↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/36

第四節 ― 獣母の群れ

 トアの痕跡は、地面よりも頭上に多く残っていた。


 折れた若枝。まだ乾いていない樹皮の傷。踏まれて裏返った葉。ときおり高いところから落ちてくる、泥の欠片。


 リオはそのたびに立ち止まり、森を見上げた。


「ずいぶん高いところを通るな」


「先生より、森の歩き方が上手ですね」


「比較対象に俺を使うな」


「わたしよりも上手です」


「それなら認める」


「そこで勝たないでください」


 マヤが頬を膨らませる。


 少し後ろを歩くエナは、二人の会話に加わらなかった。


 トアが逃げてから、ほとんど口を開いていない。


 ただ、息子が残した傷を見つけるたび、そこへ手を触れそうになっては引っ込めていた。


 森はさらに深くなっていた。


 空気が変わっている。


 湿度はさほど変わらないのに、冷たい。どこか近くで大量の水が動いているらしく、低い轟きが腹へ響いてくる。


 歩くにつれて、その音は大きくなった。


 木々の向こうが急に明るくなる。


 視界が開いた瞬間、マヤが足を止めた。


「……すごい」


 巨大な滝だった。


 断崖の上から流れ落ちているのではない。


 森を縫ってきた川が岩盤の裂け目へ吸い込まれ、そのまま大地の下へ落ちている。


 白い水煙が谷底から逆巻き、細かな飛沫が風に乗って上へ吹き返してくる。そのため遠目には、水が下へ落ちるのか、地の底から空へ噴き上がっているのか分からない。


「逆落ち滝です」


 エナが言った。


 久しぶりに聞く声だった。


「子どもの頃、ここから先へ行ってはいけないと言われました」


「理由は?」


「獣道だから、と」


 リオは滝の周囲を見る。


 人が通る道らしい道はない。


 だが、飛沫に濡れた岩壁の一部だけ、苔が剥げていた。


 その奥に細い隙間がある。


「トアは入ったな」


「分かるんですか?」


 マヤが訊く。


 リオは岩の上を指した。


 浅い爪痕。


「……本当に木も岩も登るんですね」


「感心してる場合か」


「少しくらいはいいでしょう」


 マヤは滝を見上げる。


 水煙が髪につき、白い粒になった。


「わたし、こういう場所、初めてです」


 その声には素直な喜びが混じっていた。


 リオは一瞬だけ彼女を見る。


 港を離れてから、何度目かの「初めて」だった。


「足元には気をつけろ」


「はい」


「滑るぞ」


「はい」


「水に落ちたら助けに行けない」


「そこは助けてください」


「俺も落ちる」


「先生、泳げないんですか?」


「話を逸らすな」


 エナが、今度はほんの少しだけ笑った。


 すぐにその表情は消えたが、リオは何も言わなかった。


 三人は岩壁沿いへ進んだ。


 滝裏の空気は冷えていて、濡れた石から苔と土の匂いが立っている。水音がすべてを塗り潰し、隣にいる相手の声すら近づかなければ聞こえない。


 岩壁の裂け目を抜けると、急に音が遠ざかった。


 そこには細い獣道があった。


 人が作ったものではない。


 地面には大小さまざまな足跡が重なっている。蹄。肉球。爪。蛇が這ったような筋。人の裸足に似ているが、指の数が違う跡。


 マヤがしゃがみ込む。


「いっぱいいます」


「ああ」


「白い獣の足跡も?」


 リオも目を凝らした。


 ある。


 深く沈んだ大型獣の前脚らしき跡と、その先に細い蹄。


 さらに何歩か進んだところで、根が地面へ突き刺さったような窪みに変わっている。


 ラウ=マリカを離れてから追ってきた、あの白い獣の痕跡と同じだった。


「通ってる」


 リオが言う。


 その時、マヤが背へ手を回した。


 ほんの一瞬。


 すぐに下ろしたが、リオは見逃さなかった。


「マヤ」


「大丈夫です」


「まだ何も聞いてない」


 マヤが固まった。


「……先回りしました」


「そうだな」


「便利ですよ」


「診察する側には不便だ」


 リオはそれ以上追及しなかった。


 マヤも何も言わない。


 ただ、歩き始める時に少しだけ背筋を伸ばした。


 獣道は滝を離れ、再び森へ入っていく。


