↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/41

第八節 ― 息子を返して

 最初に乳樹の下へ姿を現したのは、縄を肩へ掛けた男だった。


 その後ろから、鉈を持つ者、長槍を手にした者が続く。全部で七人。森を歩き慣れた格好ではあったが、全員が泥と汗にまみれ、呼吸を荒らしていた。


 最後の一人は、小さな革箱を抱えている。


 蓋の隙間から、薬草と酒精の匂いがした。


 リオはそれを見て眉を寄せた。


 捕縛用の縄。


 武器。


 鎮静薬。


 迷子を迎えに来た装備ではない。


「いたぞ」


 先頭の男がトアを見つけた。


 安堵より先に、緊張が顔へ出る。


「トア!」


 その名が呼ばれたことで、マヤはわずかに目を動かした。


 先ほどまで「獣憑き」「森戻り」と呼んでいた人々だ。それでも本人を目の前にすると、名前が戻るらしい。


 トアは乳樹の根元から動かなかった。


 尖った耳だけが伏せられる。


「そこを動くな」


 男が言う。


 トアの爪が、無意識に樹皮へ食い込んだ。


「帰るぞ」


「嫌だ」


「もう十分だ。母親にも心配かけただろ」


「嫌だって言ってる」


 男たちの視線がトアの耳、牙、爪へ移る。


 一人が小声で何かを言った。


「また進んでる」


 それを合図にしたように、乳樹の下の空気が変わった。


 角のある男が大鍋から離れる。


 翼膜の少女が幼い子どもを背へ隠す。


 白毛に覆われた者、鱗を持つ者、樹皮の腕を持つ者たちが、それぞれ静かに村人へ向き直った。


 武器を抜いたわけではない。


 けれど、それで十分だった。


 人の形から外れた身体が一斉にこちらを向けば、それだけで村人たちは足を止める。


「下がれ」


 村人の一人が槍を構えた。


 群れの中から低い唸りが返る。


「やめて!」


 エナが両者の間へ出た。


「お願いだから、武器を下ろして」


「エナ、どけ」


「トアを迎えに来ただけでしょう?」


「迎えに来たさ。だから捕まえる」


「縄なんて必要ない!」


「昨日、四人がかりでも逃げられたんだぞ!」


 男の声が荒くなる。


「あの動きを見ただろ。木の上を獣みたいに走った。今ならまだ話が通じるからいい。これ以上進んだらどうなる」


「だからって……」


「お前も治してほしいって言ってただろ!」


 エナは言葉を詰まらせた。


 否定できない。


 リオへ頼んだのは彼女だ。


 息子を人間へ戻してほしい、と。


 別の男が前へ出た。


「先生なんだろ?」


 胸元の聖獣医師章を見ている。


「こいつは連れて帰った方がいいんじゃないのか」


 リオは答える前に、男の持つ縄を見た。


「診察はしました」


「なら分かるだろ。病気なんだ」


「そう単純ではありません」


 男の顔に苛立ちが浮かぶ。


「耳があれだけ伸びて、牙まで生えてるのに?」


「見た目の話なら、そうです」


「見た目だけじゃない!」


 後ろから声が飛ぶ。


「昔、東の開拓地で獣化した男が家畜を食い殺した。最後は人まで襲ったって聞いてる」


「それがトアと同じものだという記録は?」


「そんなものがなくても危険なのは分かるだろ!」


 別の者も続く。


「血で移るって話もある」


 リオはそちらを見た。


「トアには感染性の所見はありません」


「今は、だろ?」


「少なくとも、今調べられる範囲では」


「なら絶対じゃない」


「絶対と言える病気の方が少ないです」


 男は黙り込んだ。


 リオは彼らを責める気にはなれなかった。


 サハ=ネは森の外縁にある。


 畑と密林の境界。


 家畜と野生獣の境界。


 人が住める土地と、そうでない土地の境界。


 そこを守り損ねれば、明日の食糧がなくなる。子どもが獣に襲われることもある。何が感染し、何が呪いで、何がただの変異なのか、診られる者がいつも近くにいるわけでもない。


