↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/41

終節 ― 森から出る二人

 乳樹を離れる頃には、朝の霧がほとんど消えていた。


 濡れた葉の先から落ちる雫が陽光を弾き、森の奥では鳥の声が幾重にも重なっている。昨夜まで降りていた湿った冷気も薄れ、歩き出せばすぐ額に汗が浮きそうな朝だった。


 マヤは荷物を背負い直した。


「重いです」


「自分で持つって言っただろ」


「半分お願いしたはずです」


「交渉は成立してない」


「同行者に厳しいですね」


「昨日まで患者だったから甘やかされてただけだ」


「甘やかされた記憶がありません」


「なら問題ないな」


 リオが先に歩き出そうとする。


「待て」


 ラウ=マーナが呼び止めた。


 獣母は乳樹の根元に立っていた。


 いつものように裸足で、朝露に濡れた足へ泥をつけている。威厳ある神格の送別というより、狩りへ出るついでに声をかけたような姿だった。


 マヤが振り返る。


「何ですか?」


 ラウは自分の腰元へ手をやり、小さな毛皮片をちぎった。


 赤褐色。


 掌に収まるほどの大きさしかない。


 それを、何の前触れもなく投げる。


「わっ」


 マヤは慌てて両手で受け取った。


「投げないでください」


「取れただろ」


「そういう問題では」


「持っとけ」


 マヤは毛皮片を見る。


 柔らかい。


 陽に当てると、一本一本の毛の先だけ少し黒い。


「何ですか?」


「帰ってきてもいいって印だ」


 マヤの指が止まった。


 ラウはそれ以上、ありがたい言葉を加えなかった。


 加護でも祝福でもない。


 祈りもない。


 ただ、小さな毛皮だけ。


 けれどマヤはしばらく、それを見つめていた。


「……帰ってきても?」


「ああ」


「花が増えてても?」


「見れば分かる」


「獣っぽくなってても?」


「今さらだろ」


「わたし、今そんなに獣っぽいです?」


「少し」


 マヤが自分の耳を触る。


「先生」


「俺に聞くな」


「否定してください」


「牙は少し尖ってる」


「先生まで」


 ラウが鼻を鳴らした。


「人間のままでも来い。違うものになってても来い。腹が減ってるならなおさら来い」


「そこは大事なんですね」


「大事だ」


 マヤは毛皮片を胸元へしまった。


 大事な物を仕舞う時の手つきだった。


 リオは横からそれを見る。


 三か月前、マヤには帰る場所がなかった。


 少なくとも、本人がそう思える場所は。


 神殿へ戻れば聖女として祈られる。


 供物だった場所へ戻れば、また役割の名で呼ばれる。


 だからリオの旅についてきた。


 それが今、一つ増えた。


 ここへ帰ってきてもいい。


 たったそれだけの約束が、妙に大きく見えた。


「なくすなよ」


 リオが言う。


「先生に言われなくても大事にします」


「旅先で変なもの拾って荷物に埋もれさせるだろ」


「あれは変なものじゃありません」


「猿に投げられた木の実も持ってたな」


「記念です」


「捨てろ」


「嫌です」


「腐るぞ」


「もう乾いてます」


「いつ乾かした」


「昨日」


 リオは問い詰めるのを諦めた。


 少し離れたところから、声が飛んでくる。


「マヤ!」


 トアだった。


 エナと並んで、森へ続く道の入口に立っている。


 三日後の再診までは村にいると言っていたはずだが、二人で見送りに来たらしい。


 トアの耳は、そのままだった。


 髪の間から尖って出ている。


 笑えば牙も見える。


 瞳は金色。


 腰には、昨日ラウからもらった毛皮片が結ばれていた。


「行くの?」


「はい」


 マヤが近づく。


「先生ともう少し旅します」


「また森来る?」


「来たいです」


「じゃあ次は木登り教える」


「それはちょっと」


「昨日、見たいって言ってたじゃん」


「見るのと登るのは違います」


「怖いの?」


「落ちるのが嫌です」


「同じじゃん」


「先生、何か言ってください」


「俺も登らない」


「先生まで弱いなあ」


 トアが笑う。


 その耳を、エナは隠そうとしなかった。


 頭巾も被せていない。


 以前なら周囲の目を気にしていたのかもしれない。


 今はただ、息子の横に立っている。


「先生」


