終節 ― 森から出る二人
乳樹を離れる頃には、朝の霧がほとんど消えていた。
濡れた葉の先から落ちる雫が陽光を弾き、森の奥では鳥の声が幾重にも重なっている。昨夜まで降りていた湿った冷気も薄れ、歩き出せばすぐ額に汗が浮きそうな朝だった。
マヤは荷物を背負い直した。
「重いです」
「自分で持つって言っただろ」
「半分お願いしたはずです」
「交渉は成立してない」
「同行者に厳しいですね」
「昨日まで患者だったから甘やかされてただけだ」
「甘やかされた記憶がありません」
「なら問題ないな」
リオが先に歩き出そうとする。
「待て」
ラウ=マーナが呼び止めた。
獣母は乳樹の根元に立っていた。
いつものように裸足で、朝露に濡れた足へ泥をつけている。威厳ある神格の送別というより、狩りへ出るついでに声をかけたような姿だった。
マヤが振り返る。
「何ですか?」
ラウは自分の腰元へ手をやり、小さな毛皮片をちぎった。
赤褐色。
掌に収まるほどの大きさしかない。
それを、何の前触れもなく投げる。
「わっ」
マヤは慌てて両手で受け取った。
「投げないでください」
「取れただろ」
「そういう問題では」
「持っとけ」
マヤは毛皮片を見る。
柔らかい。
陽に当てると、一本一本の毛の先だけ少し黒い。
「何ですか?」
「帰ってきてもいいって印だ」
マヤの指が止まった。
ラウはそれ以上、ありがたい言葉を加えなかった。
加護でも祝福でもない。
祈りもない。
ただ、小さな毛皮だけ。
けれどマヤはしばらく、それを見つめていた。
「……帰ってきても?」
「ああ」
「花が増えてても?」
「見れば分かる」
「獣っぽくなってても?」
「今さらだろ」
「わたし、今そんなに獣っぽいです?」
「少し」
マヤが自分の耳を触る。
「先生」
「俺に聞くな」
「否定してください」
「牙は少し尖ってる」
「先生まで」
ラウが鼻を鳴らした。
「人間のままでも来い。違うものになってても来い。腹が減ってるならなおさら来い」
「そこは大事なんですね」
「大事だ」
マヤは毛皮片を胸元へしまった。
大事な物を仕舞う時の手つきだった。
リオは横からそれを見る。
三か月前、マヤには帰る場所がなかった。
少なくとも、本人がそう思える場所は。
神殿へ戻れば聖女として祈られる。
供物だった場所へ戻れば、また役割の名で呼ばれる。
だからリオの旅についてきた。
それが今、一つ増えた。
ここへ帰ってきてもいい。
たったそれだけの約束が、妙に大きく見えた。
「なくすなよ」
リオが言う。
「先生に言われなくても大事にします」
「旅先で変なもの拾って荷物に埋もれさせるだろ」
「あれは変なものじゃありません」
「猿に投げられた木の実も持ってたな」
「記念です」
「捨てろ」
「嫌です」
「腐るぞ」
「もう乾いてます」
「いつ乾かした」
「昨日」
リオは問い詰めるのを諦めた。
少し離れたところから、声が飛んでくる。
「マヤ!」
トアだった。
エナと並んで、森へ続く道の入口に立っている。
三日後の再診までは村にいると言っていたはずだが、二人で見送りに来たらしい。
トアの耳は、そのままだった。
髪の間から尖って出ている。
笑えば牙も見える。
瞳は金色。
腰には、昨日ラウからもらった毛皮片が結ばれていた。
「行くの?」
「はい」
マヤが近づく。
「先生ともう少し旅します」
「また森来る?」
「来たいです」
「じゃあ次は木登り教える」
「それはちょっと」
「昨日、見たいって言ってたじゃん」
「見るのと登るのは違います」
「怖いの?」
「落ちるのが嫌です」
「同じじゃん」
「先生、何か言ってください」
「俺も登らない」
「先生まで弱いなあ」
トアが笑う。
その耳を、エナは隠そうとしなかった。
頭巾も被せていない。
以前なら周囲の目を気にしていたのかもしれない。
今はただ、息子の横に立っている。
「先生」