 そこから先は、妙に静かだった。


 鳥が少ない。


 猿の声もしない。


 代わりに、鼻へ入る匂いが濃くなった。


 獣毛。


 湿った土。


 それから、生臭い血。


 リオが足を止める。


「下がって」


 マヤの前へ出た。


「何かいます?」


「いる」


 エナにも目で合図する。


 三人が動きを止めた直後、前方の藪が大きく揺れた。


 枝が折れる。


 低い唸り。


 出てきたものを見て、マヤの呼吸が止まった。


 四足の大型獣だった。


 肩の高さだけでリオの胸ほどある。


 黒褐色の硬い毛皮。肩から首にかけて分厚い肉が盛り上がり、口元からは湾曲した牙が突き出している。


 額には古傷が走り、片目が潰れていた。


 その残った目が、三人を捉える。


「動くな」


 リオは低く言った。


 腰の香炉鈴へ手を伸ばす。


 鎮香が効く相手かどうかは分からない。


 怒っているのか。


 空腹なのか。


 縄張りへ入った者を排除しようとしているのか。


 まず反応を見なければならない。


 大型獣が鼻を鳴らした。


 土を掻く。


「先生」


「マヤ、もっと後ろ」


「でも」


「後ろ」


 いつもより強い声だった。


 マヤが黙って一歩下がる。


 獣が踏み込んだ。


 速い。


 巨体からは想像できない速度で、森の地面が一気に縮まる。


 リオは香炉鈴を抜いた。


 間に合わない。


 そう判断した瞬間だった。


 横から何かが飛び込んだ。


 鈍い音が森へ響く。


 突進してきた大型獣の身体が、横向きに浮いた。


 リオたちの目の前を通過し、そのまま太い木へ叩きつけられる。


 幹が揺れた。


 葉が雨のように落ちる。


 獣は動かなかった。


 首が、不自然な方向へ折れている。


 すでに死んでいた。


「……え?」


 マヤが間の抜けた声を出した。


 リオも、すぐには状況を理解できなかった。


 やがて、獣が飛んできた方角から足音がした。


 裸足が湿った土を踏む音。


 枝葉を避けようともせず、一人の女が歩いてくる。


 大きい。


 長身というだけではない。


 褐色の腕や脚には、しなやかな筋肉がついていた。肩から赤褐色の獣毛をまとい、腰には革と植物繊維を重ねた布。首元には牙や種子を繋いだ飾りが揺れている。


 髪は長く、赤褐色で、獣の鬣のようだった。


 頭には大猫を思わせる耳。


 腰の後ろでは、長い尾がゆっくり揺れている。


 そして全身が血に濡れていた。


 自分の血ではない。


 女は片手で巨大な獲物を引きずっていた。


 さっきの獣より、さらに大きい。


 首元を一撃で裂かれている。


 ラウ=マーナの琥珀色の目が、リオたちを順番に見た。


 その視線がマヤで止まる。


 マヤの顔から血の気が引いた。


「……ラウ=マーナ様?」


 女は首を傾けた。


「そう呼ぶ奴もいる」


 声は低かった。


 神殿で聞く祝詞のような響きはない。


 もっと近い。


 人の喉と、獣の唸り声の中間にあるような声だった。


 マヤは背筋を伸ばす。


 神格を前にした時の礼を取ろうとしたらしい。


 だがラウ=マーナは、そんな彼女より先に、自分が引きずってきた獲物を見る。


「食うか?」


「……はい?」


 マヤの礼が途中で止まった。


「肉だ」


「それは、見ればなんとなく」


「腹は減ってないのか」


「減ってはいますけど」


 マヤは獲物を見る。


 まだ温かい血が地面へ落ちている。


 もう一度ラウを見る。


「神様との最初の会話って、これでいいんでしょうか」


「知らん」


 ラウ=マーナは即答した。


 リオは思わず額へ手を当てた。


「先生」


「俺に聞くな」


「でも、もっとこう……『よくぞ我が森へ』みたいなのを」


「言わん」


 ラウが答えた。


「来たけりゃ来る。腹が減れば食う。眠けりゃ寝る。それで足りる」


 マヤは何とも言えない顔になった。


「……神様って、思っていたより自由ですね」


「他の奴らは知らん」


 ラウ=マーナは獲物を再び引きずり始めた。


 二歩ほど進んでから、立ち止まる。


「耳坊を追ってきたのか」


