第四節 ― 獣母の群れ
トアの痕跡は、地面よりも頭上に多く残っていた。
折れた若枝。まだ乾いていない樹皮の傷。踏まれて裏返った葉。ときおり高いところから落ちてくる、泥の欠片。
リオはそのたびに立ち止まり、森を見上げた。
「ずいぶん高いところを通るな」
「先生より、森の歩き方が上手ですね」
「比較対象に俺を使うな」
「わたしよりも上手です」
「それなら認める」
「そこで勝たないでください」
マヤが頬を膨らませる。
少し後ろを歩くエナは、二人の会話に加わらなかった。
トアが逃げてから、ほとんど口を開いていない。
ただ、息子が残した傷を見つけるたび、そこへ手を触れそうになっては引っ込めていた。
森はさらに深くなっていた。
空気が変わっている。
湿度はさほど変わらないのに、冷たい。どこか近くで大量の水が動いているらしく、低い轟きが腹へ響いてくる。
歩くにつれて、その音は大きくなった。
木々の向こうが急に明るくなる。
視界が開いた瞬間、マヤが足を止めた。
「……すごい」
巨大な滝だった。
断崖の上から流れ落ちているのではない。
森を縫ってきた川が岩盤の裂け目へ吸い込まれ、そのまま大地の下へ落ちている。
白い水煙が谷底から逆巻き、細かな飛沫が風に乗って上へ吹き返してくる。そのため遠目には、水が下へ落ちるのか、地の底から空へ噴き上がっているのか分からない。
「逆落ち滝です」
エナが言った。
久しぶりに聞く声だった。
「子どもの頃、ここから先へ行ってはいけないと言われました」
「理由は?」
「獣道だから、と」
リオは滝の周囲を見る。
人が通る道らしい道はない。
だが、飛沫に濡れた岩壁の一部だけ、苔が剥げていた。
その奥に細い隙間がある。
「トアは入ったな」
「分かるんですか?」
マヤが訊く。
リオは岩の上を指した。
浅い爪痕。
「……本当に木も岩も登るんですね」
「感心してる場合か」
「少しくらいはいいでしょう」
マヤは滝を見上げる。
水煙が髪につき、白い粒になった。
「わたし、こういう場所、初めてです」
その声には素直な喜びが混じっていた。
リオは一瞬だけ彼女を見る。
港を離れてから、何度目かの「初めて」だった。
「足元には気をつけろ」
「はい」
「滑るぞ」
「はい」
「水に落ちたら助けに行けない」
「そこは助けてください」
「俺も落ちる」
「先生、泳げないんですか?」
「話を逸らすな」
エナが、今度はほんの少しだけ笑った。
すぐにその表情は消えたが、リオは何も言わなかった。
三人は岩壁沿いへ進んだ。
滝裏の空気は冷えていて、濡れた石から苔と土の匂いが立っている。水音がすべてを塗り潰し、隣にいる相手の声すら近づかなければ聞こえない。
岩壁の裂け目を抜けると、急に音が遠ざかった。
そこには細い獣道があった。
人が作ったものではない。
地面には大小さまざまな足跡が重なっている。蹄。肉球。爪。蛇が這ったような筋。人の裸足に似ているが、指の数が違う跡。
マヤがしゃがみ込む。
「いっぱいいます」
「ああ」
「白い獣の足跡も?」
リオも目を凝らした。
ある。
深く沈んだ大型獣の前脚らしき跡と、その先に細い蹄。
さらに何歩か進んだところで、根が地面へ突き刺さったような窪みに変わっている。
ラウ=マリカを離れてから追ってきた、あの白い獣の痕跡と同じだった。
「通ってる」
リオが言う。
その時、マヤが背へ手を回した。
ほんの一瞬。
すぐに下ろしたが、リオは見逃さなかった。
「マヤ」
「大丈夫です」
「まだ何も聞いてない」
マヤが固まった。
「……先回りしました」
「そうだな」
「便利ですよ」
「診察する側には不便だ」
リオはそれ以上追及しなかった。
マヤも何も言わない。
ただ、歩き始める時に少しだけ背筋を伸ばした。
