第五節 ― 救ってしまった人
乳樹の根元では、昼食の支度が続いていた。
切り分けられた獲物の肉が大鍋へ放り込まれ、香草と一緒に煮込まれている。脂の匂いに青い葉の香りが混ざり、森の湿気の中へ濃く漂っていた。
子どもたちは鍋ができるまで待つ気などないらしい。
トアもいつの間にか診察から解放され、半獣化した子どもたちに混じって木の根を飛び越えている。先ほどまで母親とぶつかっていた少年と同じとは思えないほど、身体の動きが軽かった。
エナは少し離れたところから、それを見ている。
まだ近づけてはいない。
だが、もう「連れて帰る」とも言わなかった。
リオは診療鞄を閉じた。
変異速度を抑える方法はいくつか考えられる。
ただし、今すぐ処置を始める段階ではない。
何を残すのか。
何を止めるのか。
その話をするには、トアとエナの間にまだ言葉が足りなかった。
「先生」
マヤが横から覗き込む。
「難しい顔してます」
「考えてる」
「さっきラウ=マーナ様にも言われてましたね」
「聞いてたのか」
「近くにいましたので」
「便利な耳だな」
「普通です」
マヤは自分の耳を触った。
「今のところ」
冗談めかして言ったあと、自分で少しだけ表情を止める。
リオは気づいたが、何も言わなかった。
代わりに立ち上がる。
「薬を少し置いていく」
「さっき、けちって言われてたやつですね」
「患者を診てからって言っただけだ」
「神様に薬を取られる旅、なかなかないですよ」
「取られてない。渡すんだ」
「自発的に?」
「……渡すんだ」
マヤが笑う。
リオは診療鞄を肩へ掛け直そうとした。
そこで、動きが止まった。
根の向こう。
洗濯物を取り込んでいた人影が、一人。
白い布を腕へ抱え、ゆっくりこちらを向いた。
リオの指が、診療鞄の革紐から外れた。
鞄が落ちる。
寸前で掴んだ。
中の瓶がぶつかり合い、乾いた音を立てる。
「先生?」
マヤが振り返る。
返事はなかった。
リオは人影を見ている。
動かない。
いや、動けないように見えた。
三か月。
マヤは三か月、この男と一緒に歩いてきた。
死体に花が咲いても、リオはまず脈を診た。
群衆に囲まれても、怒鳴り返すより先に患者を見た。
白い獣の気配を追う時ですら、目の前に病人がいれば足を止めた。
怖がらない人ではない。
危険を知らない人でもない。
けれど、恐怖で身体が固まる姿を、マヤは一度も見たことがなかった。
今、そのリオの呼吸が浅くなっていた。
「……エラ」
名前が、かすれた。
女性は答えなかった。
答えられない。
肌の一部が樹皮へ変わっていた。
左の肩から胸元へ、褐色の硬い表皮が広がっている。片腕には白い獣毛が生え、指先は人間のものより少し長い。
頬から首にかけて、小さな花が咲いていた。
飾りではない。
花弁の中心が、音や風に反応するように微かに開閉している。
耳の代わりなのか。
皮膚の感覚を補っているのか。
マヤには分からない。
ただ、人と植物と獣が、誰にも境界を引けないまま一つの身体に存在していた。
エラ=ミルはリオを見ていた。
声はない。
表情も読み取りにくい。
それでも、視線だけは外さない。
リオの中で、白い森が消えた。
代わりに、古い病室の匂いが蘇る。
薬草を煮詰めた苦い臭い。
湿った布。
浅い呼吸。
細くなった手。
『もういい』
若い自分の声。
『まだ方法があります』
病床の上で、エラが首を振る。
『先生、もう――』
そこで記憶が切れた。
リオは息を吸った。
乳樹の下へ戻る。
エラがいる。
生きている。
そこに立っている。
その事実を喜ぶより先に、身体が動いた。
「診せてくれ」
リオは一歩近づいた。
エラが下がった。
ほんの半歩。
それだけだった。
だが十分だった。
リオの足が止まる。
手も止まった。
昔なら、どうしていただろう。
必要なことだと説明した。
治療のためだと言った。
自分の方が身体を分かっていると思った。
目の前の人間が拒んでも、もっと良い結果を知っているのは自分だと信じた。
リオはゆっくり手を下ろした。
「……分かった」
それだけ言った。
近づかない。
診療鞄も開かない。
エラを見ているが、急かさない。
森の生活音が二人の間を流れていく。
鍋の中で煮汁が弾ける音。
子どもの笑い声。
洗った布を絞る音。
遠くでトアが何か言い返し、別の子どもに追い回されている。
マヤも動かなかった。
リオが待っている理由を、聞かなくても分かった。
やがて、エラの花が微かに震えた。
一歩。
彼女の方から近づく。
リオはまだ動かない。
もう一歩。
エラが白毛に覆われた腕を上げた。
掌を見せる。
差し出す。
リオの喉が動いた。
「……触っていい?」
エラは手を引かなかった。
それを返事として、リオはようやく左手を伸ばした。
包帯越しの指で、手首へ触れる。
脈がある。
ゆっくり。
安定している。
リオの呼吸だけが、うまく整わなかった。
手首から腕へ。
白い毛の根元。
樹皮化した皮膚との境界。
花の感覚器には直接触れず、周囲の熱だけを確かめる。
異常な発熱はない。
炎症も強くない。
エラはじっとしている。
診察を受けている。
それだけなのに、リオの手つきは普段より慎重だった。
少しでもエラが腕を引けば、その瞬間に離すつもりなのだと分かるほどに。
「痛む?」
答えはない。
リオは自分で気づき、口を閉じた。
エラは話せない。
問診の形を変えなければならない。
「ここが痛ければ、手を引いてくれ」
肩近くへ触れる。
反応なし。
「これは?」
樹皮との境界。
エラの指が少し動いた。