 エナが顔を上げた。


「トアを知っているんですか?」


「耳坊なら前から来る」


「前から?」


「ああ」


 エナの表情が固まった。


 ラウは気にしない。


「木に登るのが下手だった頃から知ってる」


「そんな……」


 トアは森を怖がっていた。


 エナはそう言っていた。


 少なくとも、母親はそう思っていた。


 リオはその食い違いを覚えておく。


「今はどこに?」


「群れにいる」


 エナが一歩前へ出る。


「連れて帰ります」


 ラウ=マーナの耳がわずかに動いた。


 怒った様子はない。


 ただ、エナを見る。


「なら、本人に言え」


「私は母親です」


「知ってる」


「十一歳なんです」


「それも知ってる」


 会話がそこで切れた。


 エナは困ったようにリオを見る。


 リオも、ラウ=マーナを見る。


「あの子には治療が必要だ」


 獣母の目が向く。


「何を治す」


 短い問いだった。


 リオの口が止まった。


 変異速度。


 骨と筋肉の成長差。


 異常代謝。


 発声器官の変化。


 危険なものはある。


 確かにある。


 だがラウが訊いているのは、診断名ではない。


 耳か。


 牙か。


 金色の目か。


 肺か。


 それとも、村へ戻れなくなりつつあることか。


「……変化が速すぎる」


 リオはようやく答えた。


「身体が追いつかなくなる可能性がある」


「なら、それを診ろ」


 ラウはそれだけ言った。


 正しいとも、間違っているとも言わない。


 トアを人間へ戻すべきだとも、このまま森で生きろとも言わない。


 獣母は獲物を引きずり、歩き出す。


「来るなら来い。肉が腐る」


 マヤがリオへ小声で言った。


「やっぱり食事が最優先なんですね」


「誰かと似てるな」


「誰です?」


「さあ」


「先生?」


 三人はラウの後を追った。


 森の道は次第に広がった。


 最初に聞こえてきたのは、子どもの笑い声だった。


 次に、喧嘩する声。


「それ俺の!」


「先に取ったのは私!」


「尻尾使うのずるい!」


「あるもの使って何が悪い!」


 マヤが目を瞬く。


 木々の向こうに、一本の巨木が見えた。


 幹は数人が腕を広げても届かないほど太く、根は地面を覆って何本もの壁や床を作っている。樹皮の隙間から白い樹液がゆっくり流れ、甘い乳のような匂いが漂っていた。


 《乳樹》。


 その根元に、人々がいた。


 最初に目へ入るものだけを拾えば、異様な光景だった。


 額から枝分かれした角を生やした男。


 腕一面を灰色の毛に覆われた女。


 頬に細かな鱗を持つ老人。


 脇から薄い翼膜が伸びた少女。


 片腕が樹皮のように硬化し、指先から小さな葉を生やしている青年。


 獣耳を持つ子どもたち。


 人の身体と獣と植物が、途中で混ざり合ったような者たち。


 けれど、彼らは並べられていなかった。


 寝かされてもいない。


 祈られてもいない。


「こら! そっち持て!」


 角のある男が叫んでいた。


「鍋が傾いてる!」


「角が邪魔!」


「俺のせいにするな!」


「じゃあ外せ!」


「外せたら苦労しねえよ!」


 大鍋が火にかけられている。


 鱗のある老人は木陰で眠り、鼻先へ止まった虫を尻尾のような器官で追い払っていた。


 翼膜の少女は洗濯物を干している。高いところへ布を掛けるのには便利らしく、少しだけ膜を広げて跳び上がる。


 その下では、樹皮の腕を持つ青年が子どもの膝へ薬草を塗っていた。


「痛い」


「走るからだ」


「走らないと捕まる」


「捕まる遊びなんだから捕まれ」


「嫌だ」


「なら転ぶな」


 泣いていた子どもが笑った。


 少し離れたところでは、毛深い二人の子どもが木の実を投げ合っている。


 その中に、金色の目があった。


「トア」


 エナの声が漏れる。


 トアは、さっきとは違う顔をしていた。


 笑っている。


 尖った耳を隠していない。


 爪もそのまま。


 自分より幼い半獣化した子どもと木の根を走り回り、追いつかれそうになると幹へ飛びつく。


「ずるいぞ、耳坊!」


「登れない方が悪い!」


