第九節 ― 変わったまま帰る
治療を始める前に、リオはもう一度トアを診た。
乳樹の太い根を寝台代わりにして、少年を座らせる。エナは少し離れたところに腰を下ろし、村人たちも武器を収めたまま残っていた。
帰るか、森へ残るか。
その話は、もうしない。
今から決めるのは、トアの身体のどこを鎮め、どこを残すかだった。
「口を開けて」
「あー?」
「まだ声は出さなくていい」
「先に言ってよ」
トアが口を開けたまま不満そうな目をする。
マヤが横で布と水盆を準備しながら、小さく笑った。
「先生は説明する順番がたまに遅いです」
「助手なら先に教えてやれ」
「わたしも今知りました」
「役に立たないな」
「お給料をいただいていませんので」
「まだその話するのか」
トアの肩から少し力が抜けた。
リオはその間に舌と喉を見る。
前より悪化してはいない。
だが、発声器官の変化は確かに続いている。
「今度は声」
「何て言えばいい?」
「名前」
トアが一度だけ瞬きをした。
「……トア」
掠れはある。
それでも、はっきり聞こえた。
リオは頷き、首筋へ指を当てる。
「もう一度」
「トア」
「低く」
「トア」
「今度は長く」
「トアーーー」
「名前でやる必要あります?」
マヤが訊く。
「別にない」
「じゃあ、なぜ」
「本人が忘れないものの方が変化を比べやすい」
トアが得意そうにマヤを見る。
「俺の名前、大事らしい」
「知ってます」
「何でマヤが偉そうなんだよ」
リオは二人を放っておき、《医脈》を開いた。
包帯を緩める。
左腕の白い獣毛と樹皮に似た皮膚が露わになると、トアはもう驚かなかった。
むしろ興味深そうに覗き込む。
「先生のは、これ以上変わらないの?」
「診察中」
「また逃げた」
「医者にも聞かれたくないことはある」
答えると、トアは少し黙った。
それから、自分の耳へ触れる。
「……そっか」
リオの左手が、少年の胸へ触れた。
脈を読む。
肺は安定している。
ここは触らない。
血流も、強化された肺に合わせて変わっている。無理に人間型の基準へ押し戻せば、かえって身体の均衡が崩れる。
嗅覚へ繋がる感覚路。
耳。
夜目。
それらも、今のところ苦痛や障害を起こしていない。
第二節で診た時も、森へ入ってからの呼吸は安定していた。
トア自身も、村では夕方になると身体が熱っぽくなり、倦怠感や食欲低下が出るのに、森へ来れば息が楽になり、身体が軽くなったと話している。
密かに何度も森へ通っていた理由も、それだった。
今の肺。
木を登る筋肉。
暗がりを拾う目。
音と匂いを遠くまで捉える感覚。
一つずつ見れば獣化としか呼べない変化も、並べれば向いている先は同じだった。
この身体は、ただ獣へ近づいているのではない。
この森で生きやすい形へ寄っている。
少なくとも、その方向だけはもう疑う必要がなかった。
問題は別にある。
喉。
舌の付け根。
首から肩へ伸びる神経。
骨盤と背骨。
そして急速に伸びようとしている手足の骨。
身体の各部が、ばらばらの速さで先へ進もうとしている。
「やっぱり、速い」
リオが呟く。
「何が?」
「変化」
トアの表情が固くなる。
リオはすぐに続けた。
「全部じゃない」
マヤへ手を出す。
「血読針」
「はい」
細い針が掌へ置かれる。
トアが顔をしかめた。
「また刺す?」
「一滴だけ」
「さっきも一滴だった」
「二滴必要か?」
「一滴でお願いします」
素直に手を出した。
リオは指先から血を採り、水盆の縁へ落とす。
赤い血が水の中へ細くほどけた。
腐花病の時のような異常な根は出ない。
神性寄生に特有の濁りもない。
ただ、血の中を流れる生命脈の勢いが強すぎる。
方向そのものがおかしいのではない。
進む速度が速い。
「病気というより適応だって言ったよな」
トアが頷く。
「今なら、もう少し言える」
「何?」
「お前の身体は、この森で生きやすい方へ変わってる」
トアが自分の耳へ触れた。
「これも?」
「耳も。肺も、目も、鼻も、木へ登るための身体も」
エナが黙って息子を見る。
「だから森だと楽なの?」
「たぶん、そこまではつながってる」
リオは水盆へほどけた血を見た。
「でも、分からないこともある」
