↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/41

第五節 ― 救ってしまった人

 乳樹の根元では、昼食の支度が続いていた。


 切り分けられた獲物の肉が大鍋へ放り込まれ、香草と一緒に煮込まれている。脂の匂いに青い葉の香りが混ざり、森の湿気の中へ濃く漂っていた。


 子どもたちは鍋ができるまで待つ気などないらしい。


 トアもいつの間にか診察から解放され、半獣化した子どもたちに混じって木の根を飛び越えている。先ほどまで母親とぶつかっていた少年と同じとは思えないほど、身体の動きが軽かった。


 エナは少し離れたところから、それを見ている。


 まだ近づけてはいない。


 だが、もう「連れて帰る」とも言わなかった。


 リオは診療鞄を閉じた。


 変異速度を抑える方法はいくつか考えられる。


 ただし、今すぐ処置を始める段階ではない。


 何を残すのか。


 何を止めるのか。


 その話をするには、トアとエナの間にまだ言葉が足りなかった。


「先生」


 マヤが横から覗き込む。


「難しい顔してます」


「考えてる」


「さっきラウ=マーナ様にも言われてましたね」


「聞いてたのか」


「近くにいましたので」


「便利な耳だな」


「普通です」


 マヤは自分の耳を触った。


「今のところ」


 冗談めかして言ったあと、自分で少しだけ表情を止める。


 リオは気づいたが、何も言わなかった。


 代わりに立ち上がる。


「薬を少し置いていく」


「さっき、けちって言われてたやつですね」


「患者を診てからって言っただけだ」


「神様に薬を取られる旅、なかなかないですよ」


「取られてない。渡すんだ」


「自発的に?」


「……渡すんだ」


 マヤが笑う。


 リオは診療鞄を肩へ掛け直そうとした。


 そこで、動きが止まった。


 根の向こう。


 洗濯物を取り込んでいた人影が、一人。


 白い布を腕へ抱え、ゆっくりこちらを向いた。


 リオの指が、診療鞄の革紐から外れた。


 鞄が落ちる。


 寸前で掴んだ。


 中の瓶がぶつかり合い、乾いた音を立てる。


「先生?」


 マヤが振り返る。


 返事はなかった。


 リオは人影を見ている。


 動かない。


 いや、動けないように見えた。


 三か月。


 マヤは三か月、この男と一緒に歩いてきた。


 死体に花が咲いても、リオはまず脈を診た。


 群衆に囲まれても、怒鳴り返すより先に患者を見た。


 白い獣の気配を追う時ですら、目の前に病人がいれば足を止めた。


 怖がらない人ではない。


 危険を知らない人でもない。


 けれど、恐怖で身体が固まる姿を、マヤは一度も見たことがなかった。


 今、そのリオの呼吸が浅くなっていた。


「……エラ」


 名前が、かすれた。


 女性は答えなかった。


 答えられない。


 肌の一部が樹皮へ変わっていた。


 左の肩から胸元へ、褐色の硬い表皮が広がっている。片腕には白い獣毛が生え、指先は人間のものより少し長い。


 頬から首にかけて、小さな花が咲いていた。


 飾りではない。


 花弁の中心が、音や風に反応するように微かに開閉している。


 耳の代わりなのか。


 皮膚の感覚を補っているのか。


 マヤには分からない。


 ただ、人と植物と獣が、誰にも境界を引けないまま一つの身体に存在していた。


 エラ=ミルはリオを見ていた。


 声はない。


 表情も読み取りにくい。


 それでも、視線だけは外さない。


 リオの中で、白い森が消えた。


 代わりに、古い病室の匂いが蘇る。


 薬草を煮詰めた苦い臭い。


 湿った布。


 浅い呼吸。


 細くなった手。


『もういい』


 若い自分の声。


『まだ方法があります』


 病床の上で、エラが首を振る。


『先生、もう――』


 そこで記憶が切れた。


 リオは息を吸った。


 乳樹の下へ戻る。


 エラがいる。


 生きている。


 そこに立っている。


 その事実を喜ぶより先に、身体が動いた。


「診せてくれ」


 リオは一歩近づいた。


 エラが下がった。


 ほんの半歩。


 それだけだった。


 だが十分だった。


 リオの足が止まる。


