第十節 ― 先生の失敗
夜の乳樹は、昼間よりもずっと大きく見えた。
白い樹液が幹の裂け目をゆっくり伝い、月明かりを受けて淡く光っている。昼間は子どもの声や鍋を叩く音に埋もれていた虫の声が、今は森の奥から幾重にも重なって聞こえていた。
トアとエナは、日が沈む前にサハ=ネへ帰った。
尖った耳も、牙も、金色の目も、そのままで。
村人たちは最後までどこか落ち着かない顔をしていたが、持ってきた縄を使う者はいなかった。
リオは三日後の再診を約束し、変化が急に進んだ場合の注意だけをエナへ伝えた。
それ以上は言わなかった。
今日一日で、話すには十分すぎるほど話した。
「先生」
火の向こうからマヤが呼んだ。
「何だ」
「これ、もう一個食べてもいいですか?」
リオは顔を上げる。
マヤの手には、夕食で出た果実があった。
淡い橙色。
エラが選んだものと同じ果実だ。
「さっき二個食べなかったか」
「数えてたんですか?」
「目の前にいたからな」
「三個目から毒になるとか?」
「ならない」
「では問題ありません」
「訊いた意味は?」
「許可を取ったという実績です」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
マヤは満足そうに皮を剥いた。
一口齧ると、甘酸っぱい香りが焚き火の煙に混じる。
旅を始めた頃なら、食べたことのない実を平然と口へ運ぶ彼女を止めていた。
今でも止めるが、止めても食べることは分かってきた。
リオは膝の上の診療記録へ視線を戻す。
トア。
十一歳。
肺機能は維持。
発声器官の急速変化は一時的に鎮静。
骨格変異も減速。
嗅覚、夜目、耳、牙、爪、筋力――本人の希望により維持。
紙の上だけ見れば、治療はうまくいったように読める。
だからリオは、その頁を閉じた。
「先生」
また呼ばれる。
「今度は何個目だ」
「まだ三個目です」
「まだ、って言うな」
「違います。果物の話じゃありません」
マヤは食べかけの実を両手で持ったまま、リオを見ていた。
さっきまでとは目が違う。
リオは記録帳を脇へ置いた。
「何だ」
「エラさんのこと、聞いてもいいですか」
指先が止まった。
森の奥で、大きな葉から水滴が落ちた。
ぽつ、と土を打つ。
「……何を聞きたい」
「先生と、どういう関係だったのかなって」
マヤは急かさなかった。
それが少し困る。
問い詰められた方が、答えない理由を作りやすい。
リオは火を見る。
乾いた枝の中で、赤い炭が小さく崩れた。
「俺が失敗した患者だ」
言葉にしてしまえば、いつもの形だった。
何度も自分の中で繰り返した定義。
エラ=ミル。
救えなかった患者。
救ってしまった患者。
失敗した患者。
マヤはすぐに否定しなかった。
そこが、ありがたくもあり、少し怖くもあった。
「そうなんですか」
「ああ」
「……でも」
マヤは果実を見る。
残った半分を指で回した。
「あの人、自分で果物を選んでました」
「だから?」
思ったより強い声が出た。
マヤが顔を上げる。
リオはすぐに後悔した。
「いや。悪い」
「大丈夫です」
「その言葉、便利に使うな」
「先生も『考えてる』を便利に使います」
返されて、リオは黙った。
マヤはほんの少しだけ笑ってから、またエラのいた方を見る。
彼女はもう乳樹の奥で休んでいる。
「嫌なものは嫌ってました」
苦い薬草を差し出された時の顔を思い出しているのだろう。
あからさまに横を向いた。
ラウ=マーナが面白がって、もう一度差し出すと、さらに身体ごと背けた。
そして診察を許すかどうかも、自分で決めた。
最初は後退した。
リオが止まると、しばらく待ってから、自分の方から手を差し出した。
「指も三回鳴らしてました」
マヤが自分の指を見ながら、一度、二度、三度と軽く動かす。
音は出なかった。
「昔からの癖なんですよね」
「ああ」
「なら、エラさんはエラさんなんじゃないですか」
リオは答えなかった。
「全部が前と同じって意味じゃなくて」
マヤは少し考える。
言葉を探している。
「今の身体で、好きなものを選んで、嫌なものを嫌がって、先生に触られるかどうかも自分で決めてた」
「……そうだな」
「だったら」
マヤは首を傾げた。
「失敗って、誰が決めたんですか」
火が鳴った。
リオは何も言えなかった。
誰が。
神殿は奇跡と呼んだ。
周囲の者は、生き残ったことを喜んだ。
リオだけが失敗と呼び続けた。
なら、失敗と決めたのは自分なのか。
エラが今、あの身体で暮らしている。
群れの中で。
食べ。
眠り。
嫌がり。
選び。
笑っているように見える時さえある。
それなら。
あの時の自分は――。
「でも」
マヤが言った。
リオの思考が止まる。
少女は果実を膝へ置いていた。
もう食べていない。
「たぶん、それとこれは別ですよね」
「……何が」
「あの人が今ちゃんと生きてるからって」
マヤはリオを見る。
「あの時、先生が勝手に助けたことが正しかったって意味でもないですよね」
リオは、ゆっくり顔を上げた。
十四歳の少女がそこにいた。
神官でもない。
医師でもない。
難しい教義を語るつもりもない顔で、ただ分からないことを分からないまま考えている。
それなのに、その一言はリオが長い間避けてきた場所へ、あまりにも簡単に届いた。
