第八節 ― 息子を返して
最初に乳樹の下へ姿を現したのは、縄を肩へ掛けた男だった。
その後ろから、鉈を持つ者、長槍を手にした者が続く。全部で七人。森を歩き慣れた格好ではあったが、全員が泥と汗にまみれ、呼吸を荒らしていた。
最後の一人は、小さな革箱を抱えている。
蓋の隙間から、薬草と酒精の匂いがした。
リオはそれを見て眉を寄せた。
捕縛用の縄。
武器。
鎮静薬。
迷子を迎えに来た装備ではない。
「いたぞ」
先頭の男がトアを見つけた。
安堵より先に、緊張が顔へ出る。
「トア!」
その名が呼ばれたことで、マヤはわずかに目を動かした。
先ほどまで「獣憑き」「森戻り」と呼んでいた人々だ。それでも本人を目の前にすると、名前が戻るらしい。
トアは乳樹の根元から動かなかった。
尖った耳だけが伏せられる。
「そこを動くな」
男が言う。
トアの爪が、無意識に樹皮へ食い込んだ。
「帰るぞ」
「嫌だ」
「もう十分だ。母親にも心配かけただろ」
「嫌だって言ってる」
男たちの視線がトアの耳、牙、爪へ移る。
一人が小声で何かを言った。
「また進んでる」
それを合図にしたように、乳樹の下の空気が変わった。
角のある男が大鍋から離れる。
翼膜の少女が幼い子どもを背へ隠す。
白毛に覆われた者、鱗を持つ者、樹皮の腕を持つ者たちが、それぞれ静かに村人へ向き直った。
武器を抜いたわけではない。
けれど、それで十分だった。
人の形から外れた身体が一斉にこちらを向けば、それだけで村人たちは足を止める。
「下がれ」
村人の一人が槍を構えた。
群れの中から低い唸りが返る。
「やめて!」
エナが両者の間へ出た。
「お願いだから、武器を下ろして」
「エナ、どけ」
「トアを迎えに来ただけでしょう?」
「迎えに来たさ。だから捕まえる」
「縄なんて必要ない!」
「昨日、四人がかりでも逃げられたんだぞ!」
男の声が荒くなる。
「あの動きを見ただろ。木の上を獣みたいに走った。今ならまだ話が通じるからいい。これ以上進んだらどうなる」
「だからって……」
「お前も治してほしいって言ってただろ!」
エナは言葉を詰まらせた。
否定できない。
リオへ頼んだのは彼女だ。
息子を人間へ戻してほしい、と。
別の男が前へ出た。
「先生なんだろ?」
胸元の聖獣医師章を見ている。
「こいつは連れて帰った方がいいんじゃないのか」
リオは答える前に、男の持つ縄を見た。
「診察はしました」
「なら分かるだろ。病気なんだ」
「そう単純ではありません」
男の顔に苛立ちが浮かぶ。
「耳があれだけ伸びて、牙まで生えてるのに?」
「見た目の話なら、そうです」
「見た目だけじゃない!」
後ろから声が飛ぶ。
「昔、東の開拓地で獣化した男が家畜を食い殺した。最後は人まで襲ったって聞いてる」
「それがトアと同じものだという記録は?」
「そんなものがなくても危険なのは分かるだろ!」
別の者も続く。
「血で移るって話もある」
リオはそちらを見た。
「トアには感染性の所見はありません」
「今は、だろ?」
「少なくとも、今調べられる範囲では」
「なら絶対じゃない」
「絶対と言える病気の方が少ないです」
男は黙り込んだ。
リオは彼らを責める気にはなれなかった。
サハ=ネは森の外縁にある。
畑と密林の境界。
家畜と野生獣の境界。
人が住める土地と、そうでない土地の境界。
そこを守り損ねれば、明日の食糧がなくなる。子どもが獣に襲われることもある。何が感染し、何が呪いで、何がただの変異なのか、診られる者がいつも近くにいるわけでもない。
怖がる理由はある。
だからといって、怖がられた側が傷つかないわけでもない。
「昔のことを忘れたのか」
年嵩の男がエナへ言った。
「家畜小屋に獣化者が入り込んで、山羊を三頭殺した。あれ以来、森側の柵を増やしたんだぞ」
「知ってます」
「なら分かるだろ。俺たちはここで暮らしてる。森と村の境を曖昧にはできない」
エナは拳を握った。
「でも、トアは山羊を殺してません」
「これからも殺さないと言い切れるのか」
「……」
「だから今のうちなんだ」
男が一歩進んだ。
群れの誰かが牙を見せる。
槍の穂先が上がる。
マヤの背筋が強張った。
リオは一瞬だけラウ=マーナを見る。
獣母は動いていない。
乳樹の太い根へ腰を下ろしたまま、顎へ片手を置いている。
琥珀色の目だけが人間たちを見ていた。
その気になれば。
リオは、逆落ち滝の手前で見たものを思い出す。
自分たちへ突進してきた巨大獣を、ラウは横から一撃で吹き飛ばした。
ここにいる七人が相手なら、おそらく争いにすらならない。
けれどラウは立たなかった。
村人も追い払わない。
ただトアを見る。