 怖がる理由はある。


 だからといって、怖がられた側が傷つかないわけでもない。


「昔のことを忘れたのか」


 年嵩の男がエナへ言った。


「家畜小屋に獣化者が入り込んで、山羊を三頭殺した。あれ以来、森側の柵を増やしたんだぞ」


「知ってます」


「なら分かるだろ。俺たちはここで暮らしてる。森と村の境を曖昧にはできない」


 エナは拳を握った。


「でも、トアは山羊を殺してません」


「これからも殺さないと言い切れるのか」


「……」


「だから今のうちなんだ」


 男が一歩進んだ。


 群れの誰かが牙を見せる。


 槍の穂先が上がる。


 マヤの背筋が強張った。


 リオは一瞬だけラウ=マーナを見る。


 獣母は動いていない。


 乳樹の太い根へ腰を下ろしたまま、顎へ片手を置いている。


 琥珀色の目だけが人間たちを見ていた。


 その気になれば。


 リオは、逆落ち滝の手前で見たものを思い出す。


 自分たちへ突進してきた巨大獣を、ラウは横から一撃で吹き飛ばした。


 ここにいる七人が相手なら、おそらく争いにすらならない。


 けれどラウは立たなかった。


 村人も追い払わない。


 ただトアを見る。


「耳坊」


 トアが顔を上げる。


「母親が来てる」


「……見れば分かる」


「なら話せ」


 それだけだった。


「ラウ=マーナ様」


 エナが神格を見る。


「この子を返してください」


「私の物じゃない」


 ラウは短く答えた。


「でも、ここへ連れて――」


「勝手に来た」


「なら、帰るように言ってください」


「なぜ」


 エナの声が止まる。


「母親だからか?」


「……はい」


「なら、お前が言え」


 ラウはそれ以上口を出さなかった。


 エナは息子を見る。


 村人たちも。


 群れの者たちも。


 気づけば、全員が十一歳の少年を見ていた。


 トアの耳が落ち着かなげに動く。


 爪の先が木の根を掻いた。


「トア」


 エナが一歩進む。


 今度は誰も止めなかった。


「帰ってきて」


 少年の顔が硬くなる。


「嫌だ」


「お願い」


「戻したら、また息できなくなるんだろ」


 エナが足を止めた。


「先生は、そうなるって決まったとは――」


「でも危ないって言った」


「それは……」


「俺、前みたいに戻ったら、また走れなくなるかもしれないんだろ?」


 トアはリオを見る。


 答えを求める目だった。


 リオは誤魔化さなかった。


「可能性はある」


 エナが目を閉じた。


「でも、そのままじゃ――」


 トアが母親へ顔を戻す。


「何になるの?」


 短い問いだった。


 エナの唇が動く。


 声にはならない。


「俺、何になるの?」


 もう一度。


「獣?」


 エナの顔が歪んだ。


「違う」


「人間じゃなくなる?」


「そうじゃないの」


「じゃあ何?」


 答えられない。


 今の姿を見て「人間ではなくなる」と言えば、目の前の息子を半分否定することになる。


 だからといって、「何になっても構わない」とは言えない。


 実際にトアの変化は速すぎる。


 骨と筋肉の成長は噛み合っていない。


 喉も変わり始めている。


 この先に何が待つかは、リオにも分からない。


 耳や牙だけで終わる保証はない。


 言葉を失うかもしれない。


 身体の機能が変わるかもしれない。


 記憶や認識に影響しないと、今の段階では断定できない。


 エナが怖がっているものは、たぶんそこだった。


 けれど母親自身も、ようやくそれに触れかけている。


「トア」


 リオが呼んだ。


 少年がこちらを見る。


