第十一節 ― ここへ残れ
朝の乳樹には、夜とは違う騒がしさがあった。
枝の高いところでは色鮮やかな鳥が鳴き、根元では大鍋に残った昨夜の煮込みが温め直されている。子どもたちは起きたそばから走り回り、翼膜のある少女が干していた布を回収し、その横で角のある男が寝ぼけた顔のまま薪を割っていた。
「起きたなら食え」
ラウ=マーナに言われ、マヤは素直に木椀を受け取った。
「いただきます」
「朝からよく食うな」
診療鞄の中身を確かめていたリオが言う。
マヤは匙を止めた。
「食べろと言ったのはラウ=マーナ様です」
「量の話だ」
「昨日たくさん歩きました」
「果物も四個食べた」
「別腹です」
「便利だな、その腹」
マヤは気にせず煮込みを口へ運んだ。
森の獣肉は少し癖があったが、香草の辛みと乳樹の樹液のほのかな甘さがよく合っている。昨日までなら、こんな知らない料理を口にする前に少しは迷ったかもしれない。
たぶん。
ほんの少しくらいは。
「先生も食べます?」
「食べた」
「いつの間に」
「君が二杯目をもらってる間に」
マヤは自分の椀を見る。
「これはまだ一杯目です」
「器が変わっただけだろ」
「よく見てますね」
「患者だからな」
いつものように返されて、マヤは匙を動かしかけた。
それから、少しだけ目を上げる。
患者。
三か月前から、何度も聞いた言葉だった。
嫌いではない。
むしろ、その言葉に救われたことをマヤは知っている。
聖女でもなく。
奇跡でもなく。
供物でもなく。
最初に自分を患者と呼んだのは、リオだった。
けれど、この森では誰もマヤを患者と呼ばなかった。
祈る者もいない。
花を見せてほしいと頼む者もいない。
昨夜、着替えている時に背中の花痕を半獣の子どもに見られたが、「綺麗だな」と言われただけだった。その子自身、腕に柔らかな獣毛が生えていたから、それ以上興味を持たなかったらしい。
マヤにとって、その無関心は不思議なくらい心地よかった。
「娘」
横から声がした。
マヤは椀を抱えたまま振り向く。
「マヤです」
「そうだった」
「そろそろ覚えてください」
「匂いで分かる」
「名前でお願いします」
ラウ=マーナは面倒そうに耳を動かした。
「マヤ」
「はい」
「おまえも残れるぞ」
匙が止まった。
リオも動きを止めた。
ほんの一瞬。
診療鞄へ薬瓶を収めていた手が止まり、それから何事もなかったように蓋を閉じる。
「……わたしも?」
「ああ」
ラウは乳樹の根へ腰を下ろした。
朝から狩りへ出ていたらしく、裸足にはまだ泥がついている。
「ここなら、おまえに祈る奴はいない」
マヤの表情が少し変わった。
「花が出ても騒がん。耳が尖ろうが、牙が伸びようが、誰も人間へ戻れとは言わん」
ラウは周囲を見回す。
樹皮の腕で洗濯物を畳む者。
尾を子どもに引っ張られて怒っている女。
角へ籠を引っかけて運んでいる男。
昨日マヤへ果実をくれたエラもいた。
乳樹の根へ座り、橙色の果実をゆっくり食べている。
こちらへ気づいたのか、頬から首へ咲いた花が風に触れたように微かに揺れた。
「供物だの聖女だのと呼ぶ奴もいない」
ラウが続ける。
「おまえはおまえのままでいればいい」
マヤは、すぐには答えなかった。
自分の胸へ手を置く。
二ついる。
昨日、ラウはそう言った。
一つは娘。
もう一つは根。
その正体すら、この場所では無理に知る必要がないのかもしれない。
花が増えても。
獣の徴が濃くなっても。
人ではない何かへ近づいても。
少なくとも、ここでは隠さなくていい。
マヤは乳樹を見上げた。
巨大な枝が朝の光を受け、その隙間から青空が覗いている。
ここへ来てから、不思議と背中の痕を隠すことを忘れている時間が多かった。
誰かの視線を気にせず食べて。
子どもたちと話して。
初めて見る果物を食べて。
ラウ=マーナに胸へ耳を当てられた時だけは、別の意味でかなり気にしたが。
「その医者についていく義理もない」
ラウが言った。
マヤの視線が、リオへ向く。
リオは診療鞄の留め具を締めている。
こちらを見なかった。
何も言わない。
「先生?」
「何だ」
