側から内側へ。


 複数の舟から伸びた根は、好き勝手に広がっているように見えて、一定の方向を持っている。


「灯り、こっちへ」


 花葬師が燈籠を寄せる。


 リオは一本の根を追った。


 次の舟。


 さらに次。


 そこから二本が重なり、同じ方向へ向かう。


 もう一本も。


 別の舟から伸びた根も。


 すべて、中央へ。


 そこには、最初から一艘の舟があった。


 ハル=セイナ。


 死後残命症を起こした父親。


 リネが息を呑む。


「父が……?」


「待って」


 リオはすぐに遮った。


 ハルの舟へ移り、根元を確かめる。


 白い根は確かにここへ集中していた。


 ハルから周囲へ伸びたものもある。


 周囲からハルへ入っているように見えるものもある。


 流れが単純ではない。


 左腕の《医脈》を使うことも考えたが、昨夜マヤとの共鳴が起きたばかりだった。今は不用意に触れたくない。


「この人が始点だ」


 リネの顔から血の気が引く。


「父が、みんなを……?」


「始点と原因は違います」


 リオは根を見たまま言った。


「最初に異常が出たのがハルさんというだけです。ハルさん本人が何かをしたとは限らない」


「でも……」


「死者が自分で薬を飲み続けることも、舟から舟へ根を伸ばすこともできません」


 そこで、リオは言葉を止めた。


 薬。


 昨夜から、ひとつ引っかかっていた。


 死後残命症が起きるほど生命圧が身体へ保存されているなら、死ぬ前から何らかの作用を受けていた可能性がある。


「リネさん」


「はい」


「ハルさん、亡くなる前に薬を使っていましたか」


 リネは少し考えた。


「薬は……飲んでました。最近、仕事から帰ると息が苦しいって言ってて」


「残ってます?」


「家に、たぶん」


「見せてください」


 ハルの家は、死者舟の管理所から水路を二本渡った先にあった。


 小さな水上家屋だった。


 床板には長年の湿気が染み込み、壁際に仕事道具が積まれている。縄、革手袋、補修用の針、油布。どれも使い込まれ、持ち主が昨日までここで暮らしていたことを残していた。


 リネは戸棚を開け、薬箱を取り出した。


「ここです」


 リオは卓上に布を敷き、中身を一つずつ並べる。


 咳止め。


 鎮痛薬。


 湿布用の薬草。


 傷薬。


 どれも珍しいものではない。


「これ、父がよく飲んでました」


 リネが一包を差し出す。


 リオは匂いを確かめ、戻した。


「普通の気管薬です」


「じゃあ、違う?」


「これだけなら」


 箱の底に、油染みのついた布があった。


 リオがそれを持ち上げる。


 何かが転がった。


 小瓶だった。


 親指ほどの大きさ。


 中には淡い緑色の液体が少しだけ残っている。


 瓶の側面には、細い根脈のような模様が刻まれていた。


 マヤが覗き込む。


「前の花の油と似てます?」


「似てない」


 リオはすぐに答えた。


 ラウ=マリカで扱った腐花聖油とは違う。あの油は、香りだけでも分かるほど葬送花の成分が強かった。


 これは違う。


 香りが薄い。


 むしろ薬草と、わずかな樹液の匂い。


「見たことありますか」


 リネは首を振った。


「父が持ってるのは見たことあります。でも、薬の名前までは……」


「いつから?」


「分かりません。しばらく前からだと思います。小さい瓶を持って仕事へ行くようになって……」


 リオは瓶を灯りへ透かした。


 底に刻印がある。


 だが泥と薬液がこびりつき、文字のほとんどが読めない。


 無理に削れば痕跡まで傷める。


「持ち帰っていいですか」


 リネは父の薬箱を見てから、頷いた。


 翌朝、リオは瓶を花葬師の管理所へ持ち込んだ。


 現地の医師も呼ばれた。


 小皿へ一滴落とし、薄め、匂いと反応を確かめる。薬液は水へ触れると淡く濁り、しばらくすると細い膜を張った。


 現地医師が眉を寄せる。


「……生命保存剤だ」


 リオが顔を上げた。


「確かですか」


「種類までは分からない。刻印も読めないから製造元も無理だ。ただ、この反応はそうだ」


 リネが二人を見比べた。


「生命……保存?」


 現地医師は説明するより先に、棚から似た大きさの瓶を取り出した。


 透明な薬液だった。


「例えば、腹を深く裂いた患者がいるとする。ここでは手術できない。大きな診療所まで舟で運ぶのに半日かかる」


 瓶を指で弾く。


「普通なら、その前に死ぬ」


 リネの指が強く組まれた。


「これを使うと?」


「死にかけた身体の生命活動を、一時的につなぎ止める。血圧が落ちるのを遅らせ、生命圧が抜けるのを抑えて、搬送や手術が終わるまで時間を作る」


 マヤが小瓶を見る。


「生き返らせる薬?」


「違う」


 今度はリオが答えた。


 昨夜、ハルに触れた時に感じたもの。


 外へ出るはずの生命圧が、身体の中だけで循環していた感触。


 話がつながり始めている。


「死を治す薬じゃない」


 リオは淡緑の瓶を指先で回した。


「死ぬまでの時間を引き延ばす薬です」


「じゃあ……」


 リネの声が掠れた。


「父は、それを飲んだから?」


「まだ決められません」


 リオは瓶を置いた。


「正しく使えば、これで助かる患者はいる」


 現地医師も頷いた。


「普通は一時的に使う。搬送が終わったら止める。手術が終われば止める。薬が必要な状態そのものを治療するまでの繋ぎだ」


「でも、お父さんは……」


 マヤが薬箱の方を見る。


 箱の底には、空になった小瓶がもう何本か残っていた。


 同じ根脈模様。


 一本ではない。


 リオはそれらを並べた。


 量も、使われた期間も、まだ正確には分からない。


 ただ、一度だけ緊急時に使った痕跡ではなかった。


「一定期間、続けて使ってる」


 リオは小瓶を一つずつ確認した。


「少なくとも、そう見える」


 リネが椅子へ座り込んだ。


「そんな薬……どうして父が」


「それを調べます」


「危ない薬なんですか」


 リオは少し考えた。


 目の前には、患者を生きたまま次の治療へ渡すために作られた薬がある。


 使い方次第では、確かに命を救う。


 それを悪いものと呼んでしまえば簡単だった。


 だが、簡単な答えほど今は危ない。


「薬が悪いんじゃない」


 リオは言った。


「使われ方がおかしい」


 マヤが黙って瓶を見つめる。


 淡い緑の薬液。


 根のような模様。


 命が抜けるのを止める薬。


 その向こうの水路では、死者たちがまだ花を咲かせている。


 ひとつの命をつなぐための薬が、死後まで作用を残したのか。


 それとも、別の何かが重なったのか。


 まだ分からない。


 リオは瓶の底を布で軽く拭った。


 泥の下から、刻印の一部が現れた。


 だが線は潰れ、名前として読むには足りなかった。


 無理にこすらず、手を止める。


「読めませんか?」


 マヤが訊く。


「読めない」


「難しい顔してます」


「今度は本当に難しい顔だよ」


 マヤは少しだけ口元を緩めた。


 ほんの一瞬だった。


 外から声が上がった。


 また一艘、根がつながったらしい。


 リオは薬瓶を布へ包み、立ち上がる。


 戸口の向こうには、昼だというのに白い花が見えた。


 死者たちは腐らない。


 花も枯れない。


 そして水の上では、土のない島が少しずつ育っていた。

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