 リオは診療鞄へ触れなかった。


 答えを用意することもしなかった。


「お前はどうしたい」


 トアが黙る。


 村人の一人が口を開きかけたが、年嵩の男が腕で止めた。


 乳樹から白い樹液が一滴落ちる。


 湿った土へ吸い込まれた。


 トアは自分の手を見る。


 人間より長く硬い爪。


 握る。


 開く。


「……分かんない」


 最初に出たのは、それだった。


 リオは待つ。


「全部このままは怖い」


 少年が言った。


 エナが顔を上げる。


「昨日より爪が伸びてる。声も変になるかもしれないって先生が言ったし。このままどこまで変わるのか、俺も分かんない」


 指先が喉へ触れる。


「でも全部戻すのも嫌だ」


 トアは胸へ手を移した。


 一度、大きく息を吸う。


 森の湿った空気を、肺いっぱいに入れる。


 咳は出ない。


「息ができるのは好き」


 吐き出す。


 少し笑う。


「走っても苦しくないのも好き。森を走れるのも好き」


 近くにいた半獣化した子どもを見る。


 木の上。


 獣道。


 この数日で覚えた、自分の身体の使い方。


「木に登れるのも」


「それも入るのか」


 リオが言うと、トアは真面目に頷いた。


「かなり大事」


「そうか」


「前は全然できなかったから」


 ほんの少しだけ、張り詰めた空気が緩む。


 だがトアの手が再び喉へ戻ると、その笑みも消えた。


「声がなくなるのは嫌だ」


 リオを見る。


「喋れなくなるかもしれない?」


「可能性はある。決まったわけじゃない」


「なら、それは嫌だ」


「うん」


「母さんの声が分からなくなるのも嫌だ」


 エナの瞳が揺れた。


 トアはそちらを見る。


 少し迷ってから言った。


「母さんとはいたい」


 エナが口元を押さえた。


 トアは気まずそうに視線を逸らす。


「ずっと森に住みたいわけじゃない。村の家も嫌いじゃないし」


「じゃあ帰ればいい」


 村人の一人が思わず言った。


 トアの耳がそちらへ向く。


「戻したいって言われるのが嫌なんだよ」


「治療だぞ」


「全部なくすのが?」


 男は言葉を失った。


 リオも何も補わなかった。


 トアの答えは、綺麗ではない。


 森が好き。


 家にも帰りたい。


 今の身体に好きなところがある。


 怖いところもある。


 母親といたい。


 変わり続けるのは嫌だ。


 全部戻すのも嫌だ。


 矛盾しているようで、そのどれも本人の本音だった。


 二つから選ばせようとするから、答えが出なかっただけだ。


「エナさん」


 リオが呼ぶ。


 母親は息子から目を離さなかった。


 長い沈黙のあと、ゆっくり近づく。


 トアは逃げない。


 エナは手を伸ばした。


 けれど、その指は尖った耳の手前で止まった。


「私は……」


 声が震えた。


「お前の姿が怖いんじゃない」


 トアが母親を見る。


「本当に?」


「怖くないって言ったら、嘘になる」


 エナは指を下ろした。


 取り繕わなかった。


「急に耳が変わって、目が変わって、昨日できなかったことが今日できるようになって。見ているだけで、追いつけない」


「……うん」


「でも、耳が嫌なんじゃない。牙が嫌なんでもない」


 そこで一度、息を詰める。


「お前が私を分からなくなるのが怖い」


 トアの目が見開かれた。


「朝起きたら、私の声が届かなくなっているんじゃないかって。名前を呼んでも振り向かなくなるんじゃないかって。森の方が全部大事になって、家のことも、お父さんのことも、私のことも……忘れてしまうんじゃないかって」