ようやく顔を上げる。
「何か言わないんですか?」
「何を」
「例えば……」
マヤは少し考えた。
「行くぞ、とか」
リオの目がわずかに動いた。
「言わない」
「どうしてです?」
「残りたいなら残ればいい」
声はいつもと変わらない。
少し低く、愛想もあまりなく、余計なことを言わない。
だからマヤには分からなかった。
その言葉を口にするまでに、リオが診療鞄の革紐を必要以上に強く握っていたことには。
リオ自身も、それに気づいてから指を離した。
残れる。
ラウの言う通りだ。
ここならマヤは祈られない。
聖女にもされない。
変わり続ける身体を隠す必要もない。
昨夜見つかった二つ目の脈についてさえ、群れの者たちは騒がなかった。
安全という意味なら。
自分と旅を続けるより、ずっといいのかもしれない。
リオの旅には、病人がいる。
疫病もある。
神格の異常もある。
ラウ=マリカでは、死者の胸から白い花が咲いた。
今回は森の奥まで変異した少年を追った。
これから何が起こるのか、リオにも分からない。
マヤを連れていく理由ならいくらでもあった。
身体を診る必要がある。
二つ目の脈も調べなければならない。
白い獣の痕跡とマヤの花痕が反応している可能性もある。
医師としてなら、言える。
患者だから来い、と。
だが、それを今ここで使えば。
マヤがここへ残るという選択を、自分の都合で狭める。
エラの『もういい』を、自分の『助けたい』で上書きしたのと、形は違っても同じことをするかもしれない。
だから言えなかった。
来い。
そんな短い言葉が、妙に喉へ引っかかっている。
「ここに残れば、俺が診られなくなる」
結局、出たのはそれだった。
「必要ならまた来る」
ラウがすぐに答える。
「私が匂いも見る」
「お前は診察が雑だ」
「生きてるか死んでるかは分かる」
「その間が大事なんだ」
「細かいな、医者」
「医者だからな」
いつものやり取りをしても、胸の奥にあるものは消えなかった。
マヤが、本当に残るかもしれない。
その考えが形になった途端、リオは自分でも驚くほど落ち着かなかった。
三か月前。
祭壇の上で見つけた少女。
熱を出し。
傷に花を咲かせ。
自分のことになるとすぐ「大丈夫です」と言って誤魔化し。
旅先では知らないものを食べようとする。
危ないから触るなと言えば触る。
毒かもしれないと言えば、自分には医者がいると言う。
朝起きれば、隣にいる。
道を歩けば、後ろからついてくる。
診療鞄を開けば、頼んでもいないのに覗き込んでくる。
いつの間にか、それを当たり前だと思っていた。
患者だから。
そう思っていただけのはずだった。
「先生」
マヤの声で、リオは我に返る。
「何だ」
「怖い顔してます」
「元からだ」
「それ、便利ですね」
「ラウが言い始めただけだ」
マヤは少し笑った。
それから、乳樹を見た。
「ここ、好きです」
ラウ=マーナが頷く。
「なら残れ」
簡単な返事だった。
押しつけるでもなく。
歓迎の言葉を重ねるでもない。
ただ、残ればいいと言う。
マヤは黙った。
風が吹く。
乳樹の葉が重なり、大きな海のような音を立てた。
視線を巡らせる。
昨日トアと遊んでいた子どもが、木の根を駆けている。
鍋の前では朝食の取り分を巡って誰かが揉めている。
エラが橙色の果実を食べ終え、種を丁寧に布へ包んでいた。
誰もマヤを見ていない。
見張られていない。
祈られていない。
それが、こんなに楽なのだと初めて知った。
本当にここへ残ってもいい。
そう思えた。
だからこそ。
今度の選択は、誰かに決められたものではなかった。
マヤは最後にリオを見る。
診療鞄を持った男が立っている。
何も言わず。
何も求めず。
待っている。
三か月前と同じだった。
あの日も、名前を答えるまで待っていた。
「でも」
マヤが口を開く。
「もう少し先生と行きます」
リオの表情は変わらなかった。
少なくとも、マヤにはそう見えた。
「そうか」
短い。
「それだけです?」
「何を期待してる」
「もう少し喜ぶとか」
「患者がついてくるだけだろ」
「今それ言います?」