「何が?」
「速さだ」
半年。
身体一つがこれだけの部位を作り替えるには、あまりに短い。
「森に合わせて変わってる理由は見えてきた。でも、どうしてここまで急いで変わろうとしてるのかは、まだ分からない」
トアが少し顔をしかめる。
「じゃあ、やっぱり病気?」
「それも一言じゃ決められない」
リオは血読針をしまった。
「適応だって速すぎれば身体を壊す」
「走るのと同じですか?」
マヤが訊く。
「近い。身体が走れる速さより先に脚だけ動かそうとすれば転ぶ」
「分かりやすい」
トアも頷いた。
「俺、転んでる途中?」
「まだ転ぶ前だ」
リオは血読針をしまう。
「だから減速させる」
「戻すんじゃなくて?」
「戻さない」
言い切ると、エナが目を上げた。
トアもリオを見る。
「お前が残したいと言ったところは、できる限り残す」
胸へ触れる。
「肺」
トアの耳へ視線を向ける。
「耳。嗅覚。夜目」
指先を見る。
「爪と、木を登るための筋力も、今すぐ削る理由はない」
「牙も」
「噛みつくなよ」
「噛まないよ」
「なら今は残す」
トアの口元に、少しだけ笑みが浮かんだ。
「逆に、先へ進ませたくないところがある」
リオはトアの喉へ指を当てる。
「声」
笑みが消える。
「舌も。言葉を作る動きが変わりすぎると、今の発音を保てなくなる」
次に後頭部から首筋をなぞる。
「神経。感覚が一度に変わりすぎるのも危険だ」
背へ。
「骨格も今は止めたい。筋肉より先に骨だけ変わると、歩くこと自体が難しくなる」
トアは真剣に聞いていた。
「止められる?」
「やってみる」
「絶対じゃない?」
「絶対って言う医者は信用するな」
マヤがすぐにリオを見る。
「先生もたまに言い切りますよ」
「言い切れる時だけだ」
「本当に?」
「今日はよく絡むな」
「患者さんが一人増えそうなので、先生の信用を確認しています」
「誰が増える」
マヤは自分の胸を指した。
先ほどラウに見つけられた、二つ目の鼓動。
リオが黙る。
「……あとで診る」
「はい」
今度はマヤが少し満足そうに笑った。
「お前ら、始めないのか」
ラウ=マーナが言った。
乳樹の根へ片脚を乗せ、腕を組んでいる。
リオは彼女を見る。
「手伝ってくれ」
「何を」
「獣側を読む」
ラウの耳が動く。
「お前が読めるだろ」
「俺が読めるのは医脈だ。今のトアが、どの変化を身体として馴染ませてるのかまでは分かりにくい」
「面倒な身体だな、人間は」
「獣母に言われたくない」
「私は困ってない」
ラウはトアの前へしゃがんだ。
少年の顔へ鼻を寄せる。
「また匂い?」
「黙れ、耳坊」
首。
胸。
腕。
腹。
匂いを嗅ぎ、耳を近づける。
最後に背へ掌を当てた。
トアがじっと耐えている。
「肺は?」
リオが訊いた。
「馴染んでる」
「耳」
「馴染んでる」
「爪」
ラウがトアの指を掴む。
爪を押し、曲げ、手首を回した。
「これもだ」
「夜目は?」
「目を見れば分かる」
「どうだ」
「夜の方が楽だろ」
トアが頷く。
「暗い方がよく見える」
「なら触るな」
ラウは簡単に言った。
「喉は?」
そこで、獣母の表情が少し変わった。
トアの首筋へ耳を近づける。
「こいつは嫌がってる」
「本人が?」
「身体が」
ラウは指先で喉から胸へ線を引いた。
「肺の変わり方と、声の変わり方が噛み合ってない。肺は今の形で息をしたがってる。喉はその息に引っ張られて別のものになろうとしてる」
リオは《医脈》で同じ場所を探る。
確かに、流れが違う。
肺から上がってくる強い生命脈が、そのまま発声器官へ過剰に流れ込んでいる。
「ここを切るわけにはいかない」
「切れば声だけじゃ済まん」
「分かってる」
「なら細くしろ」
リオはラウを見る。
「できると思うか」
「医者だろ」
「神様らしい助言をありがとう」
「どういたしまして」
マヤが吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
リオは診療鞄を開く。
持っている薬の中から、変異に伴う熱と神経過敏を鎮めるものを選ぶ。
強く抑える薬は使えない。
肺まで鎮めてしまえば意味がない。
薬草を数枚取り出し、指先で砕く。