リオはすぐに手を離す。
「痛い?」
エラは首を横へ振った。
違うらしい。
少し考えてから、自分の肩へ触れ、指先で軽く擦った。
「痒い?」
今度は頷く。
「分かった」
リオは小さな記録帳を出しかけて、やめた。
今は書くより、見る。
エラは以前とは違う身体で、以前とは違う方法を使って答えている。
それを、今度こそ聞き落とさないように。
「おい」
ラウ=マーナの声がした。
獣母は果実をいくつか腕に抱えていた。
「邪魔するぞ」
「診察中だ」
「腹が減るだろ」
「患者が?」
「全員だ」
ラウは果実を根の上へ転がした。
赤いもの。
黄緑色のもの。
濃い紫。
斑点のある黄色。
形も匂いもばらばらだった。
エラがそちらを見る。
「まだ好きなら食え」
ラウが顎で示す。
リオの目が、一つの実へ止まった。
淡い橙色の、小ぶりな果実。
エラも同じものを見ていた。
何個もある中から、迷わずそれだけを取る。
指で皮を割る。
甘酸っぱい香りが広がった。
リオは何も言わなかった。
若い頃。
診察後に食事が出ると、彼女はいつもその実から手をつけていた。
病で食欲が落ちてからも、それだけは口にした。
「これも食え」
ラウが今度は薬草を一本差し出した。
葉の縁が黒く、苦い匂いがする。
エラは見た。
すぐに顔を背けた。
「嫌いか」
さらに反対を向く。
「変わらんな」
ラウが笑った。
マヤはエラを見る。
果実を選ぶ。
嫌いなものから顔を背ける。
当たり前のことだった。
当たり前すぎる。
なのに、マヤの胸の奥が少し痛んだ。
祈られれば花が咲く身体。
死なない身体。
普通から外れたものを持つたびに、周囲はその部分だけを見る。
花。
獣毛。
樹皮。
奇跡。
変異。
患者。
けれど、好きな食べ物まで変異するわけではない。
「エラ」
リオが呼ぶ。
女性が顔を向ける。
「もう終わる」
診察を終えるつもりだった。
十分見た。
これ以上は、また自分の都合で触れることになる気がした。
リオが手を引く。
その時だった。
小さな音がした。
ぱち。
リオの動きが止まる。
エラの指だった。
親指と中指を合わせ、鳴らしている。
もう一度。
ぱち。
マヤが目を瞬く。
三度目。
ぱち。
一度。
二度。
三度。
リオは息をしなかった。
できなかった。
昔。
処置が長引いた時。
待たされて苛立った時。
苦い薬を飲まされそうになった時。
エラはいつも、指を三度鳴らした。
一度でも。
二度でもない。
必ず三度。
リオが覚えている。
忘れたことなどなかった。
「……エラ」
呼んでも、声は返らない。
彼女はただリオを見る。
花が微かに開閉している。
何を伝えたかったのか、分からない。
昔と同じ癖なのか。
診察を終わらせたことへの反応なのか。
それとも、たまたま指を鳴らしただけなのか。
リオには決められなかった。
決めてはいけない気がした。
ただ、そこに意思がある。
選ぶものがあり。
嫌がるものがあり。
近づく相手を自分で決め。
触れられることを許すかどうか、自分で示す。
それだけは分かった。
「こいつは喋れない」
ラウ=マーナが言った。
リオは振り向かなかった。
「だから、何も考えてないと思ったのか」
言葉が胸へ入った。
深く。
言い返せることはあったかもしれない。
当時は分からなかった。
発声を失った。
反応も乏しかった。
人間としての意思がどこまで残ったのか、誰にも判断できなかった。
そう説明することはできる。
だが、そのどれも、今のリオには必要なかった。
問題は、エラに意思が残っていたかどうかだけではない。
残っていたから罪になるわけでもない。
残っていなければ許されるわけでもない。
病床で、彼女は言った。
『もういい』
あの時には、声があった。
はっきりと。
自分へ向けて。
それなのに。
リオは聞かなかった。
エラが今ここで果実を選び、薬草を嫌がり、指を三度鳴らしたからといって、あの夜の選択が正しかったことにはならない。
むしろ逆だった。
今もこの身体の中に、自分で選ぶ誰かがいる。
なら、あの時奪ったものが何だったのかを、もう言い逃れできない。
マヤはリオの横顔を見ていた。
「先生」
呼びかけても、返事が遅い。
「……何だ」
「この人は」
続けようとして、マヤは言葉を変えた。
幸せなのか。
救われているのか。
そんなことを自分が聞いていいのか、分からなかった。
「知り合いなんですね」
「ああ」
それだけだった。
マヤはそれ以上訊かなかった。
エラが果実を一房ちぎる。
自分で一つ食べたあと、残りをマヤへ差し出した。
「わたしに?」
エラは手を出したまま待っている。
マヤは受け取った。
「ありがとうございます」
一口齧る。
目が少し大きくなる。
「おいしい」
エラの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
マヤはそう思ったが、決めつけなかった。
ラウが残りの薬草をリオへ押しつける。
「持ってけ」
「なんで俺に」
「耳坊に使うなら要る」
リオは薬草を受け取った。
苦い匂いが鼻につく。
視線を上げる。
少し離れたところで、トアが母親を気にしながら、子どもたちと話している。
エナも息子を見ている。
戻すべき身体。
残すべき身体。
そんな言葉だけでは足りない。
そこには、本人がいる。
エラが、三度指を鳴らす。
今度は何に苛立ったのか、リオには分からなかった。
分からないままでいい。
次は、勝手に意味を決めない。
リオは診療鞄を拾い直した。
手はまだ少し震えていた。




