第三節 ― 戻す治療
森の奥で響いた獣の声に、トアの耳が向いた。
人間の耳なら聞き逃すような遠さなのだろう。リオには、葉擦れと水音に混じった低い響きが、かろうじて分かる程度だった。
トアはしばらくその方向を見つめ、それから何事もなかったように視線を戻した。
エナは、その横顔を見ていた。
息子の金色の目を。
髪から覗く尖った耳を。
口を閉じても隠しきれない牙を。
リオの診察が始まってから、彼女は何度も同じところへ目を向けていた。そのたびに、見てはいけないものを見たように逸らす。
「……治せますか」
声は小さかった。
けれど、トアにも聞こえている。
リオは診療記録から顔を上げた。
「何を、ですか」
エナが戸惑う。
「何をって……」
彼女の視線がトアへ戻る。
「この子を、です」
「今の変化を止めることなのか、以前の身体へ戻すことなのかで、やることが違います」
「元に」
答えは早かった。
「元に戻してください」
トアがわずかに俯いた。
エナは気づかない。
いや、気づく余裕がないのかもしれない。
「耳も、爪も、歯も……全部、前みたいに。まだ半年なんです。今なら間に合いますよね?」
リオは少し黙った。
言葉を選ぶためだった。
先ほど《医脈》で読んだものを、もう一度頭の中で並べ直す。
耳や爪の形だけなら、問題は単純だった。
外見の変化だけを抑える方法はいくつかある。
だがトアの身体は、もう表面だけ変わっているのではない。
呼吸のたびに大きく膨らむ胸。
以前なら走るだけで苦しくなったという肺が、今は深い森を駆け抜けても息切れひとつ起こさない。
心拍も安定していた。
血の巡りも、筋肉への酸素の送り方も変わっている。
この半年で、身体は自分なりの答えを作ってしまっている。
「戻すことはできます」
エナの顔が上がった。
「本当ですか?」
目に、はっきりと光が戻った。
リオはそれを見たまま続けた。
「ただし、生きて戻れるとは言えません」
光が止まった。
エナは意味を理解できなかったように、何度か瞬きをした。
「……どういうことですか」
リオはトアを見る。
「説明していいか?」
トアは少し警戒した顔をしたが、頷いた。
「うん」
リオは地面に落ちていた細い枝を一本拾った。
湿った土へ、簡単な形を描く。
「トアの肺は、もう半年前と同じものじゃない」
胸を示すように線を引く。
「以前は、走ると苦しくなった。夜にも咳が出た」
エナが頷いた。
「今はありません」
「なくなったんじゃない。少なくとも俺が診た限りでは、呼吸器そのものが作り替えられてる」
トアが自分の胸を見下ろした。
リオは続ける。
「深く空気を取り込める。血へ渡せる量も増えてる。それに合わせて心臓も血管も筋肉も変わり始めてる」
「それを……元に戻すんですよね?」
「そうです」
「なら」
「一度作り替わったものを、もう一度作り直すことになる」
リオは枝を置いた。
「耳や牙だけじゃない。肺も、血の巡りも、今の身体に合わせて動いてる部分を人間型へ戻す」
エナの顔が少しずつ強張っていく。
「危険なんですか」
「かなり」
「でも、治療なんでしょう?」
「治療だから安全とは限りません」
リオは淡々と言った。
怖がらせたいわけではない。
楽観させてもいけない。
「再構成の途中で肺がうまく働かなければ、呼吸が止まる。血の巡りが新しい身体と古い身体のどちらにも合わなくなれば、循環が保てなくなる」
「そんな……」
「急激に戻せば、自分の身体なのに自分の組織を異物みたいに拒むこともある」
マヤが隣で黙って聞いている。
さっきまで猿に木の実を投げられて笑っていた少女の顔ではなかった。
患者の話になると、彼女は余計な言葉を挟まない。
「重い拒絶反応が起きれば?」
エナが尋ねた。
答えを予想している声だった。
リオは誤魔化さなかった。
「死ぬ可能性があります」
森の音だけが残った。
葉の上から雫が落ちる。
どこかで鳥が鳴く。
少し離れた木の幹を、小さな虫が這っていた。
エナはトアを見た。
さっきとは違う目だった。
耳でも、牙でもない。
ただ息子を見ている。
「でも……」
唇が震える。
「このままだって、危険なんですよね?」
「変化の速度は危険です」
「なら、止めないと」
「止めることと、全部戻すことは別です」
エナがリオを見る。
「違うんですか」
「違います」
リオはそれ以上、先回りして答えなかった。
変異をどこまで残すのか。
何を止めるのか。
そもそもトア自身が何を望むのか。
まだ何ひとつ聞いていない。
エナは両手を胸の前で握った。
「先生、この子は十一歳なんです」
「はい」
「自分で全部決められる歳じゃありません」
リオは答えない。
「昨日まで……いえ、半年前までは普通の子だったんです。身体が弱くて、森を怖がって。家の裏に大きな虫が出ただけで私を呼んで……」
「母さん」
トアが低く言った。
エナは止まらなかった。
「今は一人で森へ入って、木の上で眠って、何を食べているのかも分からない。夜になっても目が見えるって言うし、私には聞こえないものを聞いてるし……」
「母さん」
「このまま進んだら、もっと――」
言葉が途切れた。
もっと、何になるのか。
それをエナ自身が言えなかった。
人間ではなくなる。
獣になる。
息子ではなくなる。
どの言葉を選んでも、自分が恐れているものの形が露わになってしまう。
リオには、そう見えた。