 手も止まった。


 昔なら、どうしていただろう。


 必要なことだと説明した。


 治療のためだと言った。


 自分の方が身体を分かっていると思った。


 目の前の人間が拒んでも、もっと良い結果を知っているのは自分だと信じた。


 リオはゆっくり手を下ろした。


「……分かった」


 それだけ言った。


 近づかない。


 診療鞄も開かない。


 エラを見ているが、急かさない。


 森の生活音が二人の間を流れていく。


 鍋の中で煮汁が弾ける音。


 子どもの笑い声。


 洗った布を絞る音。


 遠くでトアが何か言い返し、別の子どもに追い回されている。


 マヤも動かなかった。


 リオが待っている理由を、聞かなくても分かった。


 やがて、エラの花が微かに震えた。


 一歩。


 彼女の方から近づく。


 リオはまだ動かない。


 もう一歩。


 エラが白毛に覆われた腕を上げた。


 掌を見せる。


 差し出す。


 リオの喉が動いた。


「……触っていい?」


 エラは手を引かなかった。


 それを返事として、リオはようやく左手を伸ばした。


 包帯越しの指で、手首へ触れる。


 脈がある。


 ゆっくり。


 安定している。


 リオの呼吸だけが、うまく整わなかった。


 手首から腕へ。


 白い毛の根元。


 樹皮化した皮膚との境界。


 花の感覚器には直接触れず、周囲の熱だけを確かめる。


 異常な発熱はない。


 炎症も強くない。


 エラはじっとしている。


 診察を受けている。


 それだけなのに、リオの手つきは普段より慎重だった。


 少しでもエラが腕を引けば、その瞬間に離すつもりなのだと分かるほどに。


「痛む?」


 答えはない。


 リオは自分で気づき、口を閉じた。


 エラは話せない。


 問診の形を変えなければならない。


「ここが痛ければ、手を引いてくれ」


 肩近くへ触れる。


 反応なし。


「これは?」


 樹皮との境界。


 エラの指が少し動いた。


 リオはすぐに手を離す。


「痛い?」


 エラは首を横へ振った。


 違うらしい。


 少し考えてから、自分の肩へ触れ、指先で軽く擦った。


「痒い?」


 今度は頷く。


「分かった」


 リオは小さな記録帳を出しかけて、やめた。


 今は書くより、見る。


 エラは以前とは違う身体で、以前とは違う方法を使って答えている。


 それを、今度こそ聞き落とさないように。


「おい」


 ラウ=マーナの声がした。


 獣母は果実をいくつか腕に抱えていた。


「邪魔するぞ」


「診察中だ」


「腹が減るだろ」


「患者が?」


「全員だ」


 ラウは果実を根の上へ転がした。


 赤いもの。


 黄緑色のもの。


 濃い紫。


 斑点のある黄色。


 形も匂いもばらばらだった。


 エラがそちらを見る。


「まだ好きなら食え」


 ラウが顎で示す。


 リオの目が、一つの実へ止まった。


 淡い橙色の、小ぶりな果実。


 エラも同じものを見ていた。


 何個もある中から、迷わずそれだけを取る。


 指で皮を割る。


 甘酸っぱい香りが広がった。


 リオは何も言わなかった。


 若い頃。


 診察後に食事が出ると、彼女はいつもその実から手をつけていた。


 病で食欲が落ちてからも、それだけは口にした。


「これも食え」


 ラウが今度は薬草を一本差し出した。


 葉の縁が黒く、苦い匂いがする。


 エラは見た。


 すぐに顔を背けた。


「嫌いか」


 さらに反対を向く。


「変わらんな」


 ラウが笑った。


 マヤはエラを見る。


 果実を選ぶ。


 嫌いなものから顔を背ける。


 当たり前のことだった。


 当たり前すぎる。


 なのに、マヤの胸の奥が少し痛んだ。


 祈られれば花が咲く身体。


 死なない身体。


 普通から外れたものを持つたびに、周囲はその部分だけを見る。


 花。


 獣毛。


 樹皮。


 奇跡。


 変異。


 患者。


 けれど、好きな食べ物まで変異するわけではない。


「エラ」


 リオが呼ぶ。


 女性が顔を向ける。


「もう終わる」


 診察を終えるつもりだった。


