第六節 ― 君の名前は
最初に気づいたのは、ラウ=マーナだった。
乳樹の根元では、切り分けた肉が鍋へ運ばれ、子どもたちが配膳を手伝うふりをしながら焼けた端肉をつまみ食いしていた。誰かが怒鳴り、誰かが笑う。白い樹液の甘い匂いに、煮えた肉と香草の匂いが混ざっている。
そのざわめきの中で、ラウの耳だけがふいに森の方角へ向いた。
尾の動きも止まる。
「来たな」
低い声だった。
リオが顔を上げる。
「何が?」
「人間」
言われた直後、森の奥で枝が折れた。
ひとつではない。
複数の足音が、落ち葉を踏みながら近づいてくる。
乳樹の周りにいた者たちの反応は早かった。遊んでいた子どもを大人が呼び寄せ、怪我人を奥へ移す。武器を構える者はいなかったが、角のある男が鍋の前から立ち、鱗の老人も昼寝をやめて目を開けた。
それまで森の子どもたちと一緒にいたトアが、笑顔を消した。
尖った耳が伏せられる。
エナも音の方角を見た。
「村の人たち……」
声に安堵はなかった。
リオは診療鞄を足元へ置き、木々の間へ目を凝らす。
まだ姿は見えない。
だが声は届いた。
「足跡はこっちだ!」
「獣憑きを探せ!」
トアの肩が跳ねた。
エナが息子を見る。
次の声は、もっと近かった。
「あれを放っておけない。完全に森へ入る前に連れ戻すぞ」
「森戻りだ。獣道へ逃げたに違いない」
誰も、トアと呼ばなかった。
さっきまで乳樹の根を走り回り、腹が減ったと文句を言い、診察が長いと嫌な顔をしていた十一歳の少年が、森の向こうから聞こえる言葉の中では、もういなかった。
獣憑き。
森戻り。
あれ。
マヤは、トアを見た。
少年は俯いていた。
金色の目も、尖った耳も、長くなった牙も変わらない。
なのに、ほんの少し前まで楽しそうに動いていた身体が、急に小さくなったように見えた。
「獣憑きは見つけ次第押さえろ!」
また声が飛ぶ。
リオが口を開いた。
「トアだ」
大きな声ではなかった。
怒鳴ってもいない。
けれど、乳樹の下にいた者たちには聞こえた。
トアも顔を上げた。
「名前はトアだ」
リオは森の向こうを見たまま、もう一度言った。
それだけだった。
獣憑きと呼ぶな、と説教するでもない。
森戻りという言葉の意味を論じるでもない。
ただ、名前を戻した。
マヤの指先が止まった。
手には、エラからもらった果実の残りがあった。
甘酸っぱい香りが、かすかに鼻へ届く。
名前を訊かれた日のことを、思い出した。
三か月前。
あの時も、匂いがあった。
今とは違う。
果実でも、獣毛でも、煮込んだ肉でもない。
熱に蒸された薬草と、人の汗と、白い花の匂い。
祈りの声が、途切れることなく続いていた。
マヤは熱の中にいた。
身体が自分のものではないように重かった。
石の祭壇は冷たいはずなのに、背中には熱しか感じない。呼吸をするたび胸が痛み、どこかで花が開くような感覚がした。
実際に、花は咲いていた。
肩口。
手首。
肌の傷んだ場所。
小さな白い花が、血の代わりに身体から顔を出している。
人々はそれを見て祈った。
祈られるたびに、花が熱を持った。
何を言っているのか、半分も聞き取れなかった。
神の御手。
帰還。
奇跡。
供物。
いくつもの言葉が頭上を行き交う。
自分へ向けられているはずなのに、自分の話をされている気がしなかった。
「供物――」
神官の声がした。
誰かが近づく足音。
祈りとは違う。
一定で、迷いのない歩き方だった。
「名前は?」
若い男の声がした。
神官が答えた。
何と答えたのか、熱に浮かされたマヤにはよく聞こえなかった。
供物の名だったか。
神殿で与えられた呼び名だったか。
ただ、その直後の言葉だけは、妙にはっきり覚えている。
「あなたには聞いてません」
祈りが、一瞬だけ遠くなった。
男が祭壇の横へしゃがむ。
黒褐色の髪。
疲れた目。
旅の汚れが残る服。
神官でもなければ、祈るために来た人にも見えなかった。
彼は白い花を見た。
傷を見た。
熱に浮かされた呼吸を見た。
それから、マヤの顔を見た。
「君の名前は?」
訊かれた意味が、すぐには分からなかった。
もう呼ばれていたからだ。
供物。
ルクナ。
奇跡。
戻ってきた子。
いくつもあった。
どれを答えればいいのか分からない。
男は待っていた。
神官が口を挟もうとしても、見なかった。
急かさなかった。
