第一節 ― 腐花群島
ルマリア大河は、海へ出る前に一度、世界をばらばらにする。
一本だった流れは河口へ近づくほど幾筋にも裂け、その隙間に泥の島をつくり、根を張らせ、さらに細い水路を生む。夕刻に根舟を降りたリオとマヤは、荷物ごと小さな平底舟へ移され、それから何度も葦と樹根の間をくぐった。
「まだ川なんですか?」
舟べりから身を乗り出したマヤが訊いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「ここまで分かれると、川と海のどっちだと言い張っても、潮の方が聞いてくれない」
「先生でも分からないこと、あるんですね」
「俺を何だと思ってる?」
「なんでも知っていて、知らないことは難しい顔で誤魔化す人です」
「訂正しておく。今のは難しい顔じゃなくて、君が落ちないか見てた顔だ」
マヤは舟べりから少しだけ身体を戻した。少しだけだったので、リオは無言で彼女の外衣の背をつまみ、さらに一掌分ほど引き寄せた。
「子ども扱いです」
「落ちそうな人間を落ちそうな人間として扱ってる」
「落ちません」
「さっき枝に頭をぶつけた」
「あれは枝が低かったんです」
「枝は謝らないぞ」
マヤが不満そうに頭をさすった。
舟を操る男が、櫂を入れたまま肩を震わせた。笑ったらしい。マヤはそれを見つけると、今度はリオを睨んだ。
「笑われました」
「俺は何もしてない」
「先生が余計なことを言うからです」
「事実しか言ってない」
そんなやり取りをしているうちに、最後の夕焼けが水の向こうへ沈んだ。
景色が変わったのは、それからだった。
頭上に、星が出た。
密林の梢に切り取られた小さな空ではなく、水路が開けた先に、夜空が大きく広がっている。黒に近い藍色の中へ、細かな星が無数に散っていた。
そして、同じものが水にもあった。
マヤが息を止める。
水面のあちこちに、青白い光が浮かんでいた。
ひとつ。
ふたつ。
数えようとしても、すぐに諦めるほど多い。
光は水に漂っているのではなかった。細長い舟の輪郭が、闇の中にゆっくり浮かび上がる。舟には白や淡紫の花が敷き詰められ、その花弁や濡れた葉が、夜の中でかすかな燐光を帯びていた。
舟は流れに逆らわない。
櫂も帆もなく、静かに、水路の奥へ運ばれていく。
その花の下に横たわる人影が見えた。
両手を胸の上に重ねた老人。
長い髪を花の間へ広げた女。
小さな布に包まれ、花籠ごと寝かされた子ども。
どの舟にも、生きている者は乗っていなかった。
岸辺の家々から、ときおり人が出てくる。
泣き叫ぶ者はいない。
舟が通ると、住民たちは立ち止まり、胸元へ手を添える。幼い子まで同じ仕草をした。誰かが短い祈りを口にし、別の誰かが白い花を一輪、水へ落とす。
花は死者舟の後ろを追い、やがて暗い流れへ溶けていった。
「……綺麗です」
マヤが言った。
囁きに近い声だった。
リオも水面を見た。
「うん」
それ以上は言わずに、しばらく舟の進む音だけを聞いた。
櫂が水を割る。
どこか遠くで夜鳥が鳴く。
湿った土と花の香りが、河口から上がってくる潮の匂いに混ざっていた。
リオは、ひとつ先を流れていく白い舟を見送ってから言った。
「でも、全部死者だ」
マヤは返事をしなかった。
綺麗だと言ったことを恥じた様子もなかった。
ただ、もう一度水の星を見つめた。
「……はい」
その声は静かだった。
美しいから死を忘れるわけでもなく、死者だから美しいものを否定するわけでもない。
少なくとも、今のマヤはそう見ているらしい。
リオはそれ以上、何も言わなかった。
白い獣の痕跡を追い始めてから、こういう土地へ来ることが増えた。
人の村より獣道の方が確かで、街道より根の裂け目の方が先へ続き、地図には何もない場所で白い毛や爪痕だけが見つかる。
今回も同じだった。
上流の湿地で見つけた白い毛。
水際に残った大きな足跡。
それがルマリアの下流へ向かっていた。
根舟で追えるのは河口まで。
その先に広がっていたのが、腐花群島だった。
無数の島、水上家屋、花葬の水路。
死者を水へ預け、花とともに送り出す土地。
それ以上のことを、リオもまだよく知らない。
知識として知るのと、夜の水面を死者が流れていくのを見るのとでは、ずいぶん違った。
「先生」
「何?」
「あれ、どこへ行くんですか」
マヤが死者舟の行く先を指した。
「島の奥らしい。水が浅くなって、根と泥の多い場所がある。そこで舟を留める」
「そのあと?」
「花葬師が見る」
「何を?」
「花が終わるまで」
マヤは眉を寄せた。
「終わる?」
「枯れるまで、ってこと」
言った直後だった。
前方で、何かが割れる音がした。
木箱か、桶か。
続いて、女の声が夜の水路に響いた。
「だから、待ってって言ってるでしょう!」
静かだった死者の水路に、あまりにも生きている声だった。
舟を操っていた男が顔を上げる。