「わたし、詳しいことは知りません」
マヤが続ける。
「先生が何をしたのかも、エラさんがその時どんな病気だったのかも」
「……ああ」
「でも、エラさん、あの時は喋れたんですよね」
病室。
薬の匂い。
夜。
細くなったエラの手。
『もういい』
声が蘇る。
『まだ方法があります』
自分の声。
『先生、もう――』
そこから先を、ずっと思い出さないようにしていた。
いや。
忘れていたわけではない。
何度も思い出した。
そのたびに、別のところを見ていた。
変異した身体を。
失われた声を。
薄くなった反応を。
治療後のエラだけを見て、自分は失敗したのだと思ってきた。
人の姿を保てなかった。
言葉を残せなかった。
元のエラへ戻せなかった。
それが罪なのだと。
けれど。
その前に、もう一つあった。
もっと単純で。
もっと逃げようのないものが。
『もういい』
エラは言った。
治療後ではない。
まだ声があった時に。
まだ自分で言葉を選び、リオへ向けられた時に。
やめてほしいと。
もういいと。
それを聞いて。
リオは続けた。
助けられると思ったから。
死なせたくなかったから。
方法が残っていたから。
自分は医師だったから。
全部、本当だった。
だからこそ、厄介だった。
エラを異形にしたことだけが、失敗だったのではない。
彼女の「もういい」を。
自分の「助けたい」で上書きした。
そのことを、リオは初めて真正面から見た。
「先生?」
マヤの声が遠くから戻ってきた。
「……ああ」
「怒りました?」
「いや」
「ならいいです」
マヤは果実を一口齧った。
再び甘酸っぱい匂いがする。
リオは少しだけ呆れた。
「今のでよく食えるな」
「大事な話と、お腹が空いてることは別です」
「ラウに似てきたぞ」
「それ、褒めてます?」
「微妙だな」
「では聞かなかったことにします」
小さな笑いが戻った。
長くは続かなかったが、それでよかった。
リオは火へ枝を一本足した。
「マヤ」
「はい」
「エラは死にかけてた」
マヤの手が止まる。
「たぶん、普通の治療では助からなかった」
「はい」
「俺には、まだ一つ方法があった」
そこまで言って、リオは口を閉じた。
全てを話すには、まだ早い。
自分の中ですら、整理できていない。
「それを使ったんですね」
「ああ」
「エラさんは?」
リオは火を見る。
「やめてくれって言った」
マヤは何も言わなかった。
「『もういい』って」
口にすると、記憶の中の声より重かった。
「なのに俺は、助けた」
助けた。
その言葉が、急に不自然に感じる。
助けるとは、誰の側から見た言葉なのか。
「だから失敗だと思ったんですか」
「ずっと、違う意味でな」
マヤは黙って待った。
「俺は、あいつをあんな身体にしたから失敗したんだと思ってた」
自分の左腕を見る。
包帯の下には、自分がまだ受け入れきれていない変異がある。
「人の姿を残せなかった。喋れなくした。そういうことばかり考えてた」
「今は?」
リオはすぐに答えなかった。
答えを急げば、また同じことをする気がした。
「……まだ分からない」
「そうですか」
「ただ」
エラが差し出した手を思い出す。
リオが近づいた時には下がった。
待ったあと、自分から来た。
今日の自分は、それを待てた。
トアにも、残したいものを訊いた。
それは過去を帳消しにはしない。
エラが今生きていることも。
今日、自分が少しましな選び方をできたことも。
あの夜を正しかったことにはしてくれない。
「失敗した場所は、俺が思ってたところと少し違ったのかもしれない」
マヤはそれを聞いて、頷いた。
「じゃあ、分かったところから考えればいいんじゃないですか」
「簡単に言うな」
「難しく言った方がいいです?」
「いや」
「では、このままで」
リオは苦笑した。
「君はたまに容赦ないな」
「そうですか?」
「自覚ないのか」
「先生よりは優しいと思います」
「何を基準に」
「薬の味」
「まだトアの薬を根に持ってるのか」
「あれは匂いだけで苦かったです」
「君は飲んでないだろ」
「だから優しいんです」
理屈になっていない。
だが、今はそれでよかった。
森の夜は深い。
乳樹の根元では、群れの者たちの寝息が重なり始めている。
獣の呼吸。
人の呼吸。
そのどちらとも区別しにくい音。
リオは火の向こうにある暗がりへ目を向けた。
エラはそこにいる。
あの夜、自分が選んだ身体で。
けれど、自分が選んだ人生を生きているわけではない。
それを決めるのは、これからもエラ自身だ。
今さら許してもらおうとは思わない。
今日、指を三度鳴らした意味すら、勝手には決めない。
ただ次に彼女が手を引いたなら、止まる。
差し出したなら、触れる。
それくらいしか、今の自分にはできない。
「先生」
「何だ」
「果物、四個目いいですか?」
リオは顔を上げた。
「もう食べてるだろ」
マヤの頬が膨らんでいる。
「事後報告です」
「許可じゃないな」
「実績だけは残ります」
「明日、腹を壊しても知らないぞ」
「先生がいます」
「毒味係でも腹痛係でもない」
マヤが笑う。
リオも、小さく息を吐いた。
夜はまだ長かった。
それでも、長い間同じところで止まっていた何かが、ほんの少しだけ動いた気がした。