 十分見た。


 これ以上は、また自分の都合で触れることになる気がした。


 リオが手を引く。


 その時だった。


 小さな音がした。


 ぱち。


 リオの動きが止まる。


 エラの指だった。


 親指と中指を合わせ、鳴らしている。


 もう一度。


 ぱち。


 マヤが目を瞬く。


 三度目。


 ぱち。


 一度。


 二度。


 三度。


 リオは息をしなかった。


 できなかった。


 昔。


 処置が長引いた時。


 待たされて苛立った時。


 苦い薬を飲まされそうになった時。


 エラはいつも、指を三度鳴らした。


 一度でも。


 二度でもない。


 必ず三度。


 リオが覚えている。


 忘れたことなどなかった。


「……エラ」


 呼んでも、声は返らない。


 彼女はただリオを見る。


 花が微かに開閉している。


 何を伝えたかったのか、分からない。


 昔と同じ癖なのか。


 診察を終わらせたことへの反応なのか。


 それとも、たまたま指を鳴らしただけなのか。


 リオには決められなかった。


 決めてはいけない気がした。


 ただ、そこに意思がある。


 選ぶものがあり。


 嫌がるものがあり。


 近づく相手を自分で決め。


 触れられることを許すかどうか、自分で示す。


 それだけは分かった。


「こいつは喋れない」


 ラウ=マーナが言った。


 リオは振り向かなかった。


「だから、何も考えてないと思ったのか」


 言葉が胸へ入った。


 深く。


 言い返せることはあったかもしれない。


 当時は分からなかった。


 発声を失った。


 反応も乏しかった。


 人間としての意思がどこまで残ったのか、誰にも判断できなかった。


 そう説明することはできる。


 だが、そのどれも、今のリオには必要なかった。


 問題は、エラに意思が残っていたかどうかだけではない。


 残っていたから罪になるわけでもない。


 残っていなければ許されるわけでもない。


 病床で、彼女は言った。


『もういい』


 あの時には、声があった。


 はっきりと。


 自分へ向けて。


 それなのに。


 リオは聞かなかった。


 エラが今ここで果実を選び、薬草を嫌がり、指を三度鳴らしたからといって、あの夜の選択が正しかったことにはならない。


 むしろ逆だった。


 今もこの身体の中に、自分で選ぶ誰かがいる。


 なら、あの時奪ったものが何だったのかを、もう言い逃れできない。


 マヤはリオの横顔を見ていた。


「先生」


 呼びかけても、返事が遅い。


「……何だ」


「この人は」


 続けようとして、マヤは言葉を変えた。


 幸せなのか。


 救われているのか。


 そんなことを自分が聞いていいのか、分からなかった。


「知り合いなんですね」


「ああ」


 それだけだった。


 マヤはそれ以上訊かなかった。


 エラが果実を一房ちぎる。


 自分で一つ食べたあと、残りをマヤへ差し出した。


「わたしに?」


 エラは手を出したまま待っている。


 マヤは受け取った。


「ありがとうございます」


 一口齧る。


 目が少し大きくなる。


「おいしい」


 エラの口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑ったのかもしれない。


 マヤはそう思ったが、決めつけなかった。


 ラウが残りの薬草をリオへ押しつける。


「持ってけ」


「なんで俺に」


「耳坊に使うなら要る」


 リオは薬草を受け取った。


 苦い匂いが鼻につく。


 視線を上げる。


 少し離れたところで、トアが母親を気にしながら、子どもたちと話している。


 エナも息子を見ている。


 戻すべき身体。


 残すべき身体。


 そんな言葉だけでは足りない。


 そこには、本人がいる。


 エラが、三度指を鳴らす。


 今度は何に苛立ったのか、リオには分からなかった。


 分からないままでいい。


 次は、勝手に意味を決めない。


 リオは診療鞄を拾い直した。


 手はまだ少し震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。