長い沈黙の間、ただマヤを見ていた。
誰かの説明を待つ顔ではなかった。
自分の声を待っている。
それに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。
唇を動かす。
喉が乾いて、最初は音にならなかった。
もう一度。
「……マヤ」
男の目が、ほんの少し柔らかくなった。
それ以上は訊かなかった。
その日のことを、マヤは全部覚えているわけではない。
熱が高かった。
痛みもあった。
ところどころ、記憶は白い花に埋もれたように曖昧だ。
けれど、自分の名を口にした瞬間だけは残っている。
マヤ。
それは供物の役目でも、奇跡の呼び名でもなかった。
ずっと前から持っていた、自分の名前だった。
森の音が戻る。
マヤは瞬きをした。
三か月前の祭壇は消え、目の前には乳樹があった。
白い樹液。
異形の者たち。
森の向こうから近づいてくる村人の声。
そしてトア。
少年はリオを見ていた。
「……先生」
「何だ」
「別に、名前くらい自分で言える」
「そうか」
「子ども扱いするなよ」
「十一歳だろ」
「もうすぐ十二歳」
「子どもだな」
「そこ大事だから!」
トアの耳がぴんと立った。
さっきまで縮こまっていた肩も少し戻る。
マヤは思わず口元を緩めた。
「では、十二歳になったら大人ですか?」
「少なくとも十一よりは大人だろ」
「それは間違ってません」
「だろ?」
「一歳分だけ」
「マヤまでそっちにつくなよ」
トアが不満そうに牙を見せる。
笑えば、牙がある。
怒れば、耳が動く。
名前を呼ばれれば振り向く。
今のトアだった。
森の向こうでは、まだ別の名前で呼ばれている。
「森戻りはこの辺にいるはずだ!」
トアの表情が再び硬くなった。
マヤは今度、その言葉を聞いても少年から目を離さなかった。
呼び名は便利だ。
供物。
患者。
獣憑き。
森戻り。
短い言葉ひとつで、その人が何者なのか分かったような気になれる。
けれど、その言葉の中に入れられた本人が、同じ意味で自分を見ているとは限らない。
マヤは、それを知っている。
知っていたはずなのに、三か月前のことを思い出すまで、うまく言葉にはできなかった。
視線をリオへ向ける。
彼は森の方を見ていた。
表情はいつもと変わらない。
さっきエラを見つけた時のような怯えも、もう表には出ていない。
ただ、村人たちの声に耳を澄ませながら、トアの立つ位置を気にしている。
マヤは初めて少し分かった気がした。
なぜ、この人が名前を訊くのか。
なぜ、神官が答えても聞き直したのか。
あの時、リオはマヤについて何も知らなかった。
供物として何をされたのか。
何が身体に起きているのか。
助けられるのか。
何ひとつ分からないまま、最初に名前を訊いた。
それはたぶん、治療より先に、誰を診るのか確かめるためだった。
「リオ」
ラウ=マーナが呼んだ。
獣母はいつの間にか乳樹の太い根へ腰を下ろしていた。
村人たちが近づいているというのに、慌てる様子はない。
「どうする」
リオは答える前にトアを見た。
その視線だけで、トアの顔が少し強張る。
エナも息子を見る。
「帰らない」
トアが先に言った。
「今は」
最後の二文字が、小さく付け足された。
エナがそれを聞いた。
すぐに否定はしなかった。
「……分かった」
今度はトアが驚いた顔をする。
エナは手を握りしめている。
納得したわけではないのだろう。
怖くなくなったわけでもない。
それでも、息子の言葉を聞いた。
少なくとも今は。
リオが診療鞄を肩へ掛ける。
「じゃあ、まず話をします」
「村の人と?」
マヤが尋ねる。
「ああ」
「先生、怒ってます?」
「別に」
「顔が怖いです」
「元かららしい」
「ラウ=マーナ様の評価を採用するんですね」
「便利だからな」
マヤは小さく笑った。
その横で、トアも少しだけ笑う。
森の向こうから、人影が見え始めた。
鉈を持つ者。
縄を持つ者。
不安そうな顔。
険しい顔。
彼らが探しているのは、獣憑きかもしれない。
森戻りかもしれない。
けれど乳樹の根元にいる少年には、もう一度呼べる名前がある。
マヤは、その名前を心の中で確かめた。
トア。
そして、自分の名前も。
マヤ。
それだけで、三か月前より少しだけ、自分の足でここに立っている気がした。