「マヤ、乳樹の樹液を少し」
「どれくらいです?」
「匙半分」
「匙がありません」
「瓶の蓋で半分」
「最初からそう言ってください」
白い樹液が小皿へ落ちる。
リオはそこへ薬草を混ぜ、少量の水で薄めた。
ラウが匂いを嗅ぐ。
「苦いな」
「飲むのはトアだ」
「えっ」
トアが顔を上げる。
「聞いてない」
「今言った」
「ずるい」
「薬なんだから諦めろ」
トアは小皿を受け取った。
匂いを嗅ぐ。
顔が歪む。
「絶対まずい」
「効き目と味は関係ない」
「先生が飲んでよ」
「俺は変異速度を落とす必要がない」
「腕は?」
リオが黙った。
マヤが横を向いて肩を震わせる。
「……飲め」
「逃げた」
トアは覚悟を決めて一気に飲んだ。
次の瞬間、耳まで伏せた。
「まずっ!」
乳樹の下で笑いが起きた。
エナまで口元を押さえている。
「水!」
マヤがすぐ差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう!」
一息で飲み干す。
「マヤの方が医者向いてる」
「そうですか?」
「患者に水くれるから」
「普通だ」
リオは言いながら、トアの手首を取った。
薬が巡るまで待つ。
ただ飲ませて終わりではない。
鎮めたい場所へだけ効かせる必要がある。
「トア。少し眠くなるかもしれない」
「寝たらどうする?」
「寝かせる」
「何か勝手に戻したりしない?」
その問いに、リオの指が一瞬止まった。
エラの姿が脳裏に浮かぶ。
「しない」
トアはリオの顔を見た。
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあいい」
根へ背を預ける。
リオは左手で《医脈》をつなぎ、薬が身体へ回るのを追った。
マヤが額の汗を拭く。
「熱、少し上がってます」
「想定内だ。水を少しずつ」
「はい」
ラウは反対側からトアの胸へ耳を当てる。
「肺は変わらん」
「喉は?」
「まだ速い」
リオは薬の量を増やさなかった。
急いで止めれば、また別のところが崩れる。
待つ。
呼吸。
心拍。
瞳孔。
舌の動き。
指先の震え。
一つずつ確かめる。
やがてトアが目を閉じた。
「眠い」
「寝ていい」
「声、なくならない?」
「起きたら確認する」
「それ、安心できないんだけど」
「なくさないように診てる」
トアはまだ何か言いたそうだったが、エナが隣へ座ると口を閉じた。
母親の膝へ頭を乗せるほどではない。
けれど、肩だけは触れる。
「母さん」
「なに?」
「起きたら呼んで」
「うん」
「ちゃんと名前で」
エナの指が、尖った耳の間の髪へ触れた。
「トア」
「今じゃない」
「練習」
「忘れるわけないだろ」
「そうね」
目を閉じた少年の口元が少し緩んだ。
治療は、日が傾くまで続いた。
リオは一度も大きな処置をしなかった。
むしろ、やったのは細かな調整ばかりだった。
薬を薄める。
水を足す。
喉の流れが速くなれば《医脈》で鎮める。
骨の変化へ偏った脈があれば、そこへ流れ込む生命の勢いを散らす。
肺へ余計な負荷がかからないように、呼吸の深さを何度も確認する。
ラウは途中で何度も匂いを嗅ぎ、身体へ耳を当てた。
「右脚」
言われてリオが読む。
骨の成長が速い。
少し鎮める。
「舌」
確かめると、確かに筋の張りが強くなっていた。
薬を追加するのではなく、流れだけを弱める。
マヤはそのたびに布を替え、水を汲み、リオが手を出す前に必要なものを渡した。
「水」
「はい」
「布」
「どうぞ」
「記録」
「ここです」
リオが受け取ってから、ふと彼女を見る。
「今日は妙に早いな」
「いつも早いです」
「さっき薬の蓋で迷ってた」
「あれは先生の指示が悪いです」
「そうか」
「そうです」
マヤは記録帳へ目を落とす。
「喉、さっきよりゆっくりです」
リオも確認した。
「ああ」
「声、守れそうですか?」
「まだ断定はしない」
「でも?」
リオはトアを見る。
眠ったままの呼吸は穏やかだった。
「悪くない」
夕方。
乳樹の葉の間から差す光が赤くなった頃、トアが目を覚ました。
最初に動いたのは耳だった。
周囲の音を拾うように左右へ向く。
次に鼻。
鍋の匂いを嗅いだらしい。