「耳坊」
トアが顔を上げる。
「母親が来てる」
「……見れば分かる」
「なら話せ」
それだけだった。
「ラウ=マーナ様」
エナが神格を見る。
「この子を返してください」
「私の物じゃない」
ラウは短く答えた。
「でも、ここへ連れて――」
「勝手に来た」
「なら、帰るように言ってください」
「なぜ」
エナの声が止まる。
「母親だからか?」
「……はい」
「なら、お前が言え」
ラウはそれ以上口を出さなかった。
エナは息子を見る。
村人たちも。
群れの者たちも。
気づけば、全員が十一歳の少年を見ていた。
トアの耳が落ち着かなげに動く。
爪の先が木の根を掻いた。
「トア」
エナが一歩進む。
今度は誰も止めなかった。
「帰ってきて」
少年の顔が硬くなる。
「嫌だ」
「お願い」
「戻したら、また息できなくなるんだろ」
エナが足を止めた。
「先生は、そうなるって決まったとは――」
「でも危ないって言った」
「それは……」
「俺、前みたいに戻ったら、また走れなくなるかもしれないんだろ?」
トアはリオを見る。
答えを求める目だった。
リオは誤魔化さなかった。
「可能性はある」
エナが目を閉じた。
「でも、そのままじゃ――」
トアが母親へ顔を戻す。
「何になるの?」
短い問いだった。
エナの唇が動く。
声にはならない。
「俺、何になるの?」
もう一度。
「獣?」
エナの顔が歪んだ。
「違う」
「人間じゃなくなる?」
「そうじゃないの」
「じゃあ何?」
答えられない。
今の姿を見て「人間ではなくなる」と言えば、目の前の息子を半分否定することになる。
だからといって、「何になっても構わない」とは言えない。
実際にトアの変化は速すぎる。
骨と筋肉の成長は噛み合っていない。
喉も変わり始めている。
この先に何が待つかは、リオにも分からない。
耳や牙だけで終わる保証はない。
言葉を失うかもしれない。
身体の機能が変わるかもしれない。
記憶や認識に影響しないと、今の段階では断定できない。
エナが怖がっているものは、たぶんそこだった。
けれど母親自身も、ようやくそれに触れかけている。
「トア」
リオが呼んだ。
少年がこちらを見る。
リオは診療鞄へ触れなかった。
答えを用意することもしなかった。
「お前はどうしたい」
トアが黙る。
村人の一人が口を開きかけたが、年嵩の男が腕で止めた。
乳樹から白い樹液が一滴落ちる。
湿った土へ吸い込まれた。
トアは自分の手を見る。
人間より長く硬い爪。
握る。
開く。
「……分かんない」
最初に出たのは、それだった。
リオは待つ。
「全部このままは怖い」
少年が言った。
エナが顔を上げる。
「昨日より爪が伸びてる。声も変になるかもしれないって先生が言ったし。このままどこまで変わるのか、俺も分かんない」
指先が喉へ触れる。
「でも全部戻すのも嫌だ」
トアは胸へ手を移した。
一度、大きく息を吸う。
森の湿った空気を、肺いっぱいに入れる。
咳は出ない。
「息ができるのは好き」
吐き出す。
少し笑う。
「走っても苦しくないのも好き。森を走れるのも好き」
近くにいた半獣化した子どもを見る。
木の上。
獣道。
この数日で覚えた、自分の身体の使い方。
「木に登れるのも」
「それも入るのか」
リオが言うと、トアは真面目に頷いた。
「かなり大事」
「そうか」
「前は全然できなかったから」
ほんの少しだけ、張り詰めた空気が緩む。
だがトアの手が再び喉へ戻ると、その笑みも消えた。
「声がなくなるのは嫌だ」
リオを見る。
「喋れなくなるかもしれない?」
「可能性はある。決まったわけじゃない」
「なら、それは嫌だ」
「うん」
「母さんの声が分からなくなるのも嫌だ」
エナの瞳が揺れた。
トアはそちらを見る。
少し迷ってから言った。
「母さんとはいたい」
エナが口元を押さえた。
トアは気まずそうに視線を逸らす。
「ずっと森に住みたいわけじゃない。村の家も嫌いじゃないし」
「じゃあ帰ればいい」
村人の一人が思わず言った。
トアの耳がそちらへ向く。
「戻したいって言われるのが嫌なんだよ」
「治療だぞ」
「全部なくすのが?」
男は言葉を失った。
リオも何も補わなかった。
トアの答えは、綺麗ではない。
森が好き。
家にも帰りたい。
今の身体に好きなところがある。
怖いところもある。
母親といたい。
変わり続けるのは嫌だ。
全部戻すのも嫌だ。
矛盾しているようで、そのどれも本人の本音だった。
二つから選ばせようとするから、答えが出なかっただけだ。
「エナさん」
リオが呼ぶ。
母親は息子から目を離さなかった。
長い沈黙のあと、ゆっくり近づく。
トアは逃げない。
エナは手を伸ばした。
