第七節 ― 二つの鼓動
森の向こうから、人の声が近づいていた。
枝を払う音。落ち葉を踏む足音。ときおり混じる、誰かを呼ぶ声。
乳樹の根元にいた者たちは、先ほどまでと違って静かだった。子どもたちは大人の近くへ集まり、トアも遊びをやめてエナのそばにいる。ただし、母親の手を取るほど近くはない。
リオは森の入口へ目を向けていた。
村人たちがここまで来れば、話をしなければならない。
その前に何を言うべきか。
トアの身体について、どこまで説明するか。感染性がないことは伝えられる。理性も保たれている。問題なのは変異そのものではなく、その速度だ。
だが、そんな医学的な話だけで「獣憑き」という恐怖が消えるとも思えない。
「おい、娘」
唐突に、ラウ=マーナが言った。
リオが振り向く。
マヤも自分を指さした。
「わたしですか?」
「他に娘がいるか」
乳樹の周囲には、普通に何人かいる。
マヤは周囲を見回してから言った。
「いますけど」
ラウも見回した。
「そうだな」
「神様でも間違えるんですね」
「名前を呼べばよかった」
「マヤです」
「知ってる」
「では最初から呼んでください」
どうでもいいところで譲らない。
リオは口を挟まずに見ていた。
ラウ=マーナの様子が、少し違っていたからだ。
獣母の大きな耳がマヤへ向いている。
琥珀色の目も、さっきまでの雑な興味とは違う。
見ているというより、探っていた。
ラウが立ち上がる。
裸足が乳樹の根を踏む。
一歩。
マヤの前まで来る。
「……何ですか?」
返事はない。
ラウはマヤの顔へ鼻先を寄せた。
「近いです」
首筋。
肩。
髪。
すん、と匂いを嗅ぐ。
マヤが困ったようにリオを見る。
「先生」
「何だ」
「診察って、こういうものですか?」
「俺はやらない」
「ですよね」
ラウが髪の一房を指で持ち上げた。
鼻へ近づける。
「ちょっと」
「動くな」
「髪の匂いで何が分かるんですか」
「いろいろ」
「説明になってません」
「獣には十分だ」
今度は耳元へ顔を寄せる。
マヤの肩が上がった。
「くすぐったいです」
「静かにしろ」
「急に近づいてきたのはラウ=マーナ様です」
「喋ると聞こえん」
「何を――」
ラウの耳がぴくりと動いた。
その瞬間、獣母の表情が消えた。
マヤも気づいたらしい。
口を閉じる。
リオも自然と身体を起こした。
「どうした」
ラウは答えない。
マヤの肩へ手を置き、少し身体を屈める。
さらに顔を寄せた。
「え?」
次の瞬間、ラウ=マーナはマヤの胸へ耳を当てた。
「ちょ、ちょっと!」
マヤが真っ赤になって飛び退こうとする。
ラウの手が肩を押さえた。
「動くな」
「いや、でも、そこは!」
「黙れ」
「先生!」
リオは何も言わなかった。
「先生?」
「……少しだけ我慢してくれ」
「そっち側なんですか?」
抗議するマヤをよそに、ラウは目を閉じた。
リオには、ようやく分かった。
匂いではない。
今は音を聞いている。
ラウ=マーナは獣母神だ。
人間が聴診器を使うよりも近く、生き物の呼吸や血流、心臓の振動を拾えるのかもしれない。
だからリオは黙った。
森の向こうでは、まだ村人たちの声がする。
乳樹の葉が風に擦れる。
鍋の火が小さく爆ぜる。
それらの音の中で、ラウはマヤの胸へ耳を当て続けた。
長い。
さすがにマヤも動かなくなった。
最初は恥ずかしさで赤かった顔から、少しずつ色が引いていく。
「……何か、変ですか?」
ラウは答えない。
耳の位置を少し変える。
右。
左。
胸の中央。
それから、マヤの背へ手を回した。
花痕のある場所へ触れる寸前で止める。
リオの目が細くなった。
「ラウ」
「静かにしろ」
今度はリオが黙らされた。
マヤがほんの少しだけ口元を緩める。
「先生も怒られましたね」
「嬉しそうにするな」
「少しだけ」
けれど、笑えたのはそこまでだった。
ラウがゆっくり顔を上げる。
マヤを見る。
鼻先が触れそうな距離だった。
「人間だ」
その一言に、マヤの肩が目に見えて下がった。
「……そうですか」