 エナが頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


「まだ終わってません」


 リオはすぐに返す。


「三日後に再診。それまでは急な発熱、声が出にくくなる、脚の痛みが急に強くなる、そのどれかが出たら森でも村でも誰か呼んでください」


「はい」


「食事は多めに。今は代謝が高い」


 トアが嬉しそうに母を見る。


「ほら」


「好きなだけ食べていいとは言われてないからね」


「先生」


「エナさんが正しい」


「医者って患者の味方じゃないの?」


「身体の味方だ」


「ずるい」


 トアが不満そうに耳を伏せる。


 エナはその姿を見て笑った。


 その笑いを見て、トアも笑う。


 マヤは二人を眺めていた。


 元の姿ではない。


 治療前の状態でもない。


 ただ、今のトアが母親の横に立っている。


「ちゃんと帰ってきてね」


 エナが言う。


「森へ行った時は」


 トアは少し照れたように鼻を擦った。


「うん」


 もう一度。


「帰るよ」


 それで十分だった。


 リオがそろそろ出ようとした時、視界の端に人影があった。


 乳樹から少し離れた木陰。


 エラが立っている。


 白毛の腕。


 樹皮へ変わった肌。


 頬から首に咲いた花。


 遠い。


 リオは足を止めたが、近づかなかった。


 別れを言うために近づくことも。


 謝るために近づくことも。


 今の自分には、どちらも違う気がした。


 エラが自分から来ないなら。


 それでいい。


 昨日、やっと待つことを覚えた。


 別れの時まで、それを破る理由はない。


 エラは静かにリオを見ていた。


 やがて、片手を上げる。


 親指と中指。


 ぱち。


 一度。


 ぱち。


 二度。


 ぱち。


 三度。


 リオは動かなかった。


 指を鳴らした意味は分からない。


 別れなのか。


 昨日の続きなのか。


 ただの癖なのか。


 決めつけない。


 それでも。


 リオは右手を上げた。


 慣れていないせいで、一度目は少し鈍い音になった。


 ぱち。


 二度目。


 ぱち。


 三度目。


 ぱち。


 エラの頬に咲く花が、風に揺れた。


 リオは手を下ろす。


 謝罪はしなかった。


 赦してほしいとも言わなかった。


 エラも何も返さない。


 ただ、それだけだった。


 今は、それだけでよかった。


「先生」


 少し先でマヤが待っている。


「置いていきますよ」


「誰の荷物を持ってると思ってる」


「先生、自分のしか持ってません」


「君が持つって言った」


「まだその話してるんですか」


 リオはエラから視線を外した。


「ああ。行こう」


 二人が歩き始めて、乳樹の大きな根を回り込んだ時だった。


 マヤが足を止めた。


「先生」


「今度は何だ」


「これ」


 声の調子が違う。


 リオも立ち止まる。


 乳樹の根と根の間。


 湿った黒土の上に、小さな白い花が咲いていた。


 珍しいものではない。


 この森には白い花などいくらでもある。


 だが、そのすぐ横。


 もう一輪。


 白い花弁の縁だけが、墨を落としたように黒く枯れていた。


 マヤの手が背中へ回る。


 花痕が熱を持ったらしい。


 リオはしゃがみ込んだ。


 花へ直接触れず、周囲の土を見る。


 あった。


 大きな蹄跡。


 鹿のものに似ている。


 だが大きすぎる。


 細く、深く、美しいほど整った白い跡。


 ラウ=マリカから追い続けてきたものだ。


「ここにも来てた」


 マヤが小さく言う。


 リオは立ち上がらず、次の痕跡を探す。


 一歩先。


 蹄。


 さらに一歩。


 蹄。


 ところが、乳樹から森の奥へ離れるにつれて形が崩れた。


 蹄の縁から、細い筋が伸びている。


 次の足跡では、それがはっきり爪になった。


 大型獣の前脚のような跡。


 広い肉球。


 深く地面へ食い込む爪。


 同じものが歩いたとは思えない。


 それでも歩幅も方向も一致している。


「また変わってる」


 マヤが隣へしゃがむ。


「最初に見た時より、はっきりしてますね」


「ああ」


「どっちが本当の足なんでしょう」


「どっちもかもしれない」


「そんな獣います?」


「普通はいない」


「普通じゃないんでしょうね」


「たぶんな」