獣道は滝を離れ、再び森へ入っていく。
そこから先は、妙に静かだった。
鳥が少ない。
猿の声もしない。
代わりに、鼻へ入る匂いが濃くなった。
獣毛。
湿った土。
それから、生臭い血。
リオが足を止める。
「下がって」
マヤの前へ出た。
「何かいます?」
「いる」
エナにも目で合図する。
三人が動きを止めた直後、前方の藪が大きく揺れた。
枝が折れる。
低い唸り。
出てきたものを見て、マヤの呼吸が止まった。
四足の大型獣だった。
肩の高さだけでリオの胸ほどある。
黒褐色の硬い毛皮。肩から首にかけて分厚い肉が盛り上がり、口元からは湾曲した牙が突き出している。
額には古傷が走り、片目が潰れていた。
その残った目が、三人を捉える。
「動くな」
リオは低く言った。
腰の香炉鈴へ手を伸ばす。
鎮香が効く相手かどうかは分からない。
怒っているのか。
空腹なのか。
縄張りへ入った者を排除しようとしているのか。
まず反応を見なければならない。
大型獣が鼻を鳴らした。
土を掻く。
「先生」
「マヤ、もっと後ろ」
「でも」
「後ろ」
いつもより強い声だった。
マヤが黙って一歩下がる。
獣が踏み込んだ。
速い。
巨体からは想像できない速度で、森の地面が一気に縮まる。
リオは香炉鈴を抜いた。
間に合わない。
そう判断した瞬間だった。
横から何かが飛び込んだ。
鈍い音が森へ響く。
突進してきた大型獣の身体が、横向きに浮いた。
リオたちの目の前を通過し、そのまま太い木へ叩きつけられる。
幹が揺れた。
葉が雨のように落ちる。
獣は動かなかった。
首が、不自然な方向へ折れている。
すでに死んでいた。
「……え?」
マヤが間の抜けた声を出した。
リオも、すぐには状況を理解できなかった。
やがて、獣が飛んできた方角から足音がした。
裸足が湿った土を踏む音。
枝葉を避けようともせず、一人の女が歩いてくる。
大きい。
長身というだけではない。
褐色の腕や脚には、しなやかな筋肉がついていた。肩から赤褐色の獣毛をまとい、腰には革と植物繊維を重ねた布。首元には牙や種子を繋いだ飾りが揺れている。
髪は長く、赤褐色で、獣の鬣のようだった。
頭には大猫を思わせる耳。
腰の後ろでは、長い尾がゆっくり揺れている。
そして全身が血に濡れていた。
自分の血ではない。
女は片手で巨大な獲物を引きずっていた。
さっきの獣より、さらに大きい。
首元を一撃で裂かれている。
ラウ=マーナの琥珀色の目が、リオたちを順番に見た。
その視線がマヤで止まる。
マヤの顔から血の気が引いた。
「……ラウ=マーナ様?」
女は首を傾けた。
「そう呼ぶ奴もいる」
声は低かった。
神殿で聞く祝詞のような響きはない。
もっと近い。
人の喉と、獣の唸り声の中間にあるような声だった。
マヤは背筋を伸ばす。
神格を前にした時の礼を取ろうとしたらしい。
だがラウ=マーナは、そんな彼女より先に、自分が引きずってきた獲物を見る。
「食うか?」
「……はい?」
マヤの礼が途中で止まった。
「肉だ」
「それは、見ればなんとなく」
「腹は減ってないのか」
「減ってはいますけど」
マヤは獲物を見る。
まだ温かい血が地面へ落ちている。
もう一度ラウを見る。
「神様との最初の会話って、これでいいんでしょうか」
「知らん」
ラウ=マーナは即答した。
リオは思わず額へ手を当てた。
「先生」
「俺に聞くな」
「でも、もっとこう……『よくぞ我が森へ』みたいなのを」
「言わん」
ラウが答えた。
「来たけりゃ来る。腹が減れば食う。眠けりゃ寝る。それで足りる」
マヤは何とも言えない顔になった。
「……神様って、思っていたより自由ですね」
「他の奴らは知らん」
ラウ=マーナは獲物を再び引きずり始めた。
二歩ほど進んでから、立ち止まる。