「事実だ」
マヤは頬を膨らませた。
だがリオは、診療鞄を持ち直す時に視線を逸らした。
口元がほんの少し緩んだのを、見られたくなかった。
「理由は?」
ラウが訊いた。
マヤは自分の胸へ手を当てた。
昨日、二つ目の鼓動があると言われた場所。
それから肩へ触れる。
花の徴。
自分の中には、知らないことが多すぎる。
「わたし、自分が何なのか知りたいです」
ラウの耳が動く。
「人間だぞ」
「昨日そう言ったあと、すぐ『二ついる』って言ったじゃないですか」
「そうだったな」
「安心させてから怖いこと言うの、やめてください」
「聞こえた順に言っただけだ」
「もう少し順番を考えてほしいです」
ラウは肩をすくめた。
マヤは自分の手を見る。
普通の少女の手。
傷つけば、そこから花が咲くことがある。
祈られれば身体が反応する。
死ぬはずだったのに、死ななかった。
その中で、知らない脈がもう一つ動いている。
「だから、もう少し見てみたいです」
「何を」
「外を」
マヤは森の向こうを見る。
ラウ=マリカから川を上り、初めて見た巨大魚。
色鮮やかな鳥。
木の実を投げてきた猿。
対岸の赤豹。
人の頭ほどもある果実。
そして、この森。
「わたし、自分のことも知らないですけど」
少し笑う。
「世界のことも、全然知らなかったので」
リオは黙って聞いていた。
その言葉は、医師へ向けた患者の答えではなかった。
十四歳の少女が、自分で次に行く場所を選ぼうとしている。
「それに」
マヤがリオを見る。
少しだけ悪い顔をした。
「先生、一人にすると変なことしそうなので」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「俺が何をする」
「患者さんのためなら、ご飯を忘れるとか」
「忘れない」
「昨日、昼を食べたの夕方でした」
「治療中だった」
「夜も寝ないとか」
「必要なら寝る」
「必要じゃなくても寝てください」
「君は医者か」
「助手です」
「給料払ってないんじゃなかったのか」
「今のところ無給の助手です」
「勝手に正式採用するな」
「では旅の同行者でもいいです」
リオが言葉を止める。
マヤ自身も、口にしてから一度瞬きをした。
「……同行者」
「何だ」
「いえ」
少し考えて、頷く。
「それがいいです」
「勝手に決めるな」
「駄目ですか?」
リオは答えようとして、やめた。
駄目な理由などなかった。
むしろ。
「荷物は自分で持て」
「そこですか?」
「同行者なら当然だ」
「患者の時は先生が持ってくれましたよ」
「元気な時まで持つとは言ってない」
「急に待遇が悪くなりました」
「なら患者に戻るか?」
「それは嫌です」
即答だった。
リオは少しだけ笑った。
「じゃあ持て」
「……半分お願いします」
「交渉するな」
「同行者なので」
ラウ=マーナが二人を見ている。
呆れているのか、面白がっているのか、その顔からは分からない。
「決まったか」
「はい」
マヤが答える。
リオではない。
自分で。
「もう少し行ってきます」
ラウは頷いた。
「好きにしろ」
「ラウ=マーナ様」
「何だ」
「ここへ来てもいいですか。また」
獣母は一瞬だけマヤを見た。
「さっき残れると言っただろ」
「今じゃなくても?」
「群れは、逃げん」
それだけだった。
マヤは笑った。
「はい」
リオが診療鞄を肩へ掛ける。
「行くぞ」
「あ」
マヤがすぐに自分の荷物を持ち上げる。
「先生」
「何だ」
「今、『行くぞ』って言いました」
リオの足が止まった。
「それが?」
「さっきは言わないって」
「話が決まったあとだ」
「嬉しそうですね」
「どこが」
「少し」
「気のせいだ」
「そういうことにしておきます」
「うるさい」
マヤは笑いながら、その隣へ並んだ。
三か月前は、リオが歩けばついていった。
患者として。
治療のために。
行く場所を知らないまま。
今日は違った。
残れる場所を知った上で、それでも森の外へ向かう。
リオに連れていかれるのではない。
自分で、同じ道を選んだ。
二人は並んで、乳樹の下を歩き出した。