「腹減った」
声が出た。
エナの肩が大きく揺れる。
「トア」
「何」
「……なんでもない」
母親が笑う。
泣きそうな顔のまま。
リオはすぐに診察を始めた。
「名前」
「また?」
「いいから」
「トア」
「長く」
「トアーー」
「低く」
「トア」
「舌出して」
「名前関係なくなったじゃん」
「喋れるな」
「喋れるよ」
掠れは残っている。
だが昼より悪化していない。
舌の動きも保たれていた。
瞳の金色も。
尖った耳も。
牙も。
硬い爪も、そのままだった。
「立てる?」
トアが根から降りる。
一歩。
二歩。
少し脚を確かめるように歩き、それから軽く跳ねた。
「痛くない」
「膝は」
「大丈夫」
「背中」
「さっきより楽」
「走るなよ」
「少しだけ」
「走るな」
言い終わる前に、トアは近くの木へ駆けた。
「おい!」
低い根へ足を掛け、一気に幹を三歩ほど登る。
爪が樹皮を捉える。
身体を引き上げる。
そのまま低い枝へ乗った。
「できる!」
「降りろ!」
「残ってる!」
「分かったから降りろ!」
トアが笑いながら飛び降りる。
着地も安定している。
マヤが感心したように拍手した。
「よかったですね」
「うん!」
「煽るな」
「患者さんの喜びを尊重しています」
「治療直後に木登りさせる助手があるか」
「自発的です」
「止めろ」
エナが息子へ駆け寄った。
怒るのかと思ったが、最初に確かめたのは呼吸だった。
「苦しくない?」
「全然」
「本当に?」
「ほら」
トアが大きく息を吸う。
吐く。
咳はない。
エナは次に耳を見る。
牙を見る。
爪を見る。
どれも残っている。
以前の息子の姿ではない。
それでも、その手がトアの頬へ触れた。
「声も」
「あるよ」
「私、分かる?」
トアが呆れた顔をした。
「母さん」
「うん」
「エナ」
「名前で呼ばなくていいの」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
そのやり取りを見て、リオはようやく息を吐いた。
治ったわけではない。
変異が終わったわけでもない。
明日また動く可能性もある。
だから診続ける必要がある。
だが少なくとも今、危険な進行は鎮まっている。
肺を失わず。
森を走る身体も失わず。
声も、母親を呼ぶ言葉も残っている。
「先生」
エナがリオを見る。
「この子、帰れますか」
リオはすぐには頷かなかった。
村人を見る。
「しばらく経過観察は必要です」
年嵩の男が腕を組む。
「村で?」
「村でも。森でも」
「森でも?」
「はい。森では呼吸も体温も安定していた。村では逆に、熱っぽさや倦怠、食欲低下が出ている」
リオはトアを見る。
「肺も感覚も筋肉も、この森で動くには都合のいい形へ変わってる。何へ適応しているのかは、もう大体見えています」
男が眉を寄せた。
「つまり?」
「この子の身体は、森で生きやすい方へ変わってる」
エナは息子の尖った耳を見る。
「じゃあ、森にいた方がいいんですか」
「それとは別です」
リオはすぐに答えた。
「森へ適応していることと、森だけで暮らすべきだということは同じじゃない」
トアが母親を見る。
リオは続けた。
「それに、分からないことも残ってる」
「何ですか」
「なぜ、これほど速いのか」
半年ほどで、身体はここまで変わった。
肺。
骨。
筋肉。
感覚器。
喉。
適応する方向は見えた。
だが、その速度まで説明できたわけではない。
「だから、村と森の両方で診ます。どこで何が変わるのか、これからも比べる必要がある」
男は難しい顔をした。
「また森へ来させるのか」
「来る」
答えたのはトアだった。
「俺、来るよ」
村人を見る。
「でも村にも帰る」
今度はエナを見る。
「駄目?」
エナは首を横へ振った。
「駄目じゃない」
少し間を置く。
「ただし、一人で何日もいなくなるのは駄目」
「じゃあ一日」
「日が暮れる前」
「夕方まで」
「帰ってきて」
トアが口を閉じた。
以前なら、「森へ行くな」と言われていた。
今は違う。
行くことそのものではなく、帰ることを求められている。
「うん」
短く答えた。
「帰る」
ラウ=マーナが鼻を鳴らした。
「なら、こっちにも来い」