「それでも、今なら――」
「母さんは」
トアの声が重なった。
エナが振り返る。
少年は少し離れた根元に座ったまま、母親を見ていた。
耳が伏せている。
獣の耳なのに、その仕草はひどく分かりやすかった。
「今の俺が、そんなに嫌なの?」
「違う!」
エナの声が森へ響いた。
あまりに強く否定したせいで、枝の上にいた鳥が何羽か飛び立った。
トアが肩を揺らす。
「違う、トア。そういう意味じゃないの」
「じゃあ、なんで戻したいんだよ!」
「それは……」
「俺、今は息できるよ」
トアは立ち上がった。
「走っても苦しくない。夜も咳で起きない。木にも登れる」
「でも、その身体がずっと大丈夫か分からないでしょう!」
「だから全部戻すの?」
「そうじゃなくて――」
「じゃあ何なんだよ!」
トアの声が掠れた。
その瞬間、リオの意識が一度だけ喉へ向いた。
診察で見つけた発声器官の変化。
感情が高ぶったせいなのか、変異の影響なのか、今は判断できない。
だが、ここで診察を再開する状況ではなかった。
エナが息子へ近づく。
「トア、聞いて。お母さんはあなたが嫌なんじゃない」
少年が一歩退く。
「嘘だ」
「嘘じゃない!」
「じゃあ、この耳があってもいいの?」
エナの足が止まった。
トアは自分の耳を指した。
「牙は?」
「それは……」
「爪は?」
「トア」
「目は?」
金色の瞳が、母親を真っ直ぐ見ていた。
「これ全部なくならないと、俺じゃないの?」
「そんなこと言ってない!」
「言ってるよ!」
トアが叫んだ。
エナの顔が歪む。
違う。
本当に違うのだろう。
エナが恐れているのは、目の前の耳や牙ではない。
リオにはそれが分かった。
彼女は何度も、息子の声へ反応している。
名前を呼ばれれば振り向く。
怒られれば傷つく。
トアが普通に話せば、安堵する。
姿よりも、その先を見ている。
このまま変わり続けたら、声はどうなる。
記憶は。
言葉は。
母親という存在を、いつまで母親として認識できるのか。
そこが怖い。
だが、エナ自身がまだ、その恐怖を言葉にできていない。
だからトアには届かない。
ただ「戻ってほしい」だけが届く。
今の自分では駄目だ、と。
「俺、戻りたいなんて言ってない」
トアが言った。
エナが息を呑む。
「前の身体が嫌だったって意味じゃない。でも……」
少年は一度、胸へ手を当てた。
「息できるのは、嫌じゃない」
その言葉に、エナは何も返せなかった。
トアは母親を見ていた。
ほんの少しだけ、待っていた。
何か言ってほしかったのだろう。
けれどエナの口から、言葉は出てこなかった。
トアの耳が下がった。
「……もういい」
「トア」
次の瞬間、少年は地面を蹴った。
「待って!」
エナが手を伸ばす。
届かない。
トアは大樹の根へ片足をかけ、そのまま幹を駆け上がった。
硬い爪が樹皮へ食い込む。
一度。
二度。
三度。
人間なら腕の力で登るところを、トアは身体全体を使って駆けるように上がっていく。
「トア!」
エナも木へ駆け寄る。
リオが腕を掴んで止めた。
「離してください!」
「追って登ったら落ちます」
「でも!」
頭上で枝が大きく揺れた。
緑の葉の間を、金色の目が一瞬だけ振り返る。
その姿はすぐに消えた。
右手の枝。
次は左。
さらに奥。
トアは地上へ降りることなく、枝から枝へ飛び移っていく。
「トア! 戻ってきて!」
エナの声だけが追う。
返事はなかった。
やがて葉の揺れも遠ざかり、森は何事もなかったように元の音へ戻った。
エナは木の幹へ片手をついた。
「……どうして」
小さな声だった。
「私は、あの子のために……」
リオは手を離した。
エナの指が樹皮を掴む。
「元に戻したいだけなんです。病気になる前の、普通に……」
そこでまた言葉が詰まった。
普通。
その言葉を自分で口にして、初めて何かに気づいたようだった。
マヤは少し離れた場所から、エナを見ている。
何も言わない。
自分の肩へ無意識に触れかけ、それに気づいて手を下ろした。
リオはトアが消えた枝を見上げた。
「エナさん」
「……はい」
「今の身体をどうするか決める前に」
エナが顔を上げる。
「あいつが何を怖がってるか聞いた方がいい」
エナはしばらく黙っていた。
「怖がってるのは……私じゃないんですか」
「それもあるでしょうね」
否定しなかった。
エナが少し傷ついた顔をする。
だが今は、慰めるために曖昧なことを言う方がよくない。
「でも、それだけじゃない」
リオは診療鞄を持ち上げた。
「追いましょう。まだ変異の速度も診切れてない」
マヤがすぐにトアの消えた方向を見る。
「枝を渡っていったなら、足跡ないですよ」
「地面だけ見るな」
「先生、木登りできます?」
「できない」
「わたしもです」
「なら、落ちてくる葉を探す」
マヤは頭上を見上げた。
少し間を置いて、真面目な顔で言う。
「猿に聞くのは?」
「会話できるなら頼む」
「さっき先生、仲良くしてましたよね」
「木の実をぶつけられただけだ」
張り詰めていたエナが、ほんの一瞬だけ二人を見た。
笑いはしなかった。
けれど、呼吸をひとつ吐いた。
リオはそれを確認してから森の奥へ目を戻す。
湿った枝の先で、葉が一枚だけ遅れて揺れていた。
「こっちだ」
三人は再び歩き出した。
今度は、獣化した少年を捕まえるためではなかった。
トアが何から逃げているのか、それを聞くために。