「耳坊を追ってきたのか」
エナが顔を上げた。
「トアを知っているんですか?」
「耳坊なら前から来る」
「前から?」
「ああ」
エナの表情が固まった。
ラウは気にしない。
「木に登るのが下手だった頃から知ってる」
「そんな……」
トアは森を怖がっていた。
エナはそう言っていた。
少なくとも、母親はそう思っていた。
リオはその食い違いを覚えておく。
「今はどこに?」
「群れにいる」
エナが一歩前へ出る。
「連れて帰ります」
ラウ=マーナの耳がわずかに動いた。
怒った様子はない。
ただ、エナを見る。
「なら、本人に言え」
「私は母親です」
「知ってる」
「十一歳なんです」
「それも知ってる」
会話がそこで切れた。
エナは困ったようにリオを見る。
リオも、ラウ=マーナを見る。
「あの子には治療が必要だ」
獣母の目が向く。
「何を治す」
短い問いだった。
リオの口が止まった。
変異速度。
骨と筋肉の成長差。
異常代謝。
発声器官の変化。
危険なものはある。
確かにある。
だがラウが訊いているのは、診断名ではない。
耳か。
牙か。
金色の目か。
肺か。
それとも、村へ戻れなくなりつつあることか。
「……変化が速すぎる」
リオはようやく答えた。
「身体が追いつかなくなる可能性がある」
「なら、それを診ろ」
ラウはそれだけ言った。
正しいとも、間違っているとも言わない。
トアを人間へ戻すべきだとも、このまま森で生きろとも言わない。
獣母は獲物を引きずり、歩き出す。
「来るなら来い。肉が腐る」
マヤがリオへ小声で言った。
「やっぱり食事が最優先なんですね」
「誰かと似てるな」
「誰です?」
「さあ」
「先生?」
三人はラウの後を追った。
森の道は次第に広がった。
最初に聞こえてきたのは、子どもの笑い声だった。
次に、喧嘩する声。
「それ俺の!」
「先に取ったのは私!」
「尻尾使うのずるい!」
「あるもの使って何が悪い!」
マヤが目を瞬く。
木々の向こうに、一本の巨木が見えた。
幹は数人が腕を広げても届かないほど太く、根は地面を覆って何本もの壁や床を作っている。樹皮の隙間から白い樹液がゆっくり流れ、甘い乳のような匂いが漂っていた。
《乳樹》。
その根元に、人々がいた。
最初に目へ入るものだけを拾えば、異様な光景だった。
額から枝分かれした角を生やした男。
腕一面を灰色の毛に覆われた女。
頬に細かな鱗を持つ老人。
脇から薄い翼膜が伸びた少女。
片腕が樹皮のように硬化し、指先から小さな葉を生やしている青年。
獣耳を持つ子どもたち。
人の身体と獣と植物が、途中で混ざり合ったような者たち。
けれど、彼らは並べられていなかった。
寝かされてもいない。
祈られてもいない。
「こら! そっち持て!」
角のある男が叫んでいた。
「鍋が傾いてる!」
「角が邪魔!」
「俺のせいにするな!」
「じゃあ外せ!」
「外せたら苦労しねえよ!」
大鍋が火にかけられている。
鱗のある老人は木陰で眠り、鼻先へ止まった虫を尻尾のような器官で追い払っていた。
翼膜の少女は洗濯物を干している。高いところへ布を掛けるのには便利らしく、少しだけ膜を広げて跳び上がる。
その下では、樹皮の腕を持つ青年が子どもの膝へ薬草を塗っていた。
「痛い」
「走るからだ」
「走らないと捕まる」
「捕まる遊びなんだから捕まれ」
「嫌だ」
「なら転ぶな」
泣いていた子どもが笑った。
少し離れたところでは、毛深い二人の子どもが木の実を投げ合っている。
その中に、金色の目があった。
「トア」
エナの声が漏れる。
トアは、さっきとは違う顔をしていた。
笑っている。
尖った耳を隠していない。
爪もそのまま。
自分より幼い半獣化した子どもと木の根を走り回り、追いつかれそうになると幹へ飛びつく。