エナが頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「まだ終わってません」
リオはすぐに返す。
「三日後に再診。それまでは急な発熱、声が出にくくなる、脚の痛みが急に強くなる、そのどれかが出たら森でも村でも誰か呼んでください」
「はい」
「食事は多めに。今は代謝が高い」
トアが嬉しそうに母を見る。
「ほら」
「好きなだけ食べていいとは言われてないからね」
「先生」
「エナさんが正しい」
「医者って患者の味方じゃないの?」
「身体の味方だ」
「ずるい」
トアが不満そうに耳を伏せる。
エナはその姿を見て笑った。
その笑いを見て、トアも笑う。
マヤは二人を眺めていた。
元の姿ではない。
治療前の状態でもない。
ただ、今のトアが母親の横に立っている。
「ちゃんと帰ってきてね」
エナが言う。
「森へ行った時は」
トアは少し照れたように鼻を擦った。
「うん」
もう一度。
「帰るよ」
それで十分だった。
リオがそろそろ出ようとした時、視界の端に人影があった。
乳樹から少し離れた木陰。
エラが立っている。
白毛の腕。
樹皮へ変わった肌。
頬から首に咲いた花。
遠い。
リオは足を止めたが、近づかなかった。
別れを言うために近づくことも。
謝るために近づくことも。
今の自分には、どちらも違う気がした。
エラが自分から来ないなら。
それでいい。
昨日、やっと待つことを覚えた。
別れの時まで、それを破る理由はない。
エラは静かにリオを見ていた。
やがて、片手を上げる。
親指と中指。
ぱち。
一度。
ぱち。
二度。
ぱち。
三度。
リオは動かなかった。
指を鳴らした意味は分からない。
別れなのか。
昨日の続きなのか。
ただの癖なのか。
決めつけない。
それでも。
リオは右手を上げた。
慣れていないせいで、一度目は少し鈍い音になった。
ぱち。
二度目。
ぱち。
三度目。
ぱち。
エラの頬に咲く花が、風に揺れた。
リオは手を下ろす。
謝罪はしなかった。
赦してほしいとも言わなかった。
エラも何も返さない。
ただ、それだけだった。
今は、それだけでよかった。
「先生」
少し先でマヤが待っている。
「置いていきますよ」
「誰の荷物を持ってると思ってる」
「先生、自分のしか持ってません」
「君が持つって言った」
「まだその話してるんですか」
リオはエラから視線を外した。
「ああ。行こう」
二人が歩き始めて、乳樹の大きな根を回り込んだ時だった。
マヤが足を止めた。
「先生」
「今度は何だ」
「これ」
声の調子が違う。
リオも立ち止まる。
乳樹の根と根の間。
湿った黒土の上に、小さな白い花が咲いていた。
珍しいものではない。
この森には白い花などいくらでもある。
だが、そのすぐ横。
もう一輪。
白い花弁の縁だけが、墨を落としたように黒く枯れていた。
マヤの手が背中へ回る。
花痕が熱を持ったらしい。
リオはしゃがみ込んだ。
花へ直接触れず、周囲の土を見る。
あった。
大きな蹄跡。
鹿のものに似ている。
だが大きすぎる。
細く、深く、美しいほど整った白い跡。
ラウ=マリカから追い続けてきたものだ。
「ここにも来てた」
マヤが小さく言う。
リオは立ち上がらず、次の痕跡を探す。
一歩先。
蹄。
さらに一歩。
蹄。
ところが、乳樹から森の奥へ離れるにつれて形が崩れた。
蹄の縁から、細い筋が伸びている。
次の足跡では、それがはっきり爪になった。
大型獣の前脚のような跡。
広い肉球。
深く地面へ食い込む爪。
同じものが歩いたとは思えない。
それでも歩幅も方向も一致している。
「また変わってる」
マヤが隣へしゃがむ。
「最初に見た時より、はっきりしてますね」
「ああ」
「どっちが本当の足なんでしょう」
「どっちもかもしれない」
「そんな獣います?」
「普通はいない」
「普通じゃないんでしょうね」
「たぶんな」