「昨日まで下手だったくせに!」


「今日はできる!」


 トアが笑う。


 エナは声をかけられなかった。


 マヤも黙っていた。


 リオは周囲を見る。


 病人もいる。


 木陰には包帯を巻いた者が横になっていた。咳をしている老人もいる。片脚を引きずる者もいる。


 ここへ来れば、すべての苦しみが消えるわけではない。


 傷つく。


 病気にもなる。


 腹も減る。


 喧嘩もする。


 それでも生活があった。


 変わった者たちが、変わったままで続けている暮らしが。


「おい」


 ラウ=マーナの声で、何人かが振り返った。


「獲ったぞ」


 途端に人が集まる。


「でかい!」


「どこで?」


「上の獣道」


「また一人で持ってきたのか」


「手伝いを待つ理由がない」


「血抜きしてから引きずれよ。土まみれじゃないか」


「洗えば済む」


「神様なんだから、もうちょっと衛生を覚えてくれ」


 マヤがリオを見る。


「怒られています」


「神様が?」


「神様が」


 ラウ=マーナはまったく気にせず、獲物を地面へ放った。


「食える部分を分けろ」


 すぐに何人かが動き出す。


 狩りの成果を受け取る者。


 刃物を用意する者。


 火を大きくする者。


 誰が偉いのか、外からは分からない。


 神格であるラウ自身すら、指示を終えると水場へ向かい、腕についた血を洗い始めた。


 マヤがその背中を見ている。


「神殿、ないんですね」


「ここが神殿だと思ってる奴もいる」


 ラウが水を払った。


「違うんですか?」


「寝る場所だ」


 ラウは乳樹を見上げる。


「食う場所でもある」


 さらに、走り回る子どもたちを見る。


「帰ってくる場所でもある」


 それ以上は言わなかった。


 エナはまだトアを見ていた。


 少年も、ようやく母親に気づいた。


 笑みが消える。


 二人の間に距離ができた。


 同じ森。


 同じ乳樹の下。


 ほんの十数歩しか離れていない。


 けれど、すぐに埋まる距離ではなかった。


 トアは逃げなかった。


 エナも走って抱きしめには行かなかった。


「トア」


 リオが呼んだ。


 少年の耳がこちらを向く。


「何」


「一つ聞く」


 リオはラウをちらりと見た。


「前から、この森へ来てたのか?」


 トアの表情が止まった。


 エナも息子を見る。


「……たまに」


「トア?」


 責める声ではなかった。


 それでも少年は少し肩を竦めた。


「最初は来てないよ。怖かったし」


「じゃあ、いつから?」


「耳が変になった頃から……少しずつ」


 エナが目を見開く。


「私には、一度も――」


「言ったら止めると思った」


「だって、一人で森なんて」


「だから言わなかったんだよ」


 トアの声が少し強くなる。


 すぐに顔を逸らした。


「……心配すると思ったし」


 エナが何も言えなくなる。


 リオは続きを待った。


「どうして来るようになった?」


「分かんない」


「何かあったはずだ」


 トアは自分の胸へ手を置いた。


「村にいると、最近ずっと変だった」


 第二節で診たときと同じ場所。


「夕方になると身体が重くなって、暑いみたいになって。飯もいらなくなる時があって」


「家の中だと息が詰まることも?」


「うん」


 エナの顔が変わった。


 母親から聞いた話と、本人の感覚が重なる。


「森へ来ると?」


 トアは少し考えた。


「最初は怖かった。でも、歩いてるうちに楽になった」


「何が」


「息」


 胸を軽く叩く。


「身体も。村にいると重かったのが、ここだと走れる。腹も減る」


「熱っぽさは?」


「なくなる」


 リオは黙って少年を見る。


 今も呼吸は整っている。


 走り回った直後なのに咳ひとつない。


 頬の色もいい。


 第二節で診たときから変わっていない。


「それで何度も来た?」


「うん。何で楽になるのか分かんなかったけど」


 トアはエナを見た。


「森に行くなって言われると思ったから、黙ってた」


 エナの唇が動く。


 だが、叱る言葉は出なかった。


「……一人で?」