「ずるいぞ、耳坊!」
「登れない方が悪い!」
「昨日まで下手だったくせに!」
「今日はできる!」
トアが笑う。
エナは声をかけられなかった。
マヤも黙っていた。
リオは周囲を見る。
病人もいる。
木陰には包帯を巻いた者が横になっていた。咳をしている老人もいる。片脚を引きずる者もいる。
ここへ来れば、すべての苦しみが消えるわけではない。
傷つく。
病気にもなる。
腹も減る。
喧嘩もする。
それでも生活があった。
変わった者たちが、変わったままで続けている暮らしが。
「おい」
ラウ=マーナの声で、何人かが振り返った。
「獲ったぞ」
途端に人が集まる。
「でかい!」
「どこで?」
「上の獣道」
「また一人で持ってきたのか」
「手伝いを待つ理由がない」
「血抜きしてから引きずれよ。土まみれじゃないか」
「洗えば済む」
「神様なんだから、もうちょっと衛生を覚えてくれ」
マヤがリオを見る。
「怒られています」
「神様が?」
「神様が」
ラウ=マーナはまったく気にせず、獲物を地面へ放った。
「食える部分を分けろ」
すぐに何人かが動き出す。
狩りの成果を受け取る者。
刃物を用意する者。
火を大きくする者。
誰が偉いのか、外からは分からない。
神格であるラウ自身すら、指示を終えると水場へ向かい、腕についた血を洗い始めた。
マヤがその背中を見ている。
「神殿、ないんですね」
「ここが神殿だと思ってる奴もいる」
ラウが水を払った。
「違うんですか?」
「寝る場所だ」
ラウは乳樹を見上げる。
「食う場所でもある」
さらに、走り回る子どもたちを見る。
「帰ってくる場所でもある」
それ以上は言わなかった。
エナはまだトアを見ていた。
少年も、ようやく母親に気づいた。
笑みが消える。
二人の間に距離ができた。
同じ森。
同じ乳樹の下。
ほんの十数歩しか離れていない。
けれど、すぐに埋まる距離ではなかった。
トアは逃げなかった。
エナも走って抱きしめには行かなかった。
「トア」
リオが呼んだ。
少年の耳がこちらを向く。
「何」
「一つ聞く」
リオはラウをちらりと見た。
「前から、この森へ来てたのか?」
トアの表情が止まった。
エナも息子を見る。
「……たまに」
「トア?」
責める声ではなかった。
それでも少年は少し肩を竦めた。
「最初は来てないよ。怖かったし」
「じゃあ、いつから?」
「耳が変になった頃から……少しずつ」
エナが目を見開く。
「私には、一度も――」
「言ったら止めると思った」
「だって、一人で森なんて」
「だから言わなかったんだよ」
トアの声が少し強くなる。
すぐに顔を逸らした。
「……心配すると思ったし」
エナが何も言えなくなる。
リオは続きを待った。
「どうして来るようになった?」
「分かんない」
「何かあったはずだ」
トアは自分の胸へ手を置いた。
「村にいると、最近ずっと変だった」
第二節で診たときと同じ場所。
「夕方になると身体が重くなって、暑いみたいになって。飯もいらなくなる時があって」
「家の中だと息が詰まることも?」
「うん」
エナの顔が変わった。
母親から聞いた話と、本人の感覚が重なる。
「森へ来ると?」
トアは少し考えた。
「最初は怖かった。でも、歩いてるうちに楽になった」
「何が」
「息」
胸を軽く叩く。
「身体も。村にいると重かったのが、ここだと走れる。腹も減る」
「熱っぽさは?」
「なくなる」
リオは黙って少年を見る。
今も呼吸は整っている。
走り回った直後なのに咳ひとつない。
頬の色もいい。
第二節で診たときから変わっていない。
「それで何度も来た?」
「うん。何で楽になるのか分かんなかったけど」
トアはエナを見た。
「森に行くなって言われると思ったから、黙ってた」
エナの唇が動く。