背後で、ラウ=マーナの足音がした。
獣母は二人の横まで来ると、足跡を見た。
さっきまでの気の抜けた顔ではなかった。
耳が立っている。
瞳が細くなる。
「そいつを追ってるのか」
リオが振り返る。
「知ってるのか」
「知らん」
即答だった。
「知らないのに、その顔?」
マヤが訊く。
ラウは答えず、片膝をつく。
黒く枯れた縁を持つ花へ鼻を近づける。
土。
葉。
蹄跡。
さらに爪痕。
一つずつ匂いを取る。
獣母の表情が少しずつ硬くなった。
「古い血の匂いだ」
リオの目が細くなる。
「血?」
「ああ」
「ここには血痕はない」
「今流れた血じゃない」
ラウは足跡を見たまま言う。
「身体に染みついてる」
マヤが白い花を見る。
花弁の先だけが黒い。
ラウ=マリカで、白い獣を見た夜。
ラウ=マリカで見たものと同じ。
「どんな獣ですか?」
ラウはしばらく答えなかった。
森を見る。
足跡は木々の間へ続いている。
さらに深く。
人の道から外れた方角へ。
「分からん」
ラウが言う。
「鹿みたいな足もある。獣の爪もある。血の匂いもする」
「じゃあ、群れを探してるんですか?」
マヤの胸元には、さっきもらった毛皮片がある。
帰ってきてもいいという印。
だから思いついた問いだった。
ラウは首を横へ振った。
「違う」
声が低くなる。
「群れを探して歩く匂いじゃない」
マヤが足跡の先を見る。
「じゃあ?」
少し間があった。
風が森を抜ける。
白い花が揺れる。
黒く枯れた縁だけが、乾いた音を立てた。
ラウ=マーナは、遠ざかっていく痕跡を見るように目を細めた。
「何かを背負って歩いてる匂いだ」
マヤの胸の奥で。
どくん、と。
いつもの心臓より少し遅れて、もう一つの鼓動が鳴った。
一度だけ。
マヤは胸を押さえる。
「マヤ?」
リオがすぐに気づく。
「……今」
「何だ」
「もう一個の方、鳴った気がします」
リオの顔が変わる。
すぐに診ようと手を伸ばしかけて、止めた。
マヤは痛がっていない。
息も乱れていない。
ただ森の奥を見ている。
「痛いか」
「いいえ」
「熱は?」
マヤは背中を確かめる。
「少し」
リオは足跡を見る。
マヤを見る。
もう一度、足跡を見る。
「追う?」
マヤが訊いた。
「今すぐは追わない」
「どうしてです?」
「トアの再診が三日後だ」
「あ」
「患者を放り出して謎の獣を追う医者に見えるか」
マヤは少し考えた。
「たまに見えます」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「昨日と同じこと言うな」
マヤが笑う。
胸の不思議な鼓動は、もう聞こえない。
いつもの心臓だけが動いている。
「じゃあ三日後までサハ=ネ?」
「経過を見てから、また川へ出る」
「次はどこですか?」
「まだ決めてない」
「食べ物がおいしいところがいいです」
「君はそればっかりだな」
「旅先では大事です」
「知ってる」
二人はもう一度、乳樹を振り返った。
ラウ=マーナ。
群れ。
エラ。
少し離れたところで、トアとエナもこちらを見ている。
マヤは胸元の毛皮へ触れた。
ここには帰ってきてもいい。
それを確かめてから、森の外へ向き直る。
白い獣の足跡は、二人が向かう道とは別の方角へ続いていた。
蹄。
爪。
白い花。
黒く枯れた縁。
そして、古い血の匂い。
今は追わない。
けれど、いずれまた出会う。
そんな気がした。
「先生」
「何だ」
「次に根舟乗る時、大きい魚また見られますかね」
「知らん」
「今度は濡れない席がいいです」
「そんな席はない」
「先生が盾になれば」
「同行者になった途端、扱いが雑だな」
「信頼です」
「便利な言葉を覚えたな」
森を抜ける道へ、二人の声が遠ざかっていく。
重い荷物を背負い。
まだ分からないものをいくつも抱え。
それでも、足取りだけは少し軽く。
二人は森の外へ歩いていった。