 エナの目から涙が落ちた。


「それが怖かった」


 誰も口を挟まない。


「元に戻れば、そうならないと思った。前のお前なら、知ってるから」


 トアが母を見つめる。


 エナは泣きながら笑おうとして、うまくできなかった。


「これからのお前が分からないのが、怖かったの」


 トアの爪が木の根から離れる。


「母さん」


「なに」


「俺も分かんない」


「……うん」


「明日どうなるか」


「うん」


「だったら」


 トアがリオを見る。


 今度の目には、さっきまでとは違うものがあった。


 戻してほしいでもない。


 このままでいいでもない。


 初めて、治療へ向いた視線だった。


「じゃあ、そうならないように治して」


 リオの呼吸が止まる。


 エラの指が脳裏をよぎった。


 一度。


 二度。


 三度。


『もういい』


 あの時の声まで一緒に戻ってくる。


 今、目の前の少年は自分の声で言った。


 残したいものを。


 怖いものを。


 変えてほしいところを。


「先生?」


 トアが不安そうに眉を寄せる。


 リオは一度だけ目を閉じた。


 それから診療鞄を下ろす。


「分かった」


 今度の言葉は、以前とは違う重さを持っていた。


 リオはトアの前へしゃがむ。


「全部戻す治療はしない」


 エナを見る。


 彼女は涙を拭いながら頷いた。


「今のまま放っておくこともしない」


 トアも頷く。


「肺は?」


「残す方法を考える」


「声は?」


「守る」


「爪は?」


 リオは少年の手を見る。


「それは、お前が残したいなら残せるか調べる」


 トアの顔が少し明るくなる。


「木登りは?」


「爪だけの問題じゃない」


「じゃあ残せる?」


「診てからだ」


「先生、それ多いな」


「医者は診てから決めるんだ」


 マヤが横から口を挟んだ。


「先生、食べ物も見てから決めますよ」


「関係ないだろ」


「森へ来てから一番学びました」


 トアが小さく笑う。


 エナも、涙の跡が残る顔で息を吐いた。


 村人たちはまだ武器を持っている。


 問題が消えたわけではない。


「だが、村へ戻すなら条件がある」


 年嵩の男が言った。


「俺たちだって不安なんだ」


「分かっています」


 リオは立ち上がる。


「感染性については、もう一度村でも確認します。変異の進行も定期的に診る。急激な変化が起きた時にどうするかも決める必要があります」


「それで大丈夫なのか?」


「大丈夫だとはまだ言えません」


 リオは正直に答えた。


「だから治療するんです」


 男はしばらく黙ったあと、槍を下げた。


 それを見て、ほかの村人も少しずつ構えを解く。


 縄だけはまだ肩に残っていた。


 ラウ=マーナが大きく欠伸をした。


「話は終わったか」


 マヤが彼女を見る。


「ずっと聞いてたんですか?」


「聞こえる」


「何か言わないんです?」


「医者が治すんだろ」


 ラウはトアを見る。


「耳坊」


「なに」


「腹は減ったか」


「減った」


「なら食え」


 大鍋を顎で示す。


 トアが呆れた顔をした。


「今、その話?」


「腹が減ったまま治療の話をする方が馬鹿だ」


「……それはちょっと分かる」


 マヤが頷く。


「君は黙ってろ」


 リオが言う。


「どうしてです?」


「ラウと気が合いすぎる」


 マヤは少し考えた。


「いいことでは?」


「たぶん不安だ」


 鍋から湯気が上がる。


 肉と香草の匂いが、張り詰めていた乳樹の下へ戻ってくる。


 トアは一歩、母親へ近づいた。


 エナも動いた。


 今度は、耳に触れる前で手を止めなかった。


 尖った耳の付け根を、壊れ物でも扱うようにそっと撫でる。


 トアの耳がくすぐったそうに動いた。


「そこ、変な感じする」


「痛い?」


「違う。くすぐったい」


「……そう」


 エナの指先から、少しだけ力が抜けた。


 息子は変わった。


 これからも変わるかもしれない。


 けれど、何を残すかはもう、「元の姿」という言葉だけでは決めない。


 リオは二人を見ながら診療鞄を開いた。


 ようやく、治療するものが見え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。