だが、叱る言葉は出なかった。
「……一人で?」
「途中からは、耳坊って呼ぶ奴らがいたし」
周囲で遊んでいた子どもたちを顎で示す。
「ラウもいた」
「木に登れなかった」
水場からラウが言った。
「最初はな」
「言わなくていいだろ!」
「事実だ」
「神様なら秘密くらい守れよ!」
「秘密だと言われてない」
トアが言葉に詰まる。
マヤが小さく頷いた。
「それはトアの負けですね」
「何でそっちにつくんだよ」
「説明不足なので」
「先生みたいなこと言うな」
「それはちょっと嫌です」
「マヤ」
軽いやり取りの向こうで、リオは頭の中の情報を並べ直していた。
村では、熱っぽさ。
倦怠。
食欲低下。
息が詰まる感覚。
森へ入れば、それらが薄れる。
肺は強くなり、足取りは軽くなり、木へ登れる身体へ変わっている。
変化が森へ入る原因なのか。
森へ入ることが変化を進めているのか。
そこまでは、まだ断定できない。
だが少なくとも、森にいると安定するという差は偶然ではなさそうだった。
トアの身体は、何かへ向かって変わっている。
そしてその向きが、この森で生きることと無関係には見えなかった。
「耳坊」
ラウが呼ぶ。
「何」
「医者がまだ診たいとさ」
トアの耳が警戒するように立つ。
「戻すの?」
リオは診療鞄を肩から下ろした。
「さっき言っただろ。変化の速さを診る」
「それだけ?」
「今は」
トアはしばらく考え、やがて頷いた。
「……分かった」
その直後、半獣の子どもがトアの袖を引いた。
「飯の前に続き!」
「待てよ、俺いま診察」
「すぐ終わるだろ」
「先生、すぐ終わる?」
「終わらせる努力はする」
「それ長いやつだ」
トアが嫌そうな顔をする。
マヤが頷いた。
「分かります」
「君まで患者側につくな」
ようやくトアが少し笑った。
その顔を、エナは黙って見ていた。
リオも見ている。
この場所にいればすべて解決する、とは思わない。
森には森の不便がある。
治療に使える薬は限られている。複雑な器具もない。読み書きを教える声は聞こえるが、サハ=ネで受けられるような教育がそのままあるわけでもない。
仕事も違う。
暮らし方も違う。
何より、トアの母親は森の外にいる。
少年自身だって、村を捨てたいとは一度も言っていない。
息が楽になった。
今の身体を否定されたくない。
それと、森だけで生きたいということは同じではない。
ラウ=マーナが横へ来た。
「どうした、医者」
「何が」
「難しい顔をしてる」
「元からだ」
「そうか」
獣母はあっさり納得した。
少し離れたところで、一人の女が声を上げる。
「ラウ! 塩がもうない!」
「川向こうから貰え」
「薬も少ない!」
今度は別の声。
「熱冷ましがあと二人分だ!」
ラウがリオを見る。
「持ってるか?」
「少しなら」
「置いてけ」
「患者を診てからだ」
「けちだな」
「医者に薬をたかる神様、初めて見ました」
マヤが感心したように言う。
「俺もだ」
「じゃあ今日は初めてが多いですね」
リオは返事をしなかった。
だが、口元がわずかに緩んだ。
乳樹の下では、鍋から湯気が上がり始めている。
角のある者も。
毛に覆われた者も。
鱗を持つ者も。
まだ人の姿を多く残す者も。
皿を運び、洗濯物を畳み、子どもを叱り、傷へ薬を塗り、今日の獲物が大きいと喜んでいる。
変わってしまったあとにも、明日は来る。
それだけは、目の前にあった。
けれど、どこでその明日を迎えるのか。
誰と生きるのか。
何を残し、何を変えるのか。
そこまで神が決めてくれるわけではない。
トアが、エナを見た。
エナも息子を見返した。
二人とも、まだ動かなかった。
リオは診療鞄を開く。
まずは、身体を診る。
その先を決めるのは、それからだった。