 背後で、ラウ=マーナの足音がした。


 獣母は二人の横まで来ると、足跡を見た。


 さっきまでの気の抜けた顔ではなかった。


 耳が立っている。


 瞳が細くなる。


「そいつを追ってるのか」


 リオが振り返る。


「知ってるのか」


「知らん」


 即答だった。


「知らないのに、その顔?」


 マヤが訊く。


 ラウは答えず、片膝をつく。


 黒く枯れた縁を持つ花へ鼻を近づける。


 土。


 葉。


 蹄跡。


 さらに爪痕。


 一つずつ匂いを取る。


 獣母の表情が少しずつ硬くなった。


「古い血の匂いだ」


 リオの目が細くなる。


「血?」


「ああ」


「ここには血痕はない」


「今流れた血じゃない」


 ラウは足跡を見たまま言う。


「身体に染みついてる」


 マヤが白い花を見る。


 花弁の先だけが黒い。


 ラウ=マリカで、白い獣を見た夜。


 ラウ=マリカで見たものと同じ。


「どんな獣ですか?」


 ラウはしばらく答えなかった。


 森を見る。


 足跡は木々の間へ続いている。


 さらに深く。


 人の道から外れた方角へ。


「分からん」


 ラウが言う。


「鹿みたいな足もある。獣の爪もある。血の匂いもする」


「じゃあ、群れを探してるんですか?」


 マヤの胸元には、さっきもらった毛皮片がある。


 帰ってきてもいいという印。


 だから思いついた問いだった。


 ラウは首を横へ振った。


「違う」


 声が低くなる。


「群れを探して歩く匂いじゃない」


 マヤが足跡の先を見る。


「じゃあ?」


 少し間があった。


 風が森を抜ける。


 白い花が揺れる。


 黒く枯れた縁だけが、乾いた音を立てた。


 ラウ=マーナは、遠ざかっていく痕跡を見るように目を細めた。


「何かを背負って歩いてる匂いだ」


 マヤの胸の奥で。


 どくん、と。


 いつもの心臓より少し遅れて、もう一つの鼓動が鳴った。


 一度だけ。


 マヤは胸を押さえる。


「マヤ?」


 リオがすぐに気づく。


「……今」


「何だ」


「もう一個の方、鳴った気がします」


 リオの顔が変わる。


 すぐに診ようと手を伸ばしかけて、止めた。


 マヤは痛がっていない。


 息も乱れていない。


 ただ森の奥を見ている。


「痛いか」


「いいえ」


「熱は?」


 マヤは背中を確かめる。


「少し」


 リオは足跡を見る。


 マヤを見る。


 もう一度、足跡を見る。


「追う?」


 マヤが訊いた。


「今すぐは追わない」


「どうしてです?」


「トアの再診が三日後だ」


「あ」


「患者を放り出して謎の獣を追う医者に見えるか」


 マヤは少し考えた。


「たまに見えます」


「どういう意味だ」


「そのままの意味です」


「昨日と同じこと言うな」


 マヤが笑う。


 胸の不思議な鼓動は、もう聞こえない。


 いつもの心臓だけが動いている。


「じゃあ三日後までサハ=ネ?」


「経過を見てから、また川へ出る」


「次はどこですか?」


「まだ決めてない」


「食べ物がおいしいところがいいです」


「君はそればっかりだな」


「旅先では大事です」


「知ってる」


 二人はもう一度、乳樹を振り返った。


 ラウ=マーナ。


 群れ。


 エラ。


 少し離れたところで、トアとエナもこちらを見ている。


 マヤは胸元の毛皮へ触れた。


 ここには帰ってきてもいい。


 それを確かめてから、森の外へ向き直る。


 白い獣の足跡は、二人が向かう道とは別の方角へ続いていた。


 蹄。


 爪。


 白い花。


 黒く枯れた縁。


 そして、古い血の匂い。


 今は追わない。


 けれど、いずれまた出会う。


 そんな気がした。


「先生」


「何だ」


「次に根舟乗る時、大きい魚また見られますかね」


「知らん」


「今度は濡れない席がいいです」


「そんな席はない」


「先生が盾になれば」


「同行者になった途端、扱いが雑だな」


「信頼です」


「便利な言葉を覚えたな」


 森を抜ける道へ、二人の声が遠ざかっていく。


 重い荷物を背負い。


 まだ分からないものをいくつも抱え。


 それでも、足取りだけは少し軽く。


 二人は森の外へ歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。