自分でも気づいていなかったほど、緊張していたらしい。
小さく息を吐く。
「よかった」
その言葉を聞いたリオは、何も言わなかった。
マヤが何を安心したのか。
訊かなくても、何となく分かったからだ。
供物になったあと。
花が咲き。
獣の徴が出て。
死ぬはずだった身体が、死ななかった。
それでも誰かから「人間だ」と言われることは、彼女にとって思っている以上に大きい。
「……いや」
ラウが言った。
マヤの安堵が止まる。
「え?」
ラウはもう一度、マヤの胸を見る。
「二ついる」
リオの顔から、わずかに血の気が引いた。
「何が二つだ」
声が変わっていた。
マヤもそれに気づく。
ラウは自分の胸を指で叩いた。
「鼓動」
「心臓が二つ?」
マヤが胸元を押さえる。
「そんなはずはない」
リオはすぐに否定した。
これまで何度マヤを診たと思っている。
熱を出した時。
花痕が疼いた時。
祈りに反応したあと。
眠っている時にも脈を取った。
胸の音も聞いている。
心臓が二つあるなら、見落とせるはずがない。
「臓器が二つって意味じゃない」
ラウが言った。
「なら何だ」
獣母はマヤの胸へ指を向けた。
「一つは娘」
指先が、心臓の位置を示す。
「もう一つは、根だ」
マヤが瞬きをした。
「……根?」
「ああ」
「わたしの中に?」
「そう聞こえる」
ラウの言い方には、妙なところで確信がなかった。
神格が世界の真実を告げている声ではない。
ただ自分の耳が拾ったものを、そのまま口へ出している。
リオはそれを聞き逃さなかった。
「どういう根だ」
「知らん」
「お前でも?」
「知らんものは知らん」
ラウは肩をすくめた。
「腹の外から聞いたことのない脈だ」
それだけだった。
マヤが自分の胸を見る。
当然、何も見えない。
衣服の下にあるのはいつもの身体だ。
左肩から鎖骨へ伸びる花痕。
背中の徴。
傷つけば、ときおり咲く白い花。
それらとは違う何かが、さらに奥にあると言われても実感がない。
「ちょっと待て」
リオはもう診療鞄へ手を伸ばしていた。
さっきまで村人へ何を説明するか考えていたことなど、完全に頭から飛んでいる。
「マヤ。座って」
「はい」
返事をしてから、マヤが少し首を傾げた。
「……あれ?」
「どうした」
「いえ」
乳樹の根へ腰を下ろしながら、マヤはリオを見る。
「今まで気づかなかったんですか?」
リオの手が止まった。
言われてみれば、当然の疑問だった。
「三か月、診てますよね」
「診てる」
「何回も」
「……診てる」
「先生なのに?」
「念を押すな」
「いえ、責めてるわけじゃないです」
「顔が楽しそうだぞ」
「少しだけです」
「君はこういう時だけ元気だな」
マヤの口元が微かに緩んだ。
だが、胸へ置いた手は動かなかった。
不安はある。
だからこそ、普段どおりに振る舞おうとしている。
リオは息をひとつ吐き、彼女の前へ膝をついた。
「普通の心音に重なってた」
「重なる?」
「ああ」
指先をマヤの手首へ当てる。
いつもの脈。
規則正しい。
速くも遅くもない。
「少なくとも、俺が今まで聞いていた音はこれだ」
リオは自分の耳を疑うように、少し眉を寄せた。
「もし別の脈がずっと同じ拍で重なってたなら、一つに聞こえてもおかしくない」
「今日はずれた?」
「かもしれない」
「かもしれない?」
「分からないことを分かったふうに言わせるな」
「珍しいですね」
「何が」
「先生が、こんなにはっきり『分からない』って言うの」
リオは答えなかった。
血読針を出しかける。
その前に、ラウが言った。
「血じゃないぞ」
リオの手が止まる。
「分かるのか?」
「匂いが違う」
「何の匂いだ」
「だから知らん」
ラウは面倒そうに頭を掻いた。
「血の中にいるなら血の匂いがする。獣なら獣の匂いがする。花なら花の匂いだ」
マヤを顎で示す。
「こいつの奥のは、そのどれでもない」
「根なんだろ」
「根に似てる」
「さっき根だと言った」
「細かいな、医者」
「細かくなきゃ診断できない」
「だから難しい顔ばかりしてるのか」
「関係ない」