けれど、その指は尖った耳の手前で止まった。
「私は……」
声が震えた。
「お前の姿が怖いんじゃない」
トアが母親を見る。
「本当に?」
「怖くないって言ったら、嘘になる」
エナは指を下ろした。
取り繕わなかった。
「急に耳が変わって、目が変わって、昨日できなかったことが今日できるようになって。見ているだけで、追いつけない」
「……うん」
「でも、耳が嫌なんじゃない。牙が嫌なんでもない」
そこで一度、息を詰める。
「お前が私を分からなくなるのが怖い」
トアの目が見開かれた。
「朝起きたら、私の声が届かなくなっているんじゃないかって。名前を呼んでも振り向かなくなるんじゃないかって。森の方が全部大事になって、家のことも、お父さんのことも、私のことも……忘れてしまうんじゃないかって」
エナの目から涙が落ちた。
「それが怖かった」
誰も口を挟まない。
「元に戻れば、そうならないと思った。前のお前なら、知ってるから」
トアが母を見つめる。
エナは泣きながら笑おうとして、うまくできなかった。
「これからのお前が分からないのが、怖かったの」
トアの爪が木の根から離れる。
「母さん」
「なに」
「俺も分かんない」
「……うん」
「明日どうなるか」
「うん」
「だったら」
トアがリオを見る。
今度の目には、さっきまでとは違うものがあった。
戻してほしいでもない。
このままでいいでもない。
初めて、治療へ向いた視線だった。
「じゃあ、そうならないように治して」
リオの呼吸が止まる。
エラの指が脳裏をよぎった。
一度。
二度。
三度。
『もういい』
あの時の声まで一緒に戻ってくる。
今、目の前の少年は自分の声で言った。
残したいものを。
怖いものを。
変えてほしいところを。
「先生?」
トアが不安そうに眉を寄せる。
リオは一度だけ目を閉じた。
それから診療鞄を下ろす。
「分かった」
今度の言葉は、以前とは違う重さを持っていた。
リオはトアの前へしゃがむ。
「全部戻す治療はしない」
エナを見る。
彼女は涙を拭いながら頷いた。
「今のまま放っておくこともしない」
トアも頷く。
「肺は?」
「残す方法を考える」
「声は?」
「守る」
「爪は?」
リオは少年の手を見る。
「それは、お前が残したいなら残せるか調べる」
トアの顔が少し明るくなる。
「木登りは?」
「爪だけの問題じゃない」
「じゃあ残せる?」
「診てからだ」
「先生、それ多いな」
「医者は診てから決めるんだ」
マヤが横から口を挟んだ。
「先生、食べ物も見てから決めますよ」
「関係ないだろ」
「森へ来てから一番学びました」
トアが小さく笑う。
エナも、涙の跡が残る顔で息を吐いた。
村人たちはまだ武器を持っている。
問題が消えたわけではない。
「だが、村へ戻すなら条件がある」
年嵩の男が言った。
「俺たちだって不安なんだ」
「分かっています」
リオは立ち上がる。
「感染性については、もう一度村でも確認します。変異の進行も定期的に診る。急激な変化が起きた時にどうするかも決める必要があります」
「それで大丈夫なのか?」
「大丈夫だとはまだ言えません」
リオは正直に答えた。
「だから治療するんです」
男はしばらく黙ったあと、槍を下げた。
それを見て、ほかの村人も少しずつ構えを解く。
縄だけはまだ肩に残っていた。
ラウ=マーナが大きく欠伸をした。
「話は終わったか」
マヤが彼女を見る。
「ずっと聞いてたんですか?」
「聞こえる」
「何か言わないんです?」
「医者が治すんだろ」
ラウはトアを見る。
「耳坊」
「なに」
「腹は減ったか」
「減った」
「なら食え」
大鍋を顎で示す。
トアが呆れた顔をした。
「今、その話?」
「腹が減ったまま治療の話をする方が馬鹿だ」
「……それはちょっと分かる」
マヤが頷く。
「君は黙ってろ」
リオが言う。
「どうしてです?」
「ラウと気が合いすぎる」
マヤは少し考えた。
「いいことでは?」
「たぶん不安だ」
鍋から湯気が上がる。
肉と香草の匂いが、張り詰めていた乳樹の下へ戻ってくる。
トアは一歩、母親へ近づいた。
エナも動いた。
今度は、耳に触れる前で手を止めなかった。
尖った耳の付け根を、壊れ物でも扱うようにそっと撫でる。
トアの耳がくすぐったそうに動いた。
「そこ、変な感じする」
「痛い?」
「違う。くすぐったい」
「……そう」
エナの指先から、少しだけ力が抜けた。
息子は変わった。
これからも変わるかもしれない。
けれど、何を残すかはもう、「元の姿」という言葉だけでは決めない。
リオは二人を見ながら診療鞄を開いた。
ようやく、治療するものが見え始めていた。