トアが振り返る。
「いいの?」
「勝手に来てたくせに何を訊く」
「だって」
ラウは近くに置かれていた毛皮の束から、小さな赤褐色の切れ端をちぎった。
トアへ投げる。
少年が慌てて受け取った。
「何これ」
「なくすな」
「だから何?」
「群れの匂いだ」
トアは毛皮片を鼻へ近づける。
「普通に毛皮の匂いだけど」
「お前の鼻はまだその程度か」
「ひどくない?」
ラウは気にしない。
「村に帰ろうが、森へ来ようが好きにしろ。ここで腹が減ったら食え」
「泊まっても?」
「場所が空いてればな」
「木の上でも?」
「落ちなければ」
トアが笑った。
「じゃあ来る」
ラウはそれで話を終えた。
神聖な儀式もない。
祝詞もない。
けれど、毛皮を握ったトアの耳が嬉しそうに立っている。
「群れ名は?」
近くにいた半獣の子どもが訊いた。
「え?」
「もらわないの?」
トアがラウを見る。
ラウもトアを見る。
「耳坊」
「それ名前なの?」
「呼べば振り向くだろ」
「もっと格好いいのがいい!」
「自分で考えろ」
「神様なのに?」
「名前くらい自分で持て」
トアはしばらく考え込んだ。
「……じゃあ、今はいらない」
「そうか」
「トアがあるから」
ラウは何も言わず、口元だけ少し緩めた。
マヤもその一言を聞いていた。
三か月前。
祭壇の上で、自分の名前を訊かれた時のことを思い出す。
役割としての名。
誰かから与えられた呼び名。
それとは別に、自分で答えた名前。
マヤはトアの手の中の毛皮を見る。
「いいですね、それ」
「欲しい?」
「ちょっと」
「あげない」
「まだ何も言ってません」
「今、欲しいって言っただろ」
「ちょっと、です」
「もっと駄目」
マヤが不服そうな顔をする。
リオは診療鞄へ器具を戻しながら言った。
「人の護符を狙うな」
「綺麗だったので」
「この森に入ってから、ずっと何か欲しがってるな」
「旅先では大事です」
「それ、食べ物の話じゃなかったか」
「範囲を広げました」
「広げるな」
トアが笑った。
エナも、今度は隠さず笑った。
村へ戻る準備が始まった。
持ってきた縄は使われなかった。
鎮静薬の革箱も開かないまま。
武器は肩へ戻され、代わりに群れから分けてもらった肉と果実を持つ者までいる。
「これ、本当に持って帰っていいのか」
さっきまで槍を構えていた男が訊く。
「余る」
ラウが答える。
「腐らせるより食え」
「……どうも」
「塩を寄越せ」
「交換かよ」
「当たり前だ」
いつの間にか交渉になっていた。
境界が消えたわけではない。
村人たちが変異者を恐れなくなったわけでもない。
群れの者たちが人間社会を信用したわけでもない。
それでも、肉と塩くらいは行き来できる。
人も、たぶん同じだった。
トアは村へ帰る。
以前の姿には戻らない。
尖った耳も。
牙も。
金色の目も。
森を走る脚も。
深く息を吸える肺も、そのまま持って帰る。
そしてまた、森へ来る。
そのたびにリオが診る必要はあるだろう。
変異が再び速くなるかもしれない。
別の症状が出るかもしれない。
何より、なぜこの身体がこれほど急いで変わろうとしているのか、まだ分かっていない。
今日選んだ治療が、明日も正しいとは限らない。
それでも医療は、今日できることから始めるしかない。
「先生」
トアが毛皮片を腰紐へ結びながら訊いた。
「次、いつ診る?」
「三日後」
「また針?」
「たぶん」
「行きたくなくなった」
「来い」
「森で診てよ」
「村の時と比較できないだろ」
「細かいなあ」
「だから医者なんだ」
横からラウが言った。
リオは彼女を見る。
「それ、気に入ったのか」
「使いやすい」
「返せ」
「言葉は減らん」
マヤが笑う。
リオは諦めた。
乳樹の向こうでは、夕暮れの森が赤く染まり始めていた。
トアがエナの隣へ並ぶ。
手は繋がない。
けれど、離れてもいない。
「帰ろう」
エナが言った。
トアが一度だけ森を振り返る。
ラウ=マーナ。
乳樹。
群れの子どもたち。
それから腰の毛皮へ触れた。
「うん」
二人は同じ方向へ歩き出した。
変わる前の少年は、もう帰らない。
けれど帰っていく少年はいる。
トアという名前のまま、新しい身体で。