リオもそちらを見た。
少し先に、何艘もの小舟を繋いだ大きな桟橋がある。軒の低い水上家屋が建ち、その前に死者舟が数艘留められていた。
花葬を終えた舟を管理する場所らしい。
ほとんどの舟では、花がすでに萎れていた。
白かった花弁は薄茶に変わり、水分を失って死者の胸へ伏している。根は遺体の下へ沈み、舟底には黒い泥が溜まり始めていた。
その中で、一艘だけが異様に明るい。
花が咲いている。
咲ききっているどころか、今なお新しい蕾を増やしていた。
「止めてください」
リオが言うより早く、舟は桟橋へ向きを変えた。
近づくにつれ、言い争いの声がはっきり聞こえてくる。
「規則です。花が開いた死者舟には触れられません」
「規則なんて聞いてません!」
「ここへ預けた時に説明したでしょう」
「父が死んだと思ってたからです!」
声の主は若い女だった。
濡れた板敷きの上で、二人の花葬師に食い下がっている。
髪は乱れ、片方の袖が肘までずり上がっていた。たぶん何度も舟へ手を伸ばし、そのたびに止められたのだろう。息が上がっている。
花葬師の方も困り果てていた。
「リネ、分かってくれ。あなたの父上は、こちらへ来る前に死亡の確認を受けている」
「でも、まだ温かいんです!」
「夜でも水温は高い。死後すぐなら――」
「違います!」
女――リネが、桟橋の端を指した。
そこに、花の舟があった。
リオたちが水路から見た、枯れない一艘だった。
死者は男だった。
年齢は五十を越えているように見える。頬は痩せ、顎には白い髭が混じっていた。薄い葬布を胸まで掛けられ、その上を覆うように白い花が咲いている。
胸。
肩。
脇腹。
花は死者の身体を隠すほど密集してはいない。
むしろ妙に整然としていた。
身体の線に沿って根を伸ばし、その上にひとつずつ花を置いたように見える。
近づいただけで、甘い香りがした。
熟れた果実と湿った土を混ぜたような、重い香り。
マヤが鼻先をわずかに動かした。
「……港のときより、甘い」
リオは答えず、舟の中を見た。
花葬師が彼らに気づいた。
「何者だ」
「聖獣医師です」
リオが革鞄の肩紐を直した。
それだけで、リネが振り返った。
「医者?」
「聖獣医師」
「どっちでもいいです!」
「よくはないけど、今はそれでいいです」
リネは一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、すぐにリオの腕を掴んだ。
「見てください。父なんです。ハル=セイナ。昨日の夕方に倒れて、それで、もう息がないって言われて……ここへ運ばれて……でも、おかしいんです」
「順番に聞きます」
「爪も伸びてる」
「リネさん」
「髪だって」
「一つずつ」
「花も咲いてる!」
無理だった。
リオは諦めて、話させることにした。
リネは息を継ぐ間も惜しむように舟を指した。
「昨日は、こんなに長くなかったんです。爪。髪だって朝見たら伸びてて、花も、最初は胸に少ししかなかったのに……それに」
そこで声が揺れた。
怒鳴っていた勢いが、少しだけしぼむ。
「声をかけると花が開くんです」
花葬師が目を伏せた。
リオは舟を見た。
「やってみましたか」
「何度も」
「名前を呼んだ?」
「はい」
「他の人が呼んでも?」
リネは迷った。
「……分かりません。みんな、触るなって言うから」
リオは花葬師へ目を向けた。
「試した人は?」
「いない」
「なるほど」
リネが焦れたように一歩詰めた。
「死んでる人に、そんなこと起きます?」
リオは、すぐには答えなかった。
死者に起こることを、彼は普通の医師より多く知っている。
死後に伸びて見える爪。
乾燥して引く皮膚。
残った熱。
死者の肉を床にして咲く花。
どれも、それだけなら死を覆す証拠にはならない。
だが、全部を同じ理由で片づけていいとも思えなかった。
何より、まだ身体に触れていない。
血も見ていない。
眼も、口腔も、胸郭も、花の根も確かめていない。
リオはリネの手を、自分の腕からそっと外した。
「診ます」
それだけ言って、革鞄を板敷きへ置く。
留め具を外す音に、マヤがすぐ隣へ来た。
さっきまで夜の群島を眺めていた少女の顔から、もう好奇心だけの色は消えている。
「何をします?」
「まず、死んでいるか確かめる」
花葬師の一人が顔を上げた。
「死亡確認は済んでいる」
「それは昨日の確認です」
リオは淡々と言った。
「今ここにある身体を、俺はまだ診てない」
舟へ片膝をつく。
花の香りが、近くなる。
白い花弁の下に、ハル=セイナの右手が見えていた。
確かに爪は長い。
けれど、リオの目が止まったのはそこではなかった。
指先に触れる寸前で、彼は一度だけ手を止めた。
夜の水路を、別の死者舟が静かに通り過ぎていく。
そちらの花は、もう枯れ始めていた。
ハルの舟だけが、甘い香りの中で咲き続けていた。