マヤは二人を交互に見る。
「どっちが正しいんです?」
同時に答えた。
「分からん」
「まだ分からない」
マヤは黙った。
「……そこだけ息ぴったりですね」
リオは血読針を戻した。
今すぐ刺しても、得られるものがないなら意味がない。
代わりに左腕の包帯を少し緩める。
聖獣の徴を露出させ、マヤの手首へ触れた。
「《医脈》を見る」
「はい」
「嫌なら言え」
「嫌じゃないです」
返事を聞いてから、指先へ意識を集中する。
いつもの生命の流れが返る。
心拍。
血流。
呼吸。
花痕へ集まる微かな神格反応。
それらは以前から知っている。
けれど、今度はその奥を探した。
心臓の拍動に意識を合わせる。
一度。
次。
その次。
規則正しい。
何もない。
そう思ったところで。
ほんのわずかに、指先へ別の揺れが触れた。
心音ではない。
血管の脈でもない。
あまりにも弱い。
聞こうとした瞬間には、もう普通の拍動へ溶けていた。
リオは目を開けた。
「先生?」
「……もう一回」
マヤは黙って手を差し出したまま待つ。
リオは再び探る。
だが、今度は分からない。
普通の心拍しかない。
一度認識してしまったから、あるような気がしているだけなのかもしれない。
医者として、一番信用してはいけない感覚だった。
「どうです?」
「今のところ、確認できない」
「ないんですか?」
「そうとも言ってない」
リオは手を離した。
「俺が拾えないだけかもしれない」
マヤは胸元へ手を戻した。
そこでは、いつもと同じ心臓が動いているはずだった。
自分では、一つしか分からない。
「痛くは?」
「ありません」
「息苦しさ」
「ないです」
「熱」
「平気です」
「背中は?」
一瞬。
マヤの答えが遅れた。
「……少し、あったかいです」
リオの目が背中へ向く。
白い獣の痕跡を追い始めてから、ときおり彼女が隠していた反応。
「いつから」
「舟に乗ってた頃には、少し」
「なんで言わなかった」
「痛くなかったので」
「痛くなければ報告しなくていいとは言ってない」
「言ってませんでした?」
「言ってない」
「では、今知りました」
「マヤ」
「はい」
叱られると分かっている顔で、素直に返事をする。
リオは額を押さえた。
「次から言え」
「はい」
「本当に」
「はい」
「その返事、信用していいか?」
「努力します」
「信用できないやつだな」
マヤが少し笑った。
その笑顔を見て、リオはそれ以上責めなかった。
代わりに胸へ視線を落とす。
二ついる。
一つは娘。
もう一つは根。
ラウ=マーナの言葉だけでは、診断にならない。
根が何なのか。
いつからあるのか。
白い獣と関係しているのか。
マヤが死ななかったことと関係するのか。
何ひとつ分からない。
そして分からない以上、今ここで名前をつけてはいけない。
「先生」
「何だ」
「怖い顔してます」
「考えてるだけだ」
「それ、前にも聞きました」
「便利な言葉だからな」
「わたし、大丈夫ですよ」
リオはすぐに返さなかった。
マヤがまた、その言葉を使った。
大丈夫。
痛くないから。
歩けるから。
まだ笑えるから。
この少女は、自分についてはいつも判断が早すぎる。
「それも、まだ分からない」
マヤが目を丸くした。
リオは診療鞄を閉じる。
「だから診る」
短く言って立ち上がった。
森の向こうでは、村人たちの足音がいよいよ近い。
トアの問題も終わっていない。
今すぐマヤだけを連れて引き返すわけにもいかない。
ラウ=マーナはそんな二人を眺めてから、大きく欠伸をした。
「娘」
「マヤです」
「そうだったな」
「今さっき言いました」
「お前の中の方は、名前が分からん」
マヤの表情から笑みが消える。
ラウは続けなかった。
本当に、それ以上知らないのだろう。
獣母の耳だけが、マヤの胸へもう一度向いた。
マヤも自分の胸へ手を当てる。
一つ。
いつもの鼓動が、掌の奥で規則正しく続いている。
その音の下で。
自分には聞こえない何かが、もう一つ動いている。
そう思った瞬間だけ、背中の花痕が微かに熱を持った。