「途中からは、耳坊って呼ぶ奴らがいたし」


 周囲で遊んでいた子どもたちを顎で示す。


「ラウもいた」


「木に登れなかった」


 水場からラウが言った。


「最初はな」


「言わなくていいだろ!」


「事実だ」


「神様なら秘密くらい守れよ!」


「秘密だと言われてない」


 トアが言葉に詰まる。


 マヤが小さく頷いた。


「それはトアの負けですね」


「何でそっちにつくんだよ」


「説明不足なので」


「先生みたいなこと言うな」


「それはちょっと嫌です」


「マヤ」


 軽いやり取りの向こうで、リオは頭の中の情報を並べ直していた。


 村では、熱っぽさ。


 倦怠。


 食欲低下。


 息が詰まる感覚。


 森へ入れば、それらが薄れる。


 肺は強くなり、足取りは軽くなり、木へ登れる身体へ変わっている。


 変化が森へ入る原因なのか。


 森へ入ることが変化を進めているのか。


 そこまでは、まだ断定できない。


 だが少なくとも、森にいると安定するという差は偶然ではなさそうだった。


 トアの身体は、何かへ向かって変わっている。


 そしてその向きが、この森で生きることと無関係には見えなかった。


「耳坊」


 ラウが呼ぶ。


「何」


「医者がまだ診たいとさ」


 トアの耳が警戒するように立つ。


「戻すの?」


 リオは診療鞄を肩から下ろした。


「さっき言っただろ。変化の速さを診る」


「それだけ?」


「今は」


 トアはしばらく考え、やがて頷いた。


「……分かった」


 その直後、半獣の子どもがトアの袖を引いた。


「飯の前に続き!」


「待てよ、俺いま診察」


「すぐ終わるだろ」


「先生、すぐ終わる?」


「終わらせる努力はする」


「それ長いやつだ」


 トアが嫌そうな顔をする。


 マヤが頷いた。


「分かります」


「君まで患者側につくな」


 ようやくトアが少し笑った。


 その顔を、エナは黙って見ていた。


 リオも見ている。


 この場所にいればすべて解決する、とは思わない。


 森には森の不便がある。


 治療に使える薬は限られている。複雑な器具もない。読み書きを教える声は聞こえるが、サハ=ネで受けられるような教育がそのままあるわけでもない。


 仕事も違う。


 暮らし方も違う。


 何より、トアの母親は森の外にいる。


 少年自身だって、村を捨てたいとは一度も言っていない。


 息が楽になった。


 今の身体を否定されたくない。


 それと、森だけで生きたいということは同じではない。


 ラウ=マーナが横へ来た。


「どうした、医者」


「何が」


「難しい顔をしてる」


「元からだ」


「そうか」


 獣母はあっさり納得した。


 少し離れたところで、一人の女が声を上げる。


「ラウ! 塩がもうない!」


「川向こうから貰え」


「薬も少ない!」


 今度は別の声。


「熱冷ましがあと二人分だ!」


 ラウがリオを見る。


「持ってるか?」


「少しなら」


「置いてけ」


「患者を診てからだ」


「けちだな」


「医者に薬をたかる神様、初めて見ました」


 マヤが感心したように言う。


「俺もだ」


「じゃあ今日は初めてが多いですね」


 リオは返事をしなかった。


 だが、口元がわずかに緩んだ。


 乳樹の下では、鍋から湯気が上がり始めている。


 角のある者も。


 毛に覆われた者も。


 鱗を持つ者も。


 まだ人の姿を多く残す者も。


 皿を運び、洗濯物を畳み、子どもを叱り、傷へ薬を塗り、今日の獲物が大きいと喜んでいる。


 変わってしまったあとにも、明日は来る。


 それだけは、目の前にあった。


 けれど、どこでその明日を迎えるのか。


 誰と生きるのか。


 何を残し、何を変えるのか。


 そこまで神が決めてくれるわけではない。


 トアが、エナを見た。


 エナも息子を見返した。


 二人とも、まだ動かなかった。


 リオは診療鞄を開く。


 まずは、身体を診る。


 その先を決めるのは、